ARCHIVE - 2015年05月

2015
05/31

仙石線全線開通でにぎわう


今日は朝6時から沼田地区の清掃活動があり、1~6班で約70人が参加した。それとは別に7~10班の東浜団地の、2つに分かれての総ての道路清掃と、国道45号沿いの植栽の活動を行った。朝の雨から清掃開始時には雨もやみ、少雨決行に私は合羽を用意していた。
昨日は石巻まで仕事の配達に向かう。中央のアーケードは撤去され、メイン道路には商店街が2カ所あり、缶バッチを売る施設の子供たちの声掛けに、応えてやれなかった事を後悔する。
市役所前では「じゃんけん大会」で勝った方へホヤの箱詰めがあり、長い行列が出来ていた。市役所の脇の以前駐車場だった所に、津波で被災した私立病院が建設されていた。
石巻駅には仙台から多くの人が、石巻を訪れ商店マップを持って町中を散策していた。石巻の商店街は蛇田地区に移りつつあるが、旧商店街も仙石線の復活で、新たな形で商店造りが成され、FM放送にはゲストを迎え、市の物産施設には観光客が溢れていた。「石巻焼きそば」のテントが3軒あり、若者たちの屋台の子供の呼び込に引かれ買ってみた。お店で2回ぐらい食したが、こっちの方が断然美味かった。若い家族が開通と市の再建に協力しての屋台は、新鮮でお客を引き込むパワーを感じる。
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今日の10時15分からの雄勝地区の被災の当時の行動を伝えるドキュメントがあった。当時の何とか子供達に食べ物をと奔走した先生方の、必死の行動に同じだったと感じ、町外に出ていた父親の家族消息が心配で、道なぎ道の雪とがけ崩れの峠を、ひたすら家に向かい歩き町を見た時の衝撃と、立ち止まる事無く前に進む父親の行動はやはり何処も同じだった。家族を見つけ抱き合う事も当然何処でも見られた。
震災後に何を食べていたかも記憶にはない、被災した街を眺めながら一夜を過ごした。襲来時の「津波が来た!」「逃げろ!」の言葉だけをあらゆる方向に向け発していた事は覚えている。
4年2か月目の仙石線の復活があり、生活を再建させた人も多く、あの絶望の淵から「とにかく家族の無事を」と願った、当時の命さえ無事ならの考えが、多くの落ち着きから「多くの野望」を描く人が多くなった事を感じる。
新聞には町民の150人が未だに方向性を決めかね、復興予算の見直しと造成の見直しなど、とにかく国からの復興公金の全額負担から、国の財源不足が表面化してきた。各地で起こる自然災害やオリンピック施設建設、社会保障や安全保障があり、ここに来て更なる「円安」への経済が動き始まった。
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2015
05/30

先週の土曜日はこんなところにいた

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兵庫県の名所「有馬温泉」にいた。写真は「有馬離宮」の玄関で、入り口が何処か迷った事を思い出す。
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朝食のテーブルには小さな鉢植えの演出が、各テーブルに施されていた。さすが会員制のホテルだった。招待してくれた大阪の社長さんが会員であり「離宮」の2か所を回った。

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有馬離宮から午前中は、「清水寺」の修学旅行のバスの駐車場の満杯を見て、私の町もその一部でも良いから、「教育旅行」に学生が訪れてくれると嬉しいと思った。
次に「南禅寺」へ、滋賀県琵琶湖から京都まで水を引いた水路が現在も存在いしていた。人力車での花嫁を偶然見る事ができた。暑さの中で若者の引き手が、元気に闊歩していた。
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お昼は「八瀬離宮」で中華をご馳走になった。水と緑の庭で、ミストの中で山間の京都の自然を味わった。招待してくれた大阪府の同業の皆さんに感謝です。
多くの町民が被災地支援と言う活動で、国内や世界へと招待され、震災の実情を伝える旅をしている。どうしてこうした支援に報いるかを考える。被災地の水産物・産品・町のグッズを、南三陸町を知ってもらう為に送っている。
今回の初めての大阪府での活動で、風化が進んでいる事を実感してきた。

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2015
05/29

一喜一憂


朝のニュースに驚く。漫才ブームの時代から大好きだった、「今いくよくるよ」のいくよさんが亡くなった。胃がんで復活し頑張ると言っていたが、67歳の突然の死だった。大阪のおばちゃん姿が感じられ、二人の助け合いでここまで生きてきたと言う。芸能関係者は相棒のくるよさんを心配する。別な意味での夫婦的な関係だったと話す。
今井雅之の末期の大腸がんの死も、あんなに気丈で男気のある人間が、何にも負けないと言っていた男が、「病には勝てなかった」と話す時の、寂しそうな顔を思い出す。54歳の死だった。私も胃カメラの二回目に挑戦しようかなと思う。天命に逆らわず「ホスピス」で死のうなんて考えるが、両親よりは長生きし送ってからとも思う。しかし、自分が考えるように事はいかない。
昨日も親父と今後を話す。父も100歳までは生きる事は無いと話し、私も「後10年ぐらいかな」と、本音で話した。会社の終わり方も真剣に話し、余生の来し方に向き合った。
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国会での安全保障の議論は、政治家の「エゴ」と自己主張ばかりが目立つ。昨日ついに蓮舫議員の質問中に、安倍総理が「早く質問しろよ」とヤジを向けた、あの席からは聴いた事が無い言葉が飛び出した。答弁する総理の長々な答えに、私自身も「おかしい」と思っていた。限られた議員の持ち時間なので、「質問だけに答えて」「完結に」と質問者は言うものの、答えには国民に分かるように前置きが必要と、イライラする位に答えが長く続いていた。戦略な議会問答でのやり取りは本当に国民の事を考えての事なのかと思う。さすがに昨日は「言葉が過ぎたとしたら申し訳ない」と総理は話す。数の論理の「おごり」と「強権ぶり」が目立ってきた、安倍総理に嫌気がさしつつある。温和な安倍さんのイメージは今はもう感じない。
私は私なりにしか生きられない事を昨夜の行動で感じ、楽しく心の合った人達と生きたいと強く思った。その障害に対しては立ち向かう覚悟を新たにした。限られた時間を自分らしく過ごしたい、後悔は絶対したくない。

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2015
05/28

子供達よ強くなれ


「ボク痛くないよ」と、小2の団員は言う。まだ竹刀を持ち1年と少し、入団当初は竹刀での打突に、防具のない部分を打たれ、泣いて練習にならなかった子が、一年でここまで精神的にも強くなった。「礼儀よりも強く」との指導は、相手を思い礼儀への態度を忘れない、こんな指導に変わった。昔ながらの指導に、多くの異論もある中で続けてきたが、もう終着と近づきつつある。。
眼底の出血による失明は、術後先生からの「剣道指導は?」と注意をされたが、他の指導者も確保できない弱小団体、大会も3週間後に控え、残された練習期間は忠告を無視し練習指導をする。「何もそこまで」と人は言う。伝統を守り、継続の力を信じここまできた。
来年からは新しい体制で望もうと決めている。あまりにも愛情が強い私の性格は、良い所の反面、駄目な部分でもある事を考えるようになった。昨夜の指導は私のやって来た事は、間違ってはいなかったと確信した一つだった。

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2015
05/27

リスク


今日は朝6時に仙台に向かい、3時に帰って来た。
昨日は総会が2団体であり、3時の観光協会の総会では約37名が出席し、事務局・来賓は12名の会だった。新及川会長は世代交代となった事務局役員で、新たな体制で臨みます。震災から5年目となった今年から、会費徴収し職員の一部の給与など、独立採算で事業展開すると話した。新情報では、サンオーレ袖浜海水浴場の復旧工事の予算の確保ができ、近々工事を開始すると言い、新しい観光の拠点として一か所をプラスする。また、質問では協会の活動は公平に周知して欲しいとの要望が出された。
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6時30分からはアリーナで、町づくり協議会の総会があり、勘違いで30分遅れの出席をした。広い会場には傍聴と会員で12名が出席し、本部役員と行政・まち協事務局が20名の、総勢30名余りの会議だった。二つの議案と監査、役員改選があり事務局提案で決定した。
今日の新聞には、防災庁舎問題の議会「東日本大震災特別委員会」が4日に開催される。以前採択された「解体」の決定があり、2年前の議会選挙で体制が大きく変わり、5名の議員変更となった。解体は議会の「全体一致」により決定したが、5名の新人・元職の大半が防災庁舎保存に動くようだ。「県有化」が大きな解体から保存の理由に上げられるが、以前も8対7の解体の方向ながら、新人五人が加わり10対5で「保存」の町長の当初の希望の形に収まりそうだ。
「鉄路の復旧はしない」、赤字の鉄路の復活は基本として無理で、住民が乗らない鉄道は造れないと言う。定例町長の記者会見の話と、「三陸新報」に掲載されていた。
どちらも果たして「いいのこれで?」と言いたい。
誰も執行部のいう事やる事に大きな反対行動のとれない環境に町はある。

