ARCHIVE - 2013年03月

2013
03/31

坂口さんの急逝


女優「坂口良子」さんの死は余りにも突然で、幸せいっぱいの今なぜ「死んじゃうの?」と思い驚いた。人間は何時どうなるか判らなく、一日一日を精一杯生きる事を、常々自分や知人に話していた。
愛娘が母と同じ女優となり共演し幸わせいっぱいで、ゴルファーの尾崎建夫との10年ごしの恋愛が実り、父として娘から受け入れられなかったものの、娘も理解してくれウェディングドレスに袖を通して7か月目で、直腸ガンで亡くなった。人生って何なんだろうと思う。
初めての結婚では相手が19歳年上ながら、「結婚への憧れ」を達成した。7年目に離婚の記者会見で、「こんなはずではない」「お金のことは言わない」と、主人の40億の借金負債のせいにはしなかった。尾崎との出会いもあるが8年で借金を返す事ができた。「結婚したい女優」に一番に選ばれるくらいの笑顔の可愛い女性で、57歳ながらもその愛らしさは健在だった。「池中玄太」のヒロイン役の彼女が今も記憶に残る。女優ながら波乱の人生とはこういう事と思った。
被災地でも人々には大波乱の人生が沢山あった。写真は志津川地区の本浜の自宅前から陽の沈むのを見た。周囲は地盤沈下で海水が入り、家々は何も無くなった。
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今日、南三陸町においでになられた皆さんには突然の雪に驚きの事でしょう。春の始まりの4月頃には最後の雪があります。今日がその日になりました。まだ油断禁物です。
志津川仮設商店街の「田中前」さんに行き、海鮮丼の写真を撮るお願いをされました。写真は「アワビ」の1個を盛り合わせた、田中前の「特撰三陸あわび丼」です。見ての通り多くの海鮮がこれでもかと載り、特産の蒲鉾なども添え、海鮮の下には、南三陸特産の「メカブ」が引きつめられている。その他にも「三陸宝丼」、低価格の「まぐろ丼」850円も準備している。元気な奥様と、気風の良いご主人が二人三脚で頑張っている。
最近出店した「田中前」さんです。ご来場の時はお声を掛けて下さい。写真は一番おすすめの「特撰三陸あわび丼」でする。
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2013
03/30

小さな瓦礫撤去


今日の朝は具合が悪い、理由はさておき天気は良いが肌寒い朝となった。
田尻畑へ「旭ケ丘団地」から向かう、瓦礫でいっぱいとなった田畑が当時はあった。現在は田畑の土を取り除き、圃場としての農地整備と散乱し土に混じり込んだ「瓦礫の撤去」が進んでいた。旧警察署の盛られた土も田尻畑から持ってきた。私も初め国道の嵩上げする土と思っていたが、この土も田尻畑のものと聞いて「何で」と思ったが、瓦礫が混じっていて処理しないといけない。膨大な被災地の土はこまい瓦礫があると、機械や人に大きな障害となる。
田尻畑の一角では重機により、ゴミの分別らしき作業の光景があった。ここだけでも大変な作業に、まだまだ復旧とてここまでしか進んでいない。この写真の右側には広い「菊栽培」のハウス棟があり、早期の農業再生も図られている。
この「旭ヶ丘」からの道の両脇の山に、保呂毛・田尻畑の防災集団移転と、志津川市街地の西区の計画変更による場所が分散化される。昨日ある方に話しを聞くと、「市街地移転で早い造成が西区なので決めたのに」と、今後どうなるのか心配していた。「今から移転場所の変更はいいの」「どれくらい遅れるの」など、不安ばかりを聞かれた。
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私の知人も震災後にお酒にのめり込み、体を壊して亡くなった。長引くと予想される仮設住宅からの再建は、精神的に厳しく何かに依存し「何もかも忘れたい」との衝動から、お酒がてっとり早くその手段として、その力を借りる。お酒は怖いながら、仲間との心を開きあう手段として欠かせないと思っている。
行政も国も復興復旧の進行・加速には限界があり、強い心を持ち続けられること、仮設自治会や地域が助け合い、家庭が家族が支え合う事が必要です。だから「ひとりぽっち」にしない、「声を掛ける」など、こうした活動ができる環境作りを、行政がしっかりしないといけない。
みなし雇用が復興交付金の民生費の緊急雇用対策費から出され、700名余りの町民を15億の予算を投じて事業が展開されている。この予算で仮設の見回りの「福祉士」の報酬にもあてられている。これが無くなったらどうなるのだろう。「孤独な一人ぽっち」が増加し、第二の震災関連死が発生しない事を願いたい。
明日は「復興市」で観光支援で多くの来町者を予想する。その賑わいの裏側にこんな現実がある事を忘れてはいけない。

