ARCHIVE - 2013年10月

2013
10/31

南三陸町はひとつ


私は「南三陸町はひとつ」と思っている。町政に取り組む姿勢は町全体を考えやってきた。歌津へ行けば「歌津も志津川もないから一緒に」と話し、戸倉・入谷地区の皆さんとも一緒に、町の再建に向かいましょう、と語り掛けた。
しかし、現実的には町長選は歌津対志津川的な形になり、約5千票対4千票の千票の違いで現職が勝った。千票の差は地区の差だけではなく、被災者の高台移転の姿が見えない事への反発票が現れている。
有権者数は約12500在り、85%余りの得票率の中で、この結果は入谷・戸倉など志津川地区の票が、今の町づくりに異論を唱えての、投票行動と思う。議員選は地域の縁故・血縁の強さ、地域性に完敗した。
この議員としての活動が減った事で、多くの時間ができた。それは仕事も被災地にはなく、被災前の5人も地元の若い社員を採用し、仕事を与えて事が懐かしい。
しばらくは休息をと仲間は言ってくれる。サメじゃないけど、歩みや考えを止めたら死んじゃう、こんな生き方しかできない。「印刷屋の弁当」が懐かしい。志津川地区から名産品を発掘しようと、仕事の傍ら始めた副業で、大きな支援をしてくれた協力者も、今回の津波で亡くなられた。
また、何を町のため自分の為にしたらいいか、選挙終わりの2日目から模索する。とりあえず情報発信の「南三陸マイタウン情報」を、今週発行の準備をしている。
写真は志津川中学校から志津川被災地西側を望んだ。
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2013
10/30

亡くなられた方々の御陰もあり議員職があった


昨日は石巻日赤へ午前に行き、終わって登米市の司法書士さんから、気仙沼への「法務局」へ向かい、相続の申請をした。帰ったのは夕方6時を回っていた。
日赤の眼科では「順調です」「手術は嫌ですね」「薬出します」の3つの言葉で、1分足らずの先生の診察と、視力・眼底の検査で終わり、3時間余りで帰れる事ができた。
司法書士さんに「印鑑証明」の実印の陰影に、法務局の指摘があるかも知れないと、役場受付に寄り確認し、気仙沼の法務局には4時30分に滑り込み、無事に申請を終えた。気仙沼市も浸水した海岸線の市街地・工場の現状は、復旧途上で浸水域では工場が建設され、南三陸町とは違うと感じた。志津川の市街地はまだ何も無いが、気仙沼は浸水域での工場建設の高いクレーンが多くあった。
昨日のニュースで宮城県村井知事は、南三陸の「防災庁舎」を遺構として残す審議会を立ち上げ、予算の確保で移築などの提案をしていた。しかし、これに対し3選の南三陸町長は、解体をすると報道に語った。
私の強い支持者だった亡くなられた一人の方の力、町を離れ他の場所で現在暮らす方の支援が、こんなにも強い物だったと結果を見て感じる。大震災前後の政治活動で新しい支持者も増えての「286票」が、現在の私の全てと感じる。その他の町に残った方の多くの支援にも感謝したい。
本浜町の分散となった高台移転の、コミニティーの再生を図って行くべく、限られた活動の中で尽力して行きたい。
私の活動の情報発信の資金は、財産の全てを失い自宅・工場の再建の中で、報酬からの捻出も少なくはない。被災者への被災地南三陸町の町外・町中の仮設で住む方々の発信は、今後は限られた資金の中で続けたい。
昨日も爆睡だ、体はウソを付けないようだ。選挙の食材の片付けで「血糖値」も少し上がり気味、被災者として借金返済に頑張っていきたい。

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2013
10/29

まだまだ復興へできる事がある


昨日は選挙の片付けをした。倉庫が選挙事務所であり、その痕跡のままでは、性格から辛さを引きずる事で、従来の生活に支障となるからだ。昨日は当選者の証書授与が役場であった。議員の職は11月の5日まででり、2日の防災庁舎での「慰霊祭」に出席するつまりだ。仕事の全うは当然であるが、かつての同僚と議員として顔を合わせる最後の仕事となる。
午後から登米市への2往復があった。復興への何かできる事をとの行動と言って置く。印鑑証明の発行・確認ミスで、3度目の登米市へ今日向かう。それから気仙沼の法務局に行く。父親の土地の相続で出かける。車の運転には十分注意したい。
今日の午前はここまで伸ばした眼科の定期検診に行く。目は大分良くはなってきたが、選挙の疲労か周辺から「眼が赤いよ」と言われる。しかし、確実に見えるようになってきている。11時に石巻で3時間以上はかかり、気仙沼から帰ると6時を過ぎる。
昨日は疲れから爆睡で8時間も眠った。「少し休めよ」の忠告も、何かしてないと不安が募る。少しずつ選挙支援者への御礼も廻らないといけない。
可憐な花に心癒される。

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2013
10/28

厳しい寒い朝を迎えた


多くの皆さんからの声援と、固い握手で手ごたえを感じていた。
「大丈夫」の過信と奢りがないと言えば嘘になる。選挙の厳しさの猛省の中に現在ある。沢山の支持をしていただいた皆さんに感謝したい。そして、選挙運動に協力してくれた仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
4年間の議員としての体験は、素晴らしい同僚に囲まれ、有意義な時間を過ごした。震災から周りに恥じない活動をしてきた。家族と私の体調の異変の中で、震災からの町民支援があり、これからまた一段階の震災復興に取り組むはずだったのに、議会議員としての活動に終止符を打つ事を考える。
新人全て元職一人の当選は、現職との新しい体制で震災復興を目指す。体制的には与党色の色濃い行政運営になると予想する。
町長選も現職の勝利となり、このままの「復興計画」を町民は選択した。復興への加速を進める立て看板は、現職の気持ちとある。そのように町づくりを進めてほしい。
剣道の教え子が選挙支援に駆け付けてくれ、彼女も選挙を通して多くの再会で、故郷の南三陸町で良い体験をした。昨日は黒崎パーキングで綺麗な光景に、足を止め二人で「写メ」を撮った。この写真です。
何事も「最後まで頑張る」が私の指導だった。それを実践したが「選挙は怖い」。継続は心が折れそうな中で、私の体調からも家族状況もあり難しい。



