ARCHIVE - 2014年08月

2014
08/29

志津川中央区の議論活発に


昨夜の志津川地区の再生の中央区検討会には、10人の委員による地区づくりへの議論が活発に行われた。傍聴人は私を含め5名の方が、議論される法面・擁壁・勾配・行政区など、新しく生まれる地区の住民となる皆さんで、真剣な質問や説明への討論が交わされた。

戸建が135世帯と災害公営が147世帯の270世帯の中央区となり、公的施設も学校が近くに小中と点在し、生涯学習施設や保育所などが建設される予定だ。住宅も図面での計画ながら、できるだけ勾配角度を少なくし、高齢者も歩いて生活できる環境づくりを心掛けた。高台横断道路や398号への接続道路も動線として計画され、中央区の地区民となる皆さんに配慮した、志津川地区全体を考えた地区道路網が伺える。
CIMG8230.jpg
国道45号の道路に面し、ロウタリ―も地区に向かって右側に位置し、BRTの発着場がある。志津川駅前の風景を思い出すが、鉄道では無くバスの停留所となる。助作のトンネルは志津川小学校の下を通り、中央区に出る。高台横断道路も連結になる配置図に見えた。
以前の計画通りの「高台3地区横断道路」がある、知人から「本当に西区迄横断道路できるの」と聞かれた。これができないと西地区・旭ヶ丘の道路交通は、大不便となる。また、高速道路に住民の足が向くので、西地区から中央区への横断道路は計画がなくなるのではと言う。それは住民が許さないだろう。

志津川市街地の西側の復興計画もまだ本決まりとならない都市計画があり、西側の住民は買い上げや嵩上げの不安を話す。どうしても商工観光の東地区の整備ばかりが目立つ。「震災慰霊の丘」も行政任せの状況は、南三陸町の震災死への追悼とはなっていない、家族の心情は複雑と思う。

スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 13:03 】

2014
08/28

朝から晩まで時間に追われる日々


写真デ―タの逆像をお許し下さい。何度も形を変えファイルアップしても、正像にならない、朝の貴重な時間これ以上の浪費は避けたい。

先週末位から喉の何時にない異変を感じ、喉薬を飲んでも治らないので、以前処方された風邪薬を飲み5日が経ったが、まだ本調子でなく今日の血糖値キッドと共に、向かいの病院に行こうと思っている。
新しい環境での生活、そして今年の猛暑での汗をかいたままでの就寝で、体調を崩したのだろうと推測する。肌着の異常な汗のままで、朝方の涼しい中を濡れたままでの環境が、最大の原因と思う。
先週のお盆中から我が社にとっての年最大の仕事に取組み、家庭の仕事としてのお盆を他人に恥じない先祖への供養を父と共に果たした。

町づくり協議会から、新しい「輝くまちづくり部会」の第一回目の会議があり、18名前後が役場大会議室に集まった。多忙で私は10分の遅刻となった。会議は市街地の隈氏のグランドデザインについて議論した。八幡川の親水性を意識し「階段設置」があり、それが写真で示された4カ所で、形・場所に委員から多くの提案が出された。できる範囲の提案が行政への願いとなるだろう。以前からの会議でも委員の意見が、少ししか取り入れられない事からも判断する。制度のもと予算のもとで町民の要望は難しいのだろう。
新しい志津川市街地は「回遊性」を重視し、限られた場所に車を止めるしかなく、高台からの町民も歩く事を求められ、勿論観光客も同じである。ワ―クショップでの我が班から、「会社の帰りに車で店に横づけし買い物ができるように道路を広げては」との提案があった。ここには昔のような生活環境をとの願いを感じた。
CIMG8225.jpg
火曜日は「志津川東地区町づくり検討会第2回」の傍聴にいった。東地区の委員はこの日は5人程度出席で、当初は三地区各20名の募集だったようだが。被災住民の生活は大変で、会議の参加は難しいと聞いていた。常々町民から「会議に参加する人たちは同じだ」と言われ、私もそうだと思っていたが、これには町民の抱える理由を最近理解した。「会議に参加しないと自分の考えが通らないよ」「勝手に町づくりがされるよ」と、こんな問題をぶつけるも、何の町づくりへの期待も仮設での生活者にはないようで、早く公営住宅を建てて欲しい、事業者は土地の確保を早くとの気持ちで、町づくりをどうするかは行政と委員に希望される方にお任せしますとのようだ。今回の会議では若い人の参加も多く、被災されない地区からも「私たちの町づくり」を考えたいと、嬉しい仲間が集まった。

31日には気仙沼・本吉地区の種目別大会の剣道の部が気仙沼市であり、その大会参加に、今月はお盆の週を除き練習に励んだ。子供たちのたゆまぬ練習参加に、風邪をうつさないように、自己での治癒の中での生活が続いている。週2回の練習があり昨日も2時間、仕事を6時までしその後汗をかき、飯を食べそのままで就寝した。

今日は中央区の検討会が役場である。傍聴を予定している。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:44 】

2014
08/26

近道


震災のあの日、両親二人を乗せて避難した道路が、写真の現在の道です。市街地にう回路ができ、旧クボ前から旧本吉クボタを廻り、小学校の入口の場所へ小回りをする。志中から橋を渡らず旧助作を通ると、同じ場所に出る。写真の道がそれで津波避難路の逆となる。
最近、この場所を通る車を多く見かける。少しでも近道をと、誰しもが考えての行動なのだろう。しかし、BRTの線路活用道路の通り道ながら、両脇の雑草が道路にはみ出し、道路もデコボコで危険な「近道」と言える。
地元の人間ならではの裏道であり、震災時には「命の道」となった。そして現在は商工団地までの中学校からの「近道」としての役割となっているが、夜の通行は止めたほうがいい。この一面の田んぼだった場所は、町の陸上競技場の建設予定地と言う。BRTのトンネルの上の山は、中央区の「災害公営住宅予定地」で、ヘリコプタ―のホバリングもこの上あたりと思う。
あの住みやすい美しい町が、どのように変貌するか見届けるまで、生きているだろうか?

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:05 】

2014
08/25

命の道は住民の利便性へと


朝6時20分に仙台へ、志津川商工団地から仙台卸町に、「三陸道」の津山ICから東ICで下り、1時間15分で到着した。用事を2件を済ませ11時10分に帰宅した。東北大学病院・石巻日赤病院の高度医療も簡単に受診ができ、日帰りでも容易になる。南三陸病院の将来の経営に不安が募る。

町に思う1
6月・7月と同級生や知人の両親が亡くなられた。この地で生まれ生きてきて80年そして90年になり、津波や多くの苦難があり、志津川・戸倉地区で生き抜き、これまで町にずーと暮らし行政を支える税金を納め、町の生業を支えてきた。

