FC2ブログ

ARCHIVE - 2015年06月

2015
06/28

邦泰先生安らかに


昨日は「涙雨」だった。私が30代だった頃に、志中で校長をしていた「西條先生」が亡くなり、葬儀が横山「大徳寺」であり、今までのお世話になった最後の別れに参列した。遺影のお顔はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、昔から知っている西條先生だった。
多くの学校の教員と校長を知っているが、校長である事も目上である事を強く主張しない、童(わらべ)に向かっていた先生と、弔辞で教育関係者は話す。戦争を体験し、昭和19年に国民学校助教として21年には教員資格取得をした。横山中学校時代に一時学位取得の為に退職し、中央大学法学部に入学し卒業した。33年3月まで地元横山で、子供達への教育や自分の学力の向上と勉学に自分に厳しい人だったが、全て人には優しかった先生と皆が話す。
本吉小泉小・中で教頭、戸倉中・浅水小・佐沼小を終え、50年気仙沼市月立小で校長となり、大谷小・津山中、そして最後の我が母校「志津川中学校」で退職した。昭和59年頃からの仕事を通しての西條先生との付き合いとなる。その後は津山町教育長となり活動に多くの新しい事に取り組みを図って来た。
川柳・俳句にも取り組み、我が社で作成した「句集 来し方回想」は私が関わり制作した。この先生に生き方に感化された私がいる。7つの句にはじめの「都への夢もありたり年惜しむ」、最後には「いたわりの深さに死への距離測る」と、俳句に自分の人生を織り込んでいた。私は足元にも至らず、先生の生き方を告別式でもっと多くを聞き、その悲しみを深くした。
今の先生に欠けている、自己への厳しさと信念を持ち、総ての人への優しさはと言うと、自己への「保身」の考えが強過ぎる思いしかない。全ての先生とは言わないが、少なくない。西條先生に叱られそうだ。
「送ることば」では元の教員仲間の話に、ここまで多くの活動をしていた方は聞いた事は無い。温厚で誠実で国際交流にも貢献していた。教育功労でも叙勲を受け、輝かしい教育活動を紹介した。各学校での当時の先頭を行く「緑化運動」にも取り組み、「海外青年協力隊」にも参加していた。保護者・地域から熱い信頼を受け、津山中学校時代は県大会のバレー部3連覇を果たしていた。「教える事は学ぶ事」と教育に情熱を傾け、2期8年務めた教育長時代は、人材育成の大切さを唱え、国際交流協会員として津山町に外国人を招いた。また、男女共同の参画の活動も続け、「宮城女性の翼」にも参加した。赤十字への活動も盛んに取り組み、日本赤十字特別会員として、その尽力に宮城支部長村井知事から弔電が届いた。
西條先生の、「激動の荒廃する社会に、的確な判断と豊富な知識で、生き抜いて来た」、教育者としての立場で社会へ進む子供達に、多くの影響と教訓を指導してきた。
150627_135915.jpg
私のしている事を先生は、「頑張っているネ」と応援してくれた。震災前の年の事だった。最近も先生の体の変調の中で、もっと生きたいとの気持ちが、最後の生きざまにあったと言う。まだやる事がいっぱいあったのだろう。父の3つ下の大正15年生まれ、89歳とまだ教育界に必要な人だった。
スポンサーサイト



【 未分類 | CO:0 | TB:× | 12:39 】


TOP