ARCHIVE - 2013年05月

2013
05/31

再建弱者や高齢者を守れ

石巻の 被災者住民支援が新たにあると報道された。防災集団移転以外の住宅移転支援に786万円のローン補助が最高で充てられると言う。これは、すでに崖地危険地域指定で、我が町では制度化されている。これが石巻市では、その他にかさ上げに400万円と、住宅建設に150万円の補助で、対象世帯が二万世帯あると言う。私は全壊なのでり災加算金が200万円貰えるが、これとはどう違うのか疑問だ。被災地区への支援制度が次々に変わり、ややこしくなっている。
三浦さんの80歳でのエベレスト最高年齢登頂の陰で、日本の女性の有名登山家がエベレストで雪崩に巻き込まれなくなった。エベレスト登山料金は250万円と言う。世界遺産の富士山の登山料金が議論されている。専門家は一万円位と言うが、頂上を目指す人の額では安すぎると思う。
安倍総理がまた今度は、三浦賞なるものを創設すると言う。登山家の三浦さんの偉業を讃え、高齢者に元気をと言うことらしいが、余計な税金が掛かるのなら止めて欲しい。
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2013
05/31

やっぱり父親は大きい


10月が来ると90歳となる父の弱さばかりが見えた、ここ二ヶ月ながら、私には出来ない活動にすごさに驚いている。今月になり宮城の河北新報の東北版に、カラーで大きく自分が体験した三つの津波を新聞で伝えた。新しく赴任してきた記者に二日間の半日にわたり、持っている記憶を頼りに説明し、それを記者が記事として掲載してくれた。会社を襲った津波と町の大火など、熱心に聞いてくれた記者に感謝したい。
今回の事は、陰り始めた父親の気持ちに元気をくれた。多くの人から、見たよの声がその根元のようだ。また、別の形で周囲の人々に支え助けられていた。

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2013
05/30

看護師から介護施設へ

火曜日に米山の我が町の病院へ行き、母親の様子を見に行った。病院の治療のおかげで、落ち付きを取り戻し、看護師の食事介助を受け、何とか口から食事を取るまでになった。
今後の事を相談すると、我が家の事情と施設の受け入れ体勢を話すと、南方の施設を紹介され、その足で相談にいった。母親の状態を話して、病院の診断書を貰い施設の審査で入居が出来ると言う。その時間は一週間から10日掛かると言う。大丈夫だと思いますし、千葉さんの家庭環境を鑑みても、早期の入所が必用と言ってくれた。
捨てる神あれば拾う神ありです。

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2013
05/30

生きる事の厳しさ

2013-05-27 10.09.13
昨日は特別な一日となった。天が与えてくれた時間と大切にしたい。子供達に言う、苦しみに耐える事で何かが得られる。苦しかったら我慢しなくてもいいんだよ!と。そんな体験をした。
寺浜からの帰りに滝浜から椿島を望んだ、手前の海水が地震発生、津波の襲来前にすべてが無くなり、水深が深いところで7メートル前後あった。信じがたい光景が広がった 場所です。

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2013
05/29

生活は日増しに厳しく

2013-05-27 10.06.31
昨日も国民健康保健の窓口負担が大変ですと言う電話が夜きた。四月からの三割の負担も、平常時ならなんの厳しさも、ないのだろうが被災し何もなくなり、再建を視野に入れての現在の暮らしは、ギリギリの無駄な出費をなくしての生活がある。
テレビ・ラジオで震災遺構のことを放送していた。大槌町の町長を含めた40人の職員が死亡した中で、現町長は苦渋の決断として、庁舎を残す事を公表した。多くの解体すべきの声がある中で決定した。高田の一本松もモニュメントの不備の為に、やり直し工事が現在行われている。
また、何処のメディアも親戚・兄弟の中でも、解体・残すべきの2つに意見が二分していると報じていた。今、防災庁舎の献花は増えていると言う。これは、仙台・宮城ディステネーションキャンペーンの、観光客の多くの来町者の献花のためであり、悲劇の庁舎を残すべきとの考えの行動ではない。
戸倉藤浜の造成もここまで進んでいる。私と同じ考えの高台移転を最初に!が町民の願いと声です。

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2013
05/28

平森の花は心の癒し


土曜日に歌津平成の森に知人に会いに出かけた折、平森の高台の仮設までの登り坂の「シバザクラ」の濃いピンクの花の波に、このきつい登り坂も「ホッと」する。両方の土手一面のシバサクラの植え付けに感謝したい。長引く仮設の生活が予想され、季節ごとの花の開花は不安いっぱいの心を癒してくれる。
昨日は登米市で開業の笹原先生に薬を貰いに行った。今年3月末までの医療費の免除があったが、診療3500円と薬代7500円の支払いの3割負担があった。被災者免除があったが当然の支払発生は、被災生活で所得の少ない方々や、仕事が無い人・高齢者には、大きな家庭の支出となる。先生の所へは多くの南三陸町民が、地元から登米市で暮らす人たちが沢山いた。何で先生を地元に留められなかったのか、大きな南三陸町で診察をしていた貴重な医師を、行政は医師不足を言いながら損失させてしまったと思う。笹原先生は25年前の志津川病院からの私の主治医として、「仁術」を使いこなす医師と私は思っている。
「三陸復興国定公園」を知っていますか。福島県相馬市から青森県八戸市までの、700㎞に及ぶ3つの公園を1つの公園に、5月以後に編入すると言う。自然と共に生きて来た地区で、復興を加速する事を目的にする。また、森・里・川・海の繋がりの中で生きる、災害の多い地区でもある。現地を見てもらい復興の力に変えてもらう。その目的でこの名前が付けられたと言う。
しばらくぶりで志津川の景勝地「神割崎」に出かけた。オートキャンプ場には仮設住宅が建設となっている。午前の10時なので人影はない。店主に聞くと来客はまるで少ないと話していた。震災直後は行方不明の家族を探しに人が訪れ、戸倉地区の亡くなられた方の「法要」の場所として利用された。現在は復旧工事の労務者の方が「500円」の食事に来店している。生活費を制限されての下請けの方らしい。指定管理の中での神割プラザの経営は、22年にリピーターも増加し、経営も黒字へと変わりつつあった中での今回の震災で、今までの努力が無となく再建は難しいと言う。自然公園としての南三陸町の観光の一つ、施設の草刈りなどの作業整備を続けないと、公園は荒れてしまうと頑張っている。観光客・地域住民の憩いの場として、「ホッと」落ち着ける場所を、確保と守って行きたいと話していた。行政には観光客がこの場所にも訪れるような、イベントやホームページ紹介など、行政の支援なしでは存続と維持は難しいと言っていた。「タブの木」戸倉漁協直売所もあり、行政と復興市との協賛で、以前開催された「潮騒まつり」のようなイベント開催で、南三陸町の景勝「神割崎」の復旧事業の再建を、「三陸復興国定公園」を追い風に進めるべきと思う。
今日は登米市米山の「公立志津川病院」に、母を3日ぶりに様子を見に行く。