東京への生活を選択し親の老いを家族は最後まで見届けた。仕方なく町を離れた厳しい決断でも、菩提寺の先祖の墓に母を納める。宮城県の為の復興復旧に、自分の生活の為に、仕方なく隣町の生活を選んだ同級生もいる。我が町での早期の再建を願うも土地が無く生活環境も無い震災直後は、残された家族で母を介護したと聞く。しかし、この同級生の親の死が「みなみさんりく広報」には掲載されなかった気がする。葬儀で案内を頂いた親戚・近隣者のみの、ささやかな告別式で、平時なら多くの人たちの参列を頂き、故人を忍びその最後を喪主が皆さんに伝え、故人の事を思い出す。ひと時でも我が親の生き様を知ってもらいたいがある。
昨日も突然、病院に行っていた私の携帯が鳴った。世帯主が南三陸町で暮らしていても、その家族が亡くなっても、広報誌で南三陸町の全世帯に「なぜ伝える事はできないの」と、行政へのお願いの要望があった。私の母親も現在介護施設に入所し、住所は施設に在り郵便物もそちらに届く。しかし、皆が諸々の事情で町内の施設とはいかない。たぶん住所が地元でない為に、「みなみさんりく広報」には載せられないだろう。
南三陸町の震災による仮設生活者やみなし仮設生活者は、住民基本台帳に記載されてはいるが、みなし仮設で他の地に移り住み、その地の施設に両親がお世話になる実情もある。今回の被災は100年の一度の現状がある中で、南三陸町の住民に「私の両親の死を伝えたい」、こんなささやかな願いを行政は聴いてはくれないものか。広報の最後のページの裏面に死亡欄への10文字、なぜ載せられないのか。震災でやむ無くの悲劇であり、住民への行政震災対応として、希望のある方には掲載してもなんの問題もない。
なぜできないのかを広報発行の企画課に聴きに行きたい。そこがダメだと町長・副町長と言う事になる。

町に思う2
表だって住民は話していないが、移転が遅れている志津川市街地の再建の在り方に、不安と異議を話す人々の、悩みをもっと行政は聴くべきと思う。

昨日のラジオから「隈研吾氏のグランドデザイン」と題した番組を偶然ところどころだが聞く。被災地の再建の構想を流暢な話し方は、強い説得力を感じる。この隈氏の被災地の表現が許された経緯は、知る人しか知らない。国だったり、UR都市機構だったりする。南三陸町町長が市街地の中心再生が、自分の町づくりに合致し、こんな他に類を見ない一大構想へと今歩んでいる。
地元紙にも「熊氏のデザイン実現へ」とあり、住民総てが納得しての方策なのか疑問だ。新しく市街地構想は将来への税収確保が最大目的で、その根底に観光商工の発展があり、農林水産業の復興の為にもこれしかないと言う。こんな構想に住民生活の再建もあると言うが、私には正しい方向性を感じる事はできない。市街地に住民が住む事を基本とし、それに生業と言う水産・農業により商工が成り立ち観光へと繋がる。昔からの生活スタイルが町にあり、ここまで町が繁栄し輝かしい町の伝統を続けて来た。多くの災害があれど、ここまで町を変えた事が本当に正解なのかは、復興計画の10年が終わる頃には、町長政策が成功だったのかが見えてくる。

「太陽光発電」が原発の依存から自然エネルギーの変換へと世論が動く中で、当初から議会・町づくり協議会で、建設される住宅へ「太陽光パネル設置はできないのか」との、質問が町・UR都市機構の職員に出されたが、制度上できないとの答えが続いた。金曜日の第8回臨時議会の会議で、行政より学校など公的施設に「太陽光発電」「蓄電器」の設置を10カ所にすると言う。その見積入札に「地元企業の入札はあったのか」と、歌津の三浦議員が行政に問う光景が、役場窓口の前のテンビのネット放送で、偶然に放送され見た。入札業者は1社で落札したと聞いた。被災から3年6か月となり、被災自治体の再建も折り返しとなり、太陽光発電の関連会社とて、既に工事の発注・受注し、入札参入者は少なく、何とか入札を成立させたい自治体は、予定価格の増額などを講じ、国の復興交付金申請の期限もあり、通常以上の高額で落札をしている。国の被災地交付金だからとか、高額になっても自分の懐に影響はない等、他力の町再建で良いのだろうか。身の丈にあった町づくりをと私は思う。復興後の管理費・維持費は再建後町民の負担となる。

東京オリンピックや全国での台風被害があり、予算も建設業者も不足する事を、常々心配する。早期の再建政策の決定で、業者・予算も確保・削減できるのに、その影響が将来の町財政に響く事を私は懸念する。「誰がその責任を取るの」、100年に一時の大震災だからは、その理由にはならない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:49 】

2014
08/24

志津川市街地のグランドデザイン


8月10日
昨日のラジオから「隈研吾氏のグランドデザイン」と題した番組を偶然ところどころだが聞く。被災地の再建の構想を流暢な話し方は、強い説得力を感じる。この隈氏の被災地の表現が許された経緯は、知る人しか知らない。国だったり、UR都市機構だったりする。南三陸町町長が市街地の中心再生が、自分の町づくりに合致し、こんな他に類を見ない一大構想へと今歩んでいる。
地元紙にも「熊氏のデザイン実現へ」とあり、住民総てが納得しての方策なのか疑問だ。新しく市街地構想は将来への税収確保が最大目的で、その根底に観光商工の発展があり、農林水産業の復興の為にもこれしかないと言う。こんな構想に住民生活の再建もあると言うが、私には正しい方向性を感じる事はできない。市街地に住民が住む事を基本とし、それに生業と言う水産・農業により商工が成り立ち観光へと繋がる。昔からの生活スタイルが町にあり、ここまで町が繁栄し輝かしい町の伝統を続けて来た。多くの災害があれど、ここまで町を変えた事が本当に正解なのかは、復興計画の10年が終わる頃には、町長政策が成功だったのかが見えてくる。

「太陽光発電」が原発の依存から自然エネルギーの変換へと世論が動く中で、当初から議会・町づくり協議会で、建設される住宅へ「太陽光パネル設置はできないのか」との、質問が町・UR都市機構の職員に出されたが、制度上できないとの答えが続いた。金曜日の第8回臨時議会の会議で、行政より学校など公的施設に「太陽光発電」「蓄電器」の設置を10カ所にすると言う。その見積入札に「地元企業の入札はあったのか」と、歌津の三浦議員が行政に問う光景が、役場窓口の前のテンビのネット放送で、偶然に放送され見た。入札業者は1社で落札したと聞いた。被災から3年6か月となり、被災自治体の再建も折り返しとなり、太陽光発電の関連会社とて、既に工事の発注・受注し、入札参入者は少なく、何とか入札を成立させたい自治体は、予定価格の増額などを講じ、国の復興交付金申請の期限もあり、通常以上の高額で落札をしている。国の被災地交付金だからとか、高額になっても自分の懐に影響はない等、他力の町再建で良いのだろうか。身の丈にあった町づくりをと私は思う。復興後の管理費・維持費は再建後町民の負担となる。

東京オリンピックや全国での台風被害があり、予算も建設業者も不足する事を、常々心配する。早期の再建政策の決定で、業者・予算も確保・削減できるのに、その影響が将来の町財政に響く事を私は懸念する。「誰がその責任を取るの」、100年に一時の大震災だからは、その理由にはならない。

8月13日
隈氏の志津川市街地のグランドデザインの一部分だ。
河北新報に「かさむ経費店主圧迫」と題され、巨大再開発の誤算として、神戸の震災からの再開発の現実が紹介されていた。
「神戸市新長田駅南再開発事業」があり総経費2710億を投じ、今もその工事が進行中と言う。商店は地下一階・地上二階で、高層ビル30階で44棟を建築3000世帯を建設し、入居は全て完了している。しかし、商店街はシャッタ―通りとなり、50㎡で商売をする店主は、想像以上の商店街の疲弊に、家賃・建設負担・固定資産税など、毎月80万円に苦しんでいる。店舗の販売も不動産の下落で、販売もできないと言う。
我が町も旧五日町への「ショッピングモ―ル」の60区画の計画があり、その家賃の額を聞く限り厳しい経営を想定する。旧十日町・本浜・南町の、換地による市街地整備も、土地区画整備により「固定資産税の増額」を、土地換地にあたり生じると職員は言う。観光客の安定確保で商店経営の維持ができる。商売は水物というが、町の「町開き」の中心地の行政の考えは、「身の丈」に合っているかと言うと、行政の考えに不安を抱く換地希望の一人です。
「町づくり会社」設立での第三セクタ―での方向性、テナント入居者の確保、町への観光客の誘致、果たして順調にいくだろうか。
町民は話す「韓国に町長さん行くようだけど」「何しに行くんだべね」と。オ―ストラリアにも招待で行った時、同行の役場職員の旅費は町の経費から出されていた。住民が仮設で苦しむ非常時、絶対に許されるものではない。招待ならば一人で行くべきだし、同行を求めるなら自己負担であり、同行者の分も招待した国での負担をお願いしたい。