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2015
05/26

保存65.5%・解体35%

防災庁舎 - コピー
住民意見がまとまった。4700世帯に意見を求め664件の回答があり、14%の回答率となった。名前が無いなど条件を満たさないものが76件あり、588件が対象となった。この結果を確認し町長は県有化を検討し、来月には解体・保存を決定する。
町での管理と維持から県有化となり、経費が町に掛からない事が大きい。行政としては財源が無い事を、大きな理由にして当初は解体に向かった。町の防災庁舎維持は税収財源が必須で、町だけでの保存は難しく、県も国の残すべき国の遺産の保存として、国からの資金を充てにするだろう。
写真は震災直後の防災庁舎の悲惨さは誰が見ても保存とは思わない。そこで多くの町民が苦しみ亡くなった事も現実です。震災遺構としての価値を有識者が言う。早期震災復興にここが必要かというと、町長が言うように工事の邪魔になっているだけだ。
意見の賛成反対でもない一部に、「町長に一任」がある。これは最初に決めた「解体」となる。町長・議会が決定した「解体」があり、町の取り決めごとに異論をぶつけても、以前の我が町では通らなかった事が当たり前だった。このパブリックコメントの結果には、「保存し観光の一つに」と思う人達も多く、町の交流人口増加という観光客の流入が町を存続させると言う、条件の一つにある事も事実だ。
私は常々町に言っていた。交流人口は町の人口ではなく、全国の自治体での争奪合戦に勝っていくには、多くの町民が一丸となっていく事で、達成できる。しかし、多くの人達が町を去った。志津川の歌津の地区は、住民が一致団結して繁栄してきた。
町民一人の悲しみも、町全体の悲しみと私は受け止める。「木を見て森を見ず」と安全保障の議論があるが、「森を見て木を見ず」と返したい。木を戦争で命を落として国民のひとりと考える。防災庁舎を防災の象徴とする事は、観光に生かし後世に引き継ぐと言う事と思う。大人の欲の結果を若者がどう今後説いていくかです。
住民意見を出さなかったが、解体移築保存が私の考えです。

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2015
05/25

日本・世界は近くなていた。


仙台空港までは南三陸町の商工団地から、高速の三陸道津山JCから1時間30分前後で行けた。これが小森・南三陸ICが開通すれば、また、10分20分と飛行機の宮城県の玄関口までは、益々近くなる。
9時15分のLCCの格安航空「ピーチ航空」のチケットを取ってもらい、ケェックインカウンターで、パソコン決済でチケットの搭乗券を機械が出力する。チケットはネットで予約し、事前のネット支払いで、1か月前からチケット取得で「片道5千円」足らずで行ける。往復でも1万円との航空料金の安さに驚く。関西空港までは第2専用ターミナル到着となる。所用時間は1時間30分ながら飛行時間は1時間と、大阪までは近く安くなった。
支払いのネット決済はこれから必要で、今日のテレビでのネット銀行の20%もの、加入契約の増加に「ネット社会加速」が伺え、その加入の必要性を思うが、個人情報と預金流出を懸念する。私もネットに弱い昔の人間で、登録への不確認とパソコンは指示する。今回はまた一つ飛行機事情を知った。
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仙台空港には受付開始の1時間前に着き、持ち物確認のゲートは大混雑で、大阪・伊丹空港の普通の全日空など飛行機にも近畿方面への、金曜日朝の観光客の多さがここにあった。格安だと往復1万円ながら普通だと「5万円前後」掛かると聞いた。ここでも関西圏の人気と景気の良さが垣間見られた。
「ピーチ航空」の安さは全てに、運賃以外は加算料金が発生する。指定券と緊急搭乗や機内サービス等の料金が上乗せされるシステムだ。不安は人との会話・接触なしにチケットが取れ、その間にも電話での案内で、窓口のサービスの「人」まで、辿り着くのに大変で、不安ばかりがヒシヒシと増してきた。飛行機に乗って帰って来るまでは、その緊張感から逃れられない2日間だった。
大阪府の印刷関連企業や来賓の400名の方々に、被災地の事を伝える旅を何とか終える事ができた。東大阪支部の皆さんの被災地支援で5回以上も南三陸町を訪れ、支援の数々を行ってくれた、大阪印刷組合東大阪支部の皆さんには感謝の言葉だけでは申し訳なく、誘いに応える事で恩返しができるものと、旅慣れない自分に鞭を打った。
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今週は私の大阪行きと、従業員の親戚の不幸での東京へと、会社を空ける事が多い一週間だった。何とかこの多忙を乗り越えの事ができた。家の事ながら父親の心配性だけは何ともならなかった。行く時は朝4時に起き送り出し、帰りは夜11時過ぎまで私を服を着て待っていた。私とは違い心の優しい人間である。

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2015
05/24

日本人も以前はそうだった! 「目からうろこ」


報道2001の議論から、「昔の日本人も海外旅行先での行動もそうだった」、こんな中国と韓国の解説者が話していた。
今、「中国人のマナーがどうのこうの・・・」と、メディアが伝え過ぎている。韓国の大学女性講師の解説者の指摘があった。観光地の店主はこんなにも多くの中国観光客の来店は、「ありがたい」と言う。こうした中国の方々が来てくれなかったらと思うと「ぞっとする」と語っていた。また、京都のある商店街では留学中の中国大学生から情報を集め、日本でのルールを優しく解説した観光本を作成した。中国観光客は多くの情報を知り、日本での観光の仕方を学び学習し、来日する仲間に「こんな事は日本ではしていけない」と口コミで、日本での観光の仕方を伝え、改善へと繋がっていると言う。
「町中の小便」「たばこのポイ捨て」「唾を道に吐く」など、現実的には再来日する人たちは間違いなく改善していると言う。中国政府も海外での観光旅行に対し、対策を取り始めている。
大阪・京都の関西圏での、団体客のホテルの中国人予約での満杯は、嬉しい現実と思い、観光地でも確かに多くの観光客を見かけるが、店主として観光地の問題の受け止め方は違うが、私は余り気にならなく「道頓堀の市街地の迷惑行為」を感じなかった。一人でレジ袋を10個も置き、立ち話をしている光景は、そんなに迷惑となっていなかった。あの「爆買」は確かに垣間見られた。今年に入り40万人の中国客が来ている。外国観光客の3位までが、中国・韓国・台湾で、アジア系の観光客が多かった。
「教育旅行」としての修学旅行が、清水寺の駐車場を満杯にし、着物姿の生徒を多く見た。制服も色々で全国の高校生が清水寺だけでも、寺までの商店坂を埋め尽くしていた。マナーとて高校生は「学生らしい元気と活気」を清水寺に振りまいていた。さすが京都だ! 高校生の時に来て以来で、今時の高校生に触れた気がする。
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まだまだ関西で観光への「町づくりのヒント」を学んだ一部です。土産物・人間・自然・・歴史・名産物・観光場所の充実が、人を呼び込む事へと繋がっていた。
震災で再建した街並・祈念公園・災害対策施設をメインに、若者から高齢者まで喜んでもらえる名産品の発掘は欠かせない。若い人の発想で、65歳を過ぎた方の参加により、赤ちゃんから100歳を迎える方まで、来町できる環境づくりが、南三陸町の観光には必要と思った。

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2015
05/23

大阪府のみなさんありがとう。そして、また帰ってきました。


大阪府印刷工業組合60周年の記念大会に、我が「南三陸町」の本吉・気仙沼支部が「友好支部」として東大阪支部様の、ご招待を受け1泊2日ので参加をし、お祝いへの恩返しと、「南三陸町の印刷業者は町の為に頑張っています」と、祈念式典に集まった同業者様と来賓の皆々様に伝えた。多くのご支援ご協力を頂いた応援は、被災され今も仮設で暮らす方々、震災復興に貢献・尽力している方に、その一部を義援金として、明日手渡す。大阪府の同業の皆様からの温かい支援と、応援の暖かい手の温もりを感じ、また、明日から頑張ろうと言う気持ちに、させていただいた。
明日からは大阪の素晴らしい場所を見学させてもらい、英知と癒しを貰ってきた事を伝えたい。東大阪支部の永谷支部長さん、そして、中村さん・石川さん御夫婦と、東大阪支部の会員の皆様ありがとうございます。大阪府印刷組合吉田理事長さまの心遣いと、多くのご支援に感謝をここで申し上げたい。

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2015
05/22

大好きな街「志津川」そして嫌いな町バイバイ


昨日の葬儀の3代目の弔辞、「じいちゃんの笑顔が好き」「職人気質なじいちゃんは物造りを教えてくれた」「誇りにじいちぁんを思っている」と話す。私と同じ三代目ながら置かれている環境は大きく違う。そんな状況で祖父から学んだ優しさと精神で、この大震災を乗り越える為、沿岸漁業の漁師さんに働きやすい物を造る、精神を学び父の背中を見て、又おおくの技術を習得していた。頑張れ南三陸町の若き経営者として!
私は父を同じように敬愛し尊敬し、この家業を継ぎ4代目への継続を目指してはいるが、厳しい現状で楽しみながらもがいている。100年に一度の大震災を体験し、苦しみだけで生きていくには、余りにも淋しく悲し過ぎる。余分な力はいまだに苦しむ人たちを支援し、分けて上げる事を日課にしている。
震災からの風化で販売不振が深刻となりつつある今、今回の活動でも知人を少しは救う事ができたと思っている。先人の皆さんへの感謝も、忙しい中でも続け忘れない、今後も同じ行動取りたい。
写真は地中に埋まった我が家の光景の場所です。何も判らない。ただ「海の前にあった家」と言う事だけだ。

