ARCHIVE - 2015年02月

2015
02/28

登米市志津川会設立へ


登米市に南三陸町から移住した人たちに知人が居る。登米市民との交流を重ね、今年もコンサートを企画し、2回目は「李政美コンサート」を6月27日に宝江ふれあいセンターで開催する。
知人がチラシのプリントアウトの出力を頼みに来た。「予算無いから協力して」と言う。原価でいいからと言われ承諾した。
現在、登米市に「志津川会」の設立を模索している。こんな話に「鹿賀野」に友人も家を建てると聞いた。この場所は志津川の人たちが多いと聞く、ここの志津川出身の方々が中心となるようだ。1千人に迫る南三陸町の人が、登米市の中田・登米・米谷・豊里などに、多くが既に移転していて、今後も登米市への流入は続きそうだ。

こないだ副町長が登米市に家を建てたと知人に聞いた。そんな中で昨日の三陸新報に、副町長退任、福祉課長の歌津出身の最知氏が次期の候補として、3月の議会に提案されると言う。

写真は三陸新報に掲載された、志津川の東地区の航空写真だ。この全景は初めて見る。地上から見るだけでは高台の状況は判らないが、これを見ると新井田が直ぐ下にあり、谷も多く意外と狭い感じがする。
震災から4年目を迎え、10年間の災害復興計画期間で、町は町民は町形成はどうなっているのだろう。5年後10年後までは私も元気でいられるだろう。現町の政権の震災での復興結果を見届けたい。
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2015
02/27

本気で愛する

2011-08-07 12.27.11
「志津川が好きだから町で暮らします」。こんな話を直接二人別々に聞く事ができた。私と同じ考えで嬉しかった。
南三陸町から町外に生活の場を移した、町の公務員が意外と多いですよ。との話を聞く。町に暮らさずに税金を町に収めていない。「こんな職員はいらない」、私も同感です。町の再建にこんな状況だからこそ、職員が模範として町での生活を選択する。町のトップの町づくりの英断が曖昧な事で、町民が町外へ出て行っていると私は思っている。

何事もだが「本気で取り組む」が高結果を生む。
結婚も「家庭の為」「子供が欲しい」「世間体」など、人を本気で愛する事をしないと、先は見えている気がする。本気での決断は、信じた事を守る為に大きな力を発揮する。
諦めず自分が目指した夢の実現に努力する。「継続は力であり」、信じた道を突き進む。辛い事もありキツイ事も、続ける事で納得できる人生が遅れる。
結婚は私も「家の為」「子供が欲しい」と、本気のつもりながら少しの、少しの打算があり別れとなった。人との出会いから交際し互いに助け合い、信頼する事で「本気度」が増し、強い思いへの継続が結婚という、一緒に暮らす事へと繋がる。「鬼平犯科帳」の昨夜の男女の戒めだった。

気仙沼市の新築による税収3億円で、市の補正予算を計上した。自治体独自の政治政策で早期の結果がでた。
「金と政治」がまた発覚している。国の助成で補助金の企業・団体への国税が、政治家へ還流する巧妙な工作が、国民が知らないうちに行われている。

「はるかのひまわり」、こんな活動だった。神戸大震災で亡くなった子供の場所に咲いた「ひまほり」、その種が中越地震被害から東日本大震災の気仙沼三陸沿岸の復興活動があり、そのひまわりの「きいろ」が、今の政治と比べても眩しさを感じる。復興のシンボルです。南三陸には「なでしこ」の活動が全国に広がっています。

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2015
02/26

町に帰ります


「働く人がいない」。事業を再建し始まっても働く人がいない、こんな事が今も続いている。若い世代の町からの流出は毎年続き、10年後には9444人との人口統計は信じられない結果の報道だった。
ある事業所の労働者探しに、ここ2か月手伝い一人の調理師の確保できたが、その他の従業員がいない、10名位の人への活動も、「65歳以上」まで年齢を引き上げたが、もうきつい仕事は無理と、丁重に断られた。
今でもこの現状がある中で、震災復興での「企業誘致」を進める町、企業の労働者確保はこの町で出来るのかと思う。
想定外の状況が続く中で、昨夜は佐沼に食事に行った。何処の店もお客がいっぱいで、全国的に人口減少の状況下での人口の維持政策と、被災地の近隣の市として、県海岸部の震災での人の受け皿としての自治体として、人口維持している登米市の受け入れ政策の成功は、行政の活動の努力を感じる。
知人は「帰りたいけど子供が嫌だと言う」と話す。多くのそんな方々の中で、「来月やっと町に帰ります」との人に会えた。自己努力での事業推進の結果帰れたと判断した。

我が家では先輩の持って来てくれた、桜が5部咲きとなっている。高校から中学・小学校と卒業式が続く。半分近くにになった生徒と児童数は、今後の維持は難しく、町づくりの担い手を町外求めるしかないだろう。仕事や生活の為の収入先も来町者のよる物と、高齢者からの生活費からの収入しか、我が町の生活の糧とはならない。我が社もあと何年維持できるだろう。そこまで楽しく仕事をしていたいものだ。