8月22日
昨夜6時30分から町づくり協議会の、次の段階と言う「輝くまちづくり部会」の一回目の会議が行われた。仙台から帰り残った仕事を片付け、急いで会議に参加した。
メンバ―の構成員は20名で、30人と予定していた中で、10人の減少の意味が何なのかを考える。構成員の若返りに「私たちの町を自分たちで考える」、こんな意欲を感じられた。
八幡川の階段の整備で、川との「親水性」を考慮した構想がある。左右4カ所を階段にと計画はあった。多くの部分を階段にとの構想と思っていたら、一部分のように私は感じ、灯篭流しやかがり火祭りなどに考慮した河川の活用があった。
隈氏の志津川の市街地のグランドデザインには概ね賛成とのワ―クショップでの反応だった。多くのプラス希望が会員より出された。気になった班よりの希望があり、「子供たちの遊び場」「観光客よりも住民の利便性を」「高齢者に優しい町づくりを」「学校への通学路の整備」・・・など、自分の家庭生活から考えられる、町づくりの希望があった。
隈氏の構想は観光を中心に、住民が来町者と交流できる町、足で歩いてもらう事を主眼に置き、デザイン性を重視したモダン・近代的な市街地の整備があった。「もっと住民が生活しやすい町に」、が若い構成員から出された事に驚かされた。広場の幾何学的な構造物よりも実用的な形に等、現実的な生活の場を造って欲しいがあった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:16 】

2014
08/22

まるで東日本建震災のような光景


自衛隊から二階で生存した子供が手渡しで救出された。子供は自衛隊の隊員の手を握ったままで、被災した家の前でたたずむ。
同僚の無事を確認に来た女性は、同僚の無事な顔を見て、抱き合い生きていた事に、大粒の涙を流し肩にもたれた。
自分の甥っことその子供たちの安否を心配する中で、気丈にテレビ局のインタビュ―に答え、「ごめんなさい、もう話せない」と、現場で救出作業を見つめていた。
消防署の副隊長が救出した子供を抱きかかえたままで、二次被災となり共に亡くなった。自分の職務の役割として危険を顧みず、被災住民を救出に自分の仕事を全うした上の死だった。救出も大切だが自分の命を守る事の意味を追求して欲しかった。「助かって欲しい」が家族の願いで、職務遂行の現場での悲劇だった。
140821_053359.jpg
今現在「39人死亡」で不明は51人となった。土砂に埋もれ崖崩れと今も続く降雨に、危険と隣り合わせの救出現場の状況が続く。停電・断水が今も復旧はしていないと言い。一地域で300戸が倒壊・流出と被害を受けた。南三陸町は3500世帯が倒壊・流失し、この光景を見る限り変わらない現場が見られる。
震災から3年半を迎えようとしている。私は日本の国内で自然災害のさらなる発生を懸念する。町の再建も何時までも被災地の変わらない市街地の風景があり、住民の生活の場の確保もまだまだのようだ。
今後も発生するとみられる国内の天災は、被災地への国の予算が復旧に回される中で、日本の国民の税金は潤沢にある訳もなく。緊急を要する所に予算が回される。大震災被災地への資金が減少する事や、風化が進む事で優先順位が何処にされるのか。こんな事を震災一年目から考えた。
「山津波」の脅威は町の山々が造成され、山の保水力の低下や短時間での豪雨がよる土石流が心配で、復興途上の我が町の再建造成は更なる災害に配慮されていない気がする、工事の進め方に不安ばかりが募る。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:22 】

2014
08/20

災難が続く これからに備え我が町も対策を


朝、従業員との会話で「気仙沼市では被災者に義援金がでますよ」と言う。我が町の昨年12月の議会の質問で、町への義援金は66億で町民への分配も終わった、支援金は町の公的な消防・交通などの部分に使ったと言う。被災町民は「もっと義援金はないの」と、日々の生活苦から金銭的支援を行政に要望する。
福島船籍のサンマ船の船火事は、いまだに二人の不明があり、一人の方は細浦地区の方だった。奥さんは築館のみなし仮設に住み、「主人は泳ぎが達者と」生存を願っていた。
朝の未明の広島県の豪雨災害が発生した。広島にも南三陸町から私の知人が避難している。朝方の局地的な豪雨により、山崩れの土石流が民家を呑込んでいた。一時間に90ミリを超える豪雨があり、長時間雨が降った事で山崩れが発生していた。多くの狭い山の麓の場所で発生し、24人前後の行方が分からなく、その内小さい子どもと高齢者が、遺体で発見された。生活弱者がやはり犠牲となっていた。被害者の壊れた住宅の修復・建設などの再建を思うと、新築の家も伺え二重ロ-ンなどもある中で、今の私の資金繰りの大変さを感じ、これからの復旧への道のりの苦労を思う。
南三陸町の高台移転に於いても、多くの高台を削り裏山が崖の下となった住民の土地に不安を思う。一時間に今後100ミリの豪雨を体験していなく、今後の世界的な異常気象に今まで予想以上の自然災害の発生を感じる。私は商工団地の中心部に位置し、その心配は今のところない。商工団地の沼田地区も盛り土の部分もあり、今後の大雨への備えは、町での「ハザ―ドマップ」作成で、被害を最小限にできるかも知れない。



 

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:38 】

2014
08/19

町の伝統・歴史を守るのは住民


旧南町の「タケヤ」さん前の防潮堤・水門の場所はここで、今野鉄工所跡地も海底に沈んだ。写真は町の旧魚市場のトイレ跡地に位置し、防潮堤が引き波の為か海側に崩れ、防潮堤防の根本は津波の「複流水」で抉られ、海水だまりができている。町づくり協議会公園部会では、津波災害の遺構としてこの姿を残し、復興した海岸線との「過去と未来」して後世に残すと提案している。

朝のニュ―スは、「船上火災」を伝えていた。大槌町20K沖の海上でサンマ漁船が火災となり、乗組員16名の内の2人が死んだ。一人が南三陸町出身の安部さん63歳と伝えられた。海面の水温上昇でサンマの南下が遅れていた中での事故だった。もう一人の乗組員は町外ながら、まだ20代前半でこれからの沿岸漁業の担い手だった。
大崎市の伊藤市長が職員40人に、人口減少への対策プロジェクトを立ち上げた。大崎市も平成の合併後に3000人が人口減少となったと言う。被災地でなくても人口の減少が続き、若い世代の定住促進をはかる為の使者が、同世代の自治体職員を指名した。自分たちの今後の町の維持を本気で考え取り組んでもらう。自分たちの置かれている現状を知り、市民生活の安定確保を図る。
被災地南三陸町の現状を考えれば、こうした若い世代の行政職員の、町づくりへの人口問題への取り組みは、自分の町の将来を考える意味でも、今、必要な対策プロジェクトだと思う。被災地の仕事の多忙もあるが、学識専門家では知り得ない地域の伝統・環境もあり、この地で生きる職員の英知を期待したい。