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2013
05/27

自然の出会いと繋がり


多くの人たちが志津川仮設商店街に集まった。高台からモアイの設置広場は、駐車場から直ぐの場所にあり、商店街に来町された方は、南三陸町とチリ共和国のモアイの故郷、「イースター島」との出会いのキッカケをここで知るでしょう。昨日の写真がその場所です。
引き続き「ホテル観洋」での祝賀会には、モアイプロジェクトに関わった方々が集まった。そこに八神純子さんが私のテーブルの隣りにいた。「なんでだろう?」があった。2曲の歌が披露され、その理由が語られた。八神さんが初めて行った海外がチリ共和国であり、東日本大震災では最初に支援で訪れたのが、南三陸町だった。その偶然の繋がりを自然の出会いと思うが、こうした昔からの繋がりがここにはあった。偶然か必然かと言うと、出会わせてくれたのが「自然の災害」だった。志津川漁協で漁民の人たちを応援する姿が、バックの映像で綴られていた。
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また、隣のテーブルには彫刻に係った方の家族8人座った。陽気な気質なのか「創作太鼓」「獅子踊り」の披露に笑顔で大拍手を送ってくれた。
日本で有名なイタリアンシュフ奥田氏と、チリ共和国のシェフが南三陸町の食材で、食事が振る舞われた。ホタテ・しらす・ウニが前菜で出され、アワビ・チリ産サーモンそして銀鮭がマリネ・煮込みで、二人のシェフが趣向を凝らして提供された。今まで食べた中でも最高の料理だった気がする。
昨日は「歌津復興市」があり、歌津の仮設商店街は震災後最高の人出となった。昨年の県の観光客の数は5144万人で、昨年より19.2%の増加となったものの、被災前の6200万人にはまだほど遠い被災地の現実がある。海岸線の観光客は気仙沼が53.6%・石巻が44.2%の減少で、南三陸町もボランティアが10万人を超えたが、同等の眼光客の減少となっているだろう。
アメリカの大竜巻は1万2千世帯が一揆に吹き飛ばされた。2㎞幅で20㎞に及びその自然の威力が多くの被災者をだした。何処に発生するが判らない、自然の猛威が幾度となく発生被害をもたらし、アメリカ国民の不安は続いている。
介護職員の報酬が5000円上がったと言う。全国の常用の介護施設職員の給料が平均「27万5千円」となった。これは政府の政策によるものと言う。私の母も施設でお世話にショートで見てもらっている。この地域はどうなのか思うが、家庭ではできない介護の大変さを、料金は掛かるがそれには変えられないものが、その介護にあり感謝しかない。
今日・明日は今後の段取りで大変だ。

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2013
05/26

モアイ 未来に生きる


私はモアイの一日となりました。10時からの「除幕式」が仮設商店街であり、チリ共和国からの来賓と関係者がバスツアーで来町し、この日の式典に臨んだ。日チ経済友好委員会・志津川高校の生徒の、「モアイプロジェクト」が、イースター島から島外持ち出しを禁じている中で、島民のご理解の元でチリ国と同じ津波と言う災害を受け、それを自然からの人間への戒めとの話し、チリ国の挨拶に昔からの自然への祈りを感じた。また、高校生の活動と熱意が大人の心を動かした。この式典の中で「未来に生きる」と言うモアイの意味に、未来を担うこども達が深く関われた事、多くの人たちとの係わりを大切にしてほしい。
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2013
05/25

自然の力に人間は謙虚に


昨日の河北新報に父親が過去の津波の事を語り部となり話していた。ぜひ町にはこうした90歳にもなる高齢者の、過去に起こった歴史を子供たちに向け、聞かせる機会を設けて欲しいと思う。現在の行政の関係者にはこんな事を、町長に進言する余裕はないのだろう。記者に生き生きと語る父親の姿を、しばらくぶりで見た気がする。
今日は志津川仮設商店街で、「モアイ像贈呈祈念式典」がある。引き続き祝賀会がホテル観洋で開催され、会費五千円で山形県庄内イタリアン「アル・ケッチャー」の、奥田政行氏の料理をご堪能下さいとあった。
私には理解できないこうしたイベントが現在あり、復興とは少し離れた行事の多い南三陸町の実情を不思議と思う。被災者は近隣に流出している中で、もっと町民を町に引き留める為の、イベントとか活動をするべきと言いたい。チリ国を初めとする多くの国から、日本全国からの支援に報いる事は、南三陸町住民が一人でも多く町に戻ってもらう事と思う。被災後にアリーナで志津川地区民に訴えた、「必ず早く帰って来てもらえるようにします」と言う考えは何処にいったのだろう。「喉元すぎれば熱さわすれず」の言葉のような現実に、空しさを感じる。時間が掛るのは判るが、それなりの町独自の行動・対策を願いたい。
昨日は同じ地区の方で、登米市に移転を決めた人が電話をくれた。志津川出身の不動産屋さんが、登米市の土地の造成に関わっているが、なかなか工事が進んでいないと嘆いていた。ここにももう一軒の町の方が移転を決めていると言う。
自然の風景から元気を貰った。「那智の滝」の雄大さに驚く、昨年の秋に「和歌山大水害」があり、その工事が行われていた。穏やかな川の姿は無く、山肌が削られ土石流の凄まじさが、今も痛々しく広がっていた。自然の力の凄さと河川の一歩ずつの復旧活動があった。観光地「那智の滝」「那智大社」には多くの観光客が訪れていた。広大な観光地があり宿泊施設・お土産品が並ぶ、日帰りが100万人で、30万人の宿泊客が年間訪れると言う。
今日も分刻みの行動と、その中にイベントと行事の出席がある。

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2013
05/24

日本一の富士をこの眼で


現実に引き戻される帰郷しての何も変わらない姿の町に、大災害の復旧の厳しさを思う。串本町の行政視察は南三陸町の復興への厳しい状況が、まだ全国には伝わっていない、少しの災害の風化を感じる。南海トラフへの大津波の発生に、私たちが体験した自然の驚異は、体験したものでしか判らない事を知った。
飛行機は10数回飛んでいるが、富士山をまだ見た事が無い私には、帰りの機上からは「日本一の富士」を是非見ておきたいがあった。行きは日本アルプスの日本の山並みに触れ、帰りは富士が見える側に乗り、生まれて初めて見える事を確信するも、上空の雲により初めての富士はお預けとなった。
串本町の方の質問に「あれはやはり想定外だったのか」があった。これに関しては、三陸・宮城・福島沖の三連動の同時発生は、地震学者からも一言も発しられてはいない。しかし、想定外だからと言って震度4の3分間の地震で、何が起こるのかは対策本部部長は、適切な判断と想定する事ができると思う。津波の恐ろしさを「防災の町」を自負する町としては、恥ずかしい限りであり、災害から町民を守る行政職員の義務にも、限界がある事をを理解していない気がする。
串本町の津波対策の調査しての「防災ビル」は、今回予想される津波の高さが10~18mとで、11mの防災ビル4塔の改善を講じないといけない。既存の防災ビルを高くするには、再建設するぐらい費用が掛かると言う。国の地震津波の予測に混乱する、行政の防災対策がある。過剰に津波の恐ろしさを町民に伝える事で、不安をあおる事よりは、避難道の整備と、地域の防災活動の行政支援で、町民の安全安心を確保し、そして不安を解消できる。
また母が震災後5回目の入院をしていた。