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2013
03/29

早く病院を町に

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昨日は米山にある志津川病院へ父が、入院中の母の入院用具や書類を持って行った。時間にして片道1時間が掛かり、「車酔い」が酷い父にとっては苦痛と言う。2週間が入院して経ち「ホームシック」か、一昨日前は「帰りたいと大騒ぎでした」と看護師さん、仕事ながら感謝でしかない。父が母に自販機の普通のお茶を飲ませると、「うめごだ!」と大喜びだったと言う。炎症も収まり食事が出された、もう少しの我慢だから。
町の病院建設は現在の仮の診療所の道路向かいを予定し、土地の確保はだいたい済んでいると言う。27年の4月にここに公立病院とケアセンターができる。南三陸町内に病院が出来る事で少しは町民も安心でき、しっかりした病院が出来る事で、町民の帰還の追い風となる事を願いたい。震災前にあった4階の東側と西病棟の5階は今は解体され、高台に2階3階と新しい病院体制が建設され、津波の心配は完全に解消される。
印刷会社のイメージは「胆管ガン」により、就職希望の減少に「風評被害」として現れている気がする。大阪の一つの会社で、8人が胆管ガンで死亡した事が確認され、社長は会見で労災金の他に会社で見舞い金を出すと言う。大手の印刷会社で行っている、カラー印刷の校正専用機を洗浄する時の溶剤がその原因であり、我が社などの小企業では、この「有機溶剤」は使用しておらず何の問題もない。
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写真で車と比べてもわかるように、この狭い倉庫に「介護ベット」を置き、親子3人の暮らしがある。しかしながら、こんな場所があるだけで、家族が食べていけるだけで幸せである。
南三陸町地域防災計画(原子力災害対策編)が議会で審議された。女川原発から30K圏内には町の18地区が明記されている。戸倉地区と志津川の一部であり、戸倉地区は観光地であり、民宿も多く同僚も風評被害を懸念する。今後小学校も地区にできる予定もあり、地域民の不安と過剰な住民反応を心配する。
男女の恋愛に愛情が屈折した感情行動が、相手に向けられる事件が多発している。晩婚化が進み、子供を希望しない夫婦もいる。自然の男女の結びつきを、自分の自由な生活を確保するために一緒になろうとする。叶えられない自分の思いを、別な形で相手への刃として向ける行動は、自分に関係の解決能力の幼稚さにある気がする。
私もまだまだ女性を求める心は強くあるが、挫折への対処力は人一倍あると思っている。

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2013
03/28

母校後輩の門出

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志津川高校は私が入学3年前ごろに、今の上の山緑地の高校から、現在の場所への移築建設となった。40年前になるだろうか? その時に植えた「さくら」が写真のような、登校坂をさくらのアーチを造った。志高の象徴として今も新入学生を迎える。桜の写真は23年4月29日の時で、まだ「蕾」もあり当時の寒かった事を思い出す。今年は暖かいので4月の9日が入学式で、この時に満開となると「いいー」と思っている。
震災時、志高生は母校で普通の学生活動をしていた。以後は町民の救援活動をした生徒が、南三陸町の職員として5名採用となり、町の再建を心に新生活を始める。辞令は新聞で報道となり、町民の大きな期待を重く感じ、「町民の公僕」としての意識を胸に頑張って欲しいと思っている。
被災後の時期はライフラインの全てがなくなり、一週間は苦しかったが、以後は町への物資や、個人的にも親戚からの物資が届き、食生活が改善された。倉庫暮らしでここにはガスがあったので、3人家族が暮らすには食に関しては、不自由がなかった。
ライブドアの堀江貴文氏が、2年6か月の実刑から、1年9か月での仮釈放で長野刑務所から出所した。95Kあった体重は65Kと、お酒の無い規則的な生活で30K体重が減った。受刑中の仕事は高齢者の認知の方や障害者の介護で、食事の介助や入浴補助などにあたっていたと言う。「証券取引法違反」での逮捕から出所し、今度はロケットの宇宙開発やITの事業をしたいと話す。事業の再開を視野に入れたその意欲には学ぶべきものを感じる。
あと4日で「復興元年」の年度が終わる。次は「住宅再建元年」となる。また、野望が見え隠れする。10月の選挙の関係部署に、トップの側近二人が就任決定となった。これは何を意味するのか。まあイイが。