【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:16 】

2014
08/18

優しい先生だった「共に肩寄せあって」


写真家 立木先生へ
昨日テレビで貴方の厳しい本業の活動を見ました。「写真甲子園」の審査員の姿に、被災地においでになり我が家や会社再建の姿を、スタッフの若い皆さんと被災当時の事から復興の途上の時期の、家庭・会社の話しを聴き、被災した私の両親の生活の現実をフレムに収めてくれました。何枚かの写真を送ってくれ、それを私は「遺影」にしようと思う。両親が相互で励まし合って暮らす姿は、我が家の私の励みとしてリビングに掲示し、毎日見る事でこれからの頑張る力としたい。
140816_201120.jpg
高校生の写真に賭ける夏の活動は、石巻の女子校生の苦慮し思考の中で、生き生きとした野球の「夏の甲子園」と同様に、元気と勇気をもらった。私も写真を10年前の新聞の発行を始めてから撮り続け、2011.3.11で以前の写真は全て流失し、また、新たに震災の歩みを撮り続けている。
モノクロの芸術としての写真をアピルした高校は、審査の最初の頃にモノクロの芸術性に頼る事はあまり賛成しない、とダメ出しで生徒の中で何かが崩れた。葛藤する生徒がその後の撮影に、もがきながら撮り続け、その後の8枚の写真が優勝の栄冠を獲得した。

児童・生徒の時代の生き物事を考え苦労し、技術・力を得る事は、絶対必要と私は思う。それに多くの他人が係わる事で、両親家族からは得れない物を身に付ける。「写真甲子園」を見て写真の撮り方は、色気を出さないで現実写真を撮影する事で、そのパワ―が見る人にはっきり伝わると知った。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 13:39 】

2014
08/16

先祖があっての今の千葉家がある


1968年私が生まれた本浜の生家は二階での建物だった。祖父が海岸だった埋立地の土地を確保し、工場と自宅を建て父の兄弟は9人を数えた。私が生まれた時の家族は、曾祖母と祖母、伯母・伯父・叔母、そして私の家族5人の10人家族が狭い家に住み、片寄せあって生きていた。生まれた頃の記憶もあり、二階の窓と部屋の木造の引き出し付のテ―ブルあり、二階から降りると台所とトイレがあった。他に部屋が一階に3つあった。まだ5歳ながら覚えている。
五年後に「チリ地震津波」が襲来し、二階部分が落下しそのままを修復して住んでいた。四畳半に曾祖母と家族5人が、重なり合って寝ていた。しかし、何の大変さも不満も不自由も感じなく、幸せな毎日がここにはあった。

我が家の仏壇は狭いながら大きかった事を覚えている。仏壇の事は祖母と母の仕事として、毎朝祖母が「茶」を上げ、急須に注いだお茶の残りを、朝の一番茶として「ばあちゃん」が飲む。幼少時代から私は祖母を「ばあちゃん」と呼ぶ、何でもできた祖母で、上品さばかりが他と際立った人だった。勿論「嫁姑問題」もあった。
狭いながらも建設まで済んだ自宅、完成と同時に「仏壇」を義理叔父の紹介で設置で来た。私の知る限り3回目の購入となる。どんどん小さくなる仏壇は、千葉家の衰退と私は捉えている。毎朝の父の仏壇前での「座禅」15分前後があり、「リンリン」と大きな音で、父の仏壇へ向かう朝仕事が終わる。震災前までは父が仏壇に手を合わせる事など、私は見たことがなく、天寿の全うへ一歩ずつ近づく気持ちの整理をしていると感じる。
仏壇の供えの「だんご」は墓参りの前日私が作った。供え物も前日登米町に買いに行った。道の駅で食事を取り、むかで青果・生協により、青果・生花を買い求めた。やっぱり遠く片道30分はどうしても掛かる。一日も早く「ス―パ―建設」「高台商店街の建設」を求める一人です。

仏壇への合掌は、先祖への感謝と、今がある事への周囲の人たちへの感謝があり、お世話になった千葉家の周囲の亡くなられた「御霊」に御礼です。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:19 】

2014
08/15

家族三人が一つに


福祉施設に母が入所し1年余りが経つ、5月10日に自宅の建築許可が下り、建設会社の完成予定が伸び、「早く、早く」と最速しての毎日が続き、4月17日の「引き渡し」がされた。4か月間での完成が11か月間も掛かっての自宅建設があった。しかし、まだ問題の山積しての建設業者とのやり取りが続いている。

早期住宅建設の目的は両親の生活そして送り場所の確保があった。会社の再建と自宅の建設の二つの取組の中で、借金の額はどうでもよく、とにかく家を建てる事で、大きな二つの問題を解決できた。
お盆入りの昨日、母を家に施設から連れてきた。施設での介護車での送迎はできなく、自分の車で迎えに行った。私の車は車高もあり、足踏み場に布団を敷き、そこに寝かせて自宅まで運んだ。
車椅子の生活があり勿論母の為、玄関・室内をバリアフリ―にした。少しの段差はあるものの難なく家に向かえ入れた。母は2年間住んだ敷地内の倉庫も記憶が定かではなく、自宅とて何なのかは解らないようで、私たちの説明に「あ、そう」と言葉を連発するだけだった。
対面式の台所とリビングに通し、「ム―ス系の食事を」と施設の指導もあり、私の作った桃のジュ―スを「美味しい、美味しい」と食べてくれた。食べる事の大好きな母、家に帰って来てもらっても、何も喜ぶ事をして上げられなく、まんじゅうを半分にし水を加え、これもム―ス状にして母に振る舞った。コップを口に運び一気に飲み干した。父は「そんなに急いで飲まなくても」と言う。「甘くて美味しいごだ」と笑顔で答えてくれた。
CIMG8201.jpg
母の2時間余りの帰宅、父は気を使っての車同乗に、「しばらくぶりで車に酔った」と、体調の異常を訴える。とりあえず震災後の三人の苦闘からの脱却ができた一瞬だった。皆さんからの支えの元で、何でも一人で決定し失敗の中でここまで来た。
両親は共に90歳で私も58歳となり、世間で言う「老老介護」の始まりである。住宅ロ―ン返済と機械設備のロ―ンが現在あり、金融機関の期間の72歳までの返済に努力するしかない。今から14年間に色々な事が千葉家には起こるだろう。もうどこにも頼る事は難しく、自分で解決して行くしかない、両親の手伝いも欠かせない現実として、家族助け合って生きていく。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:58 】