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2015
05/21

八幡川の左岸工事進む


天気の良い早朝に防災庁舎に行き、左右の防災庁舎沿いの河川堤防の工事の進捗を見て来た。
現在は今まで観光バスの通路となっていた部分が、工事の始まりにより通行止めとなっていた。防災庁舎周辺ではマイクロからバスなど、防災庁舎までの大型車が通路を探している光景を目にする。追悼をする慰霊の場所が無い、現状に今なっている。何処に被災の状況を伝える場所があるのだろう。震災復興の盛り土が志津川市街地を覆い、復興工事だけで震災を体験できる場所が少ない。
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8.7mの河川堤防の建設が加速し、国の震災復旧期間は5年間で28年度末までで、海岸堤防と河川堤防と市街地嵩上げが終了となる予定だが。
現在、防災庁舎の入口は「トレーラーハウス」がある。ハウスは「宮城ジョネット」が所有している。国道45号のう回路からトレーラーを目指してくると防災庁舎までいける。今は訪れる人も疎らで普通車しか入れなく、大型バスで観光客がぞろぞろと慰霊する光景は無い。
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宮城ジョネットが、線香と花を細い通路の一角に準備をしている。「ありがたい活動に感謝です」。
誰でもが集まり・訪れられ亡くなられた方々に、思いを馳せられる場所の、震災復興祈念公園の完成は何時になるのだろう? 町の再建を見られないで亡くなる、先人の方々がこの日を待ったいただろうに。

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2015
05/20

中国の人たちの爆買い


外国からの観光客が急増している。我が南三陸町でも海外からの観光客の誘致を進めているものの、町で外国人を見る事は、私は皆無に近い。
中国人は昨年より80%も増加し、富士山近辺の空港への中国からの航空便の12路線の拡大へとなっている。私も肌で「爆買い」の光景や、団体の姿をテレビでは見るが、影響を感じた事はない。しかし、東北各県でも中国からの観光客の誘致をしているが、なかなかその増加となっていないのが現状のようだ。
日本人の平均蓄財が「17500万円」と言う。本当の数字なのかと疑うが、田舎的な発想しか無く、我が家を考えれば借入との差し引きで、1千万のマイナスが現実だ。都会と地方との生活格差が数字に表れた事と思う。将来への貯蓄は、我が町で生活するにはそんなに必要がない。全国の皆さん「南三陸町で暮らしませんか!」、自然と美味しいものに恵まれた町です。
みなし仮設生活者が県内で14000世帯となり、65歳を超える一人暮らしが、1500世帯で12.%になる。病気を抱えている人も、心臓疾患・糖尿病など全体の45%も占める。私も将来の一人暮らし糖尿病と、この中に入りそうだ。南三陸町のみなし仮設生活者は、以前は650世帯から50世帯近く減少している。今日のニュースでも「みなし集約」との文言がなかった事に、安堵している人たちも多いと思う。
昨日は大阪の知人から電話で、市内のホテルが取れないと言う。その理由はやはり中国人観光客だと話す。式典・祝賀会開催の「ホテルニューオオタニ大阪」の高給ホテルも、中国人の団体客で部屋が取れないとの事だった。大阪への荷物も6個を発送した。その中には「物販支援」のワカメが200個ある。勿論、南三陸産の物で「やわくておいしい!」との要望からだ。若布は全国的な好評から、世界への輸出もあると聞く。体に良く格安な物ながら、現在は需要も多く高騰している。
我が町には中国人の労働者も水産業やホテルでの、就労・研修などで町内に多い。こないだ父は言う「また中国の人が来た」と、自宅前を工場まで歩き出社する光景が再開していたからだ。こんな所にも中国人の集客へのヒントがありそうだ。240万人の中国人観光客の受け皿として発信が、南三陸町に必要と思う。

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2015
05/19

もう一つのブログから


八幡神社から上山緑地公園に向かう、志津川保育所の前から志津川高校の方向を望んだ。
国道45号のう回路を眼下に見て、その後ろの赤土は「町開き」の旧五日町のショッピングモールと道の駅の建設計画の場所です。遠くの志津川高校は生徒数の減少が進み、学校の裏山は造成され、森林は伐採され山の赤土が露出し、海の青と山の緑の志津川地区の自然が、住民の新たな生活の為に破壊されている。
国道398号は橋脚建設された。その向かいの道路から橋が建設され下の国道と合流する。八幡川の両側の河川堤防の建設が進み、観光バスが防災庁舎に入る南町と汐入の川沿いの道路も、「通行止め」となり、観光客の出入りが現在できない。
8.7mの河川堤防は、これからの発生を予想する、津波の通り道となり、今回の大津波の勢いはさらに増す事を私は予想する。志津川小森地区で止まった16mの津波も、もっと奥へと進行する想像を私はする。
防災の河川整備は政府の試算によるもので、果然堤防が設置されても津波の増幅にはならないと言う。自然の脅威を軽んじる考えで、更なる人災となる事が心配だ。
高校下の14mも高い場所にあった「福祉の里」は全壊し、現在は南三陸農協本所建築が進み、気仙沼と南三陸の営農拠点が建設されている。
右側の橋脚の先には道路の高い部分が見え、その下を気仙沼線の走っていた、津波は高架橋を遥に高々と越え、家々を呑込み運んできた光景が、脳裏や網膜に恐怖映像として残っている。向こうの「旭ヶ丘団地」には、200世帯がありここだけが市街地で、地域として高台にあった為に存続した。もしここも奥地の低地部にあったら、志津川地域の町の市街地と町の住民は、もっと厳しい事となっていただろう。
残った旭ヶ丘地区の被災地での被災者支援は、志津川高校への「炊き出し」は、山を越えて届ける地区民が活動した当時の事を思い出す。私もこの場所に家族で逃げた一人だった。炊き出しの「おにぎり」は口にはしなかった。口から物を取る事は「水」だけだった。自販機も電気が無く買う事もだきないのが現実だった。
この写真だけでも多くの被災後を思い出し、今を伝える事が出来る。
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大震災の対策本部となった「ベイサイドアリーナ」から、志津川地区の東地区西工区の現在を撮影した。
工区の中にポツンと「あさひ幼稚園」の施設が見える。現在は休園しているようで、大雄寺の墓地駐車場に高台移転工事が終わるまで、狭い場所での幼児の活動を余儀なくされている。今後は写真の同じ場所を整備し、開園すると聞く。
大型トラックはこれまでの稼働から、現在3割増しとなり被災地の復興を加速している。役場の入口の沼田信号は朝夕の大混雑が発生し、東工区・中央区の工事車両の片側交通により、更なる混雑が発生している。片側通行の旗振りが突然出現する。よそ見運転は絶対やめて欲しい、大事故の発生は、また大渋滞と繋がる。こないだも気仙沼市本吉の大型トラック同士の交通事故は終日通行止めとなり、旧国道45号を始め内陸への道路は、大きく迂回をする事となった。

叔母の話に驚く。現在暮らす町でも「パワハラ」「セクハラ」があったと言う。大衡町の町長が職員の告発で、セクハラの事実が公表され、選挙への出馬を断念し、3世代の町長の歴史に幕を閉じた。しかし、町長は裁判で自分の潔白を主張すると言う。叔母の暮らす町でも選挙があり、親戚同士の町長選挙となり現職が落選した。「パワハラ・セクハラ問題が私の町でもあった」と叔母は言う。選挙は接戦だったが結局は現職が落選した。対抗馬は気仙沼市でボランティア活動をし、仮設商店街の運営をしていた。
我が町も被災前に水面下で職員へのパワハラ・セクハラが囁かれた。現在は町の再建に行政・住民も奔走しての活動・生活で、震災前の問題は何処かへ行ってしまった。「これで良いのか」と私は今も思う。色々な自治体での、弱い立場の者が泣きを見るこんな行政トップは在り得ない。自分に服従する者を自分の近くに置き、反発する職員は「左遷」し、定年前に退職する理不尽なケースが発生している。
町のトップの長期政権に付く事で、問題の発生があるようだ。安倍総理も数の論理で、自分の理想を掲げそれが日本を守ると言う。「議会制民主主義」で、選ばれた総理の行う事で仕方がない。民意が決めた事と言えばそうなる。選挙は若者離れが今後も進む。