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2013
03/27

南三陸町の高校生よ大志を


今朝、春だと言うのに車のフロントガラスが凍った。油断して新学期や就職に風邪をひいてのスタートとならないように気をつけて欲しい。
この寒さの中で南三陸町の漁師さん達は、穏やかな志津川湾でワカメやカキの水揚げで、南三陸ブランドの海産を全国に発送・発信し届けている。
「少年よ大志を抱け」は、大きな夢を持って社会で大人になって頑張れの言葉だ。目標は大きく実現への努力を続けて欲しいとの、周囲の願いで、それは「わが身」のためである事を言っていると思う。アメリカの高校生17歳は、「携帯ソフト」の会社を自分で起業し、大手のソフク会社に10数億で売却との報道に驚いた。世界の高校生の起業志向は、中国が31%で米国は20%であるが、日本は5%と「大志」への気持ちは薄い。
町の起業支援制度がある。昨年は5社が制度を受け、支援金の300万円で事業をスタートしたと報告があった。理容・化粧などがあり、その前には「歯科技工」など、生活に必要とされる部分に、大部分が若い人たちの会社の立ち上げであり、町がこれ支援をしている。起業するには少額ながら、元手として確かな計画と、今後の努力により町の再建としての「雇用の場」の拡大となる。
磯の沢の入口に建設中の家は、レストランとの話を聞いた。町に新たな飲食店になるのだろう。
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全国でこないだの日曜日にも選挙があった。南三陸町に来町しボランティア活動をした町でも議会選挙だったと聞いた。14人の定数に16名が立候補した。新人の5名が全員当選し2名の現職が落選した。当選には5名の女性は全員の名前があった。
南三陸町も町長・議員選挙が10月に改選となる。現時点で町長の対抗馬の名前は聞こえて来なく、議員の立候補も議長の震災での死があり定数1減ながら、女性や若い新人の声などは何処からも聞こえてこない。南三陸町の今後に危機感が募る。
「若き皆さんの町です!」自分の子供たちの為にも 積極的に町政に参加する事で、新しい町の創造へと向かいます。行政職員も若き優秀な人材が7名新採用となりました。こうした人材の活用体制が何も変わらなかったら、被災後のそのままの町の復興への停滞が続くと思う。「無競争などあってはならない!」、何とかしたいと思う、女性・若者の「新たな町づくり」に町政改革を進めて欲しい。私も行政改革を訴えてきたが、一人の叫びでは「トイレのおなら」と、知人に比喩された。多くの新しい視野の政治家の出現を願うばかりです。
とにかく政治に興味を持つことから、町で行われている裏の事をしる事から始めましょう。その怒りからのスタートです。

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2013
03/26

住民弱者救済


南三陸町旭ヶ丘団地の眼下が今度再建を希望する、駅前に以前あった「ウジエスーパー」の出店予定地です。震災の年の10月には出店希望を町に申し入れているものの、まだ町の再建計画も立っていないこの時期は、答えを出すのは無理だろうが、仮設商店街が御前下地区に建設され、次の年にもウジエの希望にも消極的な行政の対応と言う。県の合同庁舎が解体され都市形成が見えてきても、町のスーパー出店には変わらぬ姿勢である。
被災地となった市街地そして町の再建は、こうした企業の出店は町の協力なしには難しい。出店の周辺の国道との兼ね合いと、町の道路の整備がないと再建はできない。また、市街地の3地区の高台横断道路が建設される為、希望の場所の活用も思うようにはいかない。しかし、何でも自由に選び買い物の選択できない「買い物事情」の可決に、町はもう少し積極的に企業と話し合うべきと思う。
町は志津川市街地の「商工・観光ゾーン」内に、こうした商店の本設での建設を希望する。企業は今回の津波で全てを失った現実に、4メートルの嵩上げの場所に、事業再建のリスクを抱えてまで出店は現実てきにできないと言う。町の安全対策と企業の再建リスクの考えの、ミスマッチがここにある。また、被災した町内の商店も半分近くが、廃業し残った商店も指定のゾーン内での再建はしないと言う方も多い。
私は市街地の都市計画は大きな修正で取り組まないと、早期の市街地復興は難しいと思っている。
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3月11日の「東日本大震災2周年追悼式」が町で開催された日、大森地区の老人会の皆さんが、亡くなられた不明の方々の供養にと、再建された志津川魚市場に、8名が集まり海に向かい焼香と献花をした。
ひっそりと地区で亡くなられた方や、多くの知人の逝去に海への献花は、心温かいものを感じる。この震災は決して忘れてはいけなく、語り継ぐことの意味を痛感する。