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2013
10/26

語り継ぐ場所の意味を考えよう


同級生が東京から来て戦車の運転手をした。
町内を隈なく歩き、「神社の本堂はだいたい残っているよね」と言う。私も震災後に町を歩いた時に、神社の多くが鳥居に被害はあるものの残っている。
その主たるものが戸倉小学校裏の、「五十鈴神社」だ。小学生が津波に追われた時に、とっさにとった先生の避難行動が五十鈴神社のある高台だった。神社を避難場所とした所が町内に幾つもあった。
石巻での幼稚園児童の避難行動で、送迎バスの中で児童が亡くなり、幼稚園側の過失を裁判所が判決を出した。

多くの行政の疑問の解決に議会のメスがあり、それを指摘するのが議員であり、私は「町民の声」を含めた行政の疑問を問い正したい。

その立場は「議会議員」と思っている。議員となった暁には会社の役職を止める。自分に非のない状況で、政治に臨みたい。

明日は選挙で24時間ソーシャルネットワークの活用は選挙違反となる。

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2013
10/26

地震そして津波の不安


深夜2時10分の地震は、いつもと違うと感じていた。福島県沖の震度4でM7.1と報道され、地震も長くいつもの短い一瞬とは違う。初期微動から本震がある。3.11は震源地3カ所の連動があり、これが3分も震度4以上が続く事となり、あの忌わしい大津波を発生させた。
今回も岩手から千葉にかけて津波注意報が発令された。3時過ぎに岩手・福島に40㎝の津波が発生し、石巻で30㎝が測定されたた。津波発生の要因は地震の長さと単純に思う。
仮設の4カ所で演説をさせてもらった。多くの町再建への問題点を町民に伝えた。勿論問題点には対策と提案も伝えた。制度上できない事も多いが千年に一度の大津波被害で、町が消えた大震災、従来の制度の中では「早期再建」は難しいのは当然で、多くの再建の策を国に求める事で、町民の帰還・再建を早める結果が生まれる。マンパワー不足は被災自治体にあるが、制度の緩和を求める事で少しの加速になる。農地の宅地への転用は、従来なら1年係るものが3か月と大きな短縮となった。提案し対策を政府に求める事で、人員が少なくても事業の進捗が加速する。
仮設で一人の女性が強く言っていた。「町づくりも判るが原発廃止だよ」と言う。店で買い求めた「原発廃止」のマグネットを「けっから」と、私に手渡した。
多くの声を聴くがあるが、これは議会の議決で政府に「原発廃止」と求める陳情を提出している。原発は政府の考えが強く、町の再建加速が私には最大の問題と捉える。

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2013
10/25

仮設を回っての状況を知る


南三陸町・町外に点在する仮設を廻った。
昼間は高齢者だけが仮設におられ、杖を突きながら出て来る方に頭が下がる。小高い山の上まで行くと「あんだ初めてだでば」と、石に座り私に話しかける老婆いた。
「早く住宅の再建を」がある中で、「ゆっくりでいいから」があった、行政への気遣いだろう。夜になると成年の方もおられるが、若者の姿が少ない状況に、町の再生の不安を感じた。「志津川・歌津もないから」は、私の地域民への声掛けで、合併の対立はなく、自我の為に誰から造った言葉と思う。ただ志津川と歌津に公的機関の施設の差を、議会で論じているだけです。志津川も歌津も入谷も戸倉もなく、町民が一体で再建に向かわないと、再建は程遠い。
町長選が一騎打ちで激しい戦いとなっていて、新人・現職のどちらか当選になる事で、復興への進捗が変わると思う。町民皆さんの行動の掛かる、「このままで良いか」、「新風を吹き込み、早期再建の為の計画の見直しをするか」、トップの選挙にその全てが委ねられている。

「千葉のぶたか後援会ブログ」は発信が39回目を迎えた。このブログで紹介したら一気にカウントがあがった。多くのブログ訪問に感謝したい。

私の父の同矯生が亡くなった。男性で90歳「天寿を全うし往生」と言える。仲間が減る事で父の気持ちの弱りを心配している。また、私の同級生の父でもある。天災でバラバラになり、再会する人も多く、生きててくれて嬉しい。20年ぶりで昔遊んだ方と会った。両親の老後にあたって帰ってきたのだと思う。
町内で亡くなる人の連鎖が今志津川にある。「10人引く」などと地域では言うが、続いている。そこで驚きの発言を聞く、本当に言ったのと聞き直した。今は言うまい! 選挙期間なので、「本当に言ったの」と聞き返し、あり得ない発言に今の町を思う。

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2013
10/24

高齢のみなさんのけなげな優しさ


石巻と南三陸町の中間にある「神割崎」、以前は「マツタケ」も生息と聞いた。プラザの周囲にある松の木の枯葉下草に、小さな花に目を奪われた。徐々に寒くなる季節の中で咲いていた。仮設で暮らす高齢の皆さんの、行政に強く訴える事ない、けなげにその時を待つ姿に、可憐な白い花が同化に私には見えた。
私が仮設に昼間行って残っているのは高齢者の皆さんで、今日などの寒い雨の日は誰も出てこない日もあった。現職町長の戦車が夕方来ると、多くの高齢者がチラシを持って待ち立っていた。帰った後にも私を待ち残ってくれた。6時半ごろだったが若い人たちの姿が見えない、居ないのだったら深刻な問題である。
病院などの公共施設や学校などの教育機関の周辺の、選挙の候補名の連呼は自粛を選管は促す。高校の桜の登校坂の連呼は私はあり得なく、校舎の隅の仮設の脇を、声を落し選挙活動をした。登校坂での連呼にあたり、学校から是正をと連絡があり、選管が周知徹底が連絡された。連呼への疑問を私は持っているが、住民が仮設などで暮らす状況下での選挙は普通でとはいかない。
戸倉の剣道の子供達が大人になり、「先生を手伝いたい」と言ってくれる。有難く、子供から大人になり、被災地での両親の生活への手助け、南三陸町の再建へと頑張っている。私だけでなくスポーツの指導者は、故郷の大切さと共に、共に涙汗した仲間との繋がり、生きていく為の必要な物は何かを伝えた。こんな事が全ての指導に求められ、関わった子供全部とはいかないが、子供たちの心に育まれていた。
学校の児童の減少と就職の町外への流動は、町の衰退への始まりでない事を願いたい。