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2015
05/18

橋下維新党首ご苦労様でした


今週末に「大阪府印刷工業組合60周年」の式典・祝賀会に、県印刷工業組合本吉・気仙沼支部との友好支部締結をした、東大阪支部からのご招待を頂き出席をする。これまでの当支部や南三陸町への観光支援・産品購入支援など、沢山の応援への感謝の意味で出席を決意した。
昨日の大阪都構想の「住民投票」は、橋下徹の政治生命を掛けた、究極の政治活動と言えるだろう。66.8%の投票率は前回の国政選挙より、10ポイントも高く、自分たちの暮らす大阪府の大改革に興味も確かに多かった。7年半前に弁護士タレントから「大阪府府知事」選挙の噂に、200%の出馬は無いと言い、一週間後に出馬を決め大差で当選した。「何かをかえないと」と「無駄な二重行政はおかしい」など、多くの府の問題点の解決に取り組んだ。任期途中に大阪市長選挙に出馬し当選と、維新の大阪での活動は全国へと移った。「人付き合いが下手」と言うとおり、自分の思った通りの活動に、後押ししてくれる仲間が増えたものの、反発する市民も多かった。都構想では60歳以上の都民が、将来への不安から反対に回ったと言う。投票前の世論調査では「劣性」が伝えられ、3週間の選挙運動から終盤は橋下の笑顔が消えた。結果は69万人が賛成し、70万人の府民が反対に票を入れた。国会議員の政党の多くも選挙カーの演説に駆け付け、労働組合などの多くの団体も「反対しよう」とのビラを作り、大きな政治の力とそれに関わる団体など、巨大な組織力対「橋下と維新」の対決の構図があり、民主・共産を含めた与党勢力と大阪維新の戦いは、接戦ながら大きな力に打ち勝つ事はできなかった。
0.8ポイントの差は、劣性の中で善戦した結果に、橋下は満足できた。と話し、大阪市長の任期まで留まり残された半年以後は政治家を辞めると公言した。維新の国会議員トップも現在の職を辞すると言う。維新の今後は細川氏の「新進党」のようになるのかなと思う。このままで将来的には「維新は何をしたの?」と言う感じが強い。維新の党は「みんなの党」の受け皿となり、宮城県議選にも地元から党変更の議員がいる。大きな影響が政界にありそうだが、自民の強固な体制には何の影響もないようだ。一時期の「革命児」はたった8年で幕を閉じる事となった。
私の町の政治改革への議員出発もここにあった。

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2015
05/17

震災を受けた町として何を目指すのか


石巻市の石巻日赤は2011.3.11の震災を伝える、被災地の医療設備機関として、増築されるとラジオで以前に聞いた。
南三陸町は東日本大震災のシンボル自治体として何を、支援して頂いた国々と日本の自治体と国民に恩返しするのか。その役割を明確に理解する事を私はできない。町の再建と水産・観光振興がその支援への恩返しと言うが、しかし、他の被災地は色々な形で後世に伝承する事に進めている。
石巻日赤は「被災医療研修の拠点」としての設備が完成したと、4年間掛けて実現へと完成した。我が町は多くの大学生が来てくれる、「防災の町の大学研修拠点」を目指しているように感じるが、防災庁舎を活用した観光の町を造ろうとしているようだ。
今日は朝7時に防災庁舎に行き、河川堤防の建設現場の「今」を撮影してきた。一台の軽自動車は「朝の焼香」に来ていた。もう一台は石巻の方で被災地の変化を写真で撮り続けている。トレーラーハウスは「ジョネット」の施設で、防災庁舎の隣りには線香が、ジョネットにより準備されていた。石巻の方も魚市場近くにあった自宅は、3mの津波で全壊流出したと言う。「防災庁舎は残した方がいいね!」と話す。気仙沼市の大型船の解体は観光客を激減させたと言い、ラーメン店のお客も一日200人来ていた観光客が、10人前後まで減少したと言っていた。気仙沼市の船主の解体希望を受け入れての結果でもある。あの地区には「ハローワーク仮設」があり、大きく様変わりをした。気仙沼市は観光よりも水産の更なる新興で、教育旅行などの推進で、新たな市の震災復興を図ろうとしている。
我が町は何もないと言うが、水産業・農業・林業の振興を図り、観光に繋げる基幹産業を強化させ、人との交流による防災都市としての拠点を目指すべきと思う。観光ばかりを強調する発信は何処かが違うと思う。
昨日は仙台に行ってきた。三陸道の整備は時間の短縮となったが、便利さがストロー現象を生まないか心配だ。人を呼び込む環境は大切だが、以前のように町民がいて、色々な形の町中の営みがあり、人を引き込む魅力として志津川地区があった。
「仙台青葉まつり」は市民が参加しての、色鮮やかな躍動が県外から県内の人々も、心を引きつけている気がする。
私は既に終わった人間で、若い人達の町づくりの発想を汲み上げ、新たな町で注目される志津川を創って欲しい。「しがらみ」の中の町づくりは、観光客から見透かされ、飽きられる、高齢化だけが加速する過疎の町へと進む事となる。

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2015
05/16

南三陸町のポスター発信

27.5.16ブログ
今年も「桜植樹祭」が先週10日日曜日に開催された。音楽グループの出演と、今年も地元音楽グループの「コール潮騒」が歌声を披露との、内容が表示されている。フランスだったと思うが大手ブランド企業が、津波で何も無くなった南三陸町を桜でいっぱいにしようとの計画を立ち上げ、昨年はゴミ処理施設の「クリーンセンター」や地元で再建した事業所の駐車場などに、桜の苗を植栽した。町内の平地にあった多くの桜が無くなり、心の拠り所と明るくする日本の花「桜」で、町を溢れさせようとしている。満開となる頃には、町の復興が果たされた時と、その期待と望みへの過程としてこの活動の意味があると感じる。

今日は6時半の出発で仙台に出掛け、今戻った。昨夜は二人の先輩の誘いがあり、2か月ぶりの先輩から知識を得る酒席の場となった。私の自分よがりを適切に分析したご意見を頂いた。また、今の私の変わり動く心の変化を聴いてもらい、参考に自分の「来し方」を考えたい。帰りは11時近く一回り違う先輩の元気に脱帽だった。
仙台の途中にお腹の具合が悪く、「春日」で一休憩。急ぎ入ったトイレ、和式しか空いてなく、しゃがむが足が痛い。新築し様式トイレに慣れた私の足は、しゃがむ事がキツイ体となっていた。還暦祝いを来年に年を取ったと確信した。65歳で運転免許書の返納が増加していると言う報道に、「そんな事ないよ」の考えが打ち砕かれた。
新築の家には2つの様式トイレを設置し、二階に自分の部屋を確保したが、階段の上り下りや布団から起き上がる事が、苦痛となっている。
60歳を超えた頃には、身体に負担の無い環境を作ろうと思った。
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サービスエリアのトイレにポスターがあった。さんさん商店街の店主が、自慢のキラキラ丼を持ち、町の特産品・自慢の食事を満面の自慢顔で紹介していた。「はしもと」「志のや」「京極」「松原食堂」の皆さんで、時々訪れる食事処でもある。

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2015
05/15

一日一善


今週初めに被災住民の大変な現実を偶然知る事となった。役場への用事の帰りに車を駐車場で回していると、ご高齢の女性が私の車に近づいてきた。「車に乗れますか」と言ってきた。特別急ぐ訳でもなく、「どこまでですか」と聞くと、「スワットさんで線香買っていきたい」と話してきた。私を送迎の車と間違えているのかなと、思いながらも「いいですよ」と伝え、もう一軒用事はあったが、沼田地区内なので乗せた。
色々な話に行政の対応のまずさを感じる。高齢なので読み違えもあるが、杖を付き3Kの先の仮設からの用事で、巡回バスにも乗り遅れ、私のような運転者にお願いし、沼田の町役場に来たと話す。相談の時間指定と行政の来て下さいの、土地換地への説明の仕方は何処か、やっぱりお役人仕事と思った。行って見たら「今日ではありません」と言われたと言う。見るからに80歳前後のおばあさんだった。町内の2カ所の換地をどうするのか、高齢となりながら自分でしないといけない事に、「高齢者に優しい町づくり」を推進するなら、町の職員を派遣したらどうだろう。被災民の救済の「復興交付金」の使い道に、こうした支援の方向性は考えられないのかと思った。私の家も私が居なかったら震災時88歳の両親は、このお母さんのような行動がとれたかと言うと難しいだろう。先祖代々の土地を何とか引き継ぎ守りたいと言う一身の行動、「大変だなー」と実感する。
また、民間の町でのイベント開催にあたり、予算が無いのでという話に、以前からお世話になっている方の妹さん、7割引きの原価で仕事をした。世界での外国人の方々のツーリングの支援に、地元の皆さんでお世話をしていた。23日土曜日伊里前商店街を会場のイベントなので行ってみようと思う。東京を20日に出発し23日に南三陸町にツーリングで来る。被災地支援の活動で風化防止の為に、全世界に発信する。
昨日の葬儀は孫の「送る言葉に涙した」。おばあとヨモギ採りに行った話があった。手を真っ黒になりながらヨモギを採った自分と比較し、「真っ白な長い指で綺麗な手」とおばあを思い出す。物を散らかす孫に、「あんたの仕事」だからと、決して叱る事のない「優しいおばあ」と、当時を振り返り親族の涙となった。子ども6人に15人の孫、ひ孫も告別式には参加し、賑やかな式ながら家族が皆で送る、おばちゃんもきっと喜んでいただろうと思う。
この日は「安保立方閣議決定」があり、6時から総理が「戦争はしません」と言い、記者会見をしていた。総理官邸前では「戦争反対」と群衆が集まる。
世間の雑音のない環境で、静かに一日も早く私は暮らしたいと思っている。