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2013
03/25

さんまのように生きたい


昨日は漁民の方の海作業を防風林の杉の木の合間から見た。日曜日も海に浮かぶ小舟のワカメ収穫? 写真を通過しながらも戻って撮影した。
日曜の大切な時間ながら又追われる一日となった。母が病院に入っていて、往復1時間30分の合間の貴重な時間は仮設で洗濯を2回した。しばらくぶりの父とのドライブ、登米の明治の小学校隣りの「道の駅」で、父親に「はっと汁」をご馳走する。登米産品販売所の前では、被災した南三陸町大森出身の方が海産物を販売していた。声を掛けると近くにいた方が「千葉さん」と声を掛けてきた。本当に出会いの偶然に驚く、仙台の兄の奥さんの兄弟で1・2回しか会っていないが突然の再会だった。母は元気そうながら記憶は途切れ途切れで、誰か来たかも食べたかも記憶がおぼろげのようだ。
現在の目は「ダブルパンチ」状態で、涙が止まらない。白内障と眼底出血の影、それに「花粉症」が加わりチョット大変である。
「やしきたかじん」がテレビ復帰した、政治解説者の三宅さんが逝去され、その「遺言」により番組を続ける事にしたと言う。止める時は一緒と言い、遺言により現社会を政治をバッサリ一刀両断にする、その専門家の分析に勉強させてもらっている。
「さんまさんのように!」が私の生き方にもあり、その生き方に学び実践し離婚した。1997年の彼の離婚から、離婚者が急激に増加した。暗いイメージの離婚は、別れても子供と会えて、相手と子供とも一緒に食事をしたり、親子の関係も良好な生活がある。時代は変わってきたが「さんまさん」の生き方に、多くの若者も共感している。
来年の4月から消費税が「8%」となる。1997年?の消費税の5%の時は、「消費税還元セール」が大手スーパーで開催され170%の売上があった。今回は「消費税還元禁止」が閣議決定された。その訳は「買いたたき」と言う、小売りでの消費税減額や値下げを強要されるのを防ぐためだ。しかし、「消費税還元」をうたわなければ良く、ポイントの増加は構わない。不思議な対策と感じる。
高台移転が26年度から「防集」で本格化する。来年4月から「3%増」は、住宅建設なら2000万円で「60万円の消費税増」となる。被災者の生活苦は益々厳しい、政府の被災者支援は勿論「3%」の減税実施だろう。

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2013
03/24

ナイナイの笑顔宅急便


「めちゃ×2いけてる!」 のナイナイとメンバーが2週間前に南三陸町に来た。昨夜その番組が8時からゴールデンで放映された。
テレビから南三陸町が消え、県内の色々な活動が放映される今がある。そんな中で南三陸町のテレビメディアが好む店や町で推奨する店でない、町を下支えるす「頑張っている商店」を、笑いを交え「ナイナイ」が商店・店主を紹介していた。
初めは「さんさカフェ」の内田さん兄弟で、ボランティアさんや町の人たちが休める場所として、福祉の里の下で営業する「カレー」が紹介された。大盛りの「タコカレー」にメンバーが美味しいを連発する。岡村とやべっち、やっぱり笑えるし「ガリタさん」食欲にいつもの事ながら驚かされる。次に「おおもり食堂」さんの恥ずかしがり屋のおやじさん、格安の丼ぶりいっぱいのホルモンに驚くメンバーの笑い。三軒目は「さかなのみうら」さんで、店主のタコおやじさんの笑いに岡村が突っ込む。店主と内田さんは震災後に被災者の為に避難所で食事を作ったり、被災した方の仮設や自宅に物資を運ぶなど、行政でできない部分の被災者支援に、自分も被災しながらもボランティアと一緒に支援を続けた。
「さかなのみうら」では南三陸のタコ・ホタテ・アワビをメンバーにご馳走した。タラ鍋から刺身まで南三陸町の支援への感謝の気持ちが込められた。次は「しお彩」さんの移動販売車、仮設ではなかなかできない「揚げ物」の惣菜販売車で、コロッケをご馳走となった。内田兄弟の「矢部いじり」はプロなみのやり取りに、つい笑いが出てしまった。

