ARCHIVE - 2015年03月

2015
03/31

福祉社会の創造の手助けがしたい


「千葉さんもらって下さい!」と頂いた絵です。自分が楽しいと思う事を頑張っている。その作品が収入と言う形に変わる事で、自分の仕事として生活の糧になる。自己での努力が報われる環境が南三陸町に、沢山ある事でこの町の福祉の環境整備となる。私のリビングには多くの絵がある。我が町は絵画に造形を持つ人たちが多い。

こないだ県の印刷組合の理事会で、副会長の閉会の言葉で、「脳トレ」の話をした。新聞を読む事は痴呆予防になると、また、河北新報が被災による購読者の減少で経営が大変だと言う。新聞の文字が20%大きくなった事をご存じだろうか。高齢化が進む中で「文字が小さくて読みづらい」との指摘からだと言う。パソコンやスマホの普及により文字を書く事や、機械での文字入力による、脳の活用しない事による機能低下が、痴呆の人を増加している。上の人たちはよく社会勉強をしている。
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知人が「自家製キムチ」をまた持ってきてくれた。「試食にどうぞ」と言う。持って来てくれるたびに工夫を凝らし作っている。製品にして売ればイイんじゃないと助言する。試食の感想を又メールした。
キムチを食べた時の空腹時血糖は「155」だった事に、キムチの唐辛子や白菜の効能を感じる。今日は昨夜にギョーザとキムチだったが、「195」と少し高めだった。食事制限とは言っているが、普通に食べ時には野菜食を抜くと、150前後の空腹血糖を維持できない。
父親の食事が日に日に小食となり、石巻への母の洗濯物を届けながら、何か食べたいものをと飯野川の大型スーパーで、食べたい物を聴き、ついでに自分の物をと大目に買いだめする。これが体に悪い事を知りながら、ついつい大目に買ってしまう。これも病気です。

復興事業の関係者の所得は伸び、関係ない業種など弱小事業所との「格差拡大」が被災地にはあり、我が社はその典型で淘汰される業種だ。しかし、生活保護や公営住宅などの国・行政の世話にならないよう仕事を頑張っている。
弱い者同士が片寄せ合い助け合う社会を、理想の福祉行政と思っているが、「助けてやっている」との気持ちがあってはいけない。共に生き暮らせる町の創造をしていきたい。

志津川市街地に買い上げてもらいたい土地は、相続問題の解決を諦め、「観光案内」「慰霊碑」「直販所」「被災地発信」……など、多くの活動を夢見る。来年末の土地の引き渡しと思うが、その時は60歳を迎える。いったい自分に何ができるだろう。
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2015
03/30

こんなに海と川に近い教育現場だった


こないだ三重県松坂市の方と、南三陸町の被災体験の方々との、津波防災を考える会が開催された。
そこで学校教師の方々の津波対策を想定した画期的な行動を聞いた。
東日本大震災の1年前に、チリ津波の発生を体験した。平磯の高台から平磯船揚場の堤防を見ていた。係留されている船が木の葉のように揺れ、見る見る内に堤防を海面が隆起し乗り越え、平磯湾に津波が押し寄せたが、今度のような大きな津波変化を見る事はなかった。
その後で、戸倉小学校の先生方の津波避難について話し合いがあっと言う。避難マニアルでは屋上の2階上が避難場所と指定されている中で、隣の保育所児童と小学校生徒の避難行動をどうするかが、双方一緒に話し合われた。「幼児・児童の教育の場からの避難は、浦山にしよう」と話され、地震があったら一緒に「五十鈴神社」に避難する事を決めたと言う。
内陸まで押し寄せた昭和35年5月24日にチリ津波では4~5mの軒下までの津波と父に聞いた。この津波で4~5mの堤防が設置された。しかし、戸倉地区の保育所・小学校での避難を裏山へは、先生方の自然災害の図り知れない威力への、最大の心の準備で、総ての幼児・児童の命を救った。この場所の住民も多くが津波で亡くなっている中でだ。
こんな判断が津波防災対策本部の本部長にあったら、優秀な幹部職員と将来を有望視された若い職員を、一人でも多くの命を救えた気がする。
終わった事と片付けるのではなく、将来に生かすのはこうした実証と、指導者の防災意識の養成にある。独裁的な管理下での強制的な強要による判断は、将来への教訓として、「何がいけなかったか」「何で行政機能の停滞となったのか」「復興が遅れ人口の減少となったのか」……など、将来にこの検証を伝える事が大切と思う。

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2015
03/29

防災庁舎問題と地方自治の強権化


私は震災でこの場所で亡くなられた、町職員の殉職家族から出された、解体要望書に「賛成」の票を投じた。震災直後の震災死で家族を失った人達を思うと、職員の家族は「憎い防災庁舎」の存続を、苦しみ亡くなった事を思い出す事が、辛く悲しいと言いう。43名の震災死の家族は、津波での死があり、死亡不明の800名余りと多く、町民全体を考えると、防災庁舎の存続・解体など「どうでもいい」が、本当の気持ちと思う。

震災遺構として、その保存のしかたを「どうするか」が問題と思う。解体して鉄くず処理に、それは私は考えなく、アメリカの高校生が特殊なガラスで覆うなど、震災から間もなく議会への提案を思い出す。
この写真を見ると五日町の方向は10mの嵩上げ、逆の祈念公園側は、見ると5mの土の山が見える。これは残土の一次置き場かも知れないが、嵩上げ土の中に埋もれようとしている。外部から来た人からは、今の場所までいく方法と、現状の川に近いは見えないだろう。
存続させるのがこの場所なら、被災地に類を見ない「追悼の場所」となる事で、殉職家族との行政当事者が遺族の事を一番に考え、存続の形を考えるがあり、どう保存するかだと私は思う。

3.11の追悼報道で防災庁舎の白い階段を、木の棒で「こんな物いらねえ」と、叩きつける遺族の父親の姿に、家族の辛い思いを感じた。
千葉さんは議会事務局の職員だった小野寺さんの父親だった。小野寺さんの議員に対する気遣いと、間違った考えには「凛」として、仕事に臨んでいた。私の信頼できた議会職員だった。町の職員の模範として欲しいと常に思った。駄目な事はダメと言う公務員が居なくなっている中で、大衡村の職員も村長の理不尽な行動を拒否できなかった時もあった。「誓約書」をかわし闇に葬ろうとの行動もあった。初めから行政トップであっても、人間の自尊心を汚す行動には「凛」として対応すれば、こんなにも大きな村の停滞する事とはならなかった。村民・町民の損失なき行政の運営は当然ながら、公務員の考え行動が「自己保身」に感じる行動が少なくないと思う。

日本の震災遺構の保存と行政の英知があれば、遺族・町民が納得できる保存がある。そうしないと町民を二分する「しこり」が残る。広島の原爆ドームが戦争の悲劇を伝える遺構として、認められるまで20年掛かったと言う。冷静に時間を掛けて皆で話し合っては、「当時の苦しみの癒え」「震災の風化」の中で、住民投票をしたとしても、感心も町民は薄く、残す事で利益につながる態勢の影響力で、「保存」となる気がする。

私はこの場所での保存は、早期震災復興を考えると無理で、南三陸町防災センターの建設で、防災庁舎を分解して施設内に、再建をする事を提案したい。神戸にこんな施設ある。独自の震災の怖さを伝える施設の建設も、人口交流増を図る町づくりの計画なら、並行に進めるべき事業と私は思う。