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2013
10/23

町の隅々まで見渡すと


写真は志津川の荒砥崎のまだ半島崎の、小さな集落「権現」です。
「権現のおばちゃん」がいて春先に、子供の頃は必ず出かけた。磯狩りと称して「まるつぶ」「からつぶ」を獲りに行った。亡くなったおばちゃんの住む入り江の集落は、海岸部分が写真のように跡形もなくなり、昔の面影は無くなり、海岸の地形も大きく変わった事と思う。おばちゃんり家は昔から高台にあった。
志津川の仮設商店街の「さんさん商店街」の豊楽さんで昼食をスタッフと取った。「いらっしゃい」と元気な声で迎えてくれる。同級生の母のお孫さんで、ばあちゃんを助けたいと震災後の店の開店にあたり帰って来た。「五目ラーメン」は、しばらくぶりだったが、以前以上に絶品だった。
そこで今回の津波で亡くなった同級生のお父さんが、「豊楽」で私に声を掛けてくれた。「久美子の父親です」と、何処で生活しているか判らず、線香も上げられないでいた。穴子釣りの大好きなお父さん、「今度釣りに誘ってください」に、笑いながら、うなずいてくれた。
選挙初日は「荒町」での第一声と始めから決めていた。議員としての本浜の地区以外で、第二の地元と言っても過言でない。議員としての質問最初は集落を流れる「並石川」の道路整備だった。津波での会社流失でも仮の会社再開は荒町だった。暖かい声援に感極まった。
選挙の活動報告は「千葉のぶたか後援会」のブログを開いて見て頂きたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 05:04 】

2013
10/22

町づくりの道半ばで


昨日は突然の仲間からの電話だった。
私より3歳下で母の友人の息子さんが急逝した。志津川の産品を「あら伊達な道の駅」で販売していて、その場での心筋梗塞と言う。お棺の顔は今にも起き出しそうな、自然の眠り顔で、駆け付けた同級生も仲間の突然の死に、落胆の悲しみの中にあった。南三陸の再建に頑張っていた一人が又亡くなったる
昨日は志津川地区の市場の牡蠣剥き場にいった。戸倉地区の方は牡蠣剥きをしていたが、志津川は生産者が地区の契約会があるという事で、11時に行ったが終わっていた。居合わせた方に聞くと今日も海が荒れ、明日の牡蠣剥きの牡蠣も上げができなく、明後日からと言う。現在27号の台風が26号と同じ経路を進行中であり心配だ。
志津川地区には26号の被害は少ないが、筏が5個絡み合った被害は出たが、影響はないと言う。今年は牡蠣の実入りも良く、生産者は喜んでいるが、今後の自然の災害を懸念する。
市場が今後は一般町民が自由に入れない形となると言う。市場の魚の見学や入札の賑わいが見られなくなる。誰の為の市場かを思う。町民皆さんの「豊潤の海」志津川湾なのに。

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2013
10/21

浜々に分け入るとまだ傷跡が


先週は浜沿いの知人宅を訪れた。以前あった家は津波で流失し、その後にはセイダカアワダチソウが群生していた。
三陸のリアス海岸は、小さな浜の集落が点在し、その一つひとつが入り江となり、数メートルの差で家が残るか流失被災するかの、境の地形となっている。知人宅は海岸から海抜12メートルはあったが、津波は狭い入り江を一気に遡り全壊となった。
現在は家のあった所から10メートルの高い空き家で、今も海の見える所で暮らしている。庭には秋の草花が咲き乱れ、ここには津波のあの悪夢からの落ち着きが、生活から感じられた。反面、当時を振り返り話す、母の涙にもらい泣きとなった。
昨日は戸倉雷前の「五十鈴神社」で秋季大祭があった。戸倉小学校の児童が津波から逃れ、一夜を明かし命を繋げてくれた神社です。地域の氏子が寄り神事を行ったと言う。他でも東山の「西宮神社」や伊里前の「三嶋神社」でも、秋季大祭の大登りが神社前に建てられた。南三陸町は昨日雨の予報だったが、午前中は曇りと小雨で、午後からの本格的な雨となった。南三陸町の町内の神社は高台に奉られているが、町を廻っても田の浦の「旭岡神社」の流出があったが、大部分は千年に一度の津波でも残った。
今日から私も選挙モードとなる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 03:59 】

2013
10/20

支援の活動に答えたい


細浦の立候補を無対していた方が、昨日の「三陸新報」によると出馬を断念した。今回、実家の姪っ子が出馬したので、立候補を悩んでいたと聞いた。
昨日は東大阪市東ロータリークラブの方々が歌津「平成の森」に支援できた。
その団体の一人が東大阪市の印刷工業組合の支部長さんで、今年の夏に気仙沼・本吉地区の印刷業者支援に50名に近い皆さんが、移動総会として被災支援に来てくれた。今回は単独行動の部分もあり、さんさん商店街の食事では、美味しい「穴子天ぷら」と、地元の新鮮刺身を振る舞い、親方は「特製鍋」を出してくれた。親方も現在「平成の森」で暮らしいいると言う。宿泊はメンバーはホテル観洋で、支部長は歌津の「コクボ荘」に泊まれるよう準備した。夏の交流以来10歳以上も年が上ながら、失礼ながら「同志」的な方と捉え、手伝をするのは唖然と思っている。
東大阪市の東ロータリーの皆さんは被災地支援は以前からあり、今回はドイツの支援団体の継続支援と言う形の支援だった。軽トラックが10万キロ近くとなり、メンテを含めた車維持の資金支援である。仮設での物の運搬には欠かせなく、仮設生活者は全てを無くし、再建への途上であり、資金の余裕など何処にもない。全国からはこの現状をご理解頂き、多くの支援が南三陸町にある。こうした活動に応える責務が私には、今の職に就きある。交流会では「他に何か支援できる事はありますか」の会長の問いかけに、自治会長は「物質的には何とか大丈夫ですが、高台移転の造成の加速が今求められ必要」と、支援ではなく早期の生活場所の確保という面を、行政に願っていた。
昨日も細浦地区の方が出馬を断念したとの報に、多くの議員がこの地区に入っていたと聞いた。選挙は何としても勝たなくては意味がない、こんな現実に悩む毎日です。

