ARCHIVE - 2014年01月

2014
01/31

人命救助


「人命救助」で町内の造船業の社長他2名が表彰された。
昨年12月30日新井田川河口で、歌津の釣り人が川に落ち助けを求めていた。河口隣にある造船所社長の千葉さんと、居合わせた人たちが救助をしたと言う。
自然の再生力の大きさは、漁業再生が加速している事でもわかるだろう。志津川地区には3河川があり、その中でも釣り場として行きやすく、魚もいるとみられる写真の場所は、穴場とも思われる。
河口に向かって右は津波で破壊され冠水し、左側はバリケードがあり、立ち入りを禁止している。志津川の海岸は被災し復旧工事が進み、総てで工事の大型車両が多数行き来している。今年に入り志津川市街地の嵩上げが本格化となり、危険な環境が至る所にある。
震災後の翌年のワカメの高騰と、被災地の水産品支援で、高値でも若布が大量に来町者に求められ、県外でも被災地支援として、多くの団体が販売支援で活動してくれた。
今年は震災後のワカメが冷凍庫にダブつき、市場で浜で養殖ワカメに買手がないと言う噂を聞く。これが今後の被災地の実情で、復興工事の「特需」も残り5年がピークとなる。平成30年になると住宅建設の本格化となり、地元の限られた工務店での建築では間に合わず、大手のハウスメーカーが参入してくる。
平成31年には私も62歳となる。のんびり生きられているか、今からその時を思う。
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2014
01/30

入谷地区は第二の一時的な復興拠点


写真は五日町の八幡川の川沿いにあった「さとみ」さんです。平成25年末に入谷桜沢の国道389沿いに新築された。私たちの仲間の会「31会」でも、ゴルフ大会などの納会で良く使わせてもらった。ご主人の「孝志」さんも31会に参加され、大騒ぎした被災前が懐かしい。今は息子さんが商売をしている。
この街道沿いには、ローソン・製造会社・床屋・食堂、そして今回は地元の「松野や」が出来た。林際にはすがわら蕎麦屋ができ、大学の施設として「入谷ど」や、入谷デイサービスセンター」もあり、JA南三陸「葬祭部」もある。南三陸町での第二の拠点となっている。私が被災後第二の町の場所として、同僚たちにこの場所での一時な町再建をと言ったのに。その時は何の動きもなかった。そして今、現在欠かせない場所としてある。入谷の災害公営住宅は26年7月の入居を予定する。戸建は3DKが7戸・4DKが2戸で、集合住宅は2K9戸・2DK18戸・3DKが15戸で、合計51戸が建設される。
今日役場へ見積書を持っていくと、臨時議会があった。臨時議会の開催を何で知ればいいのか今は解らなく、以前は私がブログで開催を告知していた。30分位窓口のテレビで傍聴をした。津波防災拠点事業の3地区の土地取得があり、地権者として志津川の「土地持ち」と言われる方々が、東地区の西の土地の場所を数千万で、中央区の高台連絡道路の土地を1千万を超える買取価格があった。5000㎡以上の買取が議会に掛けられていた。土地の取得により買取の収入は、取得特例処置として諸々の経費を除き、5000万以上の収入となる場合に所得税の対象となる。何も無ければただの山の土地だが、この場所が高台移転の候補地となり、ここに多くの予算が使われる。私も含めこんなに震災復興で町に土地支援はできない。再建資金の確保も難しい中にある。
私の議会傍聴での感じた事は、新人としての小野寺氏、元職の今野氏の議案に対する質問が、傍聴2回とも二人だった。あとは現職の三浦氏だった。窓口での今日の傍聴では、一緒に見ていた方が「課税額を聞いたの」とか「町民税務課長は何処の人」と聞かれた。一応しっかりと答えて差し上げた。

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2014
01/29

町の復興


商工団地に「仙台銀行」も今月に再開店した。震災当時銀行の金庫から3000万円が盗まれた事があった。津山の柳津の支店が志津川の顧客の受け皿となり、それから2年10か月余りで志津川の営業が開始した事になる。
商工団地の国道45号の交差点には、「気仙沼信金」がある。77銀行が一番初めに再開し、これで全ての金融機関が町に再建した。27年29年の志津川地区の土地の造成に合わせ、銀行からの「住宅ローン」の借り入れができる環境が整った。
写真は気仙沼信金から渡辺海苔店の第二工場脇に、鉄骨の建物が建設されていた。震災後には商工団地内の大型工場建設があった。カネキ商店が2工場・山内魚店・ホテル・共同冷凍工場があり、そして今回の渡辺海苔店の脇である。グループ事業での再建は南三陸町の浜浜で見られるが、商工団地内の工場は本格的で大きな建物である。高台なので津波の心配はないので、思い切った建築ができる。
昨日は私と同じ家庭環境で頑張っている方を、アルバイトとして一日働いてもらった。5千円ちょっとの報酬ながら喜んでくれた。なかなか働く場が無いと今後の不安を話す。私も贅沢はせずに自分が納得できる生活をしたい。生活環境の節約は、予定どおりの建築が進まず、伸びいてる2か月があり、今後の先行きは不透明だ。毎月7万5千円の余計な出費が続いている。。
地元の安心できる顔の見える工務店さんによる、住宅建設の再建を進めたい。

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2014
01/28

罪は誰にあるのだろうか


かぐや姫物語には「罪と罰」があると言う。色んな見方があるが、育ての父と母を置き月に行った事が罪で、その記憶を消された事が罰だったと、私はその一つと思う。知らず知らずの内に罪を起こして、その代償としての罰は自分の身に大きく強く影響してくる。
被災地の皆さんの為に取り組んだ、安価な住宅建設会社との係わりは、NPO団体二つとの係わりを持ち、実現せぬままに自分の被害のうち終わった。そして今、住宅建設は東海地方の会社との震災後の係わりから、材料の確保が順調と言う利点、大工の工賃価格の高騰を解消など、今後住宅再建となる事の問題解決が図れるとして、取り組んだ私の町づくりの一つだったのに、その事が私・家族の大きな問題となりつつある。
どこまで人を信じればよいのか。人を見る目がないのか、相手が巧妙なのか、多くの人間の打算がこうした問題を作ってしまうのか。
朝、父が「建設会社倒産したんでないのか」と言い始めた。互いの心配と心労がピークにも来ている。地元の業者を使って下さいとの建設会社への申し入れも、周囲への迷惑を掛けてしまっている事を申し訳ない。何とかそうならないように、建設会社に強く言ってはいるが、今後が心配であり、父親も言う。
震災の多くの諸問題を抱え、父には体の事だけを考えて欲しいと今日も話した。