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2015
02/25

私の想定する町の将来像に

旧志津川町は登米市に吸収合併になる。こんな噂を町民が囁くようになってきた。被災町民が仮設からの脱出に登米市を選び流出が続いている。これまで「こうならなければ良い」と思った事が次々に現実となっている。
西川農林水産大臣が辞任した。野党の質問を聞き何でも何度もうなずく態度、異様な光景に大臣としての資質を疑った。安倍総理の任命責任を今後野党は追及し、来年度予算の今年度成立は難しく、予算配分の遅れでの国の混乱の責任は西川議員にある。
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西川農林大臣の献金の返還が続き、違法性がないと思っていても、献金に疑問があると言われ、「朝一番で返した」と大臣は言っていた。
林業に関わる会社への国の補助があり、その会社から献金を受け、指摘され返還し、今度はTPPの交渉前に、製糖協会から献金を又受けていた。この団体も国から13億もの補助金を受け、団体からの献金返還が2・3日前の報道にあった。国の補助を受けた会社からの一年間は献金はできない決まりの中で、「会社と代表が違っている」など、制度の網の目を潜っての、政治献金を国会議員の立場を利用した、政治献金は後を絶たず、また同じ人間が「禁欲議員」として政治家を続けている。同じ議員が同じ罪を起こす事があるが、政治家の座から居なくなる事はない。本当に不思議な社会だ。

復興も失敗は許せない判断がトップに求められている。約束を守り責任を全うし、町民に恥じない政治政策と人間の真摯な資質を持つ人材が、町民の先頭に立つべきと思う。

被災者を隣町に仮設を建築した事が、人口の登米市への流出に繋がった事は、決断の失敗であり、職住分離政策の造成・建設時間のかかる場所への土地決定があった。南三陸町の存続と復興待った無の今の現状に、ここでも政策の二つの失敗を私は指摘する。
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こないだ気仙沼市の市議団が長崎県雲仙普賢岳の火砕流での、家屋の被災遺構の視察が新聞に掲載されていた。南三陸町議会でも総務委員会の鈴木委員長以下5名で、長崎市への視察に震災の翌年に行った。火砕流に埋もれたままで、特殊な建物で遺構全体を保存が2~3軒、一階部分は火砕流に埋もれ、二階部分を見下ろすように見学ができ、火砕流の巨大な被害を目の当たりにし、震災の怖さを後世に伝え残した。もう一つは火砕流の熱風に襲われた小学校で、その脇に3階の普賢岳の全貌と、火砕流への対策として防御壁の広く繋がる光景を見る事が出来た。
しかし、多くの施設への来場者は少なく、観光としての伝承館の隆盛はもう無かった気がした。
本当の震災遺構など、もう我が町には無い気がする。写真は水尻川の水門の機械室に絡まる、養殖施設の牡蠣と浮きがあり、津波で防潮堤は破壊され海が陸地を覆い、ポツンと4階の公営住宅が残った。当時、鈴木委員長は残った住宅の部屋を活用すべきと提案したが、斬新な提案を悧巧する事とはならなかった。
消滅した町の震災伝承の、本当の現実構造物は「高野会館」しか、もうないと思う。

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2015
02/23

町の復興計画を待てない

昨日は町内の仮設を数カ所回った。この日は志津川の「復興市」が、さんさん商店街の脇の駐車場で開催され、多くの車とテントを国道398号から眺めた。
そして入谷「岩沢仮設」に、日曜なので駐車場には車が多くあった。帰りに旧道の所に建設中の家を見つけた。地元工務店ではなく「レオハウス」の建設だった。その少し脇に新築となった家もあった。震災前ならこんな不便な所へは家を建てる事は無く、土地不足と農地変用が簡単にできるようになったからだろう。
次に小森仮設に行った。ここでも小森から近隣への高台の土地に、新築住宅が5~6軒あり、現在一軒が建設中だった。以前は熊田橋から真っ直ぐ田んぼ脇の細い道路を通り、高台への坂を越え仮設に行った。現在は旧自動車教習所側からも仮設に行けるようになった。道路が出来ても一時的なもの、道路は狭いので事故が心配だ。旧本浜地区の向かいのお母さんと会ってきた。体の不調を年だから笑顔で話す。仮設での4年目の暮らしと、市街地の高台の移転を決め安堵しているようだった。
今度は「中瀬町仮設」と高校脇の「二期仮設」を廻る。仮設は静けさの中にあった。火葬があったのか、水尻川添いの細い道路は渋滞していた。ここにも建設中の住宅を見つけた。外構にハウスメーカーの看板はなく、地元の工務店が建設しているのだろうか。

ポータルセンター裏の魚屋さんへ、一か月ぶりで買い物に行った。復興市のお客さんが来てくれました。大忙しの一日だったと言っていた。
来町者あっても住民の減少は待ったなしだ!

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2015
02/22

津波伝承による自助で

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平成37年の南三陸町人口予想は「9444人」で、高齢化率は「40.6」で「3837人」を占めると、人口統計が発表された。最大の要因に登米市での、「住宅再建」と「公営重宅整備」があると言う。驚きの数字でも私はこの志津川で生き続ける。何故ならこの町は私の人生の中心であり、「大好きだから!」がある。

自分は充実した人生を、自分の考えを事を正直に最後まで貫き、人の意見に耳を傾け、加味した考えを全うしたい。

こないだの地震と津波発生があった。気象庁の震源地の判断ミスがあり、震源が100Kも内陸に近く、津波注意報の指定も広範囲であり、北海道えりも町にも10㎝の津波が到達した。
津波避難は自己判断でが私の持論で、今回の津波も町民は想定外の大津波ながら、当初の町は消えたとの報道で、1万人死亡は800名余りで、町外の人たちが意外と多い。また、拘束された人々の死も多く、自宅にいたらもっと死者は減っただろう。津波防災意識は南三陸町の町民は強いと言う事がここからも解る。

震度4以上が3分間続く、こんな大地震なら「高台に逃げろ」が昔から伝承されている、町民の防災意識だ。震度4前後なら私は逃げないがあり、震度5強を越えればラジオ・テレビの報道で確認し、自分がどうすべきかを家族に伝え行動する。が我が家の暗黙のルールだった。最終的には「6mの津波だ」で高台に逃げた。震度1~5なら直ぐは避難しない。