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2013
10/19

人間は天災には負けない


また、台風が発生し前回の台風と同じルートを進んでいる。伊豆大島の甚大な「山津波」が発生し、多くの尊い人命の死亡不明に、多くの人が涙する。災害復旧と捜査が続く中で、再度の台風上陸の「二次災害」を心配する。
台風26号による被害はルート沿いに発生し、三陸沿岸の牡蠣の出荷が15日から始まったばかりなのに、イカダからの牡蠣の脱落があり、億を超える大被害と生産者の打撃となった。牡蠣の脱落でイカダが浮き上がる現実に、これまでの労苦が一瞬にして失う事となった。岩手大船渡ではリンゴ農家が一週間後の収穫を前に、農家の多くが大打撃となり、一年間の作業が無駄になった。政府の第一次産業の災害への支援が求められる。
写真は水戸辺地区の住宅再建現場で、山の上に建設を進めている。それは津波の脅威を肌で知っているからの行動と思う。あの大津波の記憶が今も脳裏に私も浮かぶ、町民皆さんがそんな体験を乗り越え住宅再建を模索する。沿岸部の高台は空き地は次々に造成整地され、住宅建設が加速する。
小耳に挟んだ話に、自己再建には「300万円」との自治体支援があると聞く。我が町独自支援は自己再建に「150万円」ながら、その資金の在りようで補助金の額も変わる。
町長が言う、今年は「住宅再建元年」と、造成がスタートしただけで、住民が求めている住宅再建は3年後に最初の土地確保があり、住宅建設には建設会社不足で、2年から5年と掛かる住宅再建もある。

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2013
10/18

こんな普通の生活を一日も早く


写真は仮の診療所前の緑の丘が、東地区造成が先行し進められ、赤土の山が日に日に広がっている。この場所の再建は「病院」「ケアセンター」であり、昨夜の高台移転部会の示された地図ではこの脇に「役場」の建設もあった。「住民の土地確保が最初だろう」と、昨日の会議でも何が優先すべき事案かと行政に噛みついた。いやな部会員と、中心となり動くURと派遣職員は思っているだろう。
午後2時からは「都市計画審議委員会」の任期満了による、新しい委員への委嘱がなされた。議会総務常任として委員として参加している。いつも執行部に質問や疑問をぶつけているのは私で、ここでも嫌な委員と思われていると思う。
工場建設の京都の大工さんが体の不調から、京都に帰り2週間も工事がストップしている。一人で工事を任されていたが、その間の台風の襲来で足場の幕が剥がれたり大変だった。七ヶ浜の担当の工務店の社長が、その度に現場の確認には来るが、材料や廃材が積まれたままでとなっている。ここが私の選挙事務所であり、ここしかない。
今月の20日は「千葉のぶたか事務所」で、午後2時から親戚・仲間の集まりを予定している。多くの仲間はいるが総てに声掛けはしない。各々が被災地での生活に多忙を極め、そのご負担への配慮とご理解していただきたい。
自分の足で活動をしていて、後援会会報を志津川地区の仮設に全て回す事は終わった。自分の持っているノウハウを最大に活用し、震災の復興に力を注いでいきたい。
明日は東大阪のロータリークラブの方々が「平成の森」に来る。東大阪の印刷支部長さんから声を掛けられ行ってみようと思う。

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2013
10/17

台風の時は台風の中を


昨日9時に石巻日赤に父親のペースメーカーの、一か月を経ての診察に出かけてきた。帰る事には石巻の沖を台風が通過していた時で、台風と共に帰りは北上した。
三陸道の下りの道路は桃生から通行止めとなっていた。止む無く下の道路を通った時、三陸道にはパトカーと、消防車が止まっていた。「事故」が発生していたのだった。高速の交通は風に車が煽られハンドルを取られ、危険な状況があった。下から見ると車の後ろが破損している車があった。大事故でない事を願った。
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戸倉折立への志津川からの入り口、片側交互通行となっていた。この台風の気圧低下による高潮と波浪そして満潮が重なり、海からの波が国道の車に襲い掛かっていた。交通整理や打ち上げられた小石を掃除する人など、10人が出て作業していた。
横山のモクモクランドからの川も土手いっぱいに川水が埋めていた。震災直後の横山の町の浸水被害を想いだした。横山仮設でも被害を受けた事もあり、帰りに知っている人の仮設に回った。前の川は後1メートルの余裕はあったが、「早めに避難して下さい」と話してその場を帰った。
町も市街地は勿論冠水し、安全確保の為の工事の人が、南町の浸水地を見つめていた。警察前のスタンドも給油場所が冠水し、仕事とならず休業となっていた。この日は学校も休校のようで、会社前の通学バス乗り場からは子供たちの声は聞こえなかった。
町からの帰り折立の場所には作業員がいた。「通っていいよ」との合図に発進したら、大波が私の車に上から覆い被さった。塩水による「サビ」など私の眼中にはなく、ガードレールもある事で安心はしているが、打ち上げられる土石の多さ大きさに驚く。