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最後はどこかの座敷が画面に映った。だいたいの町内の店には行っているが見たことの無い光景があった。紹介されたのは「しゃぶしゃぶ」で何にと言えば、獲り立てワカメしかない。メインはワカメの根で「メカブ」だった。御膳の土鍋で大ぶりのメカブを茹でそのまま食べる。程よい塩分を含み初めての体験と食に「美味い」の連呼だった。小ぶりの芯付きメカブをメンバーがかぶりつき、全員が完食だった。最後は「メカブそば」で、もうすでに満腹ながら、メカブの「とろみ」でこれも全てがたいらげた。お店は戸倉の「津の宮荘」さんだった。
南三陸町のガリタ食堂は今回はゲームで、誰がどれだけ食べて太るか、最下位かで加藤さんが途中参加で3Kしか増えず、ガリタさんからの「げんこつ」を頂き、内田兄弟からは感謝のダブルキッスだった。南三陸町の隠れた名店での食事で、最高に食べたメンバーは一日で「5.5K」も食べた太った。
しばらくぶりで南三陸町の紹介の番組を全て見た。笑いと笑顔いっぱいの一時間番組楽しかった。「ぐるナイメンバーに大感謝」です。見せかけだけの町の再建者と思われる人が多くメディアへの露出を、私は今のメディアの報道に疑問を思っている部分もある。震災からの脱出には、ありとあらゆる手段はしょうがないが、「自分だけよければ」という行動は、恥と限度を知って欲しいとも思う。
飛び入りの一般人の小太りの「佐藤」「19歳」「剣道」のキイワードには大変興味がある。

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2013
03/23

海に対する目隠し


現在、東京丸の内で展示されているチリ国の「モアイ」は、志津川仮設商店街に展示され、
5月の仙台・宮城ディステネーションキャンペーンの観光の、南三陸町の目玉となる。御前下の商店街展示は一時的なもので、市街地西の「祈念公園」に本設となると言う。
こないだも町長は「防災庁舎解体」にあたり、議会で「解体すべき」との議決がされたものの、陳情の「解体を」「解体しないで」「少し考えるべき」の三つ町民の指摘を盾に、町民代表の議会の決定を無視し、未だに解体をしていない。私は「解体すべき!」と職員の遺族の思いを重視している。庁舎は遺構として別の形と場所を変え、この場所での悲劇を後世に伝えられるような、「東日本大震災記念館」として、鎮魂碑・モアイ像も一緒に、チリ津波と記憶と共に建立建設し、観光に結びつけても良いと思う。しかし、亡くなられた遺族の気持ちも考慮に加え一日も早く、その方向性を行政は示すべきと思う。
これからの市街地は8.7mの防潮堤と河川堤防、8.7mの国道が建設され、その中に4mの嵩上げがされ、「海が見えない」状態で工場・商店・観光・企業の、会社や工場が建設される。人は住まないと言うが人の生業がここで営まれる。海の状況が見えない中で安心して生活ができるだろうか? 「南海トラフ」の津波予想は地震発生後5分で襲来する。まだまだ津波防災の町独自の都市計画や構造物もない。心配される状態が市街地では続く。
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写真は最後まで残っていた我が社の倉庫の残骸です。味噌樽や餅つきの道具など、古くから祖母と母の生活の営みがここにはあった。なんか淋しさが込みあげてくる。解体にあたり海水の染みた紙など、行政には処分にあたり感謝したい。個人での震災での瓦礫解体処理は無理である。
2・3日前に戸倉折立から戸倉中学校を望むと、白い透明な塔が建っているのを見つけた。今度何かを確認に行きたい。