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2014
01/27

志津川を離れてホッと


「海花・東日本復興の会」の二周年大会に行ってきた。発足当時からある知人を介して会に参加している。二年前は東松島市の方や岩手に入ったボランティアの人たちが、当時の被災地の現状報告があり、私も南三陸町の現状を伝えた。
この回の二周年大会は200名を超える方々に、県会議員や市議会議員そして関係者が20名以上も来賓で出席されていた。副会長の挨拶に元気をもらい、講演では「閖上朝市」の組合長が立ち、昨年暮れに全国からの支援により再建し、多くの来場者に感謝しかないと話した。カナダよりの突然の1億を超える支援金に驚いたと言う。今後は支援金は「もういいです」と話し、今までのように営業で商売競争に勝っていなかいといけない、と通常に戻る事が大切と話す。震災の沿岸の支援による商店街は、総てが営業不振や閉店に追い込まれている。誰かが経営に資金支援からはもう終わりにして、自力で生きていく事の必要性を訴えていた。最後に「とにかく来てください」と話を結んだ。
心意気を被災地の商店主ならず、発揮しないといけない時期に来ている。
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県会議員の今野会長が宮城県の震災復興の現状を話してくれた。1時間にも及ぶ話は、震災直後の米国の「友だち作戦」から「自己の体調」「復興報告まで」、延々と聴き続けても飽きる事ない内容だった。
空母「ロナルド・レーガン」には、上陸艇4隻など18隻が搭載され、震災時に東日本震災で活躍した事や、4600人が乗船し1万1千食を毎日作っている。勿論病院等通常の生活ができる全てが整っている。そんな大型船を東松島に固定し、裏戸諸島の周辺を2020年の「海洋博覧会」の場所としてアピールする。そして海の素晴らしさの発信を宮城からしようと言う構想である。
また、震災時の救急車不足に「徳洲会」が支援をくれたと言う。今、問題になっている団体ながら、南三陸町にも徳洲会の服に身を包み、医療活動をしていた人たちがいた。徳洲会は被災した地区に救急車18台を支援し、そのうち5台が南三陸町に配備された。一番不足したのは「酸素マスク」で、津波による海水を飲み込んだせいで、肺が弱まった事への対処のマスクだった。会長は自ら言う糖尿病であると、透析患者の震災による透析治療が出来なく、近隣の市や県に患者が搬送された。自分は「腎臓移植」を済ませていたので、免疫抑制剤が無くて大変だったと話す。
県の問題として、「医師不足」「人口流出」を第一に上げる。それに対する対策を講じていると話す。県内に医大を一校新設への動き、住宅の早期確保を上げた。
外に出て色々な話に触れると、今起こっている我が町の現状に「やっぱり違う」と感じる。「みんなで一緒にやりましょう」が、第一声として森副会長が声高に来場者に語られた。こんなリーダーの出現を期待する。昨年この会の事を行政の担当部署に話しに言ったら、今は無理ですと話しを聞こうともしなかった。あらゆる復興への取り組む「種まき」をしていく必要を感じる。行政にとって私も「眼の上のたんこぶ」なのかもしれない。

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2014
01/26

汚いよごれた町


天気が良い日でも「PM2.5」のように「白くかすむ町」を見る。大型トラックが山からの土を運び、道路もトラックで削られ小さな土誇りが舞い、少しの雨・雪でも道路はドロドロ、復興に向かう今のこの状況は仕方がない。
今日は志津川で「復興市」が開催され、「寒鱈まつり」がベイサイドアリーナの駐車場でもようされる。昨日夜5時にトレーニングジムに行った、駐車場には多くのテント準備が成されていた。
今日は仙台の「海花・東日本復興の会」の設立二周年大会に行ってみる。車は勿論ドロだらけであり、窓まで泥が跳ねあがり、仙台に行くのには格好が悪い。被災地の人間この辺はご容赦いただきたい。
昨日は仕事も何もしないで、進んで家にいた。色んな事を家からの電話で解決しようと取り組むも、父の忠告や「先走りの行動」で、2度3度の口げんかとなる。「静かに生きたい」が被災後の自分の生き方ながら、そうはならない私の環境である。
一時間も二人でいる事に生き詰まった。その行動としてジムでの30分のウォーカーとなった。逃げ出したいが、必ず帰り今の状況と戦う。

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2014
01/25

スペシャルお好み焼 美味い


今日のお昼は「田中前」のお好み焼きです。先輩の店で津波で店は流出し、今は「さんさん商店街」の志津川御前下で、三陸産品の丼も好評で、豪華にアワビが1個載っている丼は、来客も驚きだ。
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奥さんの小手返しは震災3年目を迎えるが見事である。鉄板には6枚を同時に焼き上げていた。ぜひ南三陸町志津川に来たらさんさん商店街の「田中前」さんに回って欲しい。丼やお好み焼き・大判焼きもあり、寒い被災地で身体を温めて欲しい。

志津川市街地の商店の立ち退きが、県・国の嵩上げ事業で商店に打診されている。営業する場所が無く被災地で今も5店が営業している。国道の「う回路の整備」が始まる事で、2月までに移転してほしいと言われた店が困っていた。「何とかして下さい」の声に、私の今の力は余りにも小さすぎる。