2014
08/14

昔の人たちへの報告


朝五時前に大雄寺の墓地にお墓参り、「一人でお墓にいくもんじゃない」と、母に言われて15年が経つかも知れない。曇りの天気で涼しい朝もやの中で、駐車場には20台ぐらいしか止まっていなかった。震災前なら朝4時前には、暗い中で墓地には多くの墓参り姿があった。墓地の中央まで、登り口まで車で行けるが、いつもはこんな車は無かった。今年は「行ける所まで車で」と、一台の姿は高齢者の方がおられる家庭と思われる。被災地で在り高齢者の家族世帯増加や、諸々の状況を察するに余る。駐車場から津波が押し寄せた、志津川の市街地の一部を眺める。何もここからは変わっていない。
CIMG8157.jpg
祖母・叔母に一年ぶりでお墓に話し掛ける。50分で少しの掃除、献花・お菓子など大きな石柱から4つの昔の墓石に供え、今年はゆっくり2度3度と合掌した。次は義理の叔母の墓地に、寂しい墓地にできるだけの供え物をあげた。次に健秀と先生にお母さんの分まで手を合わせた。お母さんは体調を崩し東京に行った。お盆で帰っているだろうか。次に消防署員で殉職した本家の芳賀保宏さんに線香を手向けた。二つ上の親戚の芳賀さん生きておられたら、今の町の姿にどんな行動を取るだろうか。次は最後の本浜町の「芳賀善」の墓地へ、ここまでが毎年の私のお盆のお墓参りだ。
今年は工場・住居と、これからの居場所を確保した、特別の気持ちでの墓参りで、1時間以上も掛けて、多くの皆さんに話し掛けた。心落ち着く14日のお盆となった。震災前はお盆に秀敏が来て飲み屋を歩き、一年間の互いの生活を話し合った。あいつとは5年も会ってはいないが、年賀状が正月に届くだけの付き合いとなった。自分達も58歳となり「来し方」「生き方」を考える時期に来ている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 16:31 】

2014
08/13

地域の再生も繋がりもバラバラの町づくり


静かな穏やかなお盆の時期を迎えた。13日~17日までの会社が休みとなり、明日のお墓詣りの準備をしている。花・お菓子・ダンゴ・線香の持ち物を作り、今年のお盆に何とか間に合った、仏壇の揚げ物やお寺からの「六地蔵」を父が飾った。この地に続くお盆の習慣を継続する事が、千葉家の最後の家督としての使命で、何としても一日でも多く千葉家の続けるプライドだけで、この志津川を生き抜いている。

十日町の旧世帯数は200戸以上あったが、現在の戸数「15戸」となった。上の山緑地避難場所の奥にある写真の所だけが残った事になる。中央にいま建築中の自宅は、津波で流失した家の方の再建と思う。100年の一度の津波が再度来たなら、地盤沈下もあり再度流出を覚悟しての建設となる。志津川市街地も10mの嵩上げ、今回の津波の3階建ての屋上までの襲来なら、市街地計画の商店街とてその被害は逃れる事はできないだろう。多くのリスクを背負い再建をしている低地部の再生計画に疑問を思う。気仙沼・仙台・石巻などは5m前後の嵩上げで、市街地の再生を目指す。「10mの嵩上げ地での再建ならこの場所で」と、言う方も少なくは無い。ベルトコンベアーで大森・沼田からの土取り盛り土なら、もう嵩上げは終わっていたかも知れない。
旧行政区は志津川市街地からの3カ所の高台移転で100世帯余りが、行政区・親戚・友人でのグループの戸建移転と言う。五日町・本浜・南町・大森地区の昔ながら地域の再生は叶わぬ夢となった。元の場所なら地域の再生はできたが、高台分離はいったい誰が決めたのだろう。議会でも都市計画でも高台分離の元の、町づくり再建へと進んでいる。
町づくりの協議会でも私が元の部分への再建なら、町づくり委員など参加の意味がない。しかし、住民の再建の一助が最大の現時点での、私ができる役目と勝手に思っている。
140812_114957.jpg
上の山公園入口は市街地の「う回路」の頂点に位置し、残り3mしか今は無く、15軒の住宅・保育所へもう回路からは行く事ができない。こんな不便な復興途上の生活が何時まで続くのだろう。苦しみ頑張った高齢者の道半ばでの逝去は、いったい誰が原因の元なのかを議論する事が必要で、「住民と議会の懇談会」が今後開催される予定と言うが、今の私では「なぜ!」との疑問ばかりで、鬱憤の消化不良になりそうだ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 14:11 】

2014
08/12

26・6の南三陸町(3)


我が家の家庭菜園は台風11号の風雨にも負けず花と実を付けている。ミニトマト・オクラ・なす等、日々収穫を楽しみにしている。日曜の8月の10日は、お盆の準備などの店が、志津川市街地の街角に立っていた。今は何もなく、登米市の登米町の被災後お世話になった「むかで屋」さんに、午後買い物に行く。

6月記事3
◇南三陸町「入谷Yes工房」制作のオクトパス君などのグッズ販売が再なる拡大をしている。商品も30種品目まで充実し、新ブランド商品「TACORON」が運気アップのグッズとして好評だ。当初3人でスタートしたが、現在は22人と多くの雇用も生んでいる。
◇南三陸署は住居侵入で町内男性(57才)を逮捕した。
◇歌津伊里前地区の市街地再生の用地測量調査設計等委託料として、7000万円を予算措置した。
◆気仙沼市で認知症高齢者が3300人いて、行方不明者はいない事を市議会の一般質問で当局が公表した。
◇南三陸町で建設予定の災害公営住宅の入居者の4割が65歳以上だったことが入居意向調査でわかった。介護事業者の入れる「福祉モール」の設置や、高齢者に配慮した災害公営住宅への福祉施設の併設を検討する事とした。
◇町内8地区の入居希望1523人のうち65歳以上が551人で全体の36.2%、志津川市街地地区は364人で35%を占める。
◇南三陸町で8月30日の1時30分から吉川精一さん(元NHKのど自慢司会)の、「吉川精一軒先のど自慢」が福興市場で開催される。
◇7月14日「(仮)南三陸病院・総合ケアセンター」着工式。現在の病院・役場向いの高台へ整備され、来年秋の完成を予定している。
◇南三陸町職員の戸倉公民館の2人も特殊公務災害に認定される。1人は地震後に水門の閉鎖を、もう1人は避難所設営の職務にあたっていた。「高い危険性があった」と認定された。
◇南三陸町の意向調査の中で、JR気仙沼線の鉄路再開を望む声が半数を占めた。また、BRTは高齢者の貴重な足と住民は評価している。
◆気仙沼で不動産詐欺未遂発生。「原野が1坪2万円」、被災住民に注意を呼び掛けている。
◇南三陸産材が茨城に!被災地の復興支援として茨城の生協13万人の「パルシステム茨城」が、日立市内に交流施設「日立運営館」の建設に南三陸産の木材を使用する。6月28日に関係者が出荷式を行った。
◇南三陸町野球協会が「甲子園目指しがんばって」と志津川高校にボールを寄贈した。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:54 】

2014
08/10

目の前にはこんな事が起こってます

台風11号の影響で、夏の甲子園が54年ぶりに2日間の延期となった。
今日の「歌津夏祭り」も昨夜からの雨で、歌津商店街広場から歌津中学校体育館に会場が変更となった。午前中には停電が2回もあった。楽天の仙台での試合も中止と言う。今、上陸したとの放送がラジオから聞こえてきた。大きな被害が無い事を願う。ヘリコプタ―のホバリングの音の響きは何故か心地よい。
140808_151541.jpg
震災前からお世話になった方がまた亡くなられた。私が高校を卒業し家業に入り営業を引き継ぎ、会社経営の収入の大きい部分を占めた。その優しい人柄は被災前に永眠した旦那さんも同じで、そして後継者へと順調に引き継がれた。震災で経営も厳しく、生活拠点は町外へとも聞いた。地元で生き先祖からの意思を継いだのに、他所でのご逝去に心からお悔やみを申し上げたい。
140808_142624.jpg
気仙沼に先週出かけた。歌津皿貝の道路沿いの開発が進んでいた。歌津の建設会社が第二の営業場所として、この地への移転・造成工事がある。伊里前川の川沿いの前事務所は津波で流失滅失した。広大な土地の確保は、歌津地区の住宅再建には欠かせなく、南三陸町の再生が掛かっている。
140806_121337.jpg
/>宮城県気仙沼合同庁舎2階に写真があった。気仙沼市の悲願だった「大島架橋」のイメ―ジ図だった。台風・低気圧などの海荒れでの定期船決行があり、陸の孤島と化す現実に、大震災後の気仙沼市民の復興への「夢」の一つである。少ない希望の光に向け、気仙沼市民が一丸となる姿がここにある気がする。
140806_155831.jpg