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2013
03/22

復旧と復旧


志高と志中からしか「福祉の里」の全体を見る事は出来なかった。正面から見える場所へ立ち志津川市街地を見渡した。何も無くなった町だけが広がり、2年が経っても復興などは何一つ見えなかった。
「福祉の里」は近々解体されると聞いた。地元の有志で建設された老人ホーム「慈恵園」、私の叔母や同級生など多くの入居者、そしてディサービスを受けていた入谷地区の多くの方が、この高齢者の憩いの場所「福祉の里」で亡くなられた。
沢山の人はここに諸々の思いでがある。私は旧志津川中学校として、桜やポプラの木が思い出として大きく心に刻まれている。津波襲来は正面と旭ヶ丘の上り坂からの二カ所から、福祉の里に押し寄せた。この日は「芸能大会」が高野会館であり、福祉事務所の職員も多くが、会場の「高野会館」にいて何とか難を逃れた。まだまだ多くのトラマが「福祉の里」にはあった。海抜13メートルのこの場所は今後どのような復興を遂げるのだろうか。
昨日の「まちづくり協議会」は西地区の大きな計画変更が伝えられた。予定地から硬度の岩盤があった為と行政より報告があった。26年の造成完了で高台移転が始まるはずだったが、行政は用地の変更しながらできるだけ早く変更整備したいという。昨日の会議での発表で、まだ西区移転希望者には伝えていないと言う。一日も早く伝える事は当然の事で、移転者は今後の方向性に再度検討を余儀なくされている。
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志津川駅前は以前の姿を消し痕跡さえ何もない。その向こうに見えるのはマツダ本社跡地の瓦礫の山です。その先には高野会館が見える、その左側に「モアイ像」と「イヌワシ」のモニュメントがあった。
一昨日のラジオで南三陸町へチリ国から贈呈される「モアイ」が、東京の丸の内で一週間展示され、多くの人が集まっている、と放送されていた。志高情報ビジネス科考案の「モアイ君」の缶バッチが配られ、雄新堂さんの「モライ伝説」も会場で紹介されていた。この後は大阪でも展示され、5月には南三陸町に来る。
町の高台を繋ぐ道路は「早期開通」をと昨夜も話がでた。子供たちの「送迎バス」による登下校は、肥満へと繋がっているとも言っていた。志津川市街地の三地区を結ぶ高台横断道路は、現在高台で暮らす子供たちの通学路となる。志小・志中・志高の学校を結ぶ「高台移転横断道路」となる。母親は早期開通を願っていた。

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2013
03/21

お元気ですかと感謝


しばらくぶりで歌津田の浦にでかけた。田の浦漁港の復旧工事が今始まっていた。旭岡八幡神社は跡形も無く、自宅・社務所の場所が、主を待っているように見える。何も無くなったが小さな赤い鳥居は無傷で残っていた。海岸線に歩くと左側の船着き場は現在も残っているが、地域を守っていた防潮堤は二つに割れ傾いていた。この場所から津波は上陸して枡沢までその勢いを増し、管の浜からの津波とぶつかった。想像を絶する津波の動きがあった。
昨日の福島原発の停電騒動は、原発のさらなる危険を感じさせた。しかし原因は「小さなネズミ」らしい。大地震と大津波と鼠、なんか不思議な組み合わせを感じる。
わたくし事だが、ブログのアクセス数が「10万アクセス」に今週末に到達する。7年目を迎え当初は10アクセスぐらいだったものが、現在は一日90アクセスと多くの人たちが見てくれている。10万ケタが「00000」に戻るのかと楽しみにしている。「0」からのスタートは正に私の今かも知れない。
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帰りに歌津「伊里前福幸商店街」に寄った。駐車場には大型バスがありイベント会場には多くの人がいた。商店街の方に聞くと「弘前大学吹奏楽部」だと言う。東北でも№1の音楽隊で、全国でも常に上位の楽団が歌津に来てくれた。しかし、時間の余裕と告知不足だったのか、来場者はまばらだった。被災地支援での「有名団体」の来町には、できるだけ多くの人で感謝の気持ちで迎えたい。少人数でも有名でもなくても、感謝の心を示していきたい。ここもしばらくぶりであり、新しく竹のモニュメントがあり来客を迎えていた。
4月1日からの「仙台・宮城DC」では、今年は歌津の「田束山つつじ祭り」と「しおうお祭り」をメインに、5月は歌津地区を中心に開催すると言う。伊里前市街地は基礎瓦礫も撤去され、大広場となっていた、ここに5月のゴールデンウィークに全国から、多くの来場者の賑わいが集う光景が楽しみである。
今日は夜6時から入谷公民館で「まちづくり協議会」がある。暗い瓦礫の町を戸倉から入谷まで、夜の車走行は私の目には少しの不安もある。