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2014
01/24

新たな名所へ


入谷鏡石の国道398号沿いに大きな看板が立っていた。
一昨日のテレビで見たことのある笑顔が溢れていた。建前での多くの人たちとの祈念写真に驚き、こんなにも多くの地域民・ボランティアの皆さんに支援されている。と感動と羨ましさを思う。
志津川物産組合が被災前にあり仙台市民広場で、地元から10店前後が仙台市民広場で、南三陸町の物産品を販売し好評を得ていた。テレビでは「癌公表」もし、医師より余命は限られるとも言われ、その状況で対面販売の大好きな仕事を続けていた。
震災時は志津川病院に入院中で、津波の時は病院入浴中で、パジャマ姿の中で命からがら屋上に避難し、雪の寒いあの一夜となった。お父さんはこの時の津波により病院で亡くなられた、とも話していた。
仙台の病院に転医を余儀なくされが、ここで死ぬのは嫌だと、志津川での仕事の継続を選択した。志津川中学校での「復興市」がそのスタートで、多くの被災地支援者・ベランティアの応援の声に救われた、感謝したいと言う。病気も落ち着き、御礼の気持ちを伝える為に、自分の店「松野や」をオープンした。
先週末の事で支援者がお花を届けてくれる。「嬉しくて涙がでる」と言う。ワンコインで定食が食べられる。自家製の野菜でご飯は食べ放題?と言う。南三陸の産品をつかった「そば」「まぜご飯」は量も盛りだくさんで、お客さんは大満足と話す。オープン時には藻くずガニをサービスで、感謝の気持ちを振る舞っていた。
松野さん無理しないでと言いたい。物産組合の仲間の水原さんも54歳で、復興半ばで亡くなられている。松野さんは「御主人に何かを残したい」と最後に話していた。近日中に食べに行きたい。

昨日同級生が突然電話をくれた「3年ぶり」だ。被災前にあったきりで、勿論家は流された。「何か仕事ないか」だった。私は思う「俺たちは資格を持っていないと何もできない」と、40年間一つの仕事をしてきた私たちには、続けた仕事で生きるしかできない。
朝、26日間入院していた先輩が来た。自分の身体を過信し、集中治療室で一週間、生と死の狭間を体験したと言う。被災地の復旧の仕事に2年半も走り続けた。「少し休んで下さい」に来月3日から働きますと言う。じーと家になんか居られないと話す。
私もそうだが、私は「甘ちゃん」である。

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2014
01/23

被災住民にあった福祉施設環境の整備を


二つの老人ホーム(介護施設)が現在町にあり、町の民間の老人施設がいま建設中である。その一つに私の母が入所している。
先週入所先で異変が見られ、ホームの関連・所在病院としての岩手県大州市前沢で、検査入院をしている。高速道路を金成から利用すると1時間40分では行けるが、高速料金など高齢化世帯にとっては、その負担や病院へ行く手段に頭を悩ませる。
施設の方に問いかけるも緊急は地元でしますが、今のところは系列病院での入院となります、とのことだった。行政が引っ張ってきた介護施設、こうした住民サイドに立って改善できないものかと思っている。多くの町の優遇処置により建設となっているのにとも思うが。
税金も町に入っているのか? 病院が赤字というのに、町の支援で建設された「老人介護施設」の、町への病院の入院患者を受け入れることもできない。果たして町の介護施設の在り方と進め方に、建設を推し進めたトップに改善をお願いしたい。
今度できる地元有志による「慈恵圓」の再開設が夏とも言われ、南三陸病院(改称)を基本入院病院とする。現在、入所申込・従業員を募集している。
先週末で宮城県内の「ガレキ処理施設」が全ての操業を終え、その労働者の行先が問題となっている。町のつなぎ雇用に次年度も予算が付いたものの、受け皿となる働き場所はない。又、労働賃金が高かったせいもあり、地元での事業所での「12万円」前後での雇用には、すぐには雇用はならない気がする。
いつのまにか私も58歳を迎え、我が家の平均年齢は「75歳」と後期高齢者レベルである。母が今は施設に住所を置いている。こどもがいないが他の仲間の話では、子ども達の「働く場を町外で」という家庭が多くを占め、高齢化社会の加速の歯止めは、行政の政策にかかっている。

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2014
01/22

判らない事ばかり


1月21日午後7時から役場会議室において、平成25年度南三陸町体育協会第2回理事会が開催され、会長・各理事・事務局を合わせて13名が参加した。
25年度の事業報告がなされ、26年度の事業計画・総会開催について協議された。また、白石市体協を通して長野県上田市より南三陸町体育協会への、震災後2回に渡る寄付金150万円の使用についての協議なされた。上田市は30団体を超える参加団体があり、昨年7月に高橋会長をはじめとする5名が、「ご支援のお礼」にうかがい、上田市長ほか関係者の歓迎を受けた。その後11月に入り上田副市長ほか6名が再度来町され、新たに募金活動で集まった支援金を届けてくれた。
協議の中で150万円の使い道として、南三陸町と上田市との体協団体のスポーツ交流として、上田市を訪れる提案や、上田市の小学校の志津川小への「寄せ書き」が贈られた経緯もあり、スポーツ少年団・指導者の各種大会交流をしてはなど、今後の方向性は事務局・三役での協議する事で会議を終えた。上田市との震災を通した本町との交流を、今後に伝え残す事業の在り方を模索していく。
被災地の体育協会の活動環境整備には、まだ時間がかかる中で、各団体は限られた施設を活用し会員間の交流を深め、協会の継続に努めている。