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2015
05/14

聞く耳を持って欲しい


集中復興期から5年は政府が全額震災復興交付金負担と言っていた物が、それ以降は被災自治体にも一部負担を求めると変更した。その負担は全体の「2%」の2兆5千億円という。防災・復興事業・三陸道などが対象で、自治体各々の計画があり、自治体の生き残り対策など「やる気が」試される。

石巻市の災害公営住宅は三陸道の両側に建設が進む。「4500世帯」とも言われ、その進捗力の速さを通る度実感させられる。被災後に仮設住宅の不備問題が指摘され、現在は災害公営住宅へと移り変わっているが、問題発生の情報が出ていない。「本当なの?」と思う。
メディアは自治体の発表無には公表はいないようで、南三陸町の災害公営での住民の活動ばかりを、新しいコミニティでの活動と安堵する姿を報告する。建設会社の当時の状況もあり、建設された災害公営住宅によって違うようだ。一昨日、「何とかならないの!」と住民が来た。住宅にカビが発生し、臭くて生活ができない、部屋を変えて欲しい」だった。行政に行っても取り合ってくれなく、法テラスにもいったが良い方法は得られなかったと言う。
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自治体の住民サービスは自治体によって違う。財源のない自治体は迅速な対応に欠ける。人や会社の対応は諸々の経費が掛かり、予算が無いと住民の希望が叶えられない、これまでの復旧復興の姿を見ても解る。
先頃、家庭の教育知力調査が発表された。所得に応じて子供への教育格差が発生していた。大学への進学・塾の利用などに差ができていた。将来への自分の生活へと繋がり、子供の時代から既に社会に出る前に「格差」が発生している。
町でも役場職員・教員になれた方がいる一方、受験しても採用がならない人間もいる。地元で暮らす事を家庭から求められ、地元企業では所得も限られている。これにより倍以上の平均所得の違いがあり、結婚から子育てや後継者の地元生活できないなど、何とかならないのかと思う。関わった多くの子供達には、安定した公務員や町外の大手企業に入社しないと駄目と言って上げる。後は自分がどうするかだ。
人生はお金でない事は私が良く知っている。剣道教え子が戸倉で牛舎建設の「地鎮祭」の映像がフェースブックで紹介されていた。多くの仲間も彼を応援している姿に、希望への道が始まったと思った。酪農・肥育生産は「TPP」もあるが、親の後を継いだ彼の夢だった。新しい経営の姿を求め販路の拡大など、前途は多難だが努力し頑張って欲しい。
阿部総理も佐藤町長も言う、「頑張っている人を応援する」と、今度は貴方たちが試される時期が来ている。それだけで国づくりや町づくりそして人づくりができるのか。それにぶら下がる人だけが儲かる時代は終わって欲しいと私は思う。

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2015
05/13

本当に町は大丈夫なの?

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国の復興交付金の支給が、今年の5年目の復興集中期間までで、6年目以後は「災害公営住宅」「高台移転事業」には、これまで通りの東日本大震災への交付金の補助をしていくが、防災事業・地域振興へは一部自治体の負担を求めると言う。
たった今6時13分に三陸沖を震源とする、岩手南部で震度6強の地震が発生した。M6.6海底50Kで津波の心配はないと言う。しばらくぶりの大きな地震だったが、家に対する不安があるものの、今の所異常は見つかっていない。この場所は高台にあるので、津波の心配がいらないのは、前の場所とは違う。
ネパールでも昨日M7.3の余震が起こった。66名が死亡し1100人が負傷したと伝える。あの東日本大震災でも大きな余震に見舞われた事を思い出す。大地震の後には必ず大きな余震がある事を、再度確認した。今後に対策を考えて欲しい。
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写真の説明が遅れたが、歌津地区のシロウオの「沢漁」の光景だ。のどかな風物詩を垣間見る。シロウオの捕獲の仕掛けと、何個もある捕獲の籠を集め、大元の容器に収める。あの小さなシロウオがパックにいっぱい入って、被災前は「500円」だった。大変な作業ながらリーズナブルな価格に感謝だ。昨日も24日の町外からのイベント開催の支援をお願いされた。歌津での開催と聞くと応援したくなる。伊里前市街地は震災後の復興の変化は見えない。
町では地方創生の為の人口減少対策の推進本部を立ち上げ、「全庁での取り組みで歯止めを図る」と言う。もう遅い! 5年目を迎え各世帯では今後の生活に対する方向を既に決めている。今更対策は新しい人達のIターン・U・Lターンの人の入込みを図るしかない。自宅を建て建設計画を立てた人の帰郷はない。行政の世帯の流出の把握は、住宅再建の金利補助の町への申請があり、住民動向の把握ができている、この現実の把握に町の存続と、税収の確保が厳しいとの判断で、今ごろになって人口流出対策を、本気で行政が初めても「後の祭り」と私は思う。対策をしないよりもした方がマシながら、厳しい現状が待っている。高齢や経済的な弱者を見捨て、「やる気のある人を支援する」と言うトップの考えは、国も同じながら、南三陸町のようにマイナスからの自治体には当てはまらない。
先ほどの地震は南三陸町は「震度4」だった。私にはもっと大きく感じた。

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2015
05/12

家族


津波を二度乗り越え、家族を守った父と、父を支え会社を共に維持してくれた母は、もう二人とも91歳と、日本の平均寿命を超え、今も何とか生き生かされている。
昨日、母の兄の奥さんが亡くなった。享年88歳で、偶然ながら「母の日」に子供たちと孫たちに囲まれ、夕方息を引き取ったと言う。長男は突然の死に動揺を隠せなかった。「親孝行をしたよ」「迷惑なけないように逝ったんだね」と、悔やみの言葉を伝えた。何か気落ちする原因はある。実の弟が最近亡くなってから弱くなったと言う。認知にもならず孫たちの名前を普通に言っていた、叔母の死は突然伝えられた。
私の母は現在では食事も大分減少し、私が声を掛けても帰る言葉が無くなった。体も少しずつ小さくなっている気がする。あの震災でも生かされ5年目を迎えているが、目は大きく見開き、何の不安も無くただ命を繋いでいる。子どものようだ。「かあちゃんわがっか?」と幾度も声を掛けるが、今は分かっていると信じ声を掛け続ける。今後も「かあちゃん・・・」と、息子が見ている事、守っている事を伝える。
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父方の兄弟は9人で残りが5人になり、母方は11人で母を含め4人が健在である。皆が70歳を過ぎ80歳を超え生きながら得ている。
施設に花を届けるのは今年で2年目、何時まで母に「母の日」のプレゼントを贈れるか? 家族三人で記念写真を撮る事を今年決めた。

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2015
05/11

町の財産を堪能


写真撮影を考え午後から歌津地区の「田束山のつつじ」を見に行った。今度の17日の日曜日が「シロウオ祭り」との同時開催と思い、混雑しないこの日を選んだ。天候も良く意外と車が多い、私と同じこの日に出掛けた人が多かった。また、歌津での「マウンテンバイク大会」が開催され、多くの人を田束山に引き寄せていた。
山頂は既につつじが満開となっていた。私の写真構図の泊半島も見え、つつじの風景と歌津の泊半島のパノラマを写真に収めた。天候が今年は恵まれ昨日行けたのも、イイ写真が撮れた要因で、諸々の状況が重なりこの時期の「南三陸の自然美」を、堪能する事が出来た。
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田束山の入口を見落としバックし頂上へ向かった。道路標識はあるものの「田束入口」の視線に入る、町で看板があればイイなと思った。帰りに道路に入る入口で、私と同じ入口を通り過ぎ、バックして山頂に向かう人があった。二人もいると言う事はまだまだこうした人たちがいる。「おもてなし」の意味をこうした案内看板に込める事も必要と思った。
駐車場はいっぱいで道路の両側にも車を止めていた。駐車場からの頂上への坂道、細く混雑を予想し徒歩で行ったがキツイ。東屋のある頂上広場は車でいっぱいだった。「綺麗ね」「素晴らしい」と皆が口々に話し、つつじを見下ろすベンチには、高齢者が長い時間眺望を楽しんでいた。坂を上る車と下る車で細い坂は、交通渋滞となっていて、子供連れの家族が右往左往していた。危険がいっぱいだった。町の観光地対策の必要性を思った。
マウンテンバイクのテントや待機所には、町外などからも多くのマニアが、曇り空ながら時折、青空と日差しの元で、仲間との競技と交流を楽しんでいた。
震災死が「関連死」を含め2万1千人となった。福島がトップで約1750人と原発による自殺があるのだろう。次いで宮城であった。被災東北の4県で3194人が震災とは別の、原発や不安・生活困窮などの原因で命を落とす事となった。
やはり震災は終わってはいなかった。残った命、大切にし生きている喜びを、食や自然、人との交流で楽しまないといけない。
石巻の福祉女子・福祉男子の活躍をテレビで紹介していた。コミニティーに入る事が出来ない純朴な被災住民への手助けや、繋がりを大切にする活動に、ボランティアとして震災後から活動し、互いの活動から結婚し被災地で暮らす事をしている若者の姿に、「頑張って下さい」とエールを贈った。