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2013
03/20

戸倉っ子の旅立ち


戸倉小学校とは「戸倉剣道スポ少」なくしては、ここまでの関わりはない。被災しての善王寺小の戸小入学式に突然出席し、学区外からの参加が、周辺に違和感を感じさせた事、今も記憶にある。戸小の卒業生は今年9名となり、卒業証書の授与で校長先生が、卒業生一人一人に将来の夢へに、エールの言葉を送っていた事に感動した。
震災で戸倉学区の崩壊があり、登米市での再開はあまりにも衝撃的で、剣道の子供たちへの「大変だろう、頑張って。」の気持ちを伝に参加した。人の目はどうでも良いとまで思った。あの元気な子供たちの不安の解消に会いに行った。4人だった団員ながら、一人は転校し三人の顔に会えた。現在は一人は志中に編入し、二人は志中に併設となった戸倉中学校で頑張っている。しかし、「戸倉剣道スポ少」は、来年度から「志津川剣道スポ少」に戻る事にしました。現在は志津川中学校の剣道部が「志津川剣道スポ少」と名乗り、私がスポ少を始めた原点の、前身の「志津川剣道スポ少」の再建に今後は努めたいと思っている。志津川地区の剣道は一体であり、好き嫌いなどの自分の「エゴ」で、地域の伝統を途切れさせるわけにはいかない。
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震災後に戸倉小学校には、神奈川県からの義援金を持っていったり、他にも学校に義援金があった。また、茨城県の中学校が「寄り添いたい」と、その気持ちと交流の形はないかと、戸小に相談にも行った。
戸倉荒町の戸小出身の、茨城県那珂市戸倉小福幸応援団の佐々木典明の「祝電」が紹介されていた。「お祝いの声」のペーパーながら、母校の支援に思いに強い郷土愛を感じた。文面を紹介したい。「愛しき後輩たちの卒業の日に、その場にお伺いできず、残念な思いでいっぱいです。今年度小学校を卒業する人は、全国に沢山いると思います。しかし、困難を乗り越え、たくましく成長し、中学校へ進む君たちは最高にすばらしい卒業生です。ありがとう後輩達、そして、本当におめでとう後輩達。」心温まる先輩のエールは嬉しいものである。
佐々木さんとの交流は震災後にあり、南三陸町の現状を茨城県那珂市の子供たちに伝える活動をしている。「佐々木さん今後も日本の将来を担う子供達のために頑張りましょう」

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2013
03/19

南三陸町志津川小学校卒業式


我らが母校」の志津川小学校の卒業式が昨日18日に開催された。卒業生総勢44名の2クラスです。私は昭和43年の志小の卒業で、母校のあった場所は、現在は瓦礫から被災車そして塩害木などが、次々と置かれた「くろしおグランド」があり、今は見る影もないが、木造校舎と体育館で校庭には一本松と大柳があった。クラスは4組で1クラス40名はあった気がする。200名近くの卒業生がいて、全校で1000名余りの学校だった。
卒業生が過去で最低の人数になり、淋しい気がするが皆は卒業生を絶賛する。5年前に清水・荒砥が統合され「新生志津川小学校」が生まれ、清水・嵐小学校の最後の入学生だと言う。色々な意味で今年の卒業は違うと、佐藤父母教師会長は言う。
日曜に知人の家庭で晩御飯をご馳走になった。子供たちは言う。「クラブに入る新入生がいない!」と、志津川小学校44人と入谷小の卒業生を合わせても、生徒数に限りがあり10を超えるクラブ活動に、人気クラブもあり、チーム編成は困難となる部も多い。新入生の入部希望にもバランス良くとの話も聞く。以前に戸中でもそんな話も聞いた。
夢と希望を持っての中学校への入学ながら、多くの不便な環境の中でも、精一杯自分の目指す道を進んで欲しい。

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今後予想される「南海トラフ地震」はM9で、平均5m津波が千葉県から鹿児島までの太平洋岸に押し寄せる。経済損失は220兆で東日本大震災の10倍と言う。被害者も死者32万人ながら、今から「防災対策」をする事で被害は半分になる。津波を予想し5自治体が高台移転を決定し、11自治体が移転を検討している。住宅の耐震化や避難道の確保など、今回の災害を教訓に「防災教育」などでも減災が図られる。国土交通省の津波検証に、北上川の津波遡上を見ると「大川小学校」は誰もが想定もいない所から津波が来た。北上川の遡上は49Kまでで11㎝の到達を確認している。
現在福島原発では原因不明の停電が昨日から続いている。1号3・4号は冷却で25度を保っているが、65度を超えると大変だと言う。4日間半がその時間と言うので対策は大丈夫だろう。そんな中で「女川原発」の建設には、福島の原発とは違い多くの地震津波対策が講じられていたから、大津波でも大事故とならなかった。震災にあたり被災者の救助・避難施設の役目をしたとも言っていた。物事を隠さず適正な工事し、現在考えられる想定の全ての対策を講じれば、人災と言われる原発事故も防げる。人間の英知をそんなに侮ってはいけない。
今日も小学校の卒業式があり、午後からの議会で、この日も多忙な一日となった。昨日も我が家には「大事件」があった。