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2014
01/20

国の官僚のような特権の職員


こないだ国に従事する公職の方の年間報酬があり、一番は最高裁長官で次に内閣総理大臣で、衆参議長よりも一部の省庁の事務次官などの官僚が報酬が高かった。
被災し町民の仕事が無い中で、町職員は復興交付金から報酬として、被災後当たり前のように安定した報酬を受けている。私は「報酬カットし被災者に回す事はできないのか」との質問に、町長は「職員は不眠不休で頑張っている」「できない」と言ったことを私は今も忘れない。全国の企業の年間報酬が、地方公務員の給料算定の基本にあると言う。
町民の方が言っていた、近隣の市に土地を購入しているのは町職員であり、住宅再建しているのも職員が多いと。安定した職に就き今があるのはしょうがないが、被災住民の心情を考えてほしい。今、町長が進める職員の再任用は誰の為? 町民の今の生活の為にその資金の一部でも使って欲しい。住民の繋ぎ雇用は延長になったと新聞は伝えているが、権力の行使が目に余る南三陸町と私は感じる。
写真は今度国道45号のルートとなる。橋も新しくこの先にでき、高さは10mを超える。町住民有志の老人ホーム建設には手厚い、行政支援をお願いしたい。行政に係っていた堀内自工社長や本田先生は今は町にはいない。商工団地入口に障害者多機能施設の建設が進んでいるようだ。徳洲会からの猪瀬知事への「5000万円不正贈与?」があった。ついつい勘ぐりたくなる。でもこれが政治と思うようになった。これを暴くのは警察・・・。

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2014
01/19

イベント広場


写真は上の山緑地から志津川市街地をグルリと望んだ時の一枚の写真だ。本格的に市街地の嵩上げが始まっている。電電公社の津波でも残った建物が、先週に解体され後は高野会館が残り、今後は「南三陸町遺構」の一つとして存続となりそうだ。
町づくりの公園部会などでも、「防災庁舎」は議論をしないと、行政から指示されている。公園部会は汐見・塩入など旧松原公園の海から向かい左岸を議論し、産業再生部会は右岸の五日町・十日町・南町・本浜町の嵩上げ後の利用や、町再生の中央区45号沿いの商店・公的機関の設置を議論している。
しかし、高台への商店設置は経営面から難しいと言う。志津川市街地の住民生活となる3地区は、高齢者や子育て家族などの「買い物弱者対策」の議論の希薄さが行政にはあり、町づくり高台移転部会では「商店必要性の要望」が議論されている。住宅に店の併設が許されているが、買い物弱者対策は何一つ見えてきていない。

本浜地区のイベント広場の在り方について、公園部会と産業再生部会の提案を聞く。
A班は、賑わいを提供する場所として考え、駐車スペースも十分に整備する。来場者で満杯の時はアリーナ駐車場を利用し「シャトルバス」の運行を考慮する。広場の資材などを収納する場所を、本浜から少し離れた所(天王前など)に確保が必要だ。イベント広場には屋根を設け、雨天対応の会場となるように、ステージなどの設備も考える。
B班は、本浜広場(左岸)・汐見広場(右岸)と、イベント広場に旧行政区の名称を入れてはと提案する。また、本浜広場を「動」と定義し、夏祭り・復興市など多くの人たちの賑わいの場所とする。一方の汐見広場は「静」の場所と捉え、3・11追悼の場所やかがり火祭り・灯篭流しの会場とし、公園の中に川(八幡川)があるという広場とする。
汐見地区やイベント会場は、できればどちらかを二階建てとして、二階に駐車場を設置したり、津波避難塔としての役割も兼ねたものとしたい。川は鮭の遡上する場所の環境を維持し、捕獲や観光客見学地としての活用もある。灯篭流しの場所としては橋と橋は狭く、上流も灯篭の流し場として整備してはどうか。「築山構想」も検討している中で、頂上をヘリポートとの提案もあった。
多くの部会の提案・提言は行政の、町づりくに役立てられる予定だ。


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2014
01/17

産業再生は 被災地の公園計画は


第12回産業再生部会・第14回公園合同専門部会が、16日6時半から開催され、13名の参加と委任状により30名で、会の成立となった。
初めに行政より報告があり、市街地の嵩上げに伴う「う回路」のルートが報告された。国土交通省東北地方整備局・仙台河川国道事務所により、1月14日の地元への説明書により、国道45号・国道398号の被災志津川市街地のう回路が、合同部会を含め開催された住民の集まる場所でも説明された。
旧国道45号から先行する区域の嵩上げにより、う回路の整備がされる。1~2月に区画が設定され、3~4月に地権者説明、4~5月に工事が開始され、6~7月には共用開始となると言う。生活道路確保と言う事で、初めに45号の嵩上げをする。嵩上げに現道路のアスファルトの撤去、現道の山側の直ぐ隣に、上の山を包むようにを新国道45号が整備予定で、水尻川から新井田までのルートが示された。
現在五日町が「ショッピングモール」の場所確保により、仮設商店街の移転候補地として嵩上げが進み、この場所は上の山の山裾を通る為に「10m」を予定する。
水尻川から駅前に向かい、旧本吉クボタ前を真っ直ぐに八幡神社へ、そこから上の山避難場所の山沿いをぐるり通り、農協のあった新井田川までがう回路となる。漁民の方々の市場までの本浜を通る道路は生かしてゆくものの、市街地の嵩上げは進む中で、志津川清水線の志津川市街地も10mとなるので、今後は一帯全てが通行止めとなる。(1月16日)

昨日は写真のような岩手県前沢まで、入院説明と申込みの手続きをしてきた。トンネルを抜けるの一面の雪だった。母はすこぶる元気で血色も良く、「気付けてかえらいよ」「雪凄いね」と何度も、遠くまで来た私を気遣ってくれる。随分遅れてはいるものの、新築される家に一度は入れて上げたい。