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自治体でのパワハラがある事が、大衡の3代続く村長の強権体制と、本人の自分の言う事は何でも通り、女性職員も行政で恐々と事務仕事をしていた。おとなしい真面目で素朴で物静かな女性職員にターゲトとした今回の事件のように思う。卑劣極まりたく自分の反省にも嘘で固めた体質は村長として、仕事ができてもトップとしてふさわしくない。
教育機関や警察署での男女間の問題で、殺人まで進む男性の強硬に女性は何の対処も出来ない中で、最悪の結が生まれ、毎日のメディアでのワイドショーの格好の餌食となっている。
被災地の宮城県での事件で在り、被災地の仮設で今も生きている、仮設生活者の労苦を思うと、同じ県の自治体のトップの問題発生を情けないと思う。
跡部村長は47歳で村長となり20年目の、慣れと奢りが今回の事件原因の一つとして思う。トヨタ系列の自動車会社の誘致で、村民の生活安定に働く場の確保を実現し、高校まで無償での教育や、妊婦のタクシー使用を無料にする政策を実践した。
女性との関係は昨年に「もう強要はしない」との誓約書を昨年11月20日に交わしていた。しかし、議会での質問に「何のやましい事はない」との答弁から、被害女性も告訴への弁護士の会在する事となった。議会は村長に「不信任決議案」を出し、賛成多数の議決があり、それに対する村長の権限で「議会解散」をした。議員は口々に話す、「幼稚な漫画」と怒り・失望をしている。町民とて同じく「恥ずかしい」と取材に答える姿があった。
県内でのトップの不信任決議による解散は、旧河南町・七ヶ浜町の二つで、結果的には当時のトップは自治体に戻る事は無かった。今後は来月に議会議員選挙があり、再度「不信任決議案」が提出、可決されれば村長は失職となる。27年度予算も可決しない中で、自分が失職する事で、町の混乱を回避するのが、なんの疾しさも無いトップの英断だろう。
しかし、何処でもだがトップの政治介入がある。自分に影響や議会の反発が起こらないように、選挙工作が裏で起こっている。何が何でも自分を守る為に、取り巻きも自分の利権を守るために全精力を傾注する。大衡町でもそんな政治工作が展開されるだろう。女性への軽視・蔑視・差別は、男女平等が全国・世界で叫ばれている中で、在り得ない出来事だった

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2015
03/28

町づくりの基礎を築く人たち


昨夜は中央区の高台移転検討会が6時30分から開催され、中央区独自の町づくり構想が示されていた。知人は中央区希望ながら地区の商店街構想が無くなったと言っていたが、店舗付住宅併用が説明であった。あくまでもこの地区は住宅地としてその縛りがあり、緩和策も示されてはいるものの住宅街である。これが基本である事は崩せないと、行政担当のUR都市機構の職員は話す。
今日の私のメールに以前行政派遣職員の畑さんの情報が入っていた。全国で被災地の現状を伝えるイベントと思うが、「in山形」と題されていた。震災町後に神戸からの自治体派遣で、町づくりや都市計画造りに携わり、行政と議員の立場で議論を重ねた。住民代表としての立場を理解し、親切・丁寧に質問に答えてくれた事を今も思い出す。彼のような対応者にはそれ以後会っていない。被災町民側より行政職員の立場を主張している今の職員を感じ、住民の町離れはそんな所にもある気がする。
昨夜の中央区の傍聴に旧本浜地区の人がいた。隣組であり懐かしさに浸った。肩を叩かれ「なんだいん!」がこの町の挨拶だ。

隣りの商店街の仲間の店では「還暦準備会」の2回目打ち合せがあった。その隣の店では役場職員の移動や、自治体派遣職員の退職があり、送別会が賑やかに開かれていた。高台の移転の先が見えない被災住民と、役場の「ご苦労さん」が両隣りの場所で、一緒に開催される姿に違和感を覚えた。これが多くの被災地で繰り広げられている現実です。

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2015
03/27

戸倉折立川の今


発見! 戸倉地区の折立川の被災した水門の解体が始まっていた。
現在は志津川の商工団地内に工場を構え、用事はもっぱら役場となり、一時期の「戸倉営業所」の事務所を撤退した為に、戸倉への通勤が無くなり、周辺の変化に気づかなくなった。
ちょうど10日前から、石巻への病院通いが続き、戸倉の橋の袂にあったセブンも、河川堤防の建設で志津川からの折立入口に移築され、今も建設現場の方々や、トラック運転手の休憩の場となっている。
南三陸町での多くの河川の改修工事で、水門のあった所で初めて、折立水門の河川工事により、二つの水門の内1カ所が既に解体されていた。
水門の自動開閉装置や自動監視システムも、100年に一度の大津波には何の効果も無かった。誰もが想定していない大震災だった事は間違いなく、国の自然防災対策にもこれほどの被害対策は盛り込まれていない。津波による「福島原発」の被災がその典型にある。町の原発避難30Kがあり、登米市への避難が決定となるようだ。
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折立橋の前の橋脚の撤去も進められ、今後はバック堤防の建設へと進む。食事処の「ばっぱのご飯」も解体され、セブンもこの為に移築となった。
今後は河川堤防と国道45号が建設・整備がされる。最低でも8.7mの高さが求められる。考えても想像もつかない大工事である。折立川の西戸地区の農地の圃場整備が進み、今年度の整備完了と思っていたが、まだ掛かりそうだ。
町の総ての工事の完了を10年間と言っている計画だが、人間の考えや力には限界がある。復興はするだろうが、町の状況は新しくなるだろうが、大きな代償を払わないといけない。
病院の建築に「免震装置」が導入され、安全が担保されると言う。この大被災を本当に防ぐ、想定はできなかったのか? チャンスは幾度となきあったと私は思う。自然災害を軽んじ、人間の自然界への「おごり」がどこかにあったと感じる。

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2015
03/26

「あー」、ガンバルぞー!


「老衰」、ですからの医師の説明に寂しさを抱いた。4年前の津波避難し命を繋いだ、その前の年に「米寿」を迎え、まだ元気だと思っていたのに、天寿の全うの時がそこまで来ている。祖母・叔母と二人の老衰の痩せ枯れた姿を見て、私は千葉家から二人を送り出した。ベットの中の母小さく、何も言わずに眠っている。医師から後一週間で退院できますと聞かされた。石巻の「仙石病院」へは商工団地内の我が家から50分前後、石巻は高速の為に今は大分近くなった。
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昨夜は志津川地区の西工区の検討会を傍聴した。15名の町民が「終の棲家」の決定の仕方を、見届けに来ていた。3地区の検討会の議論は、その地区により違っていた。
西は住宅建設基準が議論となり、店舗付住宅にあたり狭いのではと、規制の緩和を求める話があり、行政職員の説明がはっきりしなく、住民のイライラが見えた。毅然とした対応で対処した方が、住民も安心する気がする。
西地区は住宅の建設規制が、東・中央と少し違うと言う。隣の旭ヶ丘団地に以前住んでいたが、ここには商店の住宅建設が許されない「建築規制」があり、店が無い事を以前は不思議に思っていた。今回の西工区など高台移転には「店舗付住宅」が認められている。商店街は低地部に建設され、買い物の場の確保に高台移転地に店が必要となり、震災前の町の住宅団地「旭ヶ丘」とは状況が違う。
しかし、限られた100坪の土地に、店舗と住宅は建蔽率の関係で、総二階での制限の50坪があり、店舗は50坪以下と店としては狭く、商売をするのには厳しいと住民から話が出た。東工区でも海の仕事をしている方は、100坪では何もできないと行政職員に注文を付けていた。

色々と家庭で問題が在る中で、志津川地区再建の会議に参加する。南方の仮設からも参加されていた御夫婦、夜の運転を気を付けて帰ってと願うばかりだ。金曜は中央区で、この日も参加し町民に高台移転の現状を伝える。


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2015
03/25

今日は西地区


東地区西工区の「町づくり検討会」の第7回目の会議に参加した。ここ4か月は自分の入院で、傍聴は叶わなかったが、昨日6時30分からのポータルでの検討会に行って来た。東区検討会の委員は5人の参加で、地区希望の住民が15名も参加し、当局の説明に傍聴者からの反論があった。