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2013
10/16

山肌を削るように仮設が建ち住宅が建つ


海岸線の集落の仮設にここ2・3日廻った。南方の仮設の空き家の増加は進むものの、地域に根差して造られた地域仮設の空きはは、思っていた程ではなかった。
海岸線の幹線道路から一歩入る山に、仮設が建ちその近くが、「防災集団移転」の場所となっている所も少なくなく、現在急ピッチで造成工事が進んでいる。
国道に架かる橋を渡ると細浦地区の仮設があった。被災場所のコミニティーが継続され、高齢者の「井戸端会議」がどの地区でも、設置されたベンチとテントの下であった。私は帽子をかぶり普段着で行くと、しっかりと挨拶が帰って来た。「御苦労様です」に皆が頭を下げてくれた。
全ての仮設に設置された仮設の集会所が、住民のサポートセンターとして機能していた。集会所からは笑いが漏れ聞こえ、福祉士の活動がここにもあった。長引く仮設生活の高齢者の孤独・孤立を防止し、楽しく移転が終了するまで、欠かせない場所となる。先は2年4年後とまだまだ先を予想する。
橋の袂にはコスモスが満開で、その下を大型トラックが後から後から連なる。

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2013
10/15

寂しい悲しい町はどうなる


昨日も数カ所の仮設を廻った。また引っ越しの車が仮設の前に止まっていた。先週も南方の仮設で同じような光景を目にした。
昨日は顔見知りの方の引っ越しのようだった。寂しい淋しいが考えると募って来た。仮設には「空き室」「投函はしないで下さい」とあり、何もない所にはチラシや郵便物が、入りきれないくらいいっぱいになっていた。
もう一つ「町民の声」があった。「何で仮設の空室に町の幹部の関係者ばかりが入所できるの」だった。私は決して特別の入所は少ないと思っている。新しくアパートが建つと、自治体派遣の職員や町職員も、一早く入所できている気がするが、職員の復興への事務処理多忙の為に、この辺はしょうがないように思う。
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被災した場所を自己で嵩上げして再建を目指している場所を目にする。また、既に建設を終え入居をしていた。山陰の高台への移転だけではなく、そんなに平坦な土地が沢山ある訳でもないのが、南三陸町の地形だ。
写真は保呂毛地区の津波到達地点近くから、大雄寺前の道路と橋の方角を望んだ。左側は津波で直後は被災し全てが流失したが、1年半ぶりで来たが住宅の建設が嵩上げした土地に完成し、そり前の土地も嵩上げが進んでいた。山を削って土地を確保するのが理想だが、嵩上げての住宅建設は土の落ち着き状況もあり、直ぐに建設とはいかない。
明日から大雨と強風が巨大台風の接近であり、今日から「牡蠣剥き出荷」となるのに、海山とも強風範囲の広い台風接近で大変だ。田んぼの稲刈りや牡蠣の水揚げに影響がでそうだ。自然は気ままで都合などは考えなくやってくる。
今日は母の施設に父が支払いに行く、支払で色々あったがブログでは言うまい。

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2013
10/14

こんな高台の小スペースに


椿山亭をご存じだろうか。大久保寄りの水尻川の河口の小高い場所の住宅地が「ちんざんてい」として呼ばれている。
ここの小さな場所に12世帯の林地区の方々が、仮設に入居して暮らす。細い坂道を登りきった所に家々が建ち、その奥に仮設が建設された。私の父の友だちが2人いる。冬場の上り坂の凍結に頭を悩ませていた。写真の光の方向に国道側にBRTの大久保入口ができた。議会でも国道への取り付け道路ができないかと、道路凍結対策として震災後に話した事を思いだした。
登り口は昔「小松原」として、潮干狩りや釣りを楽しむ事もできた。昨日も釣り糸を垂れていた人の姿を見かけた。「親水」の場所として若い世代が、ここを何とかしてほしいと要望を待ちの議会にも提出している。
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先週は戸倉や入谷の山の方へ顔を出してきた。若者が乳牛や肉牛の飼育に頑張っていた。町中の人間が余り立ちいらない場所で、志津川地区での大規模な牛舎を持ち、経営をしていた。私は初めて見たその大きさに圧倒された。
西戸地区の県指定の農業のモデル地区指定も、話とは行って見ると大きく違っていた。農業を志して震災を受け入山しての経営には頭が下がる。また、昔からの事業者も牧草の放射能問題があった時の苦しさがあり、まだ被害として残っているものの、着実に前へ進んでいる姿を見た。元の地で再建を模索し、土の嵩上げの場所も見てきた。若者には可能性があり、行政が国県事業業制度をフルに活用し、営農にもっと力を傾けるべきと思う。
酪農の将来は大変と聞くが、若者の担い手も多く、新しい町づくりの一端を担える可能性を強く感じた。

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2013
10/13


こんな所も山が造成されていた。「待てない!」との町民の、この心の改善に政策を、一向に加速する事なく、復興計画どおりと行政は今も言い続け、今後もこの進め方に変化はない行政の体制がある。
今日も入谷へという方が来た。入谷地区を被災直後に、仮設建設場所と事業への展開を言い続けたが、今もってその方向をとっていないし、公営住宅として桜沢に一か所設けただけで、再建の場所と選択しなかった行政、現実として多くの人達が事業所・自宅と土地を求め、現在も彷徨っている。人がいなくなった後に「町づくり」は何の意味もなく、今後復興がした時に帰って来るはずもない。
私の仲間たちも知人も「終の棲家」として家を建て、財産を傾注し故郷へ帰って来るのは、姿を見る為であり、再度の生活の場ではない。
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袖浜地区の海岸線まで下がったのはしばらくぶりだった。漁港前では潜水の息音が聞こえ、その脇では「漁礁」の製造が進められていた。
人口海水浴場の大橋の下の瓦礫は無くなっていた。漁具や畳など山積みとなっていた物が、全て片付いていた。知らぬ間に瓦礫撤去は町中同様に処理されていた。戸倉の瓦礫処理場は今後は漁具の処理に入るが、網などは小さく切って処理をすると言う。今後、瓦礫の分別は終わったが、年度いっぱいで昼夜作業が続けられていると聞く。
この事業は県の事業で、計画が諸々の事情で伸び伸びとなっている町事業とは、何が違うのか自前の対策・政策・対応に差があると私は思う。