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2013
05/23

我が家は我が町は

2013-05-23 05.07.06
串本町は観光と漁業の町で、17000人の南三陸町と同じような町ながら、私たちの以前の町の経済体系、人間体勢とは随分違って私には映った。
大震災後の串本町の防災体勢づくりは、病院、消防、防災センターなどすでに高台に移転建設されていた。今後は社協などを建設する。住民の安全安心な生活環境整備と、福祉環境整備を優先に南海トラフに備えていた。観光の町ながら住民生活を重視した政策を講じていた。
ホテルの部屋からは、串本町の名所の橋杭岩が見える。リアス海岸は我が町と同じような奇岩を生んでいた。那智の滝があり、神仏の信仰への意識の高さが、この地域には感じる。
歌津の神社の祭りに再建のヒントがある気がする。

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2013
05/22

日本はどこも同じ

2013-05-22 04.42.45
昨日から二泊三日で紀伊半島の最南端の串本に来ている。ここは本州の最南端でもあり、今晩は勝浦に泊まる。マグロで栄えた町としても有名である。
しかし、現在は勝浦駅前の華やかさはあるものの、続くアーケード街はシャッター通りとなっていた。朝五時を回っても写真のように港は、一そうの舟も走っていない。現在は観光の町となっていた。
勝浦の港の向かい島に大型ホテルが2つ、500名が泊まれるホテルに私は宿泊した。隣の中の島ホテルは3000名泊まれるホテルだと言う、さすがにこれには驚いた。
串本での調査は避難搭などの町の防災対策です。南海トラフの今後発生する大型地震への若者の防災意識は、一人の女性に聞いたが、地形的にも避難は難しく、海岸線の地区からは高台に15分もかかるし、車では道路が整備されていないと言う。
午後から町役場で聞き取りをして、現地調査を行う。

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2013
05/21

前略しげる様

2013-05-21 06.43.22
今日、朝早く役場に行くと、正面の階段の踊り場に大きな写真が掲示されていた。しげるさんの理想の憧れの、吉永小百合さんの大きなポスターが、地元の高校生らしき生徒といっしょに写真に写っている。
今度町に帰ったら見て下さい、

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2013
05/20

天国の伯父さんへ

2013-05-20 16.24.34
私の父の兄が先月亡くなった。頭の良い伯父で表彰されるくらいと聞いた。河北新報販売店の前社長がよく話していた。写真は伯父が描いたもので、何かの冊子から切り取った物を模写したと言う。
私が中学の時に脳梗塞で倒れ、ききての右手が不自由となり、趣味以上の大好きな絵を書く手を左にもちかえ、倒れてから自宅療養後、老人ホームに入り趣味を深めた。今回いとから預かった絵の数は500枚を数える。
多くの苦闘の中で描いた絵を皆さんに見てもらいたく、現在会社で編集を始めた。

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2013
05/20

新たな未来へ飛んで行け


皆さんは写真が何か知っているでしょうが、日曜に野原に花が咲きその種が次の場所へ、新しい生活や将来の夢へと飛んでいく。日増しに暖かい風がタンポポの種を、空高く舞い上げる姿が、住民の故郷から新しい「終の棲家」を求め散らばっていく、それと同化して見えてしまう。
昨夕、本浜地区から他の町に移った方が亡くなった。私が20歳ごろから頭を刈ってくれたお母さんで、契約の仲間でもある。貧しかった時代に気の合う仲間で、会を作り助け合い、山を借り木を植え間伐などをし、成長した木を売ったりして、互いに助け合う事を目的にし親睦を図っていいた。私の父も90歳となり契約会の会員も、亡くなったり高齢となった。こんな大震災で全てを無くした今こそ、今まで育ててきた木を伐採し、再建のための資金にと会長に進言するも、あれから1年が過ぎるが何の進展もない。「復興特需」の真っただ中にいる多忙があり、手が回らないだろうが、個々の生活の中で苦境にある会員も多い。何とかしてほしい。何も言わないと皆のお金が活用されず、管理している人の手に残る。会計はみなさんが知る人ながら言わないで置きます。
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昨日2時30分から志中体育館で「志津川地区まちづくり協議会総会」が開催された。事務局の連絡で現在の会員数は「467世帯」と報告された。
この日は200席の準備されたイスは、4分の1しか埋まらず、9月1日の設立総会から初めての総会となり、24年の351万円の収支が報告議決され、25年度の予算は7005000円と役員の再任が承認された。議案審議に対し集まった50名前後の方からは、何一つ質問は無く私と知人が何点かの説明を求めた。阪神淡路の「まち協」の活動からは、比べようのない東日本大震災の現状と、復旧復興への厳しさを感じた。地元再建を諦め町外への流動があり、再建者の造成建設までの時間と、住宅再建の厳しさに苦しむ話を良く耳にする。住民の「スピードアップ」も、行政の体制の脆弱さからその歩みは、被災者とは大きな温度差を感じる。
今日も女川の情報が民放で報じられていた。女川の全てのガレキは来月で町から消える。東京都のガレキ受け入れで処理スピードを増した。南三陸町は今年度中と言う中で女川の終了を迎えた。ガレキを囲む壁に少女が絵を描き続け、来月でこの作業も終わると言う。ガレキの暗いイメージを明るく元気へと、始め続けてきた作業が一区切りとなる。
復旧復興の南三陸の被害地の女川町と南三陸町では何かが違っているのだろう。政策・対策でも住民生活の早期再生を優先する、女川町をメディアが伝える中で、南三陸町は何処へ向かっているのだろう。


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2013
05/19

好天に恵まれた南三陸町の行事


志小・入小の運動会が好天の元で開催された。子供たちの笑顔と目の輝きに「いいぞ!」と感じる。父母が運動会の側面をバックアップする姿に、学区ごとにこうした学校との連携で、楽しく事故の無いみんなが楽しめる運動会が運営されていた。
被災地の仮設が校庭にあり、そこから多くの人たちが運動会を見つめて、子供たちの笑顔が被災者に元気を与えてくれた。確かに人口の流出はあるかも知れないが、こうした姿に一端は近隣町外の生活を選択したものの、南三陸町の自然の良さ、人情の深さと地域の絆などの、これまでの伝統を思い起こし、きっと又帰って来てくれると思っている。ぜひ故郷の子供たちの元気を知ってもらい、そして生活環境が整備されたら、一人でも多くの人が帰ってくる事を願う。
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歌津払川で「払川ダム竣工式」が、村井知事・元県復興庁の郡和子衆議院議員など、国・県の議員、関係者が参加し完成を祝った。
豪雨による歌津地区の災害の歴史を語り、利水・治水の対策として数十年にもなる構想が、今ここに造られた。地権者の協力・理解、そして地域・契約会の支援により、「払川ダム」が完成したと、参加された皆さんが口々に話していた。ダムにより堰き止められた湖は「田束湖」として歌津地区の皆さんにより命名委員会で、決定され記念碑に刻まれ、ここにも子供たちが除幕に参加する。子供たちには町の将来に向け、素晴らしい場所を継承し守ってもらいたい。
その後で歌津仮設商店街で「祝賀会」が開催された。田束山の伏流水が海に中げれ込み、多くのミネラル養分となり、その養分を吸収した「しろうお」が伊里前川に遡上する。その「しろうお汁」が祝賀会で振る舞われた。
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「剣道愛好家の繋がり」を強く感じた一日となった。歌津地区に被災直後に大阪を中心とする剣道の「ブログ」繋がりの仲間の会の方々が、剣道手ぬぐい・竹刀袋などの物資や義援金の支援に、直接にと歌津を訪れ手渡した。
今度は剣道の交流を通し、歌津の復興を支援したいと昨日訪れた。歌津剣道協会主催で本吉郡剣道連盟が後援し、100名近い剣道指導者・少年剣士が集まり合同練習会となった。夜には戸倉「ほったてごや」で、親睦会も開かれ、剣道談義に華を咲かせた。