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2014
01/16

問題山積の被災地


国の復興支援・交付金により被災地の復旧復興・事業所再生は歩みを進めている。そんな状況下で私には色々な問題が起こっている。今回の震災で生かされた私、死んだつもりで生きれば何も怖い事はない。
こないだ災害公営の進捗を聴きに役場へ行った折、「千葉さん住宅建設どうなっていますか」「年度を過ぎますと金利補助は次年度になりますよ」と言われた。建設業者の被災地の建築大工さん・資材の確保の厳しさで、建設が大幅に遅れている。浄化槽の設置補助も業者が来て、「延長申請をしないといけない」と言う。昨年5月には前渡の分を支払っているのに、9か月にもなっている。予定より2か月完成遅れは、被災地である事情もあるが、想定外の問題が発生している。
被災事業支援の二分の一を活用したが、パソコンは機材として認めないと当初言われたが、その後認めますとなったが、追加の申請は書類作成が大変で、仕事を重視するために断念した。その他にも賃貸での工場整備にも補助は無く、総額で250万円を超えるが自費で賄った。グループ事業の4分の3の補助では、工場稼働まで時間がかかり顧客の確保の為に使わなかった。時間を掛ければ4000万円の事業補助となれたが、その八分の一でここまでやって来た。
また、「被災者雇用補助」も甘くは無い事を、これから申請する方々に言っておきたい。3年間総額で、225万円支給ばかりを事業所の経営者は考えるが、「フルタイム週40時間」「時間外の賃金割増支給」など、就労規則を順守しないと支給はカットされ、需給は思うようにはいかない。
事業の継続も住宅建設も、なかなか思うようにはいかない。時間が解決するが努力しないと、一向に解決はできない。今から母の入院申請に岩手県前沢に行く、高速の金成から北は速度規制と言う。雪と凍結の雪道は怖い。

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2014
01/15

高齢者一人にしたら


毎日のように今年の最低気温の記録を更新している昨今、氷点下4℃・5℃・6℃と、私たちの暮らす倉庫の水道管は凍っている。「水道の元栓を止めて」と水道事業所は言う。
昨日は水道が凍り、父親は水道が出ないと流しに、バムツを置き蛇口をいっぱいに開き出かけた。たまたま私が役場の用事で商工団地内にある倉庫に寄った。11時過ぎ頃だろうか、流しで水道の口から勢い良く水はバケツからこぼれといた。急ぎ蛇口を閉めるも、小さい流しはその水量を補うだけの排水管ではなく、流しの下から部屋の半分を浸水していた。
勿論部屋は狭く父と二人、布団は二つ折ながら倉庫にあり、ジュウタン4枚は水に濡れ、その後片付けに従業員の助けを貰い、夜布団を引き就寝できるまで何とか対応した。ジュウタンのすべての半分は水にぬれ、この寒さで渇くはずもなく、この寒空の下の住宅の足場にそのまま掛けっぱなしだ。
また、志津川診療所で歯を抜くと言う事で、「短時間で薬を6個飲まない」と、毎日のように豪語していたが、その歯科から「お父さん来ないのですか」と私の携帯に入った。何の事はない明日と思い込み、今日と勘違いしていた。
母親が今日「いこいの海・あらと」の施設から、岩手県前沢に行くと言う事で、伯父叔母が施設に行くと言う事でついて言ったことが、諸々の問題発生の原点にある。
明日は私が母の「検査入院」と言う事で、寒さの中を前沢まで入院手続きをしに行く。施設の経営は岩手という事で、施設が経営する病院に連れて行き入院となる。
なんだかんだの千葉家の一日です。こんな事があったなーと思える時までの、「記録に日記」が私のブログでもある。問題の全てが住宅建設の遅延にある。

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2014
01/14

子供の頑張りを褒めて

須藤ほの香さんローランド・ピアノ東北本選
「敢闘賞」受賞
 2013年12月1日(日)仙台若林区文化センターで「ローランド・ピアノ・ミュージックフェスティバル2013東北本選大会」が開催され、柳津小3年の須藤ほの香さん(戸倉西戸出身)が小学生部門Aで、東北地区から集まった19名の演奏者の中で、「KIBOU」を16番目に発表し、敢闘賞に輝いた。
 3.11の大津波で戸倉西戸の自宅を流出し、現在は津山町の総合体育館仮設で生活している。2011年4月から戸倉小に入学をする矢先の大震災だった。そんな中で続けていた大好きなピアノを、「遠藤ピアノ教室」に通い、練習に励んでの成果が実を結んだ。五日町にあった遠藤ピアノ教室もピアノなどの楽器を全て失い、荒砥の自宅を活用して、遠藤先生からピアノを習いたいとの想いの子供たちを指導している。
 須藤ほの香さんは「大変です。練習は厳しいけれど、先生はおもしろい」と話す。普段の会話を通しピアノの指導をする。その結果が東北大会で敢闘賞を受賞した。遠藤先生は「子供たちの頑張りを多くの人たちに伝えたい」と語る。しかし今の環境でのピアノ指導は難しいとも話す。
 現在は週1回の練習で2月のコンクールに向け津山町から通い練習を続ける。最後に先生のピアノ演奏とほの香さんの歌で、「かたーい絆におもいを寄せて…」と長渕剛さんの「乾杯」を聴かせてくれた。
ピアノ1
素直な子供たちの頑張りは家族は元より、地域で褒め讃えてあげたい。
津山町柳津から志津川荒砥まで通い、大好きなピアノを、そして大好きな厳しい先生に、続けてピアノを学び、昨年12月に大会で好成績を受賞した。
柳津の仮設で暮らし現在は3年生、戸倉の高台移転の計画が進めば、また戸倉に戻れば「戸倉小学校生」になる。仲間は現在柳津の子供達と友だちになって頑張っている。震災津波からの学校再生は何時になるだろうか。彼女が震災の年に一年生になり、7年目の年には中学生となっている。その前に戸倉小学校に帰らせて上げたい。