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2015
05/10

母の日


眼の調子はまあまあ良い! 筍を掘りに山に分け入るも足がふらつき、朝起きるのにも立ち上がるのが辛い。こんな身体になってしまった。剣道の指導も小2・4年との稽古なら何とかなるが、もう無理は利かない状況になったのかもしれない? 歩ける内に綺麗な自然や新設された場所を、沢山見たいとの感覚に今ある。「出来る事はする、やれる事はしたい」が私の生き方、最後まで自分のしたようにして生きる。
今日はまあまあの天気で、河北新報には「本吉徳仙丈山」のつつじの中に人が二人写った写真があった。自然の広大さに人は小さい。トップの紙面から宮城版に歌津の田束山のつつじも掲載されていた。午後から出かけようと思う。自然から元気と、自然に逆らう事の人間弱さ間違いを確認して来たい。
利府のジャスコに仙台の帰りに寄ってきた。この日は「母の日」2日前で、フラワーコーナーには家族連れが多く、レジにはラッピングの列が出来ていた。どれが母に良いかと品定め、夫婦で4個も買っていた人たちを見る。母にと実家の母と、子供達の母の自分にと、家庭にもカーネーションをと、花で家の中がいっぱいに、こんな家庭を夢見ていたが、父と二人の家に花が意外と多く飾っている。気持ちが明るく生活にも落ち着きを与えてくれる。車で何処にでも出掛けられる今の自分の環境があるからだ。
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ドライブに仙台空港に行き昼食を取った。売店には我が町の水産加工商品の姿も見る。沢山の飛行機が離発着を繰り返す。フランスの飛行機事故があったが、事故発生率は0.0000・・・1%で、事故の発生の確率は究極に低いと感じた。子供達も多く将来の孫たち夢を馳せる祖父母の姿がそこにあった。
空港の外のエスカレーターには津波到達の高さが掲示されていた、2mぐらいだろうか。我が町は観光客の受け入れに力を入れて、津波の悲劇と状況を伝えているのは語り部の皆さんなどで、掲示板はなく防災庁舎の頂上まで津波が襲ったと伝えるだけだ。震災から5年目を迎えたが、後3年5年と町が整備されてからの、津波到達高さの掲示板での表示をするしかないのか。
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日本の観光客の満足度は9位と躍進した。オリンピックのプレゼンの「お・も・て・な・し」が世界への発信の効果と言う。国内も交流人口の増加による町づくり新興拡大を全国の自治体が目指している。私も人との繋がりで、出無精の性格を変えられた。支援には支援の恩返しを大切にし、今後も町の復興の為に活動をして行きたい。この活動は人の為や町のためでもあるが、私は現実として自分の為だと思っている。物を贈られ送る事は少しでも商店の復興に貢献している。町民一人ひとりが新しい町の為との様々な活動をして行けば、観光客が自ずと多く集まってくると思う。
自動車税が「39500円」来た。国民年金の督促も来た。電気料金も6万前後毎月ある。胸を張って生きる為には納税・支払の義務を遂行する事が、住民であり国民の証である。生活保護の増加が加速している。復興交付金も今後は支出を減らすと国は独自の復興をと言う。何でも依存する事は体質を弱め、自力で生きる力を失わせている気がする。
情熱・知識・野心を持ち続け、志津川で最後まで生きて行く「術」を、模索し他人への依存を減らし、共生しいき助け合いながら、この町でこれからも暮らす。ある人が言っていた。「町を愛する職員に、町民が町を愛するような活動をして下さい。」と。私は町の職員は誰の為かを見失っている気がする。

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2015
05/09

明日は歌津に行くぞ


今月の歌津地区の行事は沢山ある。シロウオ祭りやツツジ祭り、そして南三陸町の月例イベントの「復興市」が、伊里前商店街で開催だと聞く。伊里前川の「沢漁」の仕掛けも風情と、伝統のこの地区に伝わる漁法、是非見てもらい「シロウオの吸い物」も絶品の味で賞味して頂きたい。我が町の自慢の一つです。また、多くのイベントがある中でそれ以外でも、伊里前商店街の幹部は、広い前の場所を活用し企画を考え開催をするようだ。
こんな行事が沢山あるけど、私は明日に「沢」と「ツツジ」を見に昼ごろに行く予定を建てている。人ごみは嫌いなので静かな内に、チコット見に行って、写真に太平洋とつつじの大パノラマを収めたいが、その素晴らしい光景のタイミングに会った事は数少ない。
南三陸町で最初の「震災慰霊碑」は旧歌津駅の裏山にある。写真だと中央に建立された。商店街の駐車場からは徒歩で25分ぐらい、高齢者の方には少し無理がある。道路はあるけど急整備の道路で、何処から入るのかはまだ私には分からない。慰霊の丘からは海と市街地の半分が見下ろせるが、整備した牧野さんの話だと視界を妨げる左の木も伐採すると言う。自己の山と自費での整備は、「誰もが手を合わせられる場所を」と、一日も早く亡くなり不明となった歌津地区の方々、そしてまだその悲しみから心の癒えない家族にとって、少しでも安堵できればとの思いからで、街に来られる方や将来の子供達にも、「この大震災を忘れないで」との願いが込められている。歌津地区の119名の方の名前は後世にしっかりと残るだろう。志津川地区の方々の慰霊碑も名を刻み建立をと私は思っている。
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行政の防災庁舎にこだわる意味と、被災地支援観光の方が手を合わせ祈る場所を、早急に整備できない事が私には理解できない。
歌津は供養ができる場所を不便だが確保できた。志津川の大雄寺さんに建立された「慰霊像」は個人の方が、ボランティア支援を受け、大震災で死亡・不明の方々や亡き家族を思い建立されたとの話も聴いた。復興計画の元で町の住民の再建は正しかったのかと聞きたい、決して「正しい」と答える方は県外の工事関係者ぐらいだろう。自治体派遣の方の中でも、「間違っている」との考えを持つ人もあるようだ。
今日も大型トラックで大渋滞の南三陸町から脱出する。仙台に獲れたての「筍」と「ワラビ」と「米」を持って行く。悪くならない内に食べさせたい一心からだ。町を離れると先の見えない現状から、一時的な逃避できるには、こんな事でしかない。永久に町から離れた人もいる中で、けな気に町の災害公営住宅の建設を待つ高齢者の為にも、一日も早く「終の棲家」を提供して欲しい。28年には全ての住宅整備が終了予定だが、私はまだ信じられないでいる。