10年後の人口の半分が65歳以上となる今後の町は、企業の誘致は厳しい! 何故なら働き手がいないからだ。老後の生活で行政サービスが充実した所で、余生は暮らしたい。当然の住民行動だろう。ショッピングモールと福祉ミールも誰の為の物で、「復興計画」「町開き」の町の構想は大きな岐路に立たされている。

志津川の将来の姿を見続け、全国へ発信して行く。誰がこの現状の起因者なのかを、今後も私なりに分析し皆さんに伝えたい。
中断していた「南三陸マイタウン情報」を、3か月の休みから再び発行しようと思っている。防災庁舎解体存続の二転三転の現状をトップに掲載したい。仮設で暮らす被災者には何の興味もなく、被災者救済意識の行政の低さを感じる。

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2015
02/21

心配する状態に近づく


退院し5日ぶりに家に帰り「三陸新報」に目をとおす。公立南三陸病院が今年の11月完成に向け、順調に工事が進む!とあり、10年後の平成37年に南三陸町の「人口が1人を割る」との、ショッキナグな見出しがトップにあった。

昨年10月の白内障手術があり、年末22~30日までの障子体の出血による、眼球の中身の交換手術をし、今週16~20日まで、再手術となり右目で毎日見える観音様と、仙台市内からの雪の山並みが朝日に照らされる光景を見つめていた。
手術の翌日、弱視となった目が周囲の光景をしっかりと解るようになった。当たり前に眼が見えていた事が、叶わなくなった3か月前から、また光が戻り物が見える事の歓びに心が安堵していた。東北大学病院の眼科の教授と、若い眼科医の治療に感謝している。
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町の人口統計が発表され、新聞に掲載された10年の推移が写真です。震災後まもなく「復興計画」に町の人口は5年後13500人まで減少し、そこを底辺として減少は止まり、また少しずつ人口が増える。こんな想定を町は描いていた。人口の減少は震災死があり町を離れ生活再建に住民は奔走し、4年目に入ると一揆に封を切ったように、40代・50代の中堅世代が町の再建を諦め、町を去っていった。
震災後の復興に向け人口流出阻止が、町再建の一番の課題と言い続けた。「南三陸町でまた暮らしましょう」「一緒に頑張りましょう」と、メッセージを自己で発信している「南三陸マイタウン情報」で言い続けた。個々の生活は家族の将来を考え、子供の為にと若い家族世帯、三世帯家族などが町から離れて行った。
「人口が1万人を割る」の状況は、この現象からも行政は予測できたはずなのに、厳しい現実を眼の前にし回避する為の対策を取らなかった。町の復旧復興と言いつつ住民の確保への対策は、復興事業から比べると皆無だったように思う。

あと10年、私も70歳近くなる。震災後の行政・議会の初動が間違っていたのかを検証しないといけない。人口一万人となると「起業誘致」「税収確保」「行政施設維持費」など、厳しい状況となる。ウジエスーパーの29年3月の規模縮小で進めば良いが、出店取りやめもありうる気がする。

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2015
02/20

石巻日赤増築


南三陸町の公立病院が来年の11月に完成する予定で建設が進んでいる。これまでの病院にない設備を充実し再オープンする。社協や高齢者のケアセンターを備え、透析部門も設置する。
震災前から一番必要な部分の問題が今後も続く。医師の確保いまだに解決していなく、全国的にも地方に来てくれる医師がいないのなら、石巻の日赤の地域拠点病院のこれまで以上の活用を考え、宮城県内の中核病院との連携を模索すべきと考える。
病院は「町民の命を守る為」と行政は言う。今回の自己の病気で何が心の支えになるか解った。町の個人病院から登米市の専門医に紹介され、そこから又上の病院として石巻日赤を紹介された。何回かの手術を重ね、医療機器の整った病院として東北大学病院を紹介された。何が安心感と納得がいったかというと、先生方が上に行くほど多くの先生に見てもらえると言う事だ。
病が手に負えなかったら、連携の病院へ回し町民の命を守るが、被災地となり住民も減少し、病院の維持の為に町からの補助は、維持管理の町財政は今後大きな重荷となるだろう。町の病院運営に大きな改革が必要で、医師の確保がならなかったら、ただの「箱物」である。
高速道路の普及で石巻は大分近く、大病の一次医療として活用し、町民が納得できる治療ができる環境づくりが、財政的に厳しくなる被災地「南三陸町の医療体制改革」は町の財政立て直しに繋がる。
誰かが築き上げた町の病院体制は、全国の地方医療崩壊が現在進み、人の減少の町の疲弊破綻に向かって行く気がする。

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2015
02/19

広島からの支援

2011-05-04 09.08.01
全国で南三陸町の大震災の現状を伝える活動の一つを紹介したい。

震災から広島に避難している佐々木さんがいた。ご主人はひと時の避難から、流出した民宿の再建に奔走した。震災から2年目の事だった。グループ補助事業も商工会の指導で補助助成が決まり、昨年末から新しく命名した「民宿明神崎荘」として、3月初旬のオープンに向けこぎ着けそうだ。
どこの事業所もだが震災での資材の高騰など、建設費の増加で苦悩をしていた。旦那さんのご苦労が報われる日がまじかとなった。