昨日は歌津に用事と仕事で2回歩いたものの、東浜工業団地からは非常に近く、清水浜の大工事現場はトラックと仕事で歩く車で、通行止めも数カ所あり大渋滞、商工団地交差点は病院・役場や東工区西の工事が急ピッチで進んでいるので、信号を2回3回と待ってやっと通過した。事故の心配も考えられ、清水手前は事故現場のガードも、1か月?もそのままのようだ。
銀行預金の父親の整理を始めた。自宅の支払いにと少しのお金を自分のに変えた。行員は「相続税」が20万掛かりますと言う。100万ちょっとのお金でだ。預金を移す事をやめ、今そんなリスクを背負ってまで家族のお金の無駄な出費はできない。
その夕方、「父が死にそうだ」と事務所に来た。初めての事だが、最近は精神的に弱って来た。病院に連れて行き先生は「不整脈」から来てますと言う。これで対応した今回の父の財産の操作だったのに、被災者を取り巻く状況は、仮設暮しと住宅再建と、その金策で前途は多難である。

昨夜の会議で、「事前アンケートでの坪数希望は何んで町の土地造成に対応を講じなかったのか」「希望の土地が抽選で取得とならなかったら、その土地は返すから」と、住民の土地確保の苦悩を肌で感じた。私は幸せである。
震災で親を亡くした子供、両親・子供を亡くし今も、被災の事を思い、立ち直れない息子が居た。しかし、子供達の精神的障害は大変な状況と思った。元気に騒ぐ中でその裏にある子供の、家族を亡くした苦悩は他人にはわからない。
来月に村井知事が防災庁舎保存の件で、殉職遺族と町長も同席して面会をすると新聞に掲載されていた。私は保存の形は色々あれど、遺族側の立場を強く支持したい。

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2015
03/24

国民の政治不信は続く

政治家のモラルの低下を感じる。国政も地方自治も次々と問題が発覚する。男女のもつれ・不倫と昔からあるのだろうが、政治に関心を持ち深く入りこむと、そのドロドロした裏世界の姿を垣間見、「しがらみ」と奢り・利権の姿が見え、何の為の政治家になったのかと思うようになった。私のように4年間居たぐらいが、そうした環境に浸る事なく町の政治に関われる。長くいればいる程、政治家の初心からズレて行く気がする。

「え!」と思ったのが、中川農林政務次官と家庭持ちの後輩議員との「路上キッス」だった。中川氏は北海道の前議員「中川昭一」氏の奥さんだ。昭一はアルコールによる酩酊状態で、世界への記者会見で発言をした。次期選挙で落選し自殺したと記憶している。その地盤を引き継いだ妻の大失態である。昨年の衆議院の解散選挙で当選し、そして今回の大失態だ。男も女も不純な異性交友は地元民の理解は得られず、その情勢の反発は大きい。
小渕代議士の選挙違反行為も、政治生命の終わりと言われたが、政治管理団体代表の活動の罪であり、それに対し小渕氏の謝罪で、昨年の選挙戦は再選となった。今後自分の政治団体の監視をして行くと話した。当然の事である。
中川議員とはまるで違う。西川大臣の不正献金問題で辞任し後であり、多くの議員の献金疑惑も発覚し、TPP問題も控えている中での事件だ。週刊誌の掲載は、自殺した夫へ報いる為に政治参加を達成したものの、何の謝罪も通らなく、地元有権者はあきれているだろう。政治家は身を律しお国の為に働く、有権者に恥じない地方国民の代表でいなければならない。
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春彼岸に大雄寺の墓地から、荒島方向の被災市街地を望む、4年経っても大きな変化は、我が町にはない。墓地の数は大分増えたものの、誰も見る人が居なくなった墓地も多い。駐車場には「あさひ幼稚園」の看板が、施設と共にあった。東工区西に現在あるが整地が進み危険なので、この場所に移したのだろうか。
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2015
03/23

時間がかかりすぎると意味の無い物に


テレビの女川駅を携帯で撮った写真です。この光景から周囲の状況はわから無く、他に何もない女川町市街地が広がっていた。
撮った駅前の「まちびらき」の風景は、人口が宮城の被災地で最大の減少率となっても、今後の賑わいの未来がここにあるように感じる。計画では年内中に商店街が整備され、高台への住民の住宅再建も加速をしていると言う。
それと比べても、商店街の土地整備は進んでいても、それを利用する住民が居ないは、「誰の為の町づくり」と、テレビ解説者の多くは話す。
「観光による交流人口の増加」と、今の町をまとめてる行政と与党の全員が、その方向性に歩みを進めている。
震災後の復旧復興は住民不在と、私と常々色々な場所で発言している。数々の協議会・審議会でも提案・計画見直しは、基本的には無理で、計画進行で今後の町のマイナスとなる部分は計画変更が実施されても、住民の生活再建や事業再建への、時間との戦いへの取り組みは消極的だ。
地元の人間の事を考えず、交流人口や町外からの事業所をあてにする、行政思考には住民が帰還する事も、将来故郷へと思っていても、かえる場所が無い気がする。
「北陸新幹線」の開通に町づくりの在り方の一つを見た。三陸道の開通が小森まで今年中と、以前の計画を聴いている。北陸新幹線は2時間30分で大都市東京とを結んだ。東京の出生率は0.7に対し日本海側の富山などは、「1.9」と子供が多く生まれている。母親にとって「子育て環境」が整備されているからと、育児・子育てがし易いのが理由で、その差は2倍となっている。東京の待機児童と教育費や安全性の問題、生活費も安いが理由の一つに上げられていた。
若い夫婦の長引く復興工事で、時間がかかる中で子供達のためと、故郷を離れる決断は苦肉の策であるが、4年目を過ぎまだ2年もかかる土地の取得は、もう遅く遅すぎる。理想は1~2年で土地の確保も決まり、再建に町の支援も大きくしないと若い夫婦の足止めはできない。一日も早く若い世代に希望の光をと望むが、決められたレールの上を進む今の「南三陸町復興計画」では、町の衰退は見えている。いったいこの責任は誰がとるのか。想定外では済ませなく、復興計画の失敗での町の疲弊は、「人災」と私は行政との会話の場では大きく叫びたい。
しがらみも無く、後10~20年の我が人生、町が存続でき若者が新たに、町づくりが出来る環境を整える力となりたい。

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2015
03/22

志津川市街地探訪


皆さん「くろしおグランド」の跡地に、ひときわ高く型枠がつくられている。これが何だか分かりますか? 私は被災地の何かの看板だとばかり思っていて、こないだある交流会で「あれは八幡川に架かる木の橋」と言っていた。この場所では無いはずと思ったが、反論はしなかった。確認のため昨日にここを見にいって分かった。
河川堤防が今後出来ていき、国道398号をこれに伴い動線の変更がされる。その道路の橋脚だった。「八幡川国道398号橋」と建設の看板にはあった。
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南三陸町の復興の工事事業は100以上で、多くの現場は並行して加速し工事をしているが、他町から来ただけしもが「復興は遅い」と言う。人口の流出を招かない工事の在り方があると思うが、現場は発注の期間で工事が始まり、多くの現場で少しずつ復旧工事が進む。これでいいのかと言い続けているが、行政は町の存続に関わる人口問題の対策を、工事の進捗とは関係ないと思っているようだ。
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対岸の光景がこの写真で、荒れた広陵した被災地が4年目の今もある。

「女川まちびらき」が21日一斉にその復興を姿を伝える。3割の人口減少にありながら、確か約5000千人となった女川町に、2000人の支援者が来た。石巻線の「女川駅復活」の祝いにと、復興の一歩を見に来てくれた。
南三陸町の「町開」は何時なのか? 市街地のショッピングモールが出来てからなのか。今日仙台から来た兄貴も、「志津川市街地の復興進んでないよな」「一番遅いよな」と言う。今日も防災庁舎の錆びた鉄の塊には、周辺を囲むように「観光支援者」が取り囲んでいた。20年と言われる「県有化」、その維持を県費でするのだろうが、もう「危険!」と言う。
私自身もうどうでもイイと言う、気持ちが強くなっている。県・行政のやり方に文句や改善を言っても「豆腐に釘」で、私も被災者でそんな余裕はない。若い人たちに復興の計画・推進をもう任せた方が、これからの町の為と強く思うようになった。