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2015
05/08

もったいない・もったいない 「無駄をなくして」


連休に廃線となりそうな「気仙沼線」の線路に分け入った。ここまで造り親しまれた気仙沼線、700億が復旧再建にかかるからと、黒字経営の「JR東日本」への資金の補助を国はしないと言う。数百億掛かり地域住民の夢を乗せて走っていた鉄道だった。南三陸町の志津川駅までなら資金もそんなに掛からない。しかし、折り返し運転での活用の用途としては、効果はと言う薄い。気仙沼市までそして岩手県三陸線との全線開通の効果は、単線とは違い多くの成果を生む。知人が女川町に平日行って来た。カモメに翼の形の駅舎、そして被災地復興のシンボルとして、大々的にメディアが報じてしたが、街を訪れる客も少なく、時間のせいか食事をする場所も無かったと言っていた。何をするのにも被災地では批判もある。
昨日は90歳近い志津川の名士を訪ねた。志津川商工団地の開発は勝倉三九郎町長時代に完成し、「こんな山に工業団地」との町民の批判もあったと言う。次の阿部公三町長時のベイサイドアリーナは、「あんなもの造って」と、「おかしくなったのか」とバッシングも多かった。大震災を見れば「先見の目」と言われ、「この場所があって良かった」と、住民の絶賛の声を聴く。歌津での「平成の森」は佐藤栄太郎町長が、高台に球場やサッカー場を造り、グランドゴルフ場や宿泊施設の建設は、町民から「イイ物を造ってくれた」と、その政策を褒め称えた。それは社会の成長期で、住民の安定生活の中で行った政策だからと思う。震災復興で政策・計画の失敗は町の命取りとなってしまう。
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連休に獲った筍とワラビを親戚・知人に配って歩いた。「こんな物」といらないよと言われるのを覚悟し、「筍いりますか」と5軒に聴いて廻り、全世帯から「欲しい」と喜ばれた。筍は大きい物で産直でも1500円もすると聞く、余計な経費の支出を控え、今の生活と住宅ローンの返済など、無駄な事はしていられない被災者の生活がある。
そばやカレーなどの食料品は、被災直後に頂いた物で賞味期限切れであるが、食べられないわけでもなく、支援でもあり努力し加工し食べている。旬の筍・ワラビも加工し保存し長く利用し食べる。震災前の何でもある平時の時、賞味期限切れは有無も言わず廃棄していた。今の我が家の合言葉は「節約」だが、生活の惨めさは父も私も嫌で、使うべきものは、心の安定の為ならお金を掛ける事はしている。
知人の仮設生活者は今も大変と言う。仮設集約と今後の事を考えると心が休まる事は無いと話す。学校の仮設なので確かに多くの不安を抱えていた。
嬉しい事が一つあった。私の「情報を楽しみにしている」と言う。少しでもこの町で住む人の為の手助けになっいると思うと、被災住民は町の情報に飢えている。しかし、今は新聞への折込で購読をしていない人への、配布は無理な状況にある。新聞の購読は被災した人たちは無理で、以前の3700部が、志津川・歌津は1450部で、戸倉が250部と現在の配布部数を見ても、2000世帯が新聞を止めたか取っていない。生活の大変さと世帯減少が分かる。戸倉と言えば、町内の川の水門の一つが撤去された。町内の多くの川にあった水門の中で一番に解体取り除かれていた。
昨日はホテルに大型バスが5台入り、色違いの2社のバスが防災庁舎を廻りホテル方向に走る。45人乗りとして10台で450人が来町した事になる。こんな数ではないと思う。連休が終わりマイカーでの個人の観光客から、ツアーによる大型観光が始まった。「教育旅行」は会社・学校など、被災地「南三陸町」の姿がから、社会で生き抜く「術」を学ぶために旅行であり、被災地支援としての位置づけを持っている。地元の雇用もあり否定するわけではないが、もっとホテルがあると良いと思う。大手ホテルは南三陸町への進出は5年目となるのに、今だに一社もない。これは南三陸町の集客動向調査を元に、経営としての立地は難しいとの判断からだろう。町経営のホテル建設など大胆な政策をして欲しい。東京で区役所の建設があり、上層部をホンションにした。決して住民の税金は使わず、地区所有の土地転売・貸出で、その資金を捻出していた。国の交付金だけでの町づくり依存は、自治体の経営は将来的に心配だ。

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2015
05/07

言葉が出てこない?


昨日は毎年五月の恒例の山菜狩りに行った。好天に恵まれ生育が今年は早いと言う。
知人所有の山に分け入り、新緑で気持ちの良い裏山は、ブランコがあり遊びごころのある竹林と草地が広がる。私の目には雑草と「ワラビ」が同化し見えにくく、知人の先輩の半分も獲れないでいた。筍はいっぱい生え頭の新芽の部分がカモシカに食べられていた。カモシカが多いとの事で、エサを求めに山里へと下がっている。まだ土の中の筍の芽は、もう一度埋戻し成長してから食べると言う。動物も生きる知恵を発揮していた。
先輩とブランコに乗りながら話をした。「言葉が出てこないんだよな!」と、年を取ったせいとは言うものの、私とは一回りも年上ながら、周囲の仲間も同じとつぶやく。新聞などの活字には多くの目を通し、テレビなどのメディアも見ているが、人との会話の量が少なくなった。人との話は多くの言葉を探して会話する。年と共に脳の退化が言葉を失わせているのだろう。
自然と触れ合い、自然の恵みと、木々の間からの「木漏れ日」は、身体に優しくエネルギーを与えてくれる。糖尿病には動物性蛋白質や油は良くなく、山菜は体に優しい食べ物だ。この日は筍を30本とワラビを10束、奥様から「しどけ」をいただいた。勿論山菜の加工は私が全てをする。
筍は皮を剥き半分に裂き大鍋で3回も茹でた。あく抜きはコメをお湯に入れ、「あく」が上手く取れた。ワラビは塩茹でにし水で浸してあくをとり、あとは大鍋の水に浸してある。「しどけ」も塩茹でにして「お浸し」にした。茎の太い部分は切り分け、タッパにめん汁で浸し今晩の食卓にのぼる。
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昨夜は筍とワラビの煮物で仕上げに鰹節をまぶした。「しどけ」はホウレン草と共に和え、お浸しにした。以前に作った若布とホウレン草の和え物の三品が昨夜の食卓のおかずである。朝の血糖値は「137」と私の正常値だった。
山菜狩りに3時間と昼寝1時間と、山菜の処理には4時間も掛かり、こんな最後の連休の一日を過ごした。
土曜日からの5連休ながら何もしない、町の事と家の事と仕事を忘れる事ができた。町の事業所は29日から6日まで8連休とも聞いた。アベノミクス効果は地方にはなく、まして被災地の地方の事業所には関係ないようだ。外国への事業所の依存が未だに増えている。「地方創生」は政府の交付金のばらまきで、各自治体が有効な活用を考え、町の疲弊対策を本気で施行しないと、平等・公平な国民の税金活用とはならない。
3日の石巻市と共同の神割り崎での「潮騒まつり」は盛況だったと言う。「牡蠣の殻焼き」が好評だったと報道は伝えていた。歌津のシロウオの「沢漁」が最盛期と言う。6月まで漁は続き「5月17日」にしろうお祭りを予定している。
2日に登米市仮設で暮らす知人が「仮設集約大丈夫だいが」と連絡をよこした。新聞報道によると、町の海岸線の仮設の空きが半分となるなど、学校にある仮設から集約計画を立てて、来年度には集約を進めると言う。住み慣れ仮設に荷物が増加し、「仮設からの仮設移転」は被災者にとって大変だろう。災害公営の東地区の西工区は28年の6月までは完成し、引き渡しの計画だから仮設集約の影響はないだろうと話した。
仮設での高齢者家族の生活は、新聞報道によると老化や認知の進行そして不安など、行政の確認できない所もあると聞く。しかし、行政の仮設の巡回は被災住民の生の声を聴く意味でも大切で、回数を増やす必要性を高齢者世帯に思う。
被災地の悲劇は今後も続き、大震災は5年目を迎えても終わってはいない。

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2015
05/06

私が慣れ親しみ愛した町はもうない

被災後
震災での多くの苦しい現状から逃げ出せる場所を作ってくれた仲間と、志津川の袖浜で会い語りあった。病気の事もひと時忘れ飲んだ。

4日間の被災の振り返りは空しささえ感じた。多くの周囲の人からの支援と気遣いに触れ、知人・友人・仲間への感謝の気持ちが溢れた。
私の知人であり恩人であるお得意様の、震災後の歩みにはその険しい事業再建と、社員を守り更なる事業の展開に、光明が見えるまでの震災からの復興があった。
ある団体に属し、これまでの人との繋がりで登米市での事業拡大の場として、高速道路網の利便性を生かし、隣県から東北・関東への進出を目指した。新たな事業は13年目にして開花し、信越や北海道そして全国へと、震災の厳しい環境に在りながら、事業の飛躍を加速させた。
新たな事業の成功は先を見通す先見性からで、経営者の必要な、1.情熱2.知性を高め3.野心を持つ事とで、経営者としての資質を持つと解いていた。
私は震災から再建まで、自分の為に邁進し3年で実現し、多くの問題を抱えながらも、安心して生活できる環境を整えた。再建の情熱は強固なものだったし、町の復興の形も自分なりに分析し、町民に情報の発信の新聞も「第36号」まで続けた。仕事に対する野心も生活の平安から、年々衰えていっている気がする。

後10年と考えるが、両親も101歳となり存命など考えた事も無い。今後どう生きるかを今考える。誰の為に何のために生きると言う目標を失い、楽しく・楽して生きる物を探し始めたのかも知れない。
人もいなくなり町も大きく変わる。新たなこの町での事業の展開は、若い後継の力もいない古い会社にとって、経営の維持・拡大は、その壁は余りにも大きく巨大と感じ、恐ろしくさえなる。大震災のあの津波だけでたくさんだ!
多くの高齢の被災住民は、私のような将来の事を考え悩んでいた。人間が生きる事の大変さが被災地にある。

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2015
05/05

正に戦争の跡だった


大震災津波の後の志津川市街地を紹介し、連休に供養の意味でブログで伝え、今日で4日目となる。当時のあの現実を私は忘れる事はないが、被災から学んだ事を、残された時間では充実した生活を確保し、更なる夢に向かい最後まで人生を満喫しようと思う。DVC00115-1.jpg
2011.3.20の記録
この日は志津川小学校の避難場所にいく予定が行けなかった。何故かと言うと「議会議員の集会」があり、10時からベイサイドの体育館の、隣りの空き地が場所で、3人が欠席で13人が集合した。そこで佐藤議長の殉職を聞かされる。状況を行政から聞こうと対策本部に打診するも、町長には会えず、一人の議員が副町長に理由を聞くが、「多忙で無理」と言う。以前から町民の代表である議員に対る態度で、非常時だからこそ合い話しをするべきながら、議会への軽視と私は受け止めている。各議員は地域に張り付き被災住民の状況把握をしている。震災から9日も経過し、5分10分でも時間を設けて欲しかった。集合した話の結果、西條副議長が対策本部に貼り付いて、対策本部の状況を議員に伝える事とした。対策本部へは私は震災直後から避難所を廻り、「食べる物や飲み物が歌津中の避難所には来ていない」などと伝えた。その反面入谷地区は国道398の道路網を使い、多くの物資が町に入り、避難者を被災地の中で一番潤っていた現実を見た。