その影で広島で暮らす奥様に白羽の矢が送られた。広島の被災地支援の「NPO」「NGO」が、広島の奥さんを支援するプロジェクトが誕生したと言う。民宿の再生に関わり、「妻にも手伝って欲しい」との声が掛かり、資料提供や被災から取り貯めた写真を数万枚から200枚を選んで送った。又、「南三陸町からの手紙」や知人から借りた「中学生の震災体験」など、南三陸町の多くの震災資料から、被災地の悲劇を忘れないなど、「震災風化防止」と、全国に南三陸町の大災害が「防災の教訓」になる活動を、町に居ながらにしての「町支援」の方々をお手伝いしている。

暖かくなったら大型バスをチャターし、南三陸町へ「観光支援」に、広島から訪れる計画を進行している。家庭を守り子供を育てながらの、被災地支援の活動はNPOの助けを借りながら、2月21日を皮切りに5カ所での講演会を予定している。

何とかご主人の手伝いをと、南三陸町に復興支援になればと、利益なしでの活動に頭がさがる。奥様も広島市の大水害にボランティアとして参加したと聞く。多くの全国からの南三陸町への支援の恩返しと言う。

町も把握しない全国での南三陸町支援活動がある。


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2015
02/18

信頼


「信頼する先生です」とトップの先生からの言葉があった。今日は昨日の天気から一変して、雪模様により窓の外は景色が霞む。

昨日の三陸沖の地震は「震度4」ながら、12階は大きな周期で長く揺れた、震源は三陸50KでM6.9だった。岩手沿岸に「津波警報」が出され、発生午前8時6分の発生から、8時50分頃に久慈市に20㎝の津波が確認された。震災復旧現場の作業員がビル2階へと非難した。岩手沿岸の避難者は5868人で、大きな被害は無かった。今度は午後1時46分に、青森三八上北で震度5強の地震が発生した。M5で、津波の発生は無かった。震源が海岸線だったので、津波は無かった。

今年になり地震発生が毎日のようにある。おかしいと常々思ってはいた。昨日の2回の中型地震も、東日本大震災の余震と言う。インドネシアのM9.2の地震の後で、M8.1の地震も発生し、余震もM8クラスになると、大津波の発生が懸念され、普段からの防災意識の維持が大切だ。人間は4年が経過すると過去の記憶が薄れていくと言う。しかし、私はあの2011.3.11の記憶は忘れる事無く、大震災の戦いと住民は今も戦い苦しんでいる。

18歳以上に選挙権が来年の参院選から実施されそうだ。若者の政治離れがあり、総理は政治に関心を持ってもらえる事で、「年金制度」「社会保障」などを、「選挙に行く」と言う意識から、その必要性を判って貰いたいと話す。今でも若者の政治不信があり選挙権を得たからといって変わるかは疑問だ。

3か月ぶりで昨日の手術から、今朝の診察で世界が少し見えてきた。東北の医療の粋を結集した病院の中で、先生間の信頼の元、若い医師の技術の一つの向上に、私の眼が役にたったと一人勝手に思っている。

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2015
02/17

良き医師のしる安心感


与野党の論争が始まった。民主の岡田氏は非正規雇用者の処遇改善に、安倍総理は待遇の向上に努力する。と言い。維新の江田氏は、国会議員の歳費3割削減を求め、総理は各党で努力すべき課題だと話した。
圧倒的な数を誇り法案の閣議決定を進める中で、自分たちの身を切る政策には消極的である。安定多数の環境での改革はできない事を、我が町の状況からも感じる。一人の行政への指摘など、蚊のひと一突きでしかない。
資金の支援を受けた見返りは、従順に反発をやめ。恩恵には絶対服従で応える。社長と従業員なら許せるが、国政や自治体の緩い環境では、住民・社会の生活改善にはならない。

昨日から一週間の休暇に入った。仙台での入院は初めてで、さすが東北一の病院、厳しい環境での病気治療の環境体制で、患者の為に主治医は厳しい現状を親切丁寧に説明し、自分の置かれている目の現実を知らされた。
良き医師がいる事の安心感に浸っている。

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2015
02/16

今度行って見よう


歌津伊里前の「大衆食堂」「民宿大衆」さん前での、お祭りの光景がテレビで放送された。
大衆さんの家族の友達が二代目として、寿司を振る舞い大衆さんの後継となると言う事だった。お勧めは地物の新鮮な魚介で、「あなご寿司」「ホタテ寿司」と言う、是非近いうちに食べに行きたい。
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いろんな形の後継者対策がある。私も3代目で会社を閉じる事が目の前にある。機械設備や技術の開発そして新事業への意欲は、後継者があるとないで大きく違う。

現在、家のローンがあるが、総てを処分すればなんとかなる。都会では「ローン地獄」が進む、人口が減少している中で、マンションを「3000万円」で購入した物が、残り10年で家の価値が「500万円」でも買い手が無いと言う。60歳以上が30%ローン返済者を占め、ローン契約者全体で15%がローンを払う為、自己破産・家を銀行にとられる状況にあると言う。
これから町の復興が始まり、住宅再建が本格化する。今後の返済計画に社会情勢や年金の支給まで、総てを加味し子供をあてにしない、ローン計画が望ましいと言う。

本格寿司は志津川には2軒あるが、今はもっぱら隣町の回転寿司である。大衆食堂の二代目の「地元寿司」の穴子寿司は是非食べたい。


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2015
02/13

中堅が町の活性化に取り組む志津川


若者から中堅になりつつある人たちが、あがき・もがきながら頑張っている。
写真は津波で壊滅した志津川の袖浜民宿街、「そして何もなくなった」、この場所から一つの民宿が3月の震災4年目に、再び産声をあげる。
建設や人の確保があり、問題発生ながら「民宿再生の夢」を叶えようと、まだまだ奔走が続いている。町内での求職者の厳しい現実があり、「新しい生活を目指し一緒に頑張りましょう」と、求人を出すがその反応は薄い。動き始めている事業はストップできない。今後は町外に募集を拡大する。これも被災地の支援と是非協力して欲しい。
民宿「明神崎荘」は袖浜地区の先端の明神崎から取ったと言う。写真の真ん中に「ぽつん」と見え、ここまでは津波の被害が無く、志津川湾の水平線と日の出が見られる。最高の志津川の風光明媚を味わう事ができる場所です。