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2015
03/21

自己管理

一昨日にベイサイドの交流ホールに260名の町民が集まった。3月末で緊急雇用の事業制度も終わり、行政・観光・農業・漁業に事業資金により仕事の場を得ていた方々の、9割が職を失い、再雇用の場を求め集まった。
人手不足の現状の中で、賃金・労働内容など被災地の雇用の場は、求職者にとってはミスマッチがある。緊急雇用の報酬は13万~14万円で、社会保険が必須とも聞いた。しかし、被災地での雇用事業所の、求職者が求める内容において大きな乖離を指摘する。
政府の被災者の雇用支援を、社会保険の加入をこの期間に加速させようとの政策のようだ。社会保険の加入しない事業所は、ハローワークでの求職の事業所告知はしない。弱小事業所の実態の厳しさの救済には無く、再建は難しい事等もに繋がっている。
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生活習慣病による町の保険料の急激な増加は、町財源の不足へと向かう。この対策として政治は社会保険の補助事業を減額を、次年度の計画に盛り込んだ。
私の糖尿病は生活習慣病の一番の病気で、透析は医療費の増額に拍車となる事が予想される。自己管理で今は早期の病気発生の抑制に、日々の食事療法と投薬で病気をコントロールしている。目の網膜剥離も糖尿からくる、震災後の5か月の投薬の震災による治療ができない事が、今の目の状況を悪化させた。
震災2年後に視力が右目「0.1」となり、網膜剥離と白内障と診断され、現在手術により「1.0」まで回復した。そして左目は昨年12月に「眼内出血」により失明した。昨年11月の「白内障手術」で0.7まで見えたものの、12月の病状により石巻日赤で20日~30日までの入院手術も、直後に再度の出血となり、東北大学で先月の16日~20日まで入院手術た。そして石巻日赤での近場の通院をさせて貰い、右目が昨日「0.3」までに回復した。
かれこれ2か月の車運転の自粛で、毎日の生活は会社の従業員に助けられた。
食事は野菜食が主体で、一週間に1~2回の肉と魚の生活に変わった。写真は「漬物」「おでん」「ご飯100g」「サラダ」で、3食必ず取り間食なしと缶コーヒーは無糖である。今日の空腹血糖は「170」で、150から170を維持している。
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今月は贅沢をした。登米市佐沼で「天ざる」を食べた。さすがに美味しい。とにかく野菜食を主に貰い物と、産直所に行けは500円前後で買い物は済む。
昨年4月17日が建物の引き渡しだった、仕事も生活も安定があり、母の病院対応と色々あるが容易に両親の異常に対応している。私の病気も移転完了してから、更なる問題が発生しているものの、仕事と生活の確保ができた。
私の今までにない借金も、今のこの生活の確保で、安定し安心しながら被災後生活をしている。

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2015
03/20

いよいよ水門解体


昨日は「南三陸マイタウン情報」の発行をするために、忙しく時間を使った。
石巻のお得意さんに配達に行き、その後で母の仙石病院に状況聴きに行き、日赤病院にも大学病院の紹介状を持って行き、眼科の主治医がお辞めになるので、また明日来て下さいとなり、今日も石巻に行かないといけない。帰りまたタウン情報の原稿を書き一日が終わった、
今朝から工場を16℃以上になるよう温め、印刷し9時には新聞店に届けないといけない。志津川町内には21日の今日には新聞折り込みをしたい。そして又石巻に向かう10時の予約となっている。
記事は志津川高校の卒業風景を伝え、長野県原村と荒砥・袖浜地区民との交流会①を伝えたい。26年10~11月の町の動きを伝え、メインに防災庁舎県有化の2か月の推移を報道から抜粋した。皆さんでこれまでの行政の対応と、町民の活動経緯を綴った。

昨日の帰り折立地区を通過した、折立に新しくできたコンビニには多くの来客で、駐車場は午後3時だというのにいっぱいだった。ふと折立川の水門に目をやると、解体が進んでいた。写真は水尻川の水門下ながら、戸倉地区は折立地区が橋と言い、水門そして河川堤防の整地・盛り土など、急ピッチで工事が進んでいた。

テレビ報道では今が旬の宮城のワカメ・メカブを紹介していた。「銀サケの初出荷」の報道に、志津川!と思い携帯カメラをテレビ前で構えた。残念。石巻だった。新しい取り組みで養殖銀ザケの水揚げ直後の「生きじめ」の出荷を始める。鮮度を保つ為にヒラメやタイも産地で実施している。今年は暖かく水温の上昇で、ワカメの出荷期間の短縮による減産が気になる。そうならないように願うばかりだ。
明日の女川の「町開き」があり、市街地の復興の進捗推移の時間の違いを思う。鉄道の開通が町復興の基本にあり、来町の玄関口の再開は町民に大きな力を与える。住民の再建もこの早期の町の再建に「町に残ろう」と、これを機に決める住民も少なくないだろう。
我が町でも鉄道の復旧の町づくりは、町外移転を決めた町民も帰れる気持ちになり、観光振興を図って行く町にとっても必須条件と私は思う。現在進む市街地の中心に「志津川駅」ができたら、町の活気は間違いがない。三陸線の開通の姿を思えば当然の考えだろう。戸倉まで線路が残り水尻までのトンネルも生きている。後は水尻川に架かる線路と嵩上げされる市街地までの復活で、町の復興に拍車は掛かるだろう。

大衡村の村長が辞任願を提出した。役場職員に対する「性的強要」「理不尽な移動」など、我が町にはないだろうか? この事件をとおして現在開催の議会でも議員が質問で、この事を取り上げたと聞いた。町長の答弁を聴きたい。

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2015
03/18

申し訳ない


今年度のボランティアセンターの閉所にあたり、「感謝の集い」が15日日曜にアリーナに於いて開催された。1万2千人への案内に対して、1100人のボランティアや関係者が集まった。震災後の町の再建と被災者の復興への取り組みに、住民と行政は勇気と希望を貰った。「繋がり」「絆」を再確認し合った。
ボランティアの人々は「復興はこの地を見て終わってはいなく、今後も支援を続けていく」と言う。「この出会いと繋がりを大事にしたい」とも話す。
町社協の案内で集まった皆さんには、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいだ。遠くから来られる方もあり、交通費・宿泊費など、その経費を思うと多くの負担がかかるが、来られ方々は被災地支援と言ってくれる事は理解するが、まだまだ多くの皆さんに町活性化の支援を貰わないといけない。行政が住民にも自立を促すように、行政も自立する時が来ている。宿泊場所の準備と、地元から特産品のお土産など、感謝の気持ちを形に表しても良いと思う。
昨日の「町づくり協議会」に4か月ぶりで参加した。これまでの町の景観で「良い所」「悪い所」を会員で話し合った。議題は「景観」だった。私は町の景観を歴史・自然を考えると、総ては良い所ばなりで、震災前の風景が蘇ってくる。会員皆もきっと思っただろう。震災後に町に住む方も、海の山の自然の景観が良いと言う。なにも無い自然と、町民の個々の努力が、南三陸町の良さを作って来て、歴代の行政トップが公平に町づくりに取り組んできた。

昨日も石巻に母の足りない物を持って行き、ベットで寝息を立てて眠る母を30分間看てきた。病院に入院し全てを先生にお任せした。介護施設の担当も気配りをしてくれている。こんな母の環境に何の心配もしていない。病院に入れる事と良い先生と、整った整備がある事で安心できる。被災地の我が町にも今年10月末には病院が完成する。後は医師の確保強化と看護師教育をお願いしたい。
昨日はポータルセンターで、視力が弱い事とおっちょこちょいの性格で、施設の鉄の器機に頭をぶつけた、傷が出来たようだ!