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2014
01/13

50歳過ぎても子は子


昨日突然ボランティアで活動していた愛知近辺で暮らしていた人が来た。「一級建築士」と言い岩手県でこないだまで活動をしていた。「なんで来たのかなー」と不信いだくのが当然だが。その内容にいろんなボランティアが被災地にいる事を知る。
震災直後にNPO法人の活動する方が、各部門で電話がきたり訪ねてきた。議員をしブログで南三陸町の震災の状況を毎日のように伝えていたからだと思う。「15坪300万」で家が建てられます。こんな被災地支援の提案を持ってきた。被災地の建設会社・工務店の多忙故に、安価なとりあえずの住まい確保として、良案と思い協力をしてきた。しかし、係わりの一年の中で事業の実現には、多くの問題があり自然消滅となった。
そこに係った事で自宅倉庫に突然人が来て、二つのNPO法人との関係とこれまでの経緯を聴きに、そして今の情報を伝えに来た。当初来社した人が現在「亘理」で15坪の家を建てていると言う。価格はどうか知らないが、今現場で家を建てていた人が、二つのNPO法人に係っていた人で、「話がコロコロ変わり信用できない人」とその人は話し、私も利用されましたと言う。
そんな被災直後の事から現在に至るまでの話しを一時間以上していると、脇で聴いていた父親が「怒りだした」。「なんか判らないけどいったい何の話しなんだ」と来た人に噛みつく。私には「人が良いから騙される」「疑って話しろ」と、耳が遠いせいか内容も理解できず、食事の準備ができないイライラの矛先が私に向かった。
「何もかにも上手くいかない、失敗ばかり」と罵倒する。住宅が2か月も完成が伸びている事が最大の怒りで、住宅建設の人間とあり、愛知の人という事で建設会社の関係と、勝手に思い込み「大口論」となった。一つ屋根の下に暮らす事で、互いの知らなくて良い事も知る事で、問題が発生する。
「もう静かに家にいる時は過ごしたい」が今最大の望みであり願いだ。家族が平穏に暮らす事は被災者はーまだまだ先の事であり、我が家とて多重生活からの脱却をしないと、生活資金の枯渇に繋がる。被災地の事業再生も厳しい現実にぶつかっている。行政依存は40%となり、復興特需がある建設関連会社とて、100%が行政の仕事であり、復興が終わると仕事の激減がまっている。
昨日は町の「成人式」があり、私は知人の「葬儀」に参列した。その後のこんな出来事があった。

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2014
01/12

今何をすべきか


又、町のトップが描く行政の体制の方向が見えてくる。ショッピングモールが、観光・商工の町づくりであり、これで全ての町民が生きていける環境が作れると言う訳もなく、多くの知人・生業の仲間が町を去り、自分の生き方の計画が大きく狂った。
ある町が人口2万4千人いたが、過疎化と高齢化が進み3分の1になった言う現実に、我が町「志津川地区」もそうなりつつある、今の置かれている現実から感じる。
フィリピンの高潮災害から復興に、東日本大震災の経験を生かした防災対策が、「ジャイカ」により構想されている。平地の島々に住む被災者の状況から、海岸線に3mの防潮堤を造り、海岸線の被災地は制限を付けた居住区とし、内陸の道路は嵩上げし多重防御とし、病院・公共施設・重要な施設は、また更なる防潮の壁で取り巻くと言う。さすがに日本人の国際貢献活動の素晴らしさと知識を思った。今後フィリピン政府との調印となると言う。この活動に大きな感動を受けた。
「今を悔いなく生きる」が、私の今、考える生き方だ。行政が多額の「復興交付金」を活用し、町の復興をしていると言う。その影で行っている事を町民に伝え、議論できる「術」を私は今持ち得ない。静かに町の為と言う政策・行政体制の姿を、見つめて行くだけと私はなる。町の行く末とトップの変遷の姿を見届けるまでは死ねない。

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2014
01/11

本吉郡剣道新春初稽古会


宮城県は今年最低の寒さを記録した。「-5℃」の最低気温の中で、平成26年本吉郡剣道新春初稽古会が歌津中学校を会場に9時から開催された。
小学生21人と中学生24人、高校生3人に一般15人を含め63人が、稽古会に参加した。「寒い」と震える子供達も無く、日ごろの指導者との稽古の鍛錬で、剣道の精神の修養の賜物と感じる。体育館には冬の暖かい陽光が練習場に降り注ぎ、元気な気合いの「メーン」「ヤー」と、響き渡っていた。
初めに郡連剣道協会会長の小野寺先生が挨拶で、本吉・気仙沼の代表となった中学の大会報告をした。歌津中の男子の連勝を阻んだ志中が、「県新人戦でベスト8に入った」と告げ、その他のチーム・個人も輝かしい結果となったと話した。また、「新しい目標に向って取り組んで欲しい」と結んだ。
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小学生低学年・高学年と中学校に分かれ、一般の各剣道協会・スポーツ少年団の指導者が、レベルに合わせて基本を中心に指導をした。打ち込みの打突・左手の使い方、打突の場所を正確に捉える事の大切さを、繰り返し熱心に伝えていた。
「三年生は今後の高校受験を悔いなく臨んで欲しい」と会長は付け加え話し、今後も剣道を続けて欲しいと語った。
南三陸町の小・中・高校と剣道人口の減少に協会は頭を痛めている。団体戦のチーム五人を組めないとの、切実な問題が発生している。個人戦でも大会の参加が出来る事が救いだ。年度末前後からスポ少の団員募集があり、4月の中学入学と同時に部活の入部も始まる。志中は戸倉中学校との統合が26今年度からで、新しい部員入部を期待する。
南三陸町の剣道の伝統は長く、県での大会結果も輝かしい物を残している。「伝統の灯」を消さない為に一人でも多くの入部を望んでいる。