昨日の河北新報の記事に「地域再生自らの手で」と、「島根県・海女町と南三陸町に学ぶ」と仙台でフォーラムがあった。南三陸からは復興推進ネットワーク代表理事の及川氏が参加していた。
震災直後から子供たちの教育問題の支援活動など、復興への町の支援をしていた。現在は町づくり協議会の事務局として、若い社員が働いている。
現在進めている事業に、宮城県内陸の酒造会社と提携して「南三陸ブランド」の酒を考案し、23日から売り出すと聞く。
震災直後全国からの義援金があり、知人の恩師が龍谷大学の教授にいて、そのゼミ生の募金活動の支援を私自身も協力した事を思い出す。地元からも「タコ鎮」を京都のジャスコ店前の募金で会場展示にと送った事を思い出す。
行政の義援金の不透明な使途に疑問を持っていた私は、子供たちの教育支援活動をしていた、復興ネットワークへの義援先として紹介した。
フォーラムでは海女町の平成の合併を断り、独自での町づくりと人口減少の対策をしている。及川氏は「行政の縦割りからはみ出した所が我々の仕事であり、長期的な視点を持って地域の再生に取り組む」と、「若い世代の活動が町を新しく再生する」と言っているように私には聞こえた。

昨夜から今朝、石巻で5軒の放火事件が発生した。震災による空家ながら多くの思い出が詰まっていた。5K圏内で全てが全焼だった・被災者の震災苦が出たのだろうが、大犯罪である。住民の不安がイライラになり、多くの事件が今後も発生しそうだ。

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2015
02/12

町の再生は自らの力で

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第一次産業の輸出高が「6117億円」と過去最高となった。農産物の安全性や水産品の中国への需要拡大でここの輸出が増大し、今後1兆円まで伸ばして行くと政府は言う。円高の効果も大きく海外の観光客も1300万人と、過去最高になった。しかし、デフレの状態は変わらず、円高が何時まで続くかもわからない中で、今だけの状況かも知れない。

南三陸町の外国への輸出は、震災前の韓国への歌津からのホヤがあり、コンテナで鍋の具として大好評だった。また、秋サケは阿部長商店の企業努力により、中国の需要拡大が進む。魚の生食や寿司の世界的なヘルシー趣向の変化により、魚が需要増加となった。私の知らない農水産品も、この他にある気がする。

今日の新聞記事を紹介したい。
防災庁舎県有化で町長と議会の決定に、県有化の受け入れの請願書に、新人議員の5人のうち4人が請願の代表議員となった。解体を採択した3分の2の議員が残り、遺族から出された陳情により、24年9月に防災庁舎解体が議会で採択され、町長はそれにより解体と決定した。
以前の決定は、新人議員の入れ替えにより、「議会の再度の議論は当然」と言う。こうなると防災庁舎存続」の流れが、議員による解体の是非は、当時の反対議員もおり、採決となれば「存続」となるだろう。
職員の殉職は家族の思い、津波で家族を亡くした無念の町民がいる。庁舎を見るだけで怖い、あの光景を思い出す等、当時の苦しみが防災庁舎に向けられた。冷静になって考えると言うが、震災の風化や津波の恐ろしさを後世にがある。しかし、観光の為が強く、語り部の人たちが保存に居る。
私は防災庁舎の屋上で流され亡くなった知人の無残な姿を聞き、「見たくない」「解体しろ」は当然と今も思っている。
明日13日は議会臨時会があり、「震災対策特別委員会」で、県有化について町長から説明がある。防災庁舎は解体、早期住宅土地の整備と私は思う。庁舎は職員遺族の話を聞き、最終決定すべきと思う。だが、議会決定により町長は「保存」、となる気がする。

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2015
02/11

生活の自己防衛


震災から3年10か月、津波の年の五月ごろ、仮事業所を知人の温情により戸倉荒町に開設し、昨年4月17日に志津川商工団地内の、倉庫用地に自宅兼事務所を建設、倉庫を改装し最低限の印刷業の設備とし、今後の生活の為の場所を確保した。
ここまで大震災からの歩みを進め、仕事・家庭・病気など、環境整備は生活の混乱を招くギリギリで、回避できた事を日々感じている。一つでもずれれば家族は離れ離れとなり、今の生活の確保ができなかった事を思う。結果的には生活改善の為に積極的に努力して、何とか、やっとここまで辿り付けた。多くの人々の温情と手助けがあり、多くの人たちに「感謝」の気持ちを伝えたい。だが、日々生活に追いかけられていて、その失礼をお詫びしたい。

昨日は仙台と石巻からお客さんを迎えた。震災時の「海花復興の会」に参加し、南三陸町の大震災大津波の被災者の現状を、仙台で幾度か紹介した。また、海の将来について学び、漁業の在り方・水族の変化など、グローバルな視点で多くを学んだ。そのキッカケを作ってくれた二人が、新築再出発の事をお祝いに、わざわざ来てくれた。
初めは中学校の恩師の小松先生のアフリカ支援のコンサートへの参加だった。先生は仕事の支援や人との繋がりの仲介で、色々な形を変え交流が今も続いている。「今度、会の大会が横浜であります行きませんか」との誘いを受けた。今の私の状況では無理ですと、丁重にお断りをした。
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朝から変な写真で申し訳ない。知人から「ネックウォマー」を貰った。今年は喉の風邪の違和感で、2回の常備薬の処方箋で事なきを得た。毎年の症状ながら倉庫での悪化があった。この格好は漁民の方に多く見られるが、喉の弱い人には大いに薦めたい。