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 11:59 】

2014
08/08

26・6の南三陸町(2)


南三陸町と気仙沼市の町境の港地区の「防集」は、造成が済み既に平屋がここまで完成していた。一番奥に基礎があっと見えたが、とになく被災者が待ち望む土地造成が、今年度一揆に進み、住民再建の元の部分の早期造成が求められる。しかし、志津川の東地区・中央区の平成30年当初整備の、行政の発表には驚くばかりだ。

6月記事2
◇県内の高齢化率が発表され、南三陸町は30.5%で7番目となった。1番は七ヶ宿で44.6%、気仙沼市は5番目で33.1%だった。そして一人暮らしの割合も震災後上昇している。
◇宮城県警柔道・剣道大会で南三陸署は剣道の部で優勝した。職務の合間に町内の中学生への剣道指導もしている。
◇27年秋の開校を予定する戸倉小学校の建設に15億円を計上。
◇南三陸町では、災害公営住宅の屋根を民間に貸し出す。太陽光発電を導入し、民間に貸し出すことで、維持費を抑える。入谷・名足・伊里前・戸倉・枡沢の5ヶ所の活用を決定した。
◎気仙沼市の災害公営住宅は合計で2158戸を予定し、今後最長で1年遅れの住宅もある。予定では、27年10月~28年3月から10月を入居予定し、最も遅いものでは気仙沼駅前で29年5月としている。

◆志津川市街地防災集団移転事業アンケートまとまる。
 土地希望の半数以上が購入を希望した。購入197世帯(56.2%)借地は153世帯(43.7%)の意向を示した。
 ・移転意向は東154 中央135 西70の合計が359世帯。
 ・旧行政区・親族・友人などグループ入居希望が3団地103世帯あった。
 ・100坪希望が271世帯(77.2%)、70~90坪が53世帯(15%)。
 ・店舗付住宅希望が62世帯(18%)で、飲食店・菓子店・理容店・事務所などがあった。
 ・地価は坪あたり 東が約5.6万~6.3万円で借地が66~74円
          中央が約5.3万~6.0万円で借地が62~70円
          西が約5万~5.6万円で借地が58~66円

◇町内の応急仮設2ヶ所14戸を8月に解体へ。
◇南三陸町まちづくり条例制定へ。毎月11日を「安全安心の日」に。
◇南三陸町八幡川右岸の復興祈念公園の整備について、規模が大き過ぎるとの国の判断で採択が得られず24haからの縮小を求められている。縮小なる事で、土地の買い上げから外れる地権者もでてくる。地権者は150人~200人にのぼる。
◎気仙沼市への復興交付金が示された。水産加工に満額101億円と向洋高校遺構調査に4千万円が認められたが、防災公園の一部が認められなかった。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:06 】

2014
08/07

こんな町は志津川じゃない


現在の市街地の形成は「志津川じゃない!」と言われた。町づくれ協議会の商工再生部会の傍聴時には、「戦略的な町づくりが必要」と、町民の考えもさまざまで、行政は多くの意見を集約し、最善の町民の意見の達成が求められる。しかし、私は一個人の思惑が強すぎると、常々感じるが個人的な考えでしかない。

8月3日記載
私が30年前に住んでいた地区は「旭ヶ丘団地」だった。今日、用事で旭が丘に行くと「七夕」の時節とあり、地区の集会場で七夕の飾りつけがされ、子供達や住民が集まっていた。震災後も被災者の救護や被災者支援に、地区民が活動をしていて、私も個人活動として登米市から物資の買い出し支援をした。地区のコミュニティー活動が、震災後も盛んに行われている地域でもある。

今日、地区配布があり町広報・議会広報・各種イベント開催のチラシがポスト入った。「石川さゆりコンサト」のチラシがあり、私も行きたいと思うのだから、川中みゆき同様間違いなく整理券は、朝5時前から行列ができるだろう。その他に町民への生活・住宅意向のアンケートの調査書が入っていた。結果は行政が落胆する事となるだろう。

地元紙には入谷・名足の災害公営住宅の完成式が2日に開催された。それに伴い各地区の災害公営住宅の建設完了の予定が掲載されていた。続く内容に驚くべき現実の記事にあった。災害公営住宅の今後に、歌津・枡沢が来年3月、戸倉・伊里前が28年当初、志津川西が29年度当初、志津川東・中央に至っては30年当初が入居予定と言う。「28年度には全てが入居」と言う、当初の行政の方向は発信は何だったのか。建設の大変は皆がわかっている。なせ、被災者が早く入居できる対策を講じないのか。人口減少も仮設での入居期間延長により、戸建も災害住宅も時間が掛り、人口減少の増加も判っていた。なにも出来ない行政があるが、南三陸町は女川町よりも町に土地はある。ホテル観洋の国道45号の向かいの、「黒崎テニスコート」「災害ヘリポート」の場所は、直ぐに使える状況にある。入谷もあるが高台移転への住民の場所として、直ぐに造成ができるのに、なぜなのかと行政に問うも、住民の希望が無いからと言う。この場所を移転の候補地に示さないのに、住民の選択もない。町の土地である。「ひころの里」「旧林際小」なども、町復旧の前の一時期の生活地として、活用はできなかったのか不思議だ。政治の利権でもあるのだろうか。

志津川東・中央が30年度当初との予定に、被災住民の生活苦が、行政の政策決定のトップと、関わる職員には危機感が薄いようだ。行政職員からもトップへの提案や反発がない事に、「なぜ?」と町民はこんな意識を持つ。

8月4日記載
九州・四国地方に500ミリ以上の連続降雨による、家の浸水やがけ崩れなど多くの被害が発生した。今年の日本の被害は「バックビルデイング現象」によるものと、被害が発生するごとに伝えられる。自然災害からの人間の被害対策は「避難」するしかない。まして河川域はどんな状況になるか、自然災害の予想は人間には無理という事が解った。
今、朝鮮半島へゆっくり進む台風と、太平洋高気圧の張り出しが弱い事が原因と言う。台風の時計逆回り、高気圧は時計回りで、双方の海水を巻き上げ日本列島に、その間が四国に在り、長時間の豪雨による被害をもたらした。黄色や赤の降雨予想図にはゲリラ豪雨の降雨域が、連続して四国に発生し被害がでた。
先週の仙台での10分間に「9.1ミリ」は、大都会の排水力を越え、道路に溢れていた。山地の給水力も超えるとがけ崩れとなり、少しの油断が個人的にも大被害となる。

最悪の状態の連鎖は大被害となる。被災地でも間違った計画の、改善変更・対策対応など最良の判断力が求められ、それを疎かにすると、将来へ大きなツケが回る事となる。今、進めている計画は後戻りができないかも知れないが、少し計画改善する勇気も必要だ。町民の意向調査の希望減少や、ショッピングモール・福祉モール・病院縮小・役場建設の見直しなど、初来への子供たちにツケの後回しとなる。復興交付金での復興・復旧は予算がでるが、箱物の維持管理費は町の財政から支出となる。