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2014
01/10

高台移転情報


第14回高台移転部会がポータルセンターであった。参加メンバーは6名で顔触れは変わってはいるものの、数は同じで委任も6人と12名の参加として、会は成立し行政からの説明と高台移転の議論が交わされた。
昨日は西区の移転の場所を決めるシュミレーションが行われたが、参加した方々は3地区の時も参加され、その状況は理解でき、同じことの繰り返しに会議内容に疑問を持ち始めている。参加者も高台部会に入る事で、今後の生活場所の情報を得られ、移転が優位になる事を考えていると思う。その中身に「行ってもまた同じ」と、会の参加に意味がないと思い始めたのだろうか。22名前後の会員の任期も終わり、再度部会員の募集が来月ごろから始まる。
昨日は高台移転の土地の価格と、造成引き渡しの大括りでの時間経緯が報告された。被災住民が一番気になる。土地の価格が発表となった。基本的には100坪を対象として、東の東が56100から62700で、借地が6600から7400、東の西と東の北は同じ金額であった。中央区は52800から59400で、借地は6200から7000で、西の東・西は49500から56100で借地は5800から6600となった。価格の差は土地の評価額で、造成経費とは関係ないと言う。しかし、被災地の買い上げ価格の差に、土地取得の大変さを感じる。
最終的な3地区の土地希望決定を、26年1月17日から個別相談を各地で開催する。26年春までには土地の「決定」「登録」と、土地の区割り決定で本格造成となる。当初の造成面積が減る事はないが、地区形成で必要とさせる施設の確保に残った土地が活用される。
私は平成26年春から27年春までの一年間は、登録に応じた団地計画の見直し、情報の発信提供と言う。27年春に宅地申込み・宅地決定となる。この一年間の被災民の気持ちの維持を行政はどう対応して行くのだろう。そして27年秋に順次完成土地引き渡しで、地権者となり建設工事となる。
東の東・西区が27年からと明示しているが、他の地区は28から29年とまだまだ先に、住民はこれでも町から離れずにいられるか。登米市の南三陸町の被災住民の移転活動は活発に行われ、人口流出は今後も年々続くと私は心配する。
昨日配布の「マイタウン情報」に高台移転情報の掲載に力を入れると掲載すると、その反響に住民は何を求めているかがわかる。行政から聞き取り高台移転の現状を「今」を伝えていきたい。

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2014
01/08

ガンの脅威

「たかじんのそこまで言っていいん会」の大ファンで、日曜の午後1時320分が楽しみだつた。辛坊氏と三宅氏と橋下氏の真剣な激論が大好きだった。日本を社会を「歯に物着せぬ」話で、各界の論客たちと時代の出来事を切った。
その「たかじんさん」が正月の3日に亡くなり、近親者の密葬で送られた。一昨年に初期の食道ガンで治療の為に入院し、昨年3月に復帰し再度の異変で入院した。最近は好きなワインをたしなみ、回復していたが激やせの姿をファンが見ていた。
意外と政治に町政に関心を持ち、町の体質を変えたいとの強い気持ちも、ここから始まったのかも知れない。さびし過ぎる、あの厳しい考えと面白い話がもう聴けない。大阪新地で一晩に「600万円」を使う豪快な生き方は、自分の出来ない夢を代行して、豪快に実現させた人物だ。こんな人生を羨ましいとも思う。
自分が楽しんで仕事をしないと、人に心は伝わらないと昨日誰かが言っていた。私が今回の結果により、今まで続けていた事を苦しんで続けている事に、誰も活動は理解されない気がする。どうしたら楽しく生きられるのかを、これから考えたい。4年間の全てを捨てる事が元に戻れる感じがする。4年間で多くの物を得る事ができた時間も、大切にしていきたい。



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2014
01/07

高齢者の孤独


朝出がけに父は「一人いるとおかしくなる」と言う。仮設で震災後入居し、一人暮らす方々の心の不安、如何ばかりかと思う。仕事をしている人は出先で、人との会話・触れ合いがある。
最近逝去された方も、私と同じ父と子の二人暮らしだった。2か月前に家の前を散歩していたと父は言う。「何故だろう?」とその死を思う。父からその状況回避のヒントを得たいからだ。
震災から2年10か月を迎えようとしている。母が5月に「老人ホーム」に入居し、親子二人となった。あれから6か月を迎え、「不安」「寂しい」「怖い」と、昼間の一人暮らしの父の弱音を聞くようになった。被災者の環境には諸々あるが、早期の会社と住宅再建が、こんな状況を作ってしまった。仮設には集会所や福祉士の活動があり、孤独者の見守りの被災者支援がある。3年かが経つのに志津川3地区の公営住宅建設まで2年4年が場所により違うが、こんなにも長い時間がかかる。後もう少しながら、その時間の中で何事も無い事を願いたい。
写真は戸倉荒町の山の工場の方向を、並石橋から望んだ。朝一で工場に行くと「-2℃」だった。機械を動かし印刷が出来るまでには最低「16℃」ないと、印刷が上手くはいかなく、この時期だと2時間以上は必要になる。
多くの地元の小さな事業所に維持された「我が社」があった。現在は町の事業所は半分以下となり、行政に深い係わりの同業者への仕事の流れに、あと何年仕事ができるのかと「ふと」そんな気持ちにもなる。私の後継に色々な方策を考えている。
「寒すぎる」、ここまで頑張って来たが、気力の低下は否定できない。

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2014
01/06

初夢


昨日は夜7時過ぎに建設会社の営業が自宅へ来た。今年の仕事の進め方と、建設契約書の変更と、建設費の増額を言ってきた。なかなか答えるだけの余裕は私にはない。
「初夢」らしい夢を見た。いやな内容で自分が気づかない事が、夢の中で表現されていた。昨年で全てを切り替えたつもりだが、脳裏には刻まれ、まだ「悪夢」にうなされたのだろうか、朝4時30分に目覚めた。まだまだこの気持ちを引きずる事に、この「初夢」でピリョードとしたい。
今日から仕事始めである。県の補助申請で8日4回目の仙台へ行く、伯父叔母の所にも行く予定で、一日がかりとなりそうだ。年末年始は仙台の大渋滞にはハマる事を避けた。
今年の正月は親族・兄弟も来なく、のんびりと年末年始を過ごした。これ位我が家は親戚従妹兄弟が少ないと言える。
今年の写真も水尻河口からの荒島の朝日です。今日から自宅建設現場も動くかと思うが、業者が来ると父の孤独も少しは解消できると思う。