戸倉西戸の被災現状は厳しい物だった。戸倉の名士と言われる元議長さんや議員さんが御夫婦で亡くなったり、町営住宅の住人も多数亡くなり、私の親戚筋も2人の死亡を知り、親子でご主人の目の前で流され亡くなられた人達など、その悲劇の話に涙するばかりだった。
義理の叔母の確認を知人がし、火葬は登米市で私たち参加できる親戚でおこなった。友達の歯科医がチームを作り、被災地での支援活動を始めていた。
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あの慌ただしい日々から、現在は多くの皆さんの支援に、国の補助制度と、震災の地震保険の恩恵を受けた事と、高台に土地があった御蔭もあり、他の住民より少し早く地元再建ができた。仕事は半分に減少したが、生きていられ事と、家族と一緒に暮らせる幸せを感じている。多くの皆さんへ感謝・感謝である。昨日は自閉症のドキュメントで、男の子が「家族の笑顔を見る事を幸せと感じる瞬間です」と言っていた。私も多くの人たちに「笑顔を与える事を幸せ」と常々思う、この事に自閉症のこの男性がら学んだ。自閉症と言われながら、私たち健常者に無い物を持っていた。また、別の番組で夫婦の形を見て、何が幸せなのかを考えさせられる機会を得た。狭い視野での幸せの考え方は、己を醜い人間にしてしまっていた。

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2015
05/04

あの時と今

さすがに志津川市街地も高台造成も工事が休みで、街中のトラックの往来もない昨日だった。
病院建設現場から魚市場とその前の堤防堤は建設中ながら、その巨大な構造物に驚く。本浜町には最後まで残っていた、鉄骨コンクリートの建物が知らないうちに解体されていた。我が家のあった場所には高く赤土が盛られていた。私には周辺の被災当時のままの光景が写真として保存され、土の下になっても映像と心にしっかり刻まれている安心感の中にいる。旧伊藤屋から戸倉に向かう途中に、志津川湾の青い空と紺碧の海の写真を、観洋と折立の入口で撮り、戸倉入口の現在の光景を撮影した。今度はレンズを戸倉中の校舎と、戸倉団地の方向を撮り、やっぱりここからも広大な海の水平線をカメラに収めた。天気は絶好の撮影日和で、時間も太陽が真上にある時間を選んだ。戸倉中の体育館の津波被災の現場を撮影し、観光客の案内の「語り部」の説明風景も、偶然ながら戸倉中校舎前で撮らせてもらった。そこから戸倉団地の現在を撮影しようと向かうが、入口はバリケードで塞がれていた。戸倉小学校が今年の二学期から共用となる。災害公営と戸建の完成は28年度の末で、その時点で引き渡しになるのかは、まだ流動的と思うが、関係者は予定期間よりも早く推移していると言う。帰りには防災庁舎に行った。庁舎前は観光客と車でいっぱいで、手前で車を止めその姿を撮り、帰りには川沿いの道路も閉鎖されていた光景も撮影した。この撮影時間は「1時間30分」で、被災地の急ピッチで進む海岸線一部を見て回る事ができる。

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2011.3.19日の行動
この日も戸倉に行った。戸倉の国道45号最後の地域が「荒町」で、瓦礫は10日も経つと道路の整備が進み、瓦礫は路肩に積まれ戸倉まで普通に行け、そのまま仙台までは崖崩れや多くの橋の安全性の為、走れる道路は限られ、災害復旧車が優先的に通行を認められていた。
従弟と対面し会う事で確認され安堵し、仙台へその生活の場を移していたと聞く。先輩達からのラジオと懐中電灯が差し入れされた。荒町に住む同級生・教え子・親戚の13人の生存を確認する。顔を見るまでは安心ができない。これは人が流動的であり、津波の襲来を逃れる機会は、多くの偶然が重なりあい、命が確保される。時間は午後3時20分から30分の間に津波襲来しない場所にいる事で、家族の悲しみからの回避ができる。
仙台甥っ子から「携行缶」でガソリンを30㍑貰う。小松先生と同級生と沙織「戸倉剣道OB」から電話が入った。その後で入谷地区に行ったと記されている。

多くの仲間・親戚に助けられた震災後だった。


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2015
05/03

東山からの震災翌日の光景


3.11の大津波で志津川市街地が消滅した光景を初めて見た姿です。志津川中学校の眼下とは又違った光景が広がっていた。あの街並みには大きな鉄筋コンクリートしかなく、白く市街地に残り点在していた。勿論民家は全てが、津波で町の奥の隅々まで運ばれ、後は海の底まで引きづり込まれていた。

2011.3.18の8日目の行動と出来事。
磯の沢に水汲みに行く、飲み水ではなく生活用水の物で、高台に倉庫とガス台があり、洗顔の水だったり洗い物の為に沢水を使っていた。放射能の影響など考える余裕は何処にも無かった。
初めて歌津に行ったのがこの日で、同級生の妹と震災後初めて会った。その足で横山まで戸倉の剣道スポ少の無事の有無を確認に行った。横山の小学校の体育館に、戸倉地区民が避難していた。こんな一日の行動があった中で、午前10時半に登米市より、遠い親戚が物資を持って来てくれた。アリーナで守さんと晴敏さん夫婦に会い、ヒデキと母の死を聞く。正和の妹さんも無事を確認した。が、両親はその後津波の犠牲になっていた。仙台の兄の義理の息子が、町の震災復旧の道路整備で町に入り、その連絡が携帯で繋がった。この日、母の薬と生理用品を貰った。午後には同級生の近場にいる二人に、物資のお裾分けを持って行った。また、志津川小学校で山形県庄内町より炊き出しの支援があり、もち入りの鍋の汁が美味しかった。と記されていた。情報では熊谷呉服店の社長さんと、昆慶さんの社長など商工会の幹部の死を知る。昆野家の家族の父と同級生と兄夫婦が全て亡くなった事を、その後に知る事となった。

こんな行動を思い出し、毎日が「何かしないと」と、自分の家庭と会社よりも周囲の知人の安否や、できる事の支援と、行政への情報提供に努めていた。アリーナに置かれた対策本部に、避難所の状況と不足な物を伝える事にしていた。
みんなが何もないマイナスからのスタートがここから始まっていた。

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2015
05/02

2011.3.11から一週間


ネパールの大震災から1週間が過ぎた。震源地が直下で深さ15Kの地震は、レンガ造りの建物にはその震度を防ぐ力は無かった。町が壊滅的で何もなくなり、住民は路上でテント生活をし、食糧も震源地の地域にはなく、震源地からの脱出の光景があった。生活するために電気・水・食糧もなく、被災地の救助も重機もなく、ままならない状況が一週間経っても続いている。

2011.3.11の4年前の震災一週間後の町の状況の、本浜から荒島を望んだ。何も見る限り人の手は入っていなく、津波後そのままの光景が広がっていた。
町中の復旧は高台にあった重機で、道路の復旧が震災の3日目から始まった気がする。高台や津波の影響の無かった公的施設など、学校に避難した住民が片寄せ合って暮らしていた。ネパールと比べても地域的に言えば、震災対応が出来ていた。
震災一週間目の私の行動が、議員手帳に記されている。夜の日課が一日の行動を纏める事だった。当時の知り得た情報が書留られていた。
雪の為に歌津・戸倉地区には行けなかった。朝9時に栃木との電話が繋がった。のぞみ作業所の通所生が2人亡くなった。教員をしていた従弟も十三浜で無事を確認、お得意さんの若竹さん御夫婦と娘さんの無事を確認、岩渕武くんは大丈夫で、親戚の寛明にガソリンを頼んだ。従業員の叔父から林の石田良寿君の家も駄目だった事を教えられた。記されている遠藤久美子(中国人)の意味が解らない。西條畳から姑・・・、(子供はいるが母・・・)、など意味の解らない事も記載してある。剣道の教え子の阿部誠と志津川電子の従業員の一人の無事を確認、この時点で同級生の荒砥の民宿あらとは消息が分からないとある。荒島のデベソ島まで潮が引き、その後、島の鳥居が津波で隠れたと、津波襲来の様子を聴き知る事が出来た。
震災直後は議員としての行動をとり、両親二人を残った倉庫に置き、家を一日中出たり入ったりしていた。残った車と倉庫にあった自転車で被災地を廻り、被害状況を調査した。
それと比べてネパールの大震災は、都市が本当に消えてしまうような、震災環境にあると思った。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 11:37 】


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