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2015
03/17

南三陸町の日の出


天気予報は昨日・今日と晴天、昨日は起きれず今日は夜中3時から布団の中で何回も目覚め、5時には今年初の御来光を見に、これまでの生活の中のスポットを歩いた。
前線の影響で水平線には雲があり、水平線からの日の出はこの次にしたい。
志津川沼田地区の総会に出席した。集会所には地区民でいっぱいとなり、7名の新地区民が誕生し紹介された。全体で124世帯の地区となり、今後も東工区の東・西・北と地区の誕生で、この地区は志津川の中の一大コンパクトシティーとなる。
地区の集会所も「避難場所」と町から指定され、新たな町防災の地区として、新たに整備される町区の模範となる。高齢者と中堅そして子供達も多くいる。地区の一員としてできる限り、コミニティーに参加し、迷惑を掛けないようにこの地区で最後まで暮らす。
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次は水尻川河口から見た日の出で、事務所が戸倉荒町にあった時に、この場所からの日の出を幾度もブログで紹介した。何も見るからにはこの場所の光景も大きな変化はないと思う。
昨日は友人の代役で交流会に参加した。午前11時からの会には、三重県松坂市から地区の防災と子供たちの防災行動についてどうしたら良いか、南三陸町の地元の5名から津波発生当時の行動の聞き取りと、発生時の混乱の中で生活に何が必要か、市民の防災対策として何が重要かなど、地区と児童生徒との津波防災をどうすれは良いかなどを語りあった。
5名の方々の言う話に、普段の防災訓練の大切さ、震災直後の生活確保に、最低3日間の備蓄が必要、そして避難所の自治にリーターとなるべき人材の育成、コミニティー・家庭で、常々津波・地震に対する避難行動を話し合っておく事で、命が多く救える事が実体験として話された。
想定外を想定する事の必要性と、津波が来たらとにかく早く逃げる事、そして逃げたら決して戻らない。と話し合いで確認した。
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最後に黒崎パーキングからの戸倉半島の日の出です。眼下では防潮堤の工事が進んでいた。若布の収穫風景の撮影が目的だったが、この日は漁師の漁船が戸倉の入り江には無かった。
交流会の11時に施設の看護師から電話が入った。「お母さんを救急搬送します」「まだ病院は決まっていません」だった。取り急ぎ会社に電話を入れ、父親に救急車に乗って先に行ってとお願いした。
午後2時までの3時間の交流会が終わってから、石巻の「仙石病院」に駆け付けた。病名は「急性硬膜下血腫」の先生の診断だった。一週間から10日の入院で、開頭手術は高齢で全身麻酔には耐えられないので、投薬や軽度な手術で対応しますと言う。良い先生に又出会えた。
施設での母のベットでの転倒は、自己責任と私は父と話し合った。脳梗塞で死の淵を幾度となく乗り越え、93歳まで生きてきた。最後まで一生懸命生きる母の姿に、脱帽をする。がんばらなくても良いよ、自然体でこれからも生きて欲しい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:52 】

2015
03/15

忙しい3日間


金曜日朝一でブログを更新し、忙しい3日間が始まった。
一日目の金曜は新築の申告が一番の用事で、11時には歌津平成の森に行き、申告の手続きを職員にお願いした。「書類が足りません」と言われた。「金利補助」「浄化槽補助」の書類が必要です。また、26年度末のローン残高を77銀行に再発行してもらい、住宅の登記簿謄本を登米市登米の、法務局へ貰いに行き、3時までの時間内に申告を済ませる事ができた。
写真は南三陸診療所の法面に、太陽光発電のパネルを見つけ写メした。夜9時半ごろに携帯が鳴った、夜中の電話は受けらない、もう就寝中だからだ。

土曜日は朝7時過ぎに母の施設から電話が入った。母が夜中にベットで転倒し、額を3針夜中に病院で治療したと言う。今日も先生の診察があるので、11時に病院に行きますとの電話だった。父に言うと水戸からお客さんがあると、行くことが出来ないとのようだった。一人で行ってみると傷口の絆創膏をとるのに「痛い痛い」と言う、しかし、目の周りまで額の黒血が下がっていた。しかし、大事に至らなかった。
帰り印刷物を2点印刷し、登米市米川にチラシの支払いに行き、佐沼で買い物と第二の母にホワイトディーのチョコを届けた。荒町の剣道の教え子にもチョコを届けた。そこでいい事があった。手づくの絵の作品を貰ってきた、こんなにもしっかりした女の子となっていた。現在、その作品は我が家のリビングに飾ってある。嬉しかった。
夜は長野県原村の方々が、ボランティアセンターの閉所式に来たと言う。今日は1100名の人が集まったとラジオは伝えていた。原村の小林観光課長さんの話に、被災地支援に来て自分が暖かいものを貰いましたと話す、原村の5名と招待された10名と、荒砥の自治会長さんも加わり、楽しい交流会の取材をした。

民宿「明神崎荘」さんが会場で、この日のオープンとあり多くの方が訪れ、被災地の安価な宿泊の場所提供に、町の復興への被災地支援者手助けとなっていた。

今日の事は明日書く事にします。

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2015
03/13

復興はいつになるのか


9日の一日降り続いた雨は、宮城県3月の雨として観測史上の記録的な降雨「93ミリ」となった。町の津波で地盤沈下の大きい海岸部は、川の排水も雨量に勝てず市街地へと集まった。伊里前市街地も通行はできるものの、深い冠水となり大森地区は一時通行止めとなった。水尻橋の隣りのスタンドは相変わらずの、交差点とスタンドの冠水で、社員もこの毎回の状況に諦めの感じた。車の停車中に写メを撮った光景です。普通の国道なら通行止めながら、震災復興工事の嵩上げの遅れの中で通行止めとはできない。10日の休めない状態と翌日の追悼式典とあり、多くのメディアも来町し、町の復興の遅れを露呈する結果となった。町の復旧対策の進め方に間違いは無かったのか、と? 疑問を投げかけた事になった。
写真の場所は現在進む「町開き」の場所と比べても、西岸の「祈念公園」の場所の計画は、何一つ決まらず防災庁舎存続の議論の再燃で、復興の遅れに繋がる。しかし、もう遅く住民は町外への移転を決めていて、その姿が「10年後人口統計」に表れている。
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10日神奈川県三浦半島から物資が届いた。写真の太い大根とキャベツだった。新鮮な野菜はありがたい。町には4年も経つのに新鮮野菜の買い物に困り、小さな店はあるものの、価格も高く選択も出来ないのが現状です。

午前は父親を病院へ送り、母の施設への支払、申告に歌津平成の森に行く。町の担当課は14・16日は混雑するので今日がイイです、と言う。

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2015
03/12

共に歩もう

毎年3.11の鎮魂の日を迎え、震災2日目の活動を思い出す。
寒い雪の積もった朝を迎え、命からがら助かった歌津地区の議員さんと職員を、入谷から払川の峠を越え、歌津までの道のりを入谷の入口まで送った事を思い出す。
工務店社長さんの軽トラックが、町に入れず途中に駐車してあり、その場所への道なき山道を歩いた。3人を送ってから社長さんの奥さんを探しに、アリーナに行き私の仲間や知人と会う事ができた。そこから十日町を通り熊野神社の山を通り、志津川小学校に行き奥さんを見つけた。こんな翌日の行動だった。
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昨夜は震災4年目のこの日に、新たなスタートを始めたのが、袖浜民宿街にあり大津波で民宿向改め「明神崎荘」の社長さんがいる。この節目の日の再スタートの日と決め、再建を進め多くの困難の中で、「プレオープン」を迎えた。牡蠣の養殖もしていて牡蠣剥き場の仲間が、小宴を企画し、私も「追悼式典」の後で、オープン祝いの花束を持って、「共に頑張りましょう」と、町の復興の為にその一助となるよう、花と言葉を送り互いに誓った。
多くのメディアが、防災庁舎の「解体問題」で有名となった町を取材で訪れ、その数も昨年より遥かに増えた気がする。3.11に再スタートと位置付けた「民宿明神崎」さんにも、NHKの取材クルーが来ていた。新しく出来た高台の民宿から海に向かい、午後2時46分の黙祷のサイレンで、頭を下げる姿が夜の番組で流されていた。