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2014
01/05

いつまでも持ち続けたい


南三陸町志津川の昔の賑わいの姿が私は一番好きだ。その気持ちを継続する上で、二階堂和美さんの歌「いのちの記憶」、かぐや姫物語の主題歌としてあり、車で聴き救われている。現在、かくや姫の映像と主題歌が幾度となくテレビから流れている。
今の苦しみを癒してくれる、メロディーと歌詞にひと時の安らぎを得ている。その4分余りの時間から離れると、今の現実に引き戻される。
明日から現実の世界に戻される。お正月は父親と多くの会話が出来たが、ついつい愚痴が多く90歳の父に不安を抱かせたかもしれない。ただ震災からの復興に頑張る息子を見てもらいく、二人暮らしの生活、会話で多くの問題の解決にもなる気がする。今の所大きな父の金銭的支援は拒否している。
また、突然のすべての流失からの、仕事・家庭の両方の再生は、2年10か月を迎えたばかりで、事業主が同じ環境にある中で、意地でも一日も早い再生に挑戦している。地域・仲間の支援を今後していく準備でもある。しかし、被災町民の再生は難しく、元の戸建の生活再建から公営住宅へと、その生活スタイルの変更を余儀なくされている。
明日から仕事が本格的に始まる。今週は仙台に1回、もしかすると2回行く事になるかも知れない。その時の状況に応じて行動していきたい。

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2014
01/04

外に出るのがおっくうに


お正月三が日は「じーと」していた。3日は仲間と会おうと正月前は話していたのに、先輩からの段取り依頼はあったが、他の仲間からは何もなく、電話するもお昼でありもう活動していた。私も先輩に事訳を話し、テレビ三昧の日となった。餅を食べ蕎麦を食べ、最後に残った「おせち」をたいらげた。一昨日血糖を低下させる「ランタス」を打ったかも忘れ、血糖値を測ったら「300」を超えていた。食べたいものを食べ、いつもの日課を忘れ、こんな状況になっていた。今日からは通常の生活に戻る。私の規則正しい生活・食事には、我が家の今後が係っている。
昨日は菩提寺に「御年始」にいった。同級生・農協の方・前同僚の先輩・・・など、偶然にも知人の方々と会った。今日は10時からの葬儀を終え今帰ったか、また多くの顔見知りが声を掛けてくれた。「今は良く世間が見えるでしょう」「ゆっくり考えられるから」と、大先輩から言葉をもらった。その他にも「荒町に仮設」をと動いた時の、県庁でお世話になった人とも会えた。また、私の中での南三陸町出身の成功された方と、噂からだけだったものが顔を拝見できたが、声など掛けられなかった。同級生の叔父である。
亡くなられた方は89歳で、戸倉に来て70年間地域の皆さんに温かくせっしてくれた事に、喪主は感謝を述べた。私の母も90歳で存命だが、同様の気持ちが強い。亡くなった方は3年前まで旅行をして、この年は「金沢」に行ったと孫が話す。私は母に何もしてあげていない。親父の兄弟旅行も母は「いいからと」、旅行には行く事を拒んだ。そんな母、今は老人ホームで静かに暮らしている。これもまた幸せな人生と思う。
帰ると葬儀社から電話があった。志津川市街地で暮らし被災し、仮設で暮らす方が亡くなった。商工会で大変お世話になった方で、多くの関係者・地域の皆さんの耳には届く事は少ないと思う。こうした被災地の死亡情報を行政が伝える事も、一つの住民サービスと思うが、「ここまでは出来ない」と、やりもせずに町は言い切るだろう。理由は個人情報だろうが、広報での一か月遅れの報告では意味がない。

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2014
01/02

静かな白い正月


雪降る南三陸町となった26年2日、私は静かなお正月を過ごしている。分散した地区の皆さんはどんなお正月をしているだろうか。
地区の津波避難の指定地の「上の山緑地」に今日行って見た。見下ろす「本浜町」の1と2は半分が海水で埋め尽くされていて、本浜町1は地区全てが冠水していた。
避難場所までは私の自宅からは1キロに満たない場所で、この場所は海抜16m以上はあるだろう。上の山公園には子供たちの為の小さな山があり、そこから本浜地区を見ると、ずいぶん高いとは感じるが、ここまで津波は来た。避難した町民は増幅する津波の徐々勢いで、その奥へ奥へと向かい、そして助かった。その事実があり、ここまで避難した方では亡くなられた人はいないだろう。
浸水した本浜地区は、地区コミュニティーの再生は出来ないと確信する。10mの嵩上げの下に眠る。その上には新たな町の観光地としての形成が、現町長政策と行政そして県によりなされる。我が本浜地区は「イベント広場」と「大型駐車場」と生まれ変わりそうだ。今後は国道からの袖浜線の測量が始まる。
この写真でも下の海からの、ここまでの津波の襲来に「千年に一度」の津波の恐ろしさを思う。上山公園のこの場所には「明治大津波」の記念碑がある。百年前にもこの場所近くまでの大津波が来た事の「記録」「記憶」が刻まれていた。女川の中学生の「千年の記憶」の石碑を建立は、学生の活動として素晴らしい事と、過去の記録からも伺える。
昨日は「横山不動尊」に元朝参りをしてきた。多くの願いがあり、祈願も被災地の多くの問題解決への祈りは、神様も無理だろう。私の町にも一日も早く町民が初詣できる場所ができると良いと思う。再建の話も聴く「上の山八幡宮」、元に戻るのは厳しい現状の中で、志津川市街地の仮設で暮らす町民の為にも頑張って欲しい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:01 】

2014
01/01

明けました


週間天気予報での元旦の天気が気になっていた。昨日は10時30分まで起きていたが、その後の記憶は無く、しばらくぶりの3缶のビールが効いた。
起きたのは朝6時丁度、外はまだ真っ暗で天気が悪いと直感した。7時少し前が「日の出」の時間、6時50分に自宅を出た。
志津川漁協は車で埋め尽くされ、その理由は信号で止まって時に知る事となった。「ハマユリ大橋」に人の波を見つけ、そり向こうから水平線の太陽の灯りが洋上に発せられていた。
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初春のご祝辞を申し上げます。
今年の「初日」は水平線から綺麗に頭を出し、雲はその上にあった。こんな日の出はしばらく無かった。
大橋を下り車の置き場を探す、しかし場所はなく路上に止めた。もう太陽が頭を出しつつあり、急いでカメラを準備、フラッシュは充電中で、最初はピンボケの写真となった。
人出は300人以上もあり、サンオーレ海水浴場での数で、南三陸町の海岸線には数千人の人たちが、町を照らしだす初日に、今年の平安を祈った。
今年もよろしくお願いします。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:20 】


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