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2013
05/18

しばらくぶりで磯の香を味わう


昨日、町からの帰り戸倉折立に入り、余りの海の青さと雲一つない空に魅了され、車を止め風景を写真に収めようといた。車のドアを開けると「磯の香」が強くプーンとした、震災2年間にこんな事はなく、こんなにはっきり空気を感じた事は無かった。
遠くから「先生―」と呼ぶ声がした。剣道の戸倉地区の教え子との再会となった。私は決して偶然とは思ってはいなく、自然に必要とされる人との出会いが、ここにあると思っている。
夜は同級生との一席があり、同級会や自分の事の今後を打ち合わせをした。自分たちの事だけでなく、町の今後で激論となった。互いの町との係わりの中で持論を展開し、ご馳走・お酒そっちのけで、町づくりを話し合った。
昨日は小森からの帰り「御前下地区」の大きな開発を見る。薬王堂が開店して、そのから志津川仮設商店街へと、開発は進んでいた。なぜか県庁舎跡地に大型バスが、よく見ると「通学バス」だった。広い場所を7台ぐらいが占領する、気仙沼市本吉の会社のもので、土地の活用が成されていた。DCが終わるまでとは思うが、これからこの土地を町はどうするか注視していきたい。
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今日の18日土曜は朝から晴天に恵まれた。多くの行事が町であり、出来る限りの参加をする。8時30分から志小の運動会があり、11時30分には仙台から建設会社が会社に来る。午後は1時から払川ダムの竣工式があり、歌津仮設商店街で祝賀会が引き続き開催される。2時30分には伊里前小学校で、大阪の剣道関係者が歌津との係わりで、練習会が持たれている。夜は戸倉の「ほったてごや」で交流歓迎会がある。
こんな多忙な一日となる。もう出かけないと。

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2013
05/17

「やませ」のような夜


この時期特有の東からの海上の冷たい風が陸地に向かう気象が「やませ」の現象を生む。ヤマセが長く続くと「冷害」にもなるし、勿論気温も低く、日照も減り稲の成長に大きな影響は、農家の収益にも大きく現れる。写真は午前10時頃の戸倉中学校方向を望んだ。
「助けて」「殺される」が昨日、沼田の我が家に響き渡った。「母ちゃん・父ちゃん助けて下さい」、「のぶたかちゃんもいじめるのが」、地獄のような状況があった。これが世に言う認知症による地獄のような世界かと初めて昨夜体験した。父と二人での介護が、退院して3日・4日目から酷くなった。テレビで「子供が認知の親を殺した」、こんなニュースに冷静に考えればと言うが、この夜中の休息の時間、寝不足とイライラ、そして長期の介護に、事件の発生はしょうがない気がしている。我が家とて2日間での修羅場、タオルでの体の拘束や布団に優しく包むだけでは、どうしようもない。
今日で二日間眠っていないと父は言い、母を夜眠らせる為に昼間は眠らせないのに、母は二日間も元気で私たちに負けない力を発揮する。「これが認知症なのだ」と理解しているものの、現実に対処するとその行動の持続性は、健常者には理解できない。それが病気なのは判っている。私は仕事で逃げられるが、父の介護は夫婦だから出来る。今日もケアマネと病院から看護師が来る。一つ空いている部分の「ベット柵」も今日持って来てくれる。現在は父と交代して看るようにしている。それでも暴れるなら後は自由にさせようと思っている。
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沼田の我が家の裏にある「スワット」さん、被災後も倉庫だった場所ですぐに商品を販売し、多くの被災者の「買い物の場」として、今も町民に重宝されている。一昨日会社に倉庫から向かう時、スワットさんの駐車場には多くの花々が販売され、仕切りなしにお客さんが綺麗に咲く花を買い求めていた。いくらかは心のゆとりから「花を愛でる」時間が、余裕として被災住民には出てきているようだ。
ゴミの置き場はカラスのいたずらで、ゴミが散乱していた。置き場には網のカバーが各地区ごとに作られ設置している。散乱したゴミを置き場に寄せて、網の蓋を木に括り付け片付けた。いつも地域に何もしない奥返し、こんな事は当然だね。
皆が町をきれいな思いで小さな事を重ねる、町は少しづつ綺麗な故郷になっていく。

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2013
05/16

来町歓迎


弁当確保に当たって横山ドライブインに行った時に、店の前にあったポスターで、3月ごろすでに掲示していた。目についた「観て・買って・食べて」との登米市のアピール、仙台・宮城DCでのキャッチフレーズ、被災地で無いがゆえのアピールだった。何もなければこれが普通なのだが。
被災した南三陸町は「復興市」が中心の、観光しかないなかのかなーと、悲しい気持ちが増す。確かに大変だから支援が欲しい、観光に関わる事業所は「復興特需」で、復旧が進んでいる。町民の復旧復興は、高台移転の終わる3年後5年後で、南三陸町での復興は諦めている方も少なくない。
昨日の病院の予約は12時~12時半ながら、診察は4時となった。考えられない状況に驚き怒った。同様の方が「孫の迎えの時間が四時なので早くならないの」と看護師にかみつく、すると直ぐに看護師が親切な説明に、旦那様らしき方が「俺が怒って言ったから来たのか」と、待合室は異様な雰囲気になった。患者は薬の処方を貰い診察はしないで帰った。さすがに私も3時間何の対応も無い看護師に「後どれくらいかかりますか」と聞くと、今11時30分の方ですと言う。これが地域にある中核病院の状況と確認はするが、初めての内科の診療状況、早く病院通いを止めたいと思った。やっと順番が来ると先生は「ごめんね!」と一言これに救われた。いらだった気持ちも「何処へやら」、やはり「医は仁術」であった。放送で「診察時間が2時間遅れです」があったが、待つ患者へのちょっとした内科看護師の声掛けで、患者も心を落ち着かされると思います、よ。
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戸倉のセブンの前のT字路にこんな看板を見つけた。戸倉半島の方向に「タブの木・漁協直売所」がありますとの看板だった。私はこんな直売所を知らず、これもDCなのか思う。この看板の裏の方向からの看板には「復興市」の名前があった。漁協とは共働しているようだが、入谷の直売所とも共働支援を、南三陸町で「復興市」を使うなら、地元産品の販促に協賛の看板くらいは出して欲しい。
日本維新の会の共同代表の橋下氏の、従軍慰安婦の問題提起は、7月の参院選を前に橋下氏がこの問題の考えを声高に言うのは、女性への影響としての投票行為の下落は、頭の良い橋下氏なら判ると思うが、私のような凡人では考えられない、発言の裏側が何かがあるのか理解に苦しむ。女性の会や沖縄の人々の大反発が毎日のように、報道されている。少し影を潜めていた「日本維新の会」、今回の事で大分「維新」が報道で流された。これが裏にあったのなら政治家は凄いし怖い。票の増減はどうなるかは疑問だ。
眠い、母の夜中の乱交に寝不足だ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:27 】