町で生きていく上で、天災・人災の回避を本気で考えていきたい。私の生きていく行動力は正義感でしかない。

8月5日記載
歌津港の防災集団移転場所に、もう平屋の形ができていた。どの坊集もだが土地さえあれば被災者の再建は始まる。知人も来年に土地が確保でき、昨年の内にハウスメーカーとの建設契約を締結させ、土地造成で直ぐに工事が始められると言う。昨年の契約だと資材も当時の値段でイイと言う。
昨日はグループ補助で建設を進める知人と会い、情報収集のため少し飲んだ。その建設費の高騰の話しを聞き、自宅の建設費位の上乗せに驚いた。国の補助事業は資材の高騰分も考慮すると言う。被災地の事業再建への国庫の支援は安心と言う。明日は私のグループの代表として、気仙沼に説明を聞きに行く。「4分の3グループ12次募集」の個別の説明会である。

驚くべき高台移転の予定があり、町民も更なる不安と言う。志津川西が29年、東・中央が30年の完成引き渡しの町の情報、伊里前・戸倉の28年を早期になのか? 大きな工事区が多くの時間必要となったのか。志津川地区は2割の移転希望の減少があり、完成期の遅れの説明が当初から想定されての、2年の遅れの意味と住民の反応が気がかりだ。

25年の独自支援の実施状況が報告された。利子補給の申請が224件で、2割が町外で50世帯弱が移転し、そのうち37件が登米市だった。私も昨日に金利補助の内定は25年だったので、この数字に入っている。しかし、建設からローンの土地と建物の抵当権設定の終了が先週で、その後での「建物登記」の取得があり、昨日に補助金申請を済ませ、補給は1か月ぐらい掛かると知人から聞いた。ローンでの建物保険が30万、抵当権設定費が28万と、更なる支出に蓄財の枯渇がある。残ったのは自分の保険の預け金だけとなった。
被災者の住宅再建とて建設費の高騰で、建設計画はいくら補助金があっても、厳しいこれからがあり、その現実の大変さを思う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:17 】

2014
08/06

26.・6の南三陸町(1)


一か月だけの南三陸町の動きなのに、住民生活状況の衰退がまちがいなく進む。反面、町の異常なまでの激変に、私は違和感と将来の町への不安だけが増す。

☆ 歌津皿貝の国道45号で、ボランティアの男性(51才)が交通事故で死亡。被災後南三陸町に入り、伊里前地区で商店・子供たちの支援をおこなっていた(5月31日)
☆ 被災企業の成長戦略を考える「未来創造フォーラム」が開催され、気仙沼市南三陸町の関係者120人が集まった。
☆(気仙沼)心一つに市民運動会(階上)
☆ 「南三陸おらほの酒づくり」では新米プロジェクトを、戸倉寺浜の休耕田を活用し、地域おこしとして若手が田植えをおこなった。
★ 南三陸町25年度独自支援実施状況がまとまった。利子補給などの交付決定が224件で登米市などの町外での自主再建などが2割に上った。隣接の登米市には37世帯となり、50件余りが新たな生活地を南三陸町の外に選んだ。
☆ 戸倉の生コンプラント供用開始が2カ月遅れ、6月中旬に。
☆ 入谷に「いきがいサポートセンター(仮称)」建設へ。高齢者の雇用や交流拠点として建設される。NPO法人の資金の補助6千万円を掛け、入谷地区の建築業者を中心に進められる。
☆ 入谷で炭焼き小屋の昼火事発生(5日)
☆ 志高登校坂下に仮設運動場が完成。志津川市街地の区画整備事業の飛島JVが「健康づくりの場として」と3千㎡を整地した。来年から嵩上げが始まるので、今年限りの使用となる。
☆ 「クマ目撃」。戸倉合羽沢地区内で、国道398号をクマが横断しているのを新聞配達者が見つけた(7日)
☆ 気仙沼市5月末の人口と世帯数…人口67,889人(-29人)世帯数25,976(+14)
  南三陸町6月末の人口と世帯数…人口14,370人(-71人)世帯数4,692(-30)
☆ 入札不調が資材・労働費の高騰があり、その回避へ新方式で効果が上がっている。資材高騰の一部を町が負担する。県の基準に基づく。
☆ 気仙沼市の新市立病院が29年11月開院へ。事業費は35億円増となり総額245億円となった。増額分は市の起債で対応する。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:43 】

2014
08/03

ここは私が住んできた志津川じゃない


7月31日記載
志津川市街地のう回路ができた。10mの嵩上げで上の山を包み込むように、駅前経由で十日町の新井田川に架かる橋に続く。これは国交省管轄で県国道河川事務所で、復旧が成される。

志津川小前を通るう回路はできなかったのだろうか。新井田から入谷へ、戸倉へと抜ける避難道路と、う回路の併用できなかったのか。この「う回路」は河川堤防や市街地の嵩上げで、また壊される無駄のような気がする。なんでこんなに無駄な工事を国で計画するのか。小学校前の道路の確保で、通学の面でも大分楽に時間の短縮となるのに。
また、八幡川の国道45号の橋も通行止めとなり、「ちがや」前の旧町のメインの交差点が通行できなくなった。海岸線の橋を通り志津川の市場へ通じ、「はまゆり大橋」を通り商工団地を通過し、国道45号に抜ける。大森の高台の数軒へ通じる道路が、新しく建設されていた。
市街地の再建は時間との競争だ。市街地の商店街形成と、中小基盤機構の仮設商店街の移転があり、一日も早い「町開き」をと行政は言う。住民の高台の生活よりも、商店の観光の維持が先のようだ。

8月1日記載
一昨日は石巻日赤、昨日は仙台大学病院と、病院通いが続いた。町での診療体制では対応できない診察と治療だからだ。来年10月に「南三陸病院」としてオプンするが、先生の確保は元より、町民の減少で病院の維持費が拡大し、その負担の町からの支出は、税収減の中で対策は講じられているのだろうか。町からの持ち出しをしないような、病院単独での会計で、マイナスの生じない経営に取り組むべきと思うし、一会社として当然の事だろう。市場調査は元より想定の甘い経営体制では、立派な建物を建てたと言う結果だけで、長続きはいばらの道と言える。箱物倒産・破たん自治体とそのツケは町民へと向かう。被災地だから、町民の命を守るためと言っているか、町民の皆さんにはしっかり町の再建実態を考えて欲しい。

政権では高1少女の猟奇的な事件が発生し、また、31歳の男性の鬼畜的な連続殺人事件となりそうだ。事件となる前の警鐘・予兆はあったのに、それを見つけられない事実ばかりがある。
家族がその子供たちの理不尽な死に、「なぜ?」と父は良い、心の整理がつかないと話す。犯人が見つかっても最愛の家族は戻ってこない事への悲しみがある。テレビ報道を見ていると、大震災のまだ若い職員の父の姿を今も思い出す。復興復旧が進んでも、町民の大震災はまだ続いている。

8月2日記載
圏内に発令される「竜巻注意報」があり、出先での対応に苦慮している。
仙台で突然の雷と豪雨があり、この雲が北東に移動し石巻地域に「竜巻注意報」が発令された。テレビでの想像を絶する自然災害を毎日のように目にし、父親ひとりを自宅に置き、窓閉めを伝える為に電話するも、呼び出しても連絡が取れなかった。近くで働く姪に電話し「伝言」を頼のんだ。「窓閉め」と「電話連絡」だ、確認の電話が来ない! 次にエアコン故障で修理業者の訪問があり、業者に連絡した。まだ、心配なので後輩に「雷雨じゃないの」の連絡、「降ってないです」と答えが返ってくる。その後に自宅まで父を訪ねてくれた。心配と不安の交差する出張だった。