南三陸町の今年の最低気温は「-7.1℃」だった気がする。まだまだ寒い日が続いている、「風邪は万病のもと」と言う、甘く見ないで、高齢者は特に気を付けて欲しい。昨日、父親が古傷の「ギックリ腰」が発生した。「無理だけはしないで」とは言うが、不甲斐ない息子で申し訳ない、気持ちでいっぱいだ。

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2015
02/10

歌津地区の市街地の今は


昨日は気仙沼市本吉に用事で出かけた。この地区も小泉の旧市街地は被災前と比べても、そんなに大きくは変わらなく、津谷川の橋の基礎支柱の工事が、大規模に始まり防潮堤の基礎打ちの大型重機が並んでいた。国県の仕事は確実に工期を守り進んでいる。
帰りに志津川からの歌津入口の、パーキングスペースに車を止め、そこから写真のような光景を携帯で撮影した。
現在、歌津玄関口の「三浦石油」のスタンド施設が解体されていた。伊里前川の河川堤防の河川沿いにある為に解体となっていた。震災後のスタンドの列を思い出す。300m~500mにも及び待ち時間も、朝4時ごろから並び4時間は並んだだろうか、ここしかない震災後のガソリン補給で、10㍑まででリッターは160円を超え、以前までは130円ぐらいだった気がする。登米市までも車を走らせ行列したものの、自分の番の20台め先で終わった。こんな事を思い出した。
こないだ町の「ショッピングモール」の建設で、志津川40店と歌津20店との経過を以前聞いた。しかし、今の歌津地区の商店街を見ると、地区内の仮設も遠く地区民の買い物の場とはなっていない気がする。歌津商店街の大駐車場はイベントが無い限り閑散としている。ある人は言う「何故一つにしないのか」と、地区での存続も解るが、共になり一緒に南三陸町の復興・再建・発展を考えるなら、一つになる事も考慮したほうが良いと思う。また、伊里前の市街地の嵩上げを待つより、今、災害公営・住宅建設・商店が建設されている、枡沢地区の津波被害の大きく無かった場所に、早期商店街の建設をした方が良いと言う。昨日は新しくスタンドの開店があった。
各種業種の関係者の声に耳を傾け、町存続の最善策を行政は考え、決断し実行する事で町の再建と将来が見えてくる。
個人的に色々あり今までの事が継続できない状況に現在ある。しかしやるしかない! 昨日は「被災者雇用助成」の最終書類を提出した。
自治体の県の「行政指導」の権限の小ささを思う。神奈川などの残土の処理に違法があっても、100回の勧告でも建設会社は何もせず、土砂崩れの災害が発生した。建築違法でも法律が守ってくれる。これは違うと経験して解った。正義は何処にもなくなった気がする。

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2015
02/09

復興の在り方は違法

2011-04-29 12.56.37
昨日の夜、たま別の知人が電話をくれた。
「現在までの町づくりは町民への公平性に欠き、専門家は違法であると声を大にして言っていた」と、ある講演会に参加した事を話していた。
八幡川の西側の被災地の復興の進め方があり、限られた土地は買い上げられ、他の土地は買い上げられないと言う。東側の大部分も海岸部の土地も買い上げられている中で、こんな問題が発生している。新しい町づくり、「町開き」と言い、復興へ市街地の再生が進んでいるようだが、裏に潜む現状の闇の部分は、町内にも県外にも解らない人達が多い。
こないだ開催予定の「西岸整備の説明会」も伸び、以前生活していた人たちは、今だに震災後の状況のように思う。

ISILへのヨルダンの兵士殺害の、ヨルダンの軍事基地の爆撃、米軍を初めとする連合軍の空爆で、7000人ものISILの人間が報復攻撃で亡くなったと報道される。全世界から集まって来たテロの活動への加担者も、空爆で亡くなった事と思う。人間の殺戮は世界で起こっている。

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2015
02/08

水尻川の今


水尻橋は震災の津波で流出し、志津川市街地への侵入は入谷からの国道398号だけとなり、多くの一次避難所は数か月孤立の状態だった。
被災地の復旧は、自衛隊の緊急な橋の設置から、仮設の橋の建設があり今に至り、現在、本設の「水尻橋」の川中に橋の基礎工事進んでいる。背後は震災後の市街地の変化も少なく、市街地西側の「公園地区」はまだ一つとして、何を整備をするかの計画も決定しててない。
防災庁舎が県の管理下で32年まで、震災後から20年間の管理にしたいと村井知事の、打診が町に示された。今朝、知人が「八幡川西岸の河川堤防の設置を取りやめた」と聞いたが本当か。こんな電話が入り、「それは無いでしょう」と答えた。方向性が住宅建設数の減少、整備地の計画の変更など、色々変わる南三陸町の復興計画がある中で、私の町では何があっても「復興の為」と言う名目で、なんでもできる行政決定がある。しかし、街づくりの遅れでの人口流出であり、町民が戻っての町の財源の確保が出来ない。
女川町の復興の形とは、被害と地域性からも同等な町ながら、復興の進捗は大きく違う。行政トップの揺るぎない復興の形と、意気込みと熱意の違いを思う。危機感の違いが一番大きい。
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水尻水門は今も震災後のままで、今年のサケの遡上も厳しかったようだ。気仙沼の大川と小泉川のサケの回帰率は被災前に戻ってきている。女川港の水揚げも被災前に戻り、水産業の再建を言うのなら、大型船の入港を考えた、港・市場づくのをし、仲買の形態の改革は元より、漁協の県漁協の指導の元での組織改革と、若者の働ける魅力ある水産業と、漁業者の受け入れ、所得の向上と職員のスリム化など、町と同様取り組む事は多くある。
以前は全国で12000組合が、現在600組合となり、農協のトップに君臨する「農協中央会」の改革が国会で議論される。無駄を無くしその分農家の収入につながる農業全体の改変が、世界的「関税撤廃」のTPPへの対策と言う。農協への監査と、上納金・指導など、大きくなった力の分散が目的なのだろう。族議員は保守自民党の中でも反発する議員も多い中で、将来に向けた取り組みと思う。