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2013
10/12

大病の前の検査と予防そして治療を


こんな光景に今日の朝出会えた。この町で生きているからこそ出会える喜びである。
昨日は津山町の3カ所の仮設を歩いた。志中の同級生が3人被災しここで暮らしていた。考えさせられる事件が起こっていた。「先輩頑張ってくれよ」と漁船に乗っていった後輩の、病床の姿だった。帰り、もし自分がと思った時の、震えと不安が一気に今後への生き方を考えさせられた。「自分が倒れたら」どうなる? 家族・親戚に重荷となり降りかかり、両親を最後まで見るも当然と思っていた事が、周囲に迷惑となり影響する事は、私の本意には絶対にあり得なく、これまでま自分の考え生き方を全部否定する事でもある。
若くして事故や病気で亡くなった仲間が、津波を含めると30人を超え50人以上かも知れない。「親より先に死ぬ事は最大の親不孝」とよく言っていた。しかし、自分にもこんな事があり得ると昨日実感するに至り、病気と真剣に対する事は自分だけの為でない事の意味を知った。「自分は大丈夫」は絶対に無い。「あの時に」は大病がどうにもならなくなった方の言葉を聞き、その先に適切な対応を取る事で、最大の親孝行ができる。
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津山総合体育館前のグランドには、学校・地区? の運動会の準備がされていた。丁度紅白の入場門の間に仮設が並ぶ光景に、私には相反する不自然な姿に映った。
震災から2年7か月、被災地では月例の「不明者捜索」が実施され、毎月の11日は家族を亡くされた方には、月命日として特別な日と位置付けられている。気仙沼市の不明者がラジオから二百数拾名と流され、我が町よりも多いと解った。自分の町の死者不明はだいたいながら知っているが、他の地域の数までを脳裏に入れるのは、多種多様に情報の数はあくが故に、私には無理でふる。
高台の造成は林野を赤土の山へと移り変わらせ、今後ここを「被災支援」の観光バスのルートとして、また加わる事が私は嫌です。

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2013
10/11

南三陸町民の底力を見せましょう


今日も2時から眠れず、被災当時を想い起こしていた。4時には買い求め3日目となった「サンマ」を捌き、塩を振りかけサンマ焼の下ごしらえをした。
昨日は初めて西戸地区の仮設「切曽木」に行ってみた。18戸が西戸への橋から奥にあり、「遠い」が実感で被災農地が広大に広がり、来年3月末が、農地災害復旧の事業期間として、掲示されていた。県の事業で仮設前には「県知事選挙掲示板」が設置されていた。昨日が告示日だったと思う。現職対新人の一騎打ちの戦いとなる
朝5時半に水尻橋前を通過し、水平線の朝焼けに魅了され、三浦魚屋さんでUターンして、
カメラに収めた。見たことの無い大型作業船が、県の事業として港湾の復旧工事が、大急ぎで進められ、本格的に始まった。
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写真は切曽木仮設前のビニールハウスである。しかし、ハウスは牛の飼育施設として使われていた。ビニールハウスは私的には、農産品の育成の為に用いられていると決めつけていた。
ここまで来たのは5年ぶりだろうか。ホタルの乱舞する場所として小川に来た、その時に広い草地の一角に鳥居があった。今はビニールハウスなどの片隅にあり、農作業の場所として活用されていた。昔の面影は私には何一つ無かった。
折立川の氾濫で臨時の橋が流され孤立したのは、1年半も前になるだろうか。荒町へのう回路も少しは改善されたが、道路は危険と聞いている。
一向に見えてこない「終の棲家」の、高台造成移転への「安定と安全な生活」、被災住民が求めているのは、ここだと言う事が判っていても、なかなか工事がすすんでいないのが現実で、「戸倉団地」への大型車の往来はこの日も見られなかった。

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2013
10/10

仮設生活者の落ち着きは何処から


昨日は入谷地区の仮設を5カ所回った。訪れた時間は住民の姿は外にはなく、集会所での支援員の方との集まりがあり、仮設訪問の姿が一か所であった。二人の組になり点在する仮設を順に回っている。
岩沢仮設は入谷地区の奥深くにあり、仮設の中央道にも昨日は誰もいなく、集会所の前にベンチが置かれていて、「AED」がいざと言う時の為に備え付けられているようだ。心臓の電気細動器で心筋梗塞の時に使われる。昨日も秋にしては暑い日が続いているのに、部屋から出て何かをしようとしている方は少ない。10名以上の人と会ったが悲壮感は伺えなく、高台移転の期間が決まり、「その時を待つ」と言う心境で、落ち着きが出てきたのだろうか。
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童子下の仮設の前は秋の装いとなり、コスモスが咲き乱れ、稲刈りの天日干しの光景があり農地が一面に広がっていた。
入谷地区は津波被害も少なく、被災依然と変わらない営みがあった。遊休農地の広がりはあるものの、農家の人たちはせっせと文句も言わずに働いている。南三陸町の人たちは勤勉で真面目で、お人よしが付くくらいに優しい。優しいだけではこの震災から這い上がる事は出来ない。