2013
05/15


町中には驚きがいっぱいある。被災地への観光・ボランティア支援がある中で、来町する方々は町が無くなったことへの驚きがあるが、写真の光景に昔の姿を知りすぎる私には、このあり得ない変化に、今まで気づかなかった。
この場所には5.7mの防波堤に囲まれて普通に住宅があった、手前が勿論陸地で奥の残骸は海岸に隣接する冷凍倉庫だった。防波堤の陸側は津波による土地の浸食となり、地盤沈下で海となっていた。もっと驚きなのは小さいが漁船が普通に係留されている、それは係留できる海水の深さがあると言う事になる。ここと反対の旧市場も震災前に釣りに行く船の係留場は、普通時なのに海水が護岸を覆っていた。私が住み慣れた本浜地区は、昔はこの場所が漁業の拠点として栄え、今は一線から退いたものの、静かな漁村の風景がそのままに残っていた場所だった。
堤防が今後8.7mになるが以前と比べても、3mしか増設とはなっていなく、その不安を取り除くには、住居は高台となるのだろうか。1000年に一度の大津波の対策ながら、人命には変えられない。しかしながら今の私なりの考えでは、避難路の増設確保でも低地の再建はできる気がする。
昨日は気仙沼市の南気仙沼駅前の復興計画がテレビで紹介されていた。357人が通っていた南気仙沼小は気小と震災後に併設なった。500人が通勤していた気仙沼線の広場には、5mの津波が押し寄せた。この広場は3.5mの嵩上げとなり「災害公営住宅」が建設されると言う。気仙沼線は55Kの内11.6Kが専用となり、線路が取り除かれBRTが走る。気仙沼市街地は5年間かけて3mの嵩上げが成される。この計画だと「職住分離」とはなっていない事になる。
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「いざ!」。病院跡地の基礎瓦礫に破砕機が現在置かれてある。この大山の瓦礫に1台の文明の力が立ち向かう。
4月から瓦礫が処理される予定が5月にづれ込んだ。被災地の計画・予定の遅延が、当たり前のように多くの計画で山積する。工事に掛かる予算の繰り越し1.2兆が被災3県にある。予算の再度の延期は「復興交付金返還」とこないだニュースで伝えていた。
これからも私は被災からの再建のため、あえて「戦う」意識で向かいたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:14 】

2013
05/14

銀色の鱗がセメンの上で踊っている


私が小6の時に父にアドバイスを受け、作った「詩」です。大半は父親の詩でもあり、若かりし頃の反省と学習がここにもある。そんな穏やかな光景が本浜の旧市場にはあった。今朝のその場所に行き現在を撮影した、少し様変わりした漁村の風景があったが、昔と被災地の現状もこここには強く横たわっていた。
昨日、この場所でメカブの芯抜きが、大手企業の新入社員のボランティア活動により、行われている姿がテレビ報道されていた。ボランティアも23年の6万人から次年度は4.5万人に減少していた。「風化」では決してなく、少しずつながら自律の方向にある現状への、多くの支援の効果の現れと思える。
昨日は「ひころの里」で植樹祭があったと言う、その前は昨年の戸中への「さくらの植樹」があった気がする。こうした行事は私の立場ですらとも知らなく、もっと多くの町民に告知し、支援の活動の元気を関係者ならず町民にも与えてほしいと思った。
昨日、1か月近い入院から、母が退院し3人の生活が又始まった。入院時の病人の顔から、また年老いた母の普通の顔に戻った気がする。やはり一人は寂しく少しの不自由でもいいから、家族と一緒がいいのだろう。夜中母の寝顔に自分も安心を感じる、色々あるが不思議である。
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先ごろ仮設に行った折にこの「張り紙」を見つけた。地元の新聞に「気仙沼市7年ぶりに人口増」があり、復興工事と支援職員の転入が要因と言う。南三陸町はと言うと、先月より「62名減少」したと言う。工事関係者も支援職員の増加もあるのに、町民の人口流出が止まらない。現在「1万5006人」であり、その中には町外で住む「みなし仮設」「南方仮設」の住民票を地元に置いている方の数がある。それでこの人数での厳しい現実がある。広報では1万5000人余りと掲載し、あたかも人口減少はないかのような記載をしている。現状を示さないのは現町の体制は、復興政策が順調に行っているかのように見せる為のように感じる。もっと今の厳しい現状を町民に伝えるべきと思う。「共に一体となり町の再生に立ち向かおう! この素晴らしい南三陸町のために」と声を大にして言いたい。
来週の和歌山県の串本に調査視察に出かける。「南海トラフ」の津波発生の対策を講じている町を勉強する。地震発生して4分で10mの津波が、一番最初に到達すると予想されている所である。この状況に南三陸町の被災地としての体験の情報は、串本町には必要な話となるだろう。支援への恩返しとしての活動でもある。
今日も私は病院であり、我が家は病院に近い世帯と言える。昨日は公立志津川病院に「9万8千円」支払した。「痛い!」。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:33 】

2013
05/13

いよいよ町の8.7河川堤防が


津波防災の方向に大きく町はシフトする。8.7mはその大きな数字として町民に伝えられ、以前の志津川の綺麗な街並みの復元は無く、人の住む事の無い市街地づくりに町は突き進んでいる。
この間運転中に気づいたのだが、八幡町から廻舘前に向かう小高い道路(写真)に看板が立っていた。今後建設される河川堤防(バック堤)の、高さの表示が出され掲げられた。被災した低地から見るとそれ程の高さでもない。当時の津波は最初の一波で、道路の頂点まで達していた。町の嵩上げは、6mに4mに、そして2mから6m?と、その方向性に大きなブレがあり、町民の不安を増大させている。
昨日は女川町に安倍総理が来町した。女川町長が市街地の約200haを嵩上げする計画を、模型を示し総理に話す光景が報道されていた。6mから10数mとその嵩上げの計画を示している。南三陸町が掲げる「職住分離」ではなく、又、生まれ育った市街地、「町に戻ろう」と言う町の考えが、嵩上げ10m以上を実現したのだと思う。現状復旧が復興交付金の基本対象となると言う考えの元、女川町長は「又ここで」との考えを、平地の土地の少な町の特性の為、この選択をしたと思う。
南三陸町の再生の現計画の為の遅延があり、新構想の魅力が「時の人」、安倍総理を町に引き込んだ。南三陸町は忘れられようとしていないだろうか。
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先週末に町外に暮らす町民の方から電話がきた。「コアラ館」「シルク総合開発」は何処にあるんですか。「市街地の川に変わる土地は買い上げられるの」など、仙台・南方で暮らす方からの問い合わせだった。
広報やニュース等は来ているが、「よく判らない」「忙しくて見れない」など、南三陸町から離れ暮らす現状と、集まって皆さんと話す限られた機会も、諸々の事情で町の政策が見えてこないと言う。遠くで「土地の整備を早く」と言う町民は、長引く整備遅延と資金の確保がままならない現状に、町での帰っての再建に「?」と言っていた。
5月13日と言うのに今日も寒い朝となった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:47 】