後藤健二氏は言っていた。「子供に寄り添い」「子供の声になりたい」「誰も聞かない小さな声に耳を傾け伝える」、こんな事を生前いっていた。後藤さんの気持ちを繋ぐ事で、後藤さんの魂は生きている。将来への国の将来は子ども達に託される。子どもへの教育と、育つ家庭の在り方を国が支援し、考える時代となった。父は言う「今の事件は教育の低下にある」と。

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2015
02/07

高く高く……は必要?


今日も浜々を歩いた。復興の大きな進捗状況を見る。大団地の造成は遅いが、個人での再建は各所で見る。水戸部川河口の酒屋さんは、写真の遠く山の頂上に住宅再建を震災直後に決め終えている。CIMG9711.jpg
水戸部・在郷など戸倉浜区の集落の墓地、「慈眼寺」さんの墓地が遠く山裾に見え、先祖の菩提寺を守る義務が難しい状況らある。菩提寺の墓はあっても寺は流失し、そこまでの道路の確保を要望するが、「聖教分離」と理由を付け行政の支援は、今も尚なく先祖の供養や、震災で亡くした家族への焼香も難しい。

瓦礫の処理場は無くなった、大規模に戸倉漁港から在郷までの、焼却・分別など、大手ゼネコンの施設は消えうせ、平原だけが広がっていた。南三陸町の行く末がこうでない事を願う。

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2015
02/06

昔から今そして未来


私はもう失うものは無くなった。現在、多くの人たちに助けられ今があり、私の関わる多くの人たちも新たな体制となり、改革・前進を続けていた。羨ましいが、その影には後継者と共に会社の為に頑張る社員がいた。

昨日は本吉から今年も仕事を頂いた。現体制では「もう発注はしてくれない」があると覚悟している。震災以前の顧客は現在半分となり、比例して売り上げも同じで、当然と思っている。

私が高校を卒業した当時、高校の先生方が後継者して会社を継いだ、私を学校仕事の支援で助けてくれた。震災3年前から「価格破壊・戦争」の時代となり、パソコンでの県の仕事が入札となった。一番は定価での受注の崩壊だ。安ければいいは、県・町の財政難に起因する。心情も地域との繋がりも風化しつつある。私には合わない時代となった。「負け犬ではない」。
昔は「学級文集」があった。先生が生徒と一緒になり、編集し仕上げ最後の製本を、予算内で多くの本を作った。その時の先生に今も感謝をしている。

私の大先輩の恩人であり知人は、町内から県外そして東北、ここから全国への事業の展開をしている。震災で物流の拠点を登米インター近くに置いた。地元の人を大切にし、若者(高校生)の雇用を増し、育成し全国への会社の力を養い、共に町の発展を描く。南三陸町の本社でなく、仙台に本社を置く事で全国へのアピールをしている。後継者の育成もしっかりし、多くの人々との繋がりを持つため、今は自分づくりをしているように思う。こんな小さい町だけでは将来は乏しい。菓子店・蒲鉾店も登米市を拠点とし、全国への展開をしている。
我が社は印刷業で大手の印刷会社との競合は無理で、機械化を図るには数10億と優秀な人材が必要だ。仙台の専門学校から毎年雇用依頼が来ているが、生徒を引き受ける環境も賃金を合致しない。
我が社を信じ仕事くださる皆さんを最後まで守りたいが。「誰か後継してくれる若者募集」と言うが、そんな危篤な人は居ない。

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2015
02/05

好きな事は生活を助ける

昨夜は2.3日の多忙で生鮮野菜の買いだめが、悪くなりかけていた。ほうれん草・もやし・白菜などがあり、今の内に料理しないと無駄になる。料理する事が好きな性格は、晩御飯と父の食事にと「ほうれん草お浸し」「カボチャ煮」「もやしの炒め物」「かぼちゃおかゆ」の五品を30分で仕上げた。晩御飯は「もやし」「ほうれん草に味のりをかけ」で、ご飯一膳を一人で食べた。好きな事は身を助けるとの話は真実で、父親に「煮魚」を作ると「美味い」といって喜んでくれる。
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話しは志津川市街地の町の防災施設の整備が、工期の予定も残り1年と急ピッチで進む。大森から南町までの「8.7M堤防」は、大型基礎打ち機が、一列に並ぶ姿に工事の広大さを感じる。「凄い」、5か月ぶりの光景は本浜地区の姿は何一つ残っていなく、新井田川沿いの「小野邸」だけが残っていた。今後どうなるのか、行政の町づくりは解るが、そこに何があったのかと言う事を思うと、小野さんの心情も解る。「頑張って下さい」としか言えない。私も住宅・工場再建で止む無く残った跡地を町に委ねた。しかし、相続問題で「土地の買い上げ」もままならず、今後は同じ場所への「換地」となり、整備後の土地取得での固定資産税の高騰の噂に、今から頭を悩めている。
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被災前の大森町営住宅跡地には今、高台からの土の嵩上げで、防潮堤防のような形が見受けられる。新しい市街地が整備されるまで、「死んでも死にきれない」、生きていたいと強く思う。