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2013
10/09

仮設で死にたくない


昨日は「千葉のぶたか後援会会報」を一人で、志津川市街地で家屋が流失し、仮設で暮らす志津川と入谷地区に建てられた仮設の方々を廻った。
役場の周辺にある「沼田仮設」では、知人のおばさんに「議員はいったい何をしてるの!」と怒られた。町の行政の事を常々心配されている中で、町長と議会のやり取りの報道を注視していた方でもあり、議会議員の活動に不信感を持ち、町長には反感が無かった事に不思議を思った。役場向かいの東浜地区の造成は、写真の通りキューピッチだが、病院は27年度末で戸建・公営住宅は27年度末から順次入居で、29年度末が全て完了の計画を立てている。
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小森仮設に行くと以前は無かった新築の家が5軒も建設、あるいは建設中だった。48戸の仮設ながら空き部屋が1~2戸しか無かった。
ここで同級生の仮設が3戸もあった。怠慢で判らなかった訳ではなく、本当に多忙だったし被災民は同級生だけではなく、南三陸町民の7割が何がしか被害を受け、全てに目を配らないといけない。突っ走って来た2年7か月であった。
町内に仮設を得た人は流出とはなっていなく、登米市南方は空室が多く、仮設入居が300戸と少ししか無い気がする。郵便ポストはチラシでいっぱいとなっている所もあった。
この場所への町民生活を守るための移転は、人口減への大きな政策の失敗と確信した。荒町仮設200戸建設を達成できなかった事を今も悔やむ。
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ここを何処かお判りだろうか。昔あった「小森自動車教習所」で、被災後は被災車両の置き場として、この後は高校生のバイク練習場として使われ、現在は良く見ると基礎瓦礫置き場のようだ。
町中の病院・工場跡地の基礎瓦礫の破砕で終わりが、まだまだこんな所に持ち込まれていた。決して行政のあら捜しではなく、南三陸町の被災地の現状が厳しく、今も残っている事を示していた。
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あんなに山と積まれた震災瓦礫そして基礎瓦礫が1年半で片付いた、このスピードに驚かされる。何故と分析すると、一極集中の工事のやり方と私は思う。
町の志津川地区の津波拠点事業による高台造成は、大部分が29年度末を予定している。早期の完了の事業展開の方法が在るはずだが、その完成時期の短縮方法は現行政のトップは、すもつもりもない現在までの復興事業となっている。
今日は入谷の奥地に建設された仮設を廻る。また、その状況を伝えたい。

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2013
10/08

選挙支援者協力願います


私の中心市街地である志津川地区はだいたい2000世帯以上あったが全てが写真の通りです。私に頑張れと言ってくれた人も100人以上も亡くなった。「町民党」を自負しここまで歩いてきたが、みなし仮設に入る市街地住民も多く、東京は数名だが、仙台に住み仙台市民となった方もいる。その他にも家を建て仙台近郊に移り住んだ同級生、登米市に家を建てた人や建設予定の人もその数の家族は100名を遥かに超えた。
現在町で生き仕事をしている方は、毎日の仕事や環境に追われ選挙どころではなく、私を助けている方々を探しているのが現状で、一人でその準備をしている。多くの人たちと集まり活動し今後の町をどうするかを、みんなと話し合いたいと思っている。
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稚児行列のこの子たちが15年後に、暮らし大人となる頃の町づくりを現在している。しかし、家族は「子供たちは町外でも良い」と口々に話す声を聴く。今になった事では無いが、この動きは被災前から進んでいた。
南三陸町で生計を図っている家族事業所者は、子供たちが地元で後継者として残る。両親を抱える家督は残る事を選択するが、家督であっても働く場の少ない跡継ぎは、しょうがなく内陸の市で働き、通勤の時間は1時間を要し、毎日の生活が大変と聞く。
両親も子供たちの生活を主体と考え、離れて暮らす事を了解する。今回の大震災の発生や高台移転の造成遅延は、これに拍車を掛ける結果となっている。
選挙協力してくれる方は電話0226-46-3069に連絡下さい。携帯に転送されますので宜しくお願いしたい。

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2013
10/07

賑わいの荒町の一日


昨日は南方を廻ってきた。仮設の「空き家」や郵便受けの目張りをしたところが多かった。50軒以上既に仮設から出ている感じを受けた。これが現実としてあっても行政はそこまで、町民には伝えていない。議員が担当課に聞いて議会で「どう対策を講じていくのか」と行政に詰め寄って、その対策が何もない事に驚くのが現実だった。震災後の初動と政策・対策の失敗が、住民の流失へと繋がっている。昨日も「今日仮設出る」言う方が引っ越しの準備をしていた。
早期再建を諦めての考えで、最後まで「南方仮設に居ます」、「何も経費が掛からないから」と話す。それとは逆に早く安心できる場所に移りたいとの思いの方と、半々位の状況が南方の今の状況だと感じる。
昨日会社にいると、礼装の来客があり「今日はなんですか」と聞くと、地域のお寺の大きな行事があると言う。多くの地元の人が集まり、稚児行列が沢山の僧侶の先頭で行列を作っていた。震災から「稚児行列」を始めて見る。一日も早く子供たちの節目の儀式が、普通に行われる時を私は待っている。

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2013
10/06

丹精込めた自慢の南三陸の米


父親の入院見舞いに戸倉地区の生産者の「新米」をお返しに使った。色々な方法で見舞い返しがあり、多くは「仮設商店街」で発行している商品券があり、その他にもイオン商品券や、大型量販店の商品券が使われている。
日本人の主食であるコメの消費拡大は、農家を守るためながら、自己での販路での価格と農協出しに大きい価格の違いを聞く。いくらでも農家からの購入をしたいが、全ての農家が乾燥・精米ができるわけではなく、委託するとそこで経費がかかり、収入減となっている気がする。しかし、農機具などが無ければ、現代では稲作が出来ないのが実情だ。単作で20ha以上がないと経営としてはなって行かない。中山間地帯のいわゆる「3反分百姓」的な耕作地帯では農業で生計をたてるには容易な事ではない。これでTPPが入って来たなら稲作農家は成り立っていかないのが実情だ。