もう一つの再スタートは私の同級生の料理長としての、新しい職場「民宿明神崎荘」だった。年齢も同じ59歳で、これからの南三陸町の再建の一役となればと思う。腕によりをかけた御馳走に仲間も喜び、メニューへの改善など。新しい生活に叱咤激励のエールを送った。
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スタッフの女性も何とかこの日まで見つけた。働いてもらえる人探しは、被災地の雇用の厳しさの中で、重大な問題としてある。これまでの被災者雇用事業も、今月末で終わりとなり、後二人の面接も今後予定している。人はこんな困難の中で、多くの問題での心労の時、働き喜びを見つける事で、道が開ける気がいる。

4か月ぶりの仲間との会食、還暦前で生活環境にも大きな変化があった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:16 】

2015
03/11

天皇陛下のお言葉に力


午後2時46分に4年目の追悼式典がアリーナで開催され、1500名以上の参列者があった。
「震災時と同じように小雪の舞い散る寒い今日」と全てで挨拶をした。
天皇陛下のお言葉は被災地の国民への労わりと、決して忘れる事の出来ない本当に恐ろしい物と感じた。とお述べになり、「国民皆が一つに寄り添って行く事が大切と思います。」「日頃の避難訓練と防災教育が必要である。」と震災の心がけをお話しになった。大災害の教訓が分かち合える事を願います。と最後に御言葉を下さった。

NHKの家族の震災写真で、震災は終わっていない事を知る。母と兄弟の三人暮らしでの弟の死は、兄に消防署員になる決断をさせた。母が一人で子供二人を育て、息子の死に母は一人残った子供の心情を理解し、子も育ててくれた母の弟を亡くした思いを理解していた。母はいまだに車での避難途中に流された場所には行けないと言う。兄も流されながら小6の弟の手を離してしまった事を今でも悔やんでいる。毎日、弟の食事を食卓に並べる事を4年も続けていた。
私の知人の親友の津波での死の状況を聞いた。家族は両親と息子家族の6人で、震災時両親はいち早く逃げたが、若い夫婦は子どもの帰りを待ち、避難の途中津波に車で呑まれた。雄勝に暮らす親友は、震災から電話が繋がらず、3か月後に雄勝を訪ね、家族4人の死を知ったと言い、残されたご両親に掛ける言葉も無くしたと話す。
震災での1分1秒に生死の境があり、車で逃げる事のリスクを改めて感じる。
南三陸町でも震災時の夜、女性が車で娘と子供が、目の前で流された話を聞いた。掛ける言葉を失った。
震災後の町づくりの道路整備は、避難路の確保の為二車線道路の整備を聞いた。今回の津波の現状を検証すれは当然の事だろう。

2011.3.11ももう5年目の一日が終わる、家族にとってそれぞれの震災がある。南三陸町の我が故郷の総ての住民総てが「鎮魂の日」ながら、町らは鎮魂や追悼の場所はいまだに無い。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:34 】

2015
03/11

賑わいの市街地が消えた日3.11


今日の朝は雪となった。ラジオは防災庁舎で手を合わせる被災者の姿を伝えていた。春の日差しが朝の雪を溶かしてはいるものの、強風が町を襲う。追悼式の会場アリーナ前の、追悼者の出迎えのテントもこの風では大変だろう。咋日の93ミリの雨で市街地の国道も冠水し、防災庁舎前も水浸しで、鎮魂の慰霊も厳しい状況がある。4年も経つのに嵩上げの盛り土はあるが、市街地の状態は何も変わらない気がする。70%の人たちが「復興は遅い」と言う。

写真は旭ヶ丘の突端から眼下の、津波襲来の跡地と、左の山の上の煙は、新井田地区の車両火災の延焼と翌日分かった。
幾度も襲来した津波繋藻の中で、6時頃の光景で、昼間のこの時期の小春日よりが、大震災と津波で一気に気象の、大気の変化を痛感した。家に閉じ込められた人々がいた。助けを呼ぶ声が、あちらこちらから聞こえてきた。広がる瓦礫の中には沢山の人々が埋もれ、静寂の中で何も聞こえなかった。県の庁舎の屋上で知人が助かっていた事も、震災後の3か月たってから聞いた。

この市街地の光景に町内の一万人が亡くなった! と感じた。しかし、800名の死者・不明だった。チリ津波を経験した町、「地震が来たら逃げる」が当然の町民の行動だった。これは「自助」という自分で自分の命を守る事です。私の本浜地区では「共助」を普段の避難活動で実践していた。地震で近所の高齢者に声を掛け、一緒に指定の高台に逃げた。

「公助」はと言うと、行政の防災器機は大地震で機能を失い、行政の住民への防災放送は、30分間の津波襲来時前まで、職員の「大津波です早く避難して下さい」で終わった。
住民を守るべき行政の機能麻痺に、普段の防災対策の甘さを指摘する。震災の復興遅延のそれによる危機感の無さを何時も思う。防災を軽んじ目先の観光・商工の新興を重視した結果が、今回の住民の命の消失と人口流出に繋がったと言い続けたい。

この大震災を風化させないためにも、行政の震災復興への取り組みを注視し、計画の改善ができ、新しい町づくりに繋がればと思う。決して震災復興への邪魔をしている訳でもなく、大好きな志津川を守りたいがある。また一世帯が町から去った。
いま、神奈川連三浦半島から大根の支援が届いた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 12:01 】

2015
03/11

4年目の3.11

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写真は震災前の津波防災の訓練時の、歌津「平成の森」からの自衛隊のヘリで、南三陸町内の上空の旋回した時の、大好きな志津川地区の風景だ、まさかこんな事になるとは思わなかった。

昨夜のNHKの「ビックデータ」で津波防災の今後の対策の分析をする。「イメージする力が大切!」と言い、これが無いと「命が守れない」と結んだ。
午後2時46分のM9.0で震度6強の地震、震度4以上が3分も続く、これまで体験したことの無い地震に、約30分後に15mを超える津波が発生した。事とあるごとに「想定外だから」の今回の津波の対応を言い切る行政、ここにも沢山の命が奪われた原因はあると思う。
多くの自治体では我が町のような、防災庁舎での職員・住民の死を全国放送で、繰り返し放送される事は無く、町にとって、亡くなられた家族にとって、「どうなのだろうか」と思う。震災遺構として別な形で震災は続いている。多くの人は言う「被災した住民の生活再建が先と!」。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:24 】

2015
03/10

日和山


糖尿病からの失明を覚悟した。現在は左0.2と右1.0と裸眼でも日常生活に支障はない。手術が2週間で視力の回復が日々進んでいる。
朝から「少しは見えんのが」と父は私を心配し言う、今日一のイライラが自分に出た。しかし、多くの同級生の両親は津波で逝去している中で、贅沢と言い聞かせる。高齢化・老々介護・・などの今後を思うと複雑だ。
昨日は6時30分に仙台の東北大学病院の、2週間目の診察で出かけ帰ったのは4時近くとなり、仕事と言う作業は何もできなかった。南三陸のスポ少の7時の会議にアリーナに出かけた。食事は8時過ぎで10時の就寝爆睡だった。
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名取の日和山の地区民の活動に涙と勇気を貰い、女川町の40代50代の若者の町づくり、「還暦すぎだら口出すな」と言いつつ、先輩方の発言に敬意と尊敬の念を忘れない。石巻市大川小学校の存続に地区民の120名の中でもアンケートが取られ、半分以上6割の存続をとなり、市に協議会はこの結果を伝えると言う。卒業した子供たちの発言と願いが大きく反映した。我が町の「防災庁舎」の問題は発言するのに、大きな障害があり、デリートな問題と報道は伝える。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:32 】

2015
03/09

女川の復興に学べ

還暦過ぎたら口出すな!
 