2013
05/12

戸倉への入り口の再生拠点は


昨日は同級生の母親の焼香に荒砥の全慶寺に行ってきた。荒砥漁港は嵩上げが終わり、海水は水揚げ場に上がる心配は無くなっていた。
おばあちゃんへの孫たちの送る言葉には、「この前おばあちゃんの夢を見たよ」で始まった。みんなでコーヒーを飲もうとしたら砂糖が無く困っていると、おばあちゃんが現れ砂糖を持ってきてくれた。砂糖を入れ皆んなで美味しいコーヒーを飲み、皆が喜んでいたよ。との弔辞の話に自然と目から涙が止まらなかった。
家族が三代揃う事の意義がここにあると私は思っている。子供の頃に私も祖母から色々な事を学んだ。両親では兄弟からは学べない、生活していく上での生き方・優しさ・自然の愛し方、そして日常の一年間の習慣を、当たり前のように教えてくれた。
現在は両親との3人暮らし、代々引き継がれてきた、家族の中の生活の営みは私で終わる。こうした子供たちへの「当たり前の生活」を、スポ少の団員に剣道を通して、礼儀・思いやり・習慣を、型にはまらず教えて行きたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:27 】

2013
05/11

朝早く夜遅い毎日


昨日はお昼から眼科に出かけ、夕方5時に帰り従業員に迷惑を掛けている。それ以外にも家族・周囲に何がしかの影響を及ぼしている毎日に、多くの人からの支援と言う事では、被災地と同様で感謝しかない。
帰ってから食事は連休の観光客の大人気となった「うに丼」を食べに、志津川仮設商店街に行った。震災後初めての豪華晩御飯に、南三陸町の志津川の水産物に感謝です。その後で我が志津川剣道スポ少に行く。2名の団員と剣道大好きの3名の子供たちと指導者2名の剣道、自分の為に少しでも上達でる事を祈りたい。
こう言った訳で帰りは9時で、仕事面でも昨日の午後に予定していた、今朝、気仙沼への印刷物を取に朝6時に向かった。気仙沼市本吉町の「小泉瓦礫処理場」の光景で、モクモクと白煙を立てて稼働が伺えた。
歌津でも伊里前の仮設商店街前が、DCで開催される「復興市」の為に整備されていた。議会で私が指摘したDCに向けての開催地整備に、行政は「瓦礫の少しの片付けはするがDCの為の整備はしない」と話していたが、蓋を開ければ伊里前市街地だった部分の3割を整地していた。「したではないか!」、私が言った事はこの事ながら、議員に言われての整備は消極的に思える。志津川の県庁舎も観光の為に全部を活用した。スーパーの開店への支援なんか微塵を考えていない事が、何だんなだ言ってもこれが行政の考えである。「買い物弱者問題」と言われる、被災者救済よりも観光優先が町の方向性と実感する。観光も今後を考えれば当然の政策ながら、被災住民救済も同等に行ってほしいと、何回も言って売るものの、一議員の発言など「屁」でもないとの考えが伺える。
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写真は歌津の伊里前川の「いろうおザワ」です。ザワとは「しろうお」の捕獲の仕掛けと聞いた、その仕掛けが伊里前橋のたもとまで上流にあった。それは下流の津波による地盤沈下の為と思う。田束山のつつじ祭りといろうおの取れる時期に、南三陸復興市が伊里前の仮設商店街で開催される。好天に恵まれる事を心から祈りたい。
先週は「買い物弱者問題」でメディアが、スーパーの早期建設を早くの嘆願書の代表である、父の取材に東京より倉庫の自宅に来た。その2・3日後には河北新報の新しく赴任してきた、記者の取材があり、記事となり新聞に載る事となった。自分の取材が記事となり載る事を毎日の新聞の確認が日課だった。それが倉庫の土地に駐車する方から、今日の新聞にお父さん載ってましたよと伝えられた。その日の病院でも待合室で4・5人の人に「新聞載ってましたよ」と声を掛けられた事を、私が夜遅くに帰ると幾度と話をしていた。色んな事がある事で「孤独感」から脱却できるなら、自宅への方々の訪問は嬉しくもある。
安倍首相の背番号の96の意味に「第96代目」の総理就任の意味もあったと言う。こないだ荒島の裏側の「十三はねぴこ」の事が話題になった。「島の岩場の裂け目を若い女が飛び越えようとして亡くなった」と、私も小さい時こんな「言われ」を聞いた。それが話題に上った。相手は高齢の方だと理解できるだろう。
震災から2年2か月、気仙沼の唐桑の住民の要望で、25名の行方不明者の捜索を気仙沼署で行ったと言う。宮城県内での不明者は「1312名」で、家族の悲しみは癒える事はない。
頭の中がいっぱいでブログで書きこむ事で、多くの知った情報・話を、忘れても良いとの気持ちの表れがブログにある。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:42 】

2013
05/10

子供たちの純真と大人の打算


朝5時前に家を出る「もう行くのか」と言う父、睡眠時間は6~7時間で十分と思う。夜9時頃になると睡魔がいつものように襲う、朝3時30分には目覚め、朝の自分の1時間30分が時間あり、国内の情報を収集する。
今月は同級生の母親が二人も逝去された。私の母も90歳となり介護施設への入居など、残された時間を一生懸命生きている。家族はその環境づくりと見守るしかない。「天命」と言う言葉の通りに自分も生きたいし、母もこんな生き方が出来ればと思う。
昨夜、私の知人の高校の娘さんの活動が紹介されていた。高校生で「若者の震災への意識が風化している」と感じ、自分から「語り部」なり、南三陸町に来た方に高校生の目線での、津波体験と防災意識に何が必要かを伝えている。スマートフォンには被災前の南三陸町の写真を入れ、現状と被災前の美しかった町を語り伝えている。昨夜の取材にしっかりとした考えが伺え、先ごろは東京から来た300名の高校生に、ホテルでの語り部としての活動に、同年代の女子高校生も涙していた。「自分たちが防災に何ができるのかを考えさせられた」と言う。子供たちが出来る純真な目線での活動に感激した。これからは「英語でも外国から来た方々へも震災の事を伝えたい」と、新たな取り組みを話す。町における「語り部」にない高校生の活動があり、来町する「観光支援」の皆さんも是非高校生の語り部をと望むだろう。語り部料金はどうなるのだろう? 別な形で全国への活動に結びつけて欲しいと思う。
写真は志小裏であり山根から新井田に向かう景色で、「遺跡調査」が今行われている。下の被災した土地には多くの車があり、被災者のつなぎ雇用よる発掘作業者の駐車場となっていた。
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左上の山の木々の窪みで遺跡の発掘調査が進められていて、志津川市街地の高台移転中央区の、造成工事は遺跡の影響で1年は遅れる。
今日の報道には現社会と政治の裏側の闇が見える。アメリカでの3名の女性が10年目に発見されるとの、ショッキングな事件で全米は騒然となっている。高校生の頃の映画の「コレクター」を思い出した。女性との自然な普通の恋愛が出来ない、自己の「欲」による誘拐・監禁事件であり、14歳・16歳・21歳の女性たちの10年は決して戻ってこない。
長嶋・松井の「国民栄誉賞」があり、始球式の安倍首相の背番号の「96」は、憲法96条に繋がっていた事には驚いた。偶然は信じがたい。自民の現政権与党の中で「憲法改正」の議論が活発化している。第96条とは憲法改正は国会での3分の2の可決が必要で、国民投票で過半数が賛成すると憲法の改正ができると言う。憲法改正の一番重要な部分と言える。政権与党として衆議院で3分の2を確保しているからこそ現実味を帯びている。私は今までのままで良いと思う。政策により景気も上向きとなった事で、まだ半年しかならないのに、その「おごり」を感じる。自民の政権喪失があり、その反省で奪回とはなったものの、7月の参院選には逆風となりそうな気がする。
気仙沼市でホテルの起工式があった。震災での復旧作業員の宿舎としての建設で、復旧が終わった時には福祉施設として活用されると言う。「ルートイングループ」が参入した。古川近辺にも大型宿舎が建設され、年間5億円の利益がでると言う。これが被災者の住宅再建経費に加算される。
地元でも作業員宿泊施設として活用の「民宿」が再建されている中で、気仙沼・石巻・古川などのホテルの進出は、復興加速へ繋がるが、地元の事業所が復興の恩恵が受けられるような、国の支援が今必要と思う。