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2013
10/05

少し焦りながら一歩ずつ前へ


大型サルベージ船が戸倉滝浜から志津川地区の造船所前に、今日の朝来ていた。その大きさに圧倒され車を止めて写真を撮った。後ろに荒島があり、その大きさと比べると、その巨大さが判る。港湾は県の復旧事業として位置づけられ、その加速は震災5年間での期間があり予算執行に盛り込まれ、総てが計画どおり進んでいるようだ。ゼネコンを上手に使える国家的な復旧工事は、国の事業しての立場をフルに活用している。こうした事業の展開を政府に展開陳情が行政トップの仕事と、現在遅延を感じる町民は思っているだろう。
昨日志津川剣道スボ少の練習があった。子供や親の体調、家庭の予定に左右される2人だけの団員で、週一回となり行事も嵩み一か月ぶりの練習は、子供たちも早く練習したいとの気持ちが前面にでて、良い練習となった。私は選挙モードへの注入により、2週間休みとなる。練習のメリハリも必要で、新たな気持ちで練習に臨む事で何かが見つかる。
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自宅兼一部事務所としての「終の棲家」は工事がここまで進んだ。昨日は住宅ローン・金利補助金申請・現在の土地建物登記など、諸々の再建への障害を片付け、ローンの資金が通帳に入った。金策に苦しんだここ1年があり、15年間のローン返済に、今後は向かう事となる。
その用事の時に震災後初めての知人と会った。既に家族は登米市に家を建築し市民となっていた。その人に驚くべき情報を聞く。8月いっぱいで伊里前小の校長だった兵藤先生が亡くなられたと言う。突然の退職の理由はここにあった。荒砥・入谷小学校の校長として指導にあたられ、震災後は入谷小に於いて被災者の救済や、子供たちの震災の心のケアにあたっていた。私も入谷の体育館の避難所に立ち寄った折、先生の献身的な活動に触れた。
震災の混乱の中で身体の異常を察知しても、検査入院が出来ない2年半の中で、体が病魔に侵されていた。「大丈夫」と私も皆さんから声を掛けられる。私は採血による10種類以上の検査をしている。血糖は順調な値へと処方と食事により改善されている。町の再建に必要な人が体調管理をできなく、突然の死を迎えるのは、二重の災害であり「二次災害」と私は思っている。
今日もする事がいっぱいある。町中の光景写真も町の大きな変化として伝えたい。

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2013
10/04

ボラセンにこんなにも今も人が


2日水曜日の9時前に役場に行った時、「ボランティアセンター」に多くの人が集まっていた。関係者は「ボラセン」と言い、ボランイテアさんの受け入れ、配置を決め支持する場所である。漁業者の作業支援・個人宅の手伝いなど、要望書を出して支援を受ける事ができる。他の自治体では受け入れ体制の解散があり、受け入れ施設の管理ができない行政の事情で、資金の出どころが難しい事があるのだろうか。バランティアの支援事務所とて諸々の経費は当然発生する。
昨夜も集まりがあり「行政の事業の遅さへの怒りを力に変えましょう」と話した。行政職員の理不尽な死への「死者に報いる為に頑張る」、このエネルギーを早期の町の再建への力に行動に、今後も努力していきたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:15 】

2013
10/03

最年少町長の議員報酬と定数の講演


昨日は加美町のバッハホールで、仙北町村議会研修と懇親会があった。車をアリーナに止めて参加したせいで、朝5時に取りに歩いて向かった。沼田ローソンからアリーナまで歩くと10分掛かり、帰りは車で2分と掛からなかった。高齢者で車の無い方の移動事情を実感する。町の巡回バスやBRTの交通手段はあるものの、限られた時間の運行で、徒歩での病院・役場までの坂道は、用事は高齢者には大変だと交通弱者を心配する。高台移転はこの地区に「災害公営住宅」の建設を予定している。早期の「終の棲家」を早期に建設を今後も、行政に訴えていきたい。写真は向かう道路から造成される側の山の切れぬの朝焼けを撮った、ザワザワと波の音が聞こえてくる、海に近い事が判った。131002_124058.jpg
講師の中村健氏は27歳で徳島県川島町長として2期を務め、その後で早稲田大学マニフェスト研究所次席研究員として現在に至る。全国最年少での首長であった。
川島町を含む4町の合併で「吉野川市」が誕生し地方自治の探求のために、早稲田大学大学院公共経営研究科に入学した。修士論文は「大隈賞」を受賞した。現在、議会改革や行財政改革、共働のまちづくり、ICTを活用した政策立案・政策判断手法、職員の意識改革、選挙など地方自治体が抱えるテーマに、自らの経験と研究者としての理論構想の双方からの対応を研究している。
さすがに行政のトップを2期も務めた経験は、知識や話し方、堂々とした態度からも堂々とし研究した事での自信が伺えた。5人からの質問にも丁寧に答えてくれた。意味不明な問いにはしっかりと聞き返し、皆が判りやすいように説明した。
バッハホールは40年ぶりになるだろうか、「集大成」と9月議会で語った大先輩も、最後の交流会にまで参加した。その顔からは稲刈りの天日干し作業の疲労は見えるが、晴れ晴れとした笑顔が伺えた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:27 】

2013
10/02

志津川地区の全景です復興は市場だけ


昨日は「立候補者説明会」があった。出席者は現職の12人に、新人が5人の姿を見る。4年前何も解らず説明会に出席し、混乱の中で一人での準備、今、思うと良くやっていたと感じる。その当時の行政トップへの怒りがエネルギーとなり、突っ走った4年間を振り返る。その怒りは少しは減少したが、まだ復興復旧に形に多くの疑問がある。町長選は予定通り一騎打ちのようだ。
ローンの申請にまた問題が発生だ。借りられるような銀行の指導の下でいろいろの準備をし、家族3人の力で何とかしたいと思っていたが、兄弟の協力を得ないと何ともならなくなった。ここまで来て銀行への怒りを昨日爆発させたが、私が何を言っても巨大な企業には勝てない。企業の人情が無くなったと、同様の話しを震災後に同業者から聞いた。自分の弱さを痛感する。彼は自己破産を申請したと風の噂に聞く。
突然の電話だった。「遺跡の出土で復興が遅れているのですか?」との、報道機関からの電話で、高台移転への質問の多い、と言う事から私への取材だった。「決して遺跡出土のせいではない」と私は答えた。
ホテル観洋から志津川市街地を望む、この写真からは復興の姿は良く判らないが、拡大してみると、市街地は2年7か月が経とうとする現在、市場は水産業の復活のために進んではいるが、住民再建は見える場所での判断では、再建はまだまだだと感じる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:24 】


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