田の浦農地の整備。
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他の裏の高台は見上げるほどの場所へ。
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仮設では死ねない!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:27 】

2015
03/07

震災の町で母校創立90周年


昨日は新たな事業展開の地元の会社の、チラシ広告の配布に登米地区を歩いた。「過疎の町になりました」、「佐藤さん・及川さんが近くに来ました」、人口増えましたかには「変わらない」と登米市民の声もあった。しかし、間違いなく南三陸町の住民は登米市に流れていた。親友の「登米市に家を建てます」は冷静を保つがショックだった。

志津川高校「創立90周年」の大看板が登校坂に立ち、その前を志津川西地区の高台造成の、残土の搬送にトラックが走る。70年・80年の記念誌作成には我が社が携わった。記念誌はもう津波で流され残っていないが、当時関わった先生と作成の苦労を今も思い出す。現在は卒業生の地元の印刷会社ながら、入札にさえ参加する事はできなかった。地元の企業を生かす「地域と共に」は、財政面から県の入札制度からは難しいようた。
ケンタッキーフライドチキンが10~30円値上げ、こんなニュースが朝あった。印刷業も紙・フートーなど「10%値上げ」と業者が伝えてきた。ダンピングで商売を続けていくのは無理で、お得意様にご理解頂き現在仕事を続ける。
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昨日、広島から知人の奥さんが一時帰宅をした。広島での南三陸町の現状を伝える為の、資料・写真を提供した。「南三陸町からの手紙」は大反響だったと言う。津波の生の体験を綴った町民の、体験記はこれからいろいろな震災に対する啓蒙の資料として、防災意識の向上にきっと役に立つ事と思う。広島の講演会を終え、今度は長崎で開催すると話す。南三陸町に居ながらにして、東大阪に手記を掲載し冊子に載ったり、ホームページ・ブログで見ていてくれる人たちも多く、震災の恐ろしさを伝える活動を、被災地に暮らしながら今後も伝えたい。
「錦もみじ」というお土産も頂いた。こうしたお土産などの物の交換も、互いの暮らす町の発信となる気がする。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:19 】

2015
03/06

夜明けが日一日と早く


今日も4時に目覚めた。夜は9時頃には就寝で、毎日こんな生活が続いている。
6時の私の部屋からの商工団地の工場地帯を望む、一般住宅は5%に満たなく、父は家の前を通る人は居なく、工場に向かう中国人の女性従業員だけだと言う。毎日、「人恋しい」といった感じた。ここしか生活する場所は無いのでしょうがないと、理解してもらっている。足も弱く耳も遠く93歳で、震災の次の年に「心臓ペースメーカー」も入れ、障害者となったのに介護認定は貰えず、多くの介護サービスを受けられないでいる。
政治活動のための「後援会」は、解散する事で進み、住宅建設での申告もある。定期の病院検査もあり、そんな私用の中で仕事もしないと、ローンが払えない。まだまだ多忙は続いている。震災で町の復興情報を町民の皆さんに伝える、「マイタウン情報」の発信も目の病気の為に、3か月も中断した。今月の中には26年10・11月の出来事を伝えたい。待っている方々がいる事が、復興活動の継続の大きな力となっている。
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志津川の高台となる中央区を、小学校側から望んだ。1年前の状況と見るからには何も変わっていない。新井田側からは予定地の山の森林は伐採され、大型トラックが山への急な坂を登り、造成で削られた残土を低地部に搬送していた。大工事は分かるが、住民の長引く土地の造成を待っていられない。
東京の目黒の商業土地開発があり、高層マンションと商店街の大型工事が進んでいる。土地の基礎と地下部分を終え、上層部の工事に入っていた。広さは東京ドームの大きさながら、後1年半で完成すると言う。完成予想図を見ると町の高台整備よりも遥かに大規模だった。大手ゼネコンの力は凄く、高台の造成と災害公営住宅の完成時期までの整備は、東京の工事状況から判断しても、予定どおりの完成は可能と思った。

2011.3.11まで6日となった。多くの追悼イベントや慰霊で、南三陸町には沢山の人々が訪れる。決してこの時期が観光であってはならない、と私は思う。昨夜なにげなく「自分で慰霊碑を建てればいいんじゃない」、なんて考えた。まだ町には慰霊の場がない。女川の「希望の鐘」をイギリスの王子の訪問は、世界に女川町を印象付けた。防災庁舎…。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:05 】

2015
03/05

志津川地区中央区に新しい道路が


昨日は佐沼に用事で行って来た。お昼は回転寿司で700円位を食べ、父親にも600円のパック寿司を詰め晩御飯にした。店内は平日なのに満席状態で、南三陸町の想定する観光客の来町は、難しい気がする。知人は言う、関東圏に帰り同級生に南三陸町の事を話しても、反応と感触は薄く「被災地南三陸町の風化」を感じたと話す。
帰りに八幡川沿いの398号の廻舘前の、嵩上げ8.7mの標識のある道路の頂上から、志津川の高台の3地区の一つ「中央区」の、小学校裏の造成地から一本の道路が出来ていた。トラックの運搬道路だと思う、造成工事の進行のスピードを高める為の道路と認識する。逆の新井田地区の45号は交通量も多く、搬入道路として余計な時間が掛らないようにとの対策でもありそうだ。
商工団地の会社までの帰り、防災庁舎前を通ると観光バスから降りる人達があり、私には見えないが「僧侶」の方々と言う。4年目を迎えるにあたり、慰霊にと多くの人たちが、これから来週末を境に多くの町外の人が来る。
町は1万5千人に、町への支援・ボニンティアなどに感謝の御案内状を送った。私の知る一つに長野県原町の人たちが来て、お世話になった荒砥・袖浜の人たちとの交流会を予定している。この一つの「絆」の繋がりが今後も末長く続く事を願う。
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昨夕テレビで志津川小学校の子供たちの、沖縄の三味線「サンシン」の練習風景が放送された。沖縄から来てくれた被災地支援の自衛隊の皆さんのサンシンの演奏に心打たれた子供達も、4年間の月日の中で、小学生は高校生となりサンシンの練習をしていた。町内で、喫茶サロンを運営している内海さん、練習会場にサロンを提供し子供達が集まり、練習をしている風景に、こうした感謝を伝える子供たちの活動は、震災での出会いと感謝、そして津波の恐ろしさを後世に伝える為にも、子供たちのこうした活動は、将来を担う子供達の心に響くと思う。

町民一人一人が苦しい生活の中で、町づくりの活動をしていく必要性を思う、一人の力が集まれば住民の「新たな輪」となり大きな力となる。高齢の大人が心の疲弊の状況下で、子供たちの活動に感化され、残った力を振り絞り町の再生に努力する時です。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:07 】