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2015
02/03

早く住宅が欲しい


日曜日の天候は強風で荒れ模様の気象予想は外れ、雪も無くこの日開催の地元建設会社の「内覧会」は今までにない大盛況だった。
地元の工務店・住宅建設会社の住宅提案は、歌津の丸功建設さんはこれで3回目となる。高齢者の為にバリアフリーの手すりを多く配した「ユニットバス」は、使いやすさの全てが設置され、トイレや脱衣場や洗濯機も広々としていた。キッチンは床暖房でIHヒーターで、台所は仕事もし易く安全な機能を備えていた。
色々な部屋づくりを見る事で「終の棲家」を、失敗なく建設ができ、後悔も無い住宅建設が可能になる。
建設費もさることながら、住宅の細部についてもだが、とにかく一日も早く家を建て、仮設生活から倉庫生活、仮工場・事務所からの脱出を果たすための、家の完成を目指した。私は多くの失敗を感じながら今を暮らしている。多くのも物を見て人と話し合い、安心できる建設会社で、顔が見える職人のいる工務店を選択し、なけなしの予算での住宅再建を成し遂げて欲しい。

丸功建設さんは、各部屋にクローゼットや収納室を提案していた。引き出しも昔ながらの金具の重厚な作りを、手を掛け時間を使い、生活しやすさを追求していた。神棚・仏壇などこの地にあった部屋づくりは、訪れた住宅建設を目指す戸倉・十三浜など、津波被害の中心でもあり10分ぐらいの間に、次々と内覧会に人が来場していた。、一時期は20名を超える人の数となった。ハウジングギャラリーは近くでも石巻があるが、社員が後を追いかけ住所・名前の記帳を求め、煩わしさが付いて回る。
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地域の顔馴染みも多く、共に話し合いながら、自分の住む家の構想を立てていた。戸倉地区の浜区の防集は土地が整備されると建設は早いが、大部分が「ハウスメーカー」であり、藤浜団地も9軒が完成し後は「集会所」だけとなった。多くの小さい造成地は整地が済むと住宅は5割強、住宅建設が進んでいる。

南三陸町の戸倉団地は28年度の完成を目指し、80戸余りの個人の住宅建設を予定している。

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2015
02/02

流出した旧庁舎玄関に立つ


昨年からの病院の入院・通院があり、年末の多忙で半年ぶりに防災対策庁舎に行った。この日もワゴン車から8人位が下車し、祭壇に手を合わせていた。二つのお地蔵様が祀られ、私も手を合わせたが、ここでの混乱の生と死の生きざまは想像もできない。
早く「慰霊碑建立」と言う、議会で被災した小野寺さんの父親の、歌津の千葉さんが県知事の来町に、「早期解体と慰霊碑」の要望を、メディアに向け話す姿を思い出した。小野寺さんは議会で広報を担当した時に、新人への気遣いと、関わる業者への対応に、毅然として全てへの謙虚な姿勢を思い出す。

いまだに旧庁舎の基礎が残り、その向かいの川にこんなにも近い事に驚く。前の川岸護岸のカーブしている所に、津波で殉職した前々議長の佐藤栄さんが、護岸から川の様子を伺っていた姿が蘇る。栄さんの前を自転車で通り、声を掛け合ったかは定かではない。

昨日は戸倉「藤浜団地」から防災庁舎、そして本浜から大森地区へ、最後に袖浜に向かった。海水浴場は震災から何一つ変わっていないが、袖浜地区の漁港整備は進み、漁港を取り巻くように遊歩道が、以前より嵩上げされ整備が終わっていた。
震災復旧は漁港も改修工事は必要だが、なぜ大規模な住宅団地整備がこんなにも時間がかかるのだろうか。志津川市街地の大森から南町までの防潮堤建設は、平成28年3月末までと工事期間の看板が立っていた。国・県の管轄工事は災害復旧の委建設者も入札決定し、期間内の完成を目指し急ビッタで進んでいた。

後藤健二氏のこれまでの活動を讃えた、「健二基金」の創設を仲間のジャーナリストには、彼の活動の姿を残すためにも設立して欲しい。何もしないと絶対忘れ去られ「風化する」、毎年募金には応じたい。可哀そうだ、悲しい出来事から、一歩進んだ彼の功績を継承する活動を、全世界の弱者と言われる、子ども・女性の救済に充ててもらいたい。

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2015
02/01

多くの人々が貴方の歩みを忘れる事は無いでしょう


「ほーら、足元を見てごらん、これが貴方の歩む道、ほーら、前を見てごらん……」のキロロの「未来へ」の冒頭の歌詞だ。母が我が子の諭した言葉で、多くの剣道の教え子たちの前で、この歌を披露し言葉を添えた。

宮城県出身の後藤健二氏の「ISIL」の非道なテロ行為に、偶然朝5時過ぎの速報に接し「ショック」しか無かなかった。
私もツイッターで見ようとしたが、確認はでくなく探す事をやめた。
安倍総理の「テロニ屈しない」と、記者会見の言葉は辛く悲しく心に響いた。ISILの声明に「貴方の国民は何処にいても罰せられる」と言い、これまでのメディア戦略の、家族の心を揺さぶる卑劣極まりない、ツィッター配信に、「目には目を」と強く思った。最大兵器の報復もと思った。ただそんな事は後藤さんは決して望まないだろう。

(合掌)

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:34 】


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