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2013
05/09

新たな仲間から学ぶ


少しの身体の疲れと痛みに満足感の一日でした。昨日は母の「食事指導」「介護指導」を公立志津川病院で受けた。登米市米山にある志津川病院、行政が決定した病院体制で施設現状と、遠くにある町の病院は、見舞い・通院に時間と多くの不都合に諦めを持っている。しかし、昨日の看護師・職員の親切丁寧な対応、そして「笑顔」に救われた。
町民の介護への支援にあたる介護支援センターの「ケアマネ」の存在で、我が家の生活介護は何とか救われている。私の生き方と両親の老いは避けて通れなく、何とか全うできるよう家族間で話し合い、これからも多くの制度と周囲の人々の支援で、この被災地で生きて行っている。
こないだ歌津の伊里前小学校から市街地を望んだ時に発見した。歌津大橋の解体が進み、その奥に大橋を超える山積み体積物があった。基礎瓦礫がここにもまだある。昨日のラジオで震災瓦礫は今年度中に全てを県は処理すると話していたが、自治体は「できないのでは」と心配していた。また、阪神淡路の「災害公営住宅」の20年での入居から退去が問題となっていた。最後まで報道は見てはいないが、入居者は突然の退去要請に驚いていた。震災から年月が過ぎ被災者の生活状況も変わり、高齢や独居などの問題がある中での要請で、入居書類の何処にも表示していないと入居者は言う。小さくどこかに書いてあり、言葉でも言ったのかもしれないが、混乱での何とか生きる居場所を確保しての入居、余りにも突然の報告と、問題への対処も講じていない行政の対応、今も昔も同じと思った。
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昨夜は我が志津川剣道スポ少の副代表が以前お世話になった、気仙沼市大谷の小学校の体育館での剣道練習に参加し、合同練習で初めて剣を交えた仲間との汗に、快い疲れに満足した。50分の片道の時間も、それ以上の成果を感じた。
鹿折と本吉・歌津そして志津川の指導者、そして剣道の大好きな子供たちが25名、総勢35の練習風景を家族が見つめる。これがスポ少の本当の姿と思った。鹿折の先生は言う「楽しくないといけない」と、剣道は練習と礼儀に厳しさはあるが、その先に喜びがある事を、集まった指導者は知っているから、時間を掛けての練習参加も、多くの意義に賛同してのものだった。
しかしながら、私の多くの問題を持つ現状況では厳しい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:00 】

2013
05/08

神社の大祭で被災地を元気に


朝早く知人が電話をくれた。「荒沢神社お祭りですよ」と、毎年袖浜の荒沢神社から春の桜の終わる頃、春季大祭でお札とお守りを頂いている。袖浜・平磯などの志津川浜地区の、水産業の漁民の「大漁祈願」「安全祈願」など祈願大祭の神社として、地域挙げてのお祭りが開催される。
氏子の皆さんが神社に集まり、「本吉法印神楽」の奉納を見ながらご馳走を頂く。昨年の大祭もおじゃましたが、神社も津波被害を受けた震災直後の5月と言うと、記憶は定かではないが、震災復興への祈願があった気もする。人もまばらだったが、この日は地域でも「あん餅」を作り、親戚知人に配る風習もある。現在のこんな状況にあるものの昔から続く「伝統習慣」であり、子供たちの「安泰成長」を長く祈願されてきた。
昨日は気仙沼と本吉への用事で出かけたが、大谷海岸にある「海洋館」さんの建設していた鉄骨の増設には驚いた。海岸の岸壁5mはあるだろうか、建てられてあった2階まで津波は押し寄せ全壊となった。以後残った鉄骨を利用し再建開業となった。そして玄関部だった所に5階建の鉄骨が建設されていた。大谷海岸に隣接し、海岸には10m近くの堤防が建設予定で、現在、堤防を低くする住民の再建案計画が提示されている。そんな中でのホテルの5階の再建は、観光で成り立つこの地域ならではの住民の現状復帰の願いがある。
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写真がそれです。よく見ると6階建てのようで、志津川市街地でも建設次第では、「職住分離」の行政案は回避できる気がする。嵩上げと津波の被害の検証で、建設場所・方法などで、広大な一部に生活居住区の整備も出来る気がする。気仙沼市大谷海岸のホテルの再建の姿に、意識・再建の方向性の新たな在り方も考える意義がある。
昨日の出かけた場所ながら偶然にも、志津川剣道スポ少の副代表の提案で、今夜合同練習に大谷のスポ少へ出かける。

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2013
05/07

中総体残り1か月


子供たちの入学式から1か月が経った。保育所・小学校・中学校・高校と、児童・生徒の新しい生活が始まっている。環境の大きく変わった子供たちながら、新しい仲間そして教科と交わる事を思案しながら、多くの体験や出会いを楽しんだり、ちょっとの今だからできる迷いでの成長がここにはある。
私の働く工場から今、タンポポが咲き乱れているのが見える。その自分を取り巻く黄色の花びらに明るさと暖かさを感じる。黄色は仕事的な色でも大好きな色で、黒い色を目立たせる一番の下地でもあり、花でもまっ黄色は世間も明るく照らしてくれる気がする。
中総体を来月に控え学校の部活も活発な姿が見える。体育館の中は判らないが、野球場は連休中も全ての球場で、野球・ソフトボールと男女とも、好天に恵まれた野外で元気な声と、小中学生の活動を見る事ができた。
我が志津川剣道スポ少も、今週から水曜・金曜の二回の練習となる。二人体制の指導で有意義な練習となるよう内容を考えたい。今年こそ「優勝!」と行きたいが、子供たちにとって悔いの無い試合ができる事を願う。納得できる試合内容の先にはおのずと結果が見えてくる。輝け邪心を捨てて相手への尊敬の念を持って。
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写真は戸倉仮営業所前の向かいの家の庭で、多くの多種多様な草花が咲き乱れている。季節ごとに花々が咲かせ、3年目を迎える今年も心を和ませてくれている。
現在市街地には花々は無いが、遠く山々を見ると「山桜」を木々の間に見る事ができる。政治の喧騒から行政への疑問、我が家の生活の多くの問題から、一瞬ながら全てを忘れさせてくれる。多くのしなくてはいけない事が山のように見える。そこには「一輪」の花も咲いていない、険しい山で一歩ずつ、一つずつ小さい山を登って行く。
今日は気仙沼と石巻の往復で一日が終わりそうだ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:25 】