2015
03/04

歌津地区の今


気仙沼での事故多発が見出しに踊る。南三陸町でも同様であり、気仙沼市から通勤する従業員が、歌津平成の森の下で咋朝大事故がありましたと言う。一台が裏返しで、3台とも大きな損傷が車にあったと話す。渋滞で1キロも車が列となったと言う。
昨日は歌津をぐるりと廻り、復興が進んでいた。田束山の入り口の「西光寺」の前では、太陽光発電の小さいながらもメガソーラが建設され、また少し行くと三陸道の高架橋の整地が進み。吉野沢に行く途中の農地の圃場整備が本格的に進んでいた。そこから歌津中学校裏の伊里前地区の高台移転の、集合住宅の災害公園が建設されていた。至る所で独自再建も見られ、行政の復興計画を待てない住民が少なくない事が伺える。
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伊里前市街地の先行測量として、10月に4千万円が計上されているものの、現状の土の山は三陸道の残土で嵩上げの工事ではないと、報道にはあった。市街地は凸凹な状態で、まだまだ市街地整備は歌津のこの場所は先が見えない。
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「政治と金」が昨日も予算委員会で議論され、国からの補助金の支給が大企業には多くあり、政治家への還流と思われる事例が、次々と発覚し、安倍総理・岡田党首にも政治資金として寄付があった事が、国会で質問が飛んだ。「知らなかった」の答弁が続く。知らないで補助から一年間たたない、企業からの献金は「政治資金規制法」に抵触する。知らないでいれば、返金すれば済む問題ではない。下村文部大臣の暴力団からの献金や資金提供があり、日本の学校教育のトップにあってはいけない、政治献金と黒い繋がりの疑惑に。政治家を信じられない風潮が社会に広がっていく。
竹下復興大臣の発言があった。震災復興の資金の全てを国費で賄うのは難しいと言う。2016年までの復興期間以後は、5年ごとの「復興交付金支給」と言う。自治体で資金を捻出できる被災地は、自己資金を復興資金に回し、財政的に厳しい自治体は国が支援していく、こんな報道が朝から流れた。震災の復興途上で多くの問題がこれから発生し、5年間の復興事業資金の概算は難しいと思う。政府とて資金が潤沢にある訳でもない事も事実だ。
合併特例債の10年間の延長する事となった。その特例債を南三陸町は役場の建設費に回すと言う。震災前は特例債の当初は下水道整備に町は使った。本当は志津川と歌津の合同庁舎建設に使うはずだった「合併特例債」、政府の資金はいくらでもあるとの、勘違いが行政にはあるようだ。政治の失敗を政府に又すがる、こんな政治家が多い気がする。「自己責任」の欠如がある。
昨日、剣道で中学校当時竹刀を合わせた子に、「何を目指しているの」の問いに、政治家と言っていた。若い世代が政治に参加する事は町にとって良い事と私は思う。

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2015
03/03

桃源郷を目指して


農業者の入谷地区の重鎮から「ハナモモ」を購入した。入谷地区の菊栽培が外国の安い物が入り、生産品の転換期にあるようだ。新たな入谷地区の特産品の模策に、現在は「サクラ」「ハナモモ」の栽培をおこなっている。以前、入谷地区の「桃源郷」を目指しているとの構想を聞いた。南三陸町で唯一残った地区、この場所をどうにかしたいと老体の鞭打ち頑張っている。
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知人が写メをくれた。塩竈市の神社の「壱番館ビル」の一階の津波到達標識だ。女川町の何も無くなった市街地に、中学生が義援金により、到達地点の石碑を建てる活動が紹介された。こないだも多賀城高校の活動も、津波被害を記憶にとどめるようと、市内に津波到達の高さの標識を張る活動が紹介され、その活動が「国際防災会議」で発表する。我が町の津波被害の発信は薄い気がする。町民の力の低下と行政の意識も小さいと感じる。こうした「種まきを続けながらの町の復興を」が、その力の入れ方に何処かが違っている。

今日の河北新報に気仙沼の「阿部長」の新工場の生産バック作業が掲載されていた。3Kと「汚い・きつい・…」と言われている水産業、工場の集積地の嵩上げも3~5mと終わり、稼働はしているものの100名の募集に半分ぐらいしか従業員が集まらない、と言う現実にある。
今年も町の事業所でも、集団面接会があり、5千円の参加費で事業所募集をしている。求職者は3月末でつなぎ雇用の緊急雇用事業も終了し、働いていた町民も新たな職探しをしないといけなく、参加者の増加が見込まれる。
「南三陸町の新しい商店街は何時からですか」、こんな電話が我が社に届いた。今知る限り平成28年の秋の市街地再生を目指している。と答えた。全てが終了し稼働するのは何時か、想像もつかない現実がまっている気がする。

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2015
03/02

自然の驚異と海底調査

先月末、南三陸町の佐々木京子さんの遺体と、4年ぶりに判明した。戸倉地区で発見されたものの身元が判らなかった。今回は爪のDNA鑑定で、当時59歳の佐々木さんとわかったと言う。
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昨夜、三陸沿岸の海底の状況や、震源地の海溝部分の瓦礫の蓄積調査が、国の探査船の活動をテレビで放送していた。
南三陸町の椿島の戸倉側と島の光景から判断できた。「デベソ岩」を、志津川湾を潜り写真に収めている、ダイビングの佐藤さん、震災前から南三陸町の海の生き物を発見・紹介している。「クチバシカジカ」「ダンゴウオ」など、代表的にものは町の海の素晴らしさを紹介するキャラクターとして、色々な所に出て来る。
現在、ウニの大量発生による、海藻類の食害で磯に大きな変化が起こっている。震災後にデベソ岩に付着していた天然若布・昆布の姿はもう消えうせていた。自然界の再生の驚異と言い、生物の繁殖力など、その力を人間は調整できなく、これからの対策を一歩ずつと言う感じだろう。
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海溝探査船に搭載している「スーパードルフィン」がある。海底の生物の再生状況や海溝の瓦礫を300mの海底の様子を、船内に伝え専門家スタッフが、情報の分析に目を凝らす。その潜水機器の技術者に南三陸町出身の千葉さんがいた。ロボットアームなどの整備スタッフとして乗船していた。本人も母を津波で亡くし、自宅も倒壊したと言う。自分がこの大震災で何ができるのかとの問いに、母を思い出して涙ぐむ。
色々な形で町民は震災復興への活動をしていた。「国際防災会議」が仙台であり、世界の視察団が南三陸町にも来ると言う。多賀城の高校生は津波襲来の活動報告を国際会議でする。多賀城市も200名の震災死があり、津波は4.5mに達し、国道45号にも1.5mも押し寄せ、その到達地点の津波の位置を市内100カ所に表示している活動をしていた。
塩竈市に行った。マリンポートにも2m前後の津波も、護岸工事や嵩上げ無に元の場所に店舗を建設し営業をしていた。「避難路」「避難塔」の建設で観光客の津波対策を取っているのだろうか。
人口減少の訳を分析する事の必要性を思うが、もう遅い!

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2015
03/02

おめでとうと感謝の一日


3月1日は志津川高校の卒業の日です。前校長の加藤先生との出会いから、母校の入学・卒業の席に情報の発信の会社として呼ばれ、かれこれ7年目を迎えた。震災前のブラスバンドの活動・軽音楽の活動取材で加藤先生と初めての出合いだった。
知人の学習塾の先生の「中高連携教育」の長所と短所と言う問題にも、校長室に伺った時も快く取材に応えてくれた。
今年は3年来の「網膜剥離」の病気により、左目の悪化から出席案内をどうするか考えていたが、2月の手術で大分良くなり、今回の出席取材となった。
創立90周年の記念の年にあたる卒業生徒、校長先生の式辞は「学ぶことの必要性を説いた」、
まだ、生徒は原石であり、基礎を志津川高校で学び大学・社会人として、「学びに終わりはない」。今後も苦労して学ぶ事を努力継続し、自分を輝かせて欲しいと言葉を送った。
答辞では卒業生代表挨拶で、共に学び高校生活を送ってくれた友達に感謝、自分たちに多くの事を教えてくれた先生に感謝、3年間の学校生活を支えてくれた家族に感謝、と全国・世界からの応援があり、その中でもこの3つの人たちへの感謝を述べた。最後に「おかあさんありがとう」で結んだ。会場の父兄席の母の涙を多く見た、親子藍であり今の社会に不足している物と私は思っている。

こんなに人を思い家族の愛にしっかり包まれ育った卒業生、故郷を想い多くの生徒が、あらゆる場所にいても町の復興に関わってくれる事を願いたい。

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