FC2ブログ

ARCHIVE - 2014年08月

2014
08/16

先祖があっての今の千葉家がある


1968年私が生まれた本浜の生家は二階での建物だった。祖父が海岸だった埋立地の土地を確保し、工場と自宅を建て父の兄弟は9人を数えた。私が生まれた時の家族は、曾祖母と祖母、伯母・伯父・叔母、そして私の家族5人の10人家族が狭い家に住み、片寄せあって生きていた。生まれた頃の記憶もあり、二階の窓と部屋の木造の引き出し付のテ―ブルあり、二階から降りると台所とトイレがあった。他に部屋が一階に3つあった。まだ5歳ながら覚えている。
五年後に「チリ地震津波」が襲来し、二階部分が落下しそのままを修復して住んでいた。四畳半に曾祖母と家族5人が、重なり合って寝ていた。しかし、何の大変さも不満も不自由も感じなく、幸せな毎日がここにはあった。

我が家の仏壇は狭いながら大きかった事を覚えている。仏壇の事は祖母と母の仕事として、毎朝祖母が「茶」を上げ、急須に注いだお茶の残りを、朝の一番茶として「ばあちゃん」が飲む。幼少時代から私は祖母を「ばあちゃん」と呼ぶ、何でもできた祖母で、上品さばかりが他と際立った人だった。勿論「嫁姑問題」もあった。
狭いながらも建設まで済んだ自宅、完成と同時に「仏壇」を義理叔父の紹介で設置で来た。私の知る限り3回目の購入となる。どんどん小さくなる仏壇は、千葉家の衰退と私は捉えている。毎朝の父の仏壇前での「座禅」15分前後があり、「リンリン」と大きな音で、父の仏壇へ向かう朝仕事が終わる。震災前までは父が仏壇に手を合わせる事など、私は見たことがなく、天寿の全うへ一歩ずつ近づく気持ちの整理をしていると感じる。
仏壇の供えの「だんご」は墓参りの前日私が作った。供え物も前日登米町に買いに行った。道の駅で食事を取り、むかで青果・生協により、青果・生花を買い求めた。やっぱり遠く片道30分はどうしても掛かる。一日も早く「ス―パ―建設」「高台商店街の建設」を求める一人です。

仏壇への合掌は、先祖への感謝と、今がある事への周囲の人たちへの感謝があり、お世話になった千葉家の周囲の亡くなられた「御霊」に御礼です。


スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:19 】


TOP