2013
05/06

天皇陛下と同じ場所から


4日の日にこの場所に行きたくなった。ここから歌津伊里前市街地・海、そして歌津大橋の今を見た。天皇皇后両陛下が深々と大震災で亡くなられた方々に頭をお下げになった姿を、その気持ち尊さを思う。そこで一日も早い被災地の国民の再生を願った。
震災後に父に何か残して欲しいと懇願した。それは「千葉家の過去帳」であり、「父の来し方」など何かに書きとめる事をお願いする。しかし、あれから2年が過ぎるが書けないと言う。そんな時に震災で亡くなられた知人の父からの一冊の本が届いた。「以前息子に頼まれた」と、贈呈してくれたと本の最初に記されていた。
父が言う「寂しい」「怖い」を何か目標ができる事で、この震災の色々な苦しみから逃れる事ができると思い、一つの案として父に話した。父親を私は目標にして生きてきた、ここまで精神的の弱さは年齢と、過去の全て物質を失ったこと起因する。まあ無理を求めてもとの気持ちになってきている。
仙台・宮城DCに歌津伊里前で「福興市」の開催をする。その市街地の整備が進んでいるかを見る。重機が商店街の前に置かれ、駐車スペースらしき場所が確保されていた。地域にも・町民にも公平な行政の復興計画であって欲しい。
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歌津大橋が遂に解体へと向かっていた。4台の大型重機が解体に使われるのだろう。南三陸町の「遺構」の議論をしたくはないが、昨日も多くの観光客が防災センター前にいた。町に残る震災の爪痕は、高野会館と歌津大橋、そして防災庁舎だけであり、歌津大橋が解体され、残り二つがあり高野会館は400名以上の町民が、志津川市街地津波水没の中で助かっている。多くの職員が亡くなった場所は議会で解体の方向にあり、それが解体された場合に、高野会館を今も残している理由に、行政の遺構の考えが伺える。私の勘繰りでしかない。
15歳以下の子供たちの人口が1649万人となった。その比較に1957年の私の生まれた年が出てきて、当時は現在より1000万人15歳未満以下が多くいたと言う。確かに津波で児童は減った、私の時代は小学校のクラスの人数も4クラス40人で、160名がいた。現在は42名の志津川小学校の入学生の数でもその違いが判る。国も自治体も人口減少は避けて通れない現実と、減少問題を解決しようとする政策が無かったが、安倍総理はそこにもメスを入れようとしている政策案、そして行動を取っている。気が私にはする。
自民党政権になり、二代目根本復興大臣は連休の遊説に「チェルノブイリ」を選んだ。27年前の教訓と拠点施設の整備の必要性を感じ学んだと話す。総理はトルコに日本の原発建設の官民営業をしている。経済政策を最優先で、震災の復興に関しては、多くの大臣・議員は、海外へか地元に帰った。まだ2年が過ぎたがまだ何も変わりない現地は、「住宅再建元年」の自治体の位置づけがある。町民は本当に戻れるだろうか? それが何%となるのか? 町の再建失敗の疲弊の責任は? 全て未曽有の大震災のせいにするのだろうか?


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2013
05/05

地方の活性化に取り組め


昨日は体の養成と視察に岩手県まで車を走らせた。そして今日の政府の「遊休農地活用政策」が報じられていた。「ピン」と町の遊休対策の夢と希望の構想が頭に浮かんだ。
写真は川崎町の「道の駅」で連休で駐車場に入るのも行列となっていた。交通整理の警備員が満杯の駐車に奮闘していた。何とか店内に入ると通路の歩く隙間もなく、レジでは地元の農産品・商品・惣菜をカゴにいっぱいのお客さんでごった返していた。4~5人の客単価を見ると平均は1500円ぐらいながら、その数の多さに「薄利多売」が実現していた。道の駅前の出店では、「苗木」「古着」やたこ焼き・ソフトクリームが売られ、隣の芝生ではのんびりと犬の散歩の町民がいた。隣のグランドでは子供たちの野球大会で家族が応援していた。色々な施設のコラボで家族の人たちの集まりが広がっていた。
南三陸町の入谷・歌津地区が農業地帯としてあるものの、その販路に農家が少量の生産品の販売で悩んでいると聞く。歌津の管の浜に「みなさん館」が今年できたが、連休なのに車の姿が数台しかなかった。歌津商店街も志津川と比べると、10分の1どころか「天と地」ほどの違いに驚く。それは何かと言うと立地の効果と、町の宣伝と取組の差がここにある気がする。5月25日にモアイ像の設置祝賀会がある。記念公園で出来るまでの一時的な設置ながら、チリ国の復興支援として感謝の気持ちで迎えたい。
5月24日は「チリ地震津波祈念の日」で、次の日の週末に会わせて開催する。24日は56回目の私の誕生日でもある。
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温泉は「日帰り」ながら4時間600円と、温泉・食事・昼寝が十分味わえる。持ち込みも可能で経費は油代と入館料、地元なら「入館料」だけで一日を楽しめる。また、地域のコミュニケーションの場もできる。
震災前に歌津地区の「上沢」で、遊休農地の活用の「そば」の生産をした。地域の人たちが「収穫祭」として、そば・味付けご飯を提供を、「上沢分校」で開催した。あの時の地区民の人たちとの集いの光景が未だに頭に残る。
「道の駅」「産直」「お風呂」を政府の遊休地振興活用の資金で生まれるようだ。これで今後の政府の政策資金で、町づくりの活性化・若者定住を実現できる。安定所得として最低の「240万円」を、年間所得として保障する環境ができる気がし、後は出来高で賃金に還元する。こんな将来に希望を持てる労働の場の創出ができるかもしれない。
町の疲弊と人口減少しかない現在、地方からの「良い所」をアピールし若者の安心できる生活の環境づくりが求められるが、既存の多くの震災復興再建資金で会社の経営に支障のないのに、町は被災した後も続ける、行政の過剰な政策支援があるように思う。
町再建が講じられる町づくりにも、町の大会社といわれる経営者に優位に働く、町の経済設計計画が色濃く進んでいる。起業家への支援はあるが事業をするには資金は薄く、既存の会社には多額の支援が、順調な経営があるものの、更なるテコ入れをしている。
若者が夢を描ける環境づくりが、大震災からの再生には必要で、若者が「これならここで生きていける!」、こんな可能性をこれからの若者に与えてほしい。その為の準備としての生活の労働の場の構築は、町の急務である

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