昨日も戸倉荒町の掃除に行くと、「ピカ・ゴロゴロ」と空が一揆に暗くなった。また、「豪雨が来る」と察知し掃除を止めて自宅へ、戸倉で「ザァーザー」と降り始めた。二階の窓を3分開けていただけだが、家の二階の廊下と出窓は水浸し、「ゲリラ豪雨」の制裁を受けた。用心するに越した事は無い事を実感した。毎日の猛暑から部屋に風を入れる為ながら、家を空ける場合は「年老いた父親頼み」を今回の事件で断念した。

天災への判断は自己での「自助」でしかない事を地でいった事件だった。津波注意報でも避難勧告が出ても逃げない現実があり、「震度4では大きな津波は来ない」と、津波体験者は知っている。行政のマニアル通りの防災警報に私は疑問を持っている。

世界的な異常気象は二酸化炭素の世界的な排出により、「オゾン層破壊」が影響している。赤道上の「エルニーニョ」があり、北極ジェット気流の蛇行など、国内・世界的な異常気象が現れている。
町の土地の造成・嵩上げを山土の赤土があり、雨での流出が志津川湾にもたらす影響を懸念している。「町の復旧復興にはしょうがない」が行政にはある。自然を活用した町再建もあると私は今も模索する。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:57 】

2014
08/02

志津川町の良き風景と歴史が無くなる


7月28日記載
私が主張してきたことは間違っていたのか?
行政トップや全ての職員の報酬を10%のカットで、生活弱者への被災地支援に充てる。決してパフォーマンスではなく、今、町を出るか残るかの境目で悩む方も多くいる。この町の政策に共感し、町で生き抜く事の気持ちを持ってもらう。「もう少し頑張って、南三陸町で早期の再建を、共に誓い合いましょう」と、行政が発信すれば、綺麗ごとというかも知れないが、住民は優しく、行政も町民と共にある。こんな気持ちになれば、あの素晴らしい町の再建ができる。

報酬カットの資金を被災弱者へは、今回「安倍首相の政策」の、国家公務員の退職金・報酬見直し、総人件費抑制を言い、5年間で10%をめざし合理化を図る。社会保障の資金確保・高齢化による医療増加など、これからの国民生活への資金確保がある。国のタブーな面への、政府の介入に期待したい。
企業の報酬が「三本の矢」で増加が続き動いている。大企業の報酬が公務員給与の基準となっている中で、今の現状での報酬カットへの公務員の理解は難しいが、将来の国民生活の安定を図る為への担保とて考えている。

復興交付金での税収不足の補てんで、行政の給与報酬に回している。町の仮設病院の3億円は、新病院の建設で解体される。その他にも役場・図書館など、10億を超える義援金・支援金が、施設の解体で無駄となる。
復興への資金は「国民の血税」で無駄にはできない事、将来の町の為に健全財政の実現を今から進めないといけない。被災地で町再建の交付金は国からくるが、もっと被災町民の為の財源を確保すべきで、町への義援金もまだあるようだ。「この町で死にたい」、こんな微かな願いに行政は答える為にも、職員の20%報酬カットは実施して欲しい。「私たちも苦しいんです」と言う職員もいた。もっと苦しい被災町民は、仕事も見つからない・高齢者の介護など、少しでも生活者を癒す経費の捻出をすべきと思う。「頑張る人を応援する」との、被災前のトップの言葉は、こんな被災した環境でも行政トップ・副トップのあるようだ。商工出身と行政職員出身の、新しい町づくりへの考えの弊害に、町民は気づくべきながら、従来の地方選挙がまかり通っている。他の市町村に学ぼう。

7月29日記載
気仙沼の岩井崎で、天皇陛下が御出でになった時に、私の高校時代の物理の恩師が、三陸海岸の「ジオパーク」の説明をしていた。
写真は人口海水浴場の「サンオーレ袖浜」で、観光の場所として復旧復興をなぜ早期に進めないのか疑問だ。危険だからがあるが、砂浜は何とか残ったし、岩場とて活用のしかたで何とかなる。石段も残り少しの整備と、観光客の海水浴場として環境の整備をすれば、志津川に残った若い家族連れも、子供と触れ合う場所として、格好の場所と私はおもう。南三陸町にはこんなにも良い自然がある。これを利用しない訳が判らない。

受け皿が整っていないもある。「民宿整備」に町は進んで取り組んでいない為に、志津川の民宿の再建は1軒だけにとどまっている。何でといえば、商店への来客の減少をさせたくないがある。民宿での料理の、うには勿論、他にもホヤ・ホタテ・カキなど、安価でたらふくに食べられるのに、商店街への町独特の配慮が、我が町の被災地の行政がある。来町者は高い高いと私に言うが、復興観光支援で苦情は言わず、美味しいと食べて帰る。

町には今日も平日と言うのに観光客がいっぱい来ている。週末となれば夏休み期間は、普通の10倍20倍の人出となり、売り上げも比例する。
住宅再建が後回しの被災地の復興の在り方は絶対間違っている。災害公営住宅希望は「個別面談」があるだけで、その以上なんの進展もなく、不安だけが募っていくと入居希望者は言う。私は現在の復興の進め方は、人が町から出て行く事へ、何の対策も配慮も無しに進んでいる。

仲間も登米市に親の介護の為に家を建てた。登米市の布施市長からの弔電は実に良かった。町からはいつもと同じ内容で、心遣いの足りない言葉に落胆かる。なんども聞きなれているせいで、そう感じるのかも知れない。南三陸町に帰って来れずに亡くなられた町民への、謝罪の一筋でも良いから挿入すればいいのにと思う。登米市への移転を余儀なくされた住民も、南三陸町の暖かさを再確認し、ふるさとへのありがたさと感謝の気持ちが心に残るのに、多くの配慮に欠ける行政と思う。県知事からの弔電が届いたが、内容も一味違っていた。

7月30日記載
半月前は棟上げの途中だった平磯の造成地は。その向こうには新しく足場が組まれ、手前では基礎工事の準備が進んでいた。
「自己再建」が土地を求め進む中で、町の団地と呼ばれる造成区域は、28年度の完了として進められている。「土地さえあればすぐ建てたい」と、多くの住民は口々に言っている。しかし、復興計画の中でその計画への時間の短縮は、今の行政の体制では無理のようだ。
2年の仮設住宅の土地の提供があり3年目を過ぎた。今後の土地確保から住宅建設まで、町の上層部の方の言葉に、造成2年、建築繁忙期時には2年3年と待たされる。こんな将来の状況から、土地が取得できれば、一日も早く住宅建設へと動く。住民の方が行政より迅速行動を取っている。

現在、仮設住宅の土地の提供者が、「土地返却」を求めている。何故なら仮設の必要性がまだ4・5年が必要とされる。土地の提供者もここまで待てないからの、行政への返却を求めての事だろう。
阪神淡路は最長7年だったと思う。東日本大震災は当初から10年・15年と言われ続けている。「時間を掛けてじっくり整備」、果たしてこれでいいのだろうか。2~3日前、志津川地区中央の小学校裏あたりに、ヘリのホバリングが2日間続いた。造成地の写真撮影と思っていたら、工事現場への資材運びだった。

震災から3年が過ぎ、工場・住宅建設移転が終わり、細々と仕事をしなから町の変化を見続けたい。中央区の居住希望者の、まちづくりの議論が始まったと、三陸新報は伝えていた。私にも昨日「志津川地区まちづくり協議会輝くみらいづくり部会」の委任状が届いた。高台の移転の議論の中枢への参加が私にはできない。私たちの提言がどこまで町づくりに生かされるか、今でも疑問がある。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:05 】


TOP