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2013
03/18

南三陸町の記録

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また多くの南三陸町の風景と出会い、今後出会えない・無くなる町の記録として、被災から復興への町の写真データを残している。USBメモーリーが70個ぐらいたまり、1個には1000枚以上も写真が入っている。データはそれだけではなく、パソコンやホームページ、何個かのブログにも被災前の町の姿があり、何とかそれを残し見る事ができる。
今日も町内の小学校の卒業式が開催される。戸倉の小中が被災し登米市の善王寺小の廃校となった学校に移転された、戸小の入学式も喜べる印象として思い出し、志津川中での併設となった戸中の志中多目的ホールでの、あの子供たちの顔を忘れる事は無いだろう。
多くの被災の中でも子供たちの成長の記念日の写真、大きくなった時にみんなに、頑張っている事を生き抜いた当時の記録として、いつかこの写真を思い出し見れる時がくる事を願いたい。
現在の戸倉荒町に仮事務所がある事で、地域の人や通勤時の日々の光景に出合う。一年後には倉庫のある商工団地に会社が再開する事を予定する。今後の生活を考えると、残された現在の生活が終わると、町の移り変わりを見る事は少なくなりそうだ。
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志津川からの戸倉荒町の入り口に、石巻からの国道45号の車が見えるように、「ここから、過去の津波浸水区間」との掲示板ができた。過去と言うが「ついこのあいだなのに」と、風化的は表現がされていた。志津川地区に入る道路の、小森・天王山の3カ所と聞くが、戸倉・田尻畑などまだまだ志津川市街地に入る道路はある。今後は国道沿いから町道などの基幹道路には、津波被災の町として、浸水掲示板を町内各地に設置となると思う。1000年に一回の地震津波の発生ながら、100年に一度の津波とて、また何時来るかもしれず、観光客や水産業・商工事業所が4m嵩上げした市街地で、今後「生業」が始まる。避難道を含めた津波対策は「待ったなし」です。
車の中でラジオから、県の25年度の職員の補充が放送となった。防波堤などの整備に40名、土地の確保に60名が職員補充となり、他に大阪より100名の自治体派遣員などがあった。その他に県の被災地を含めた医師・医療の対策室設置があった。数字は確実ではないが、県の今後のマンパワ不足と現実の問題解決に、緊急な人員補充に対策を講じていた。
夕方に戸倉荒町に帰る時の山陰に沈む「真ん丸い太陽」、綺麗だった。

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2013
03/17

被災地はキャンパス


昨日は知人の新築祝いの先輩の意向に答えた。地元の再開したお店から祝いの食事を準備し、互いに物を持ち寄り集まった。料理店を経営していた仲間は、アンコウを地元の仮設商店に鮮魚を発注、手作りで「特性アンコウ鍋」を用意した。偶然に重なった「誕生日」に花束が二つも添えられた。
私たちは一日も早く普通の集まりができる事を願い実践する。6人の内4人が津波で全てを失った。少しの我慢と少しの努力を町民が苦しい中で進める事で、南三陸町の再建が一歩ずつ進む、こうした潮流が生まれるような環境作りが行政に求められる。
南三陸町全体が大きなキャンバスとして、これから復興へと町が作られている。商工会跡地から西の保呂羽山を望む、何もない広々とした土地に、町民皆で真剣に絵が描ける。しかし、町民がどこまでそこに参加できるかと言うと、私とて何もできない描けない現実がある。これを町民に付いてきてと行政は、決めた計画の押しつけをしていると私は思う。もっと自由に町民が町づくりを提案していく事は、今からでも遅くない。
震災からの町づくりは最初に「町づくり町民会議」があり、大枠が町の選んだ人の多い中で行われ決定した。そして現在「町づくり協議会」が細部について議論し提案されている。阪神淡路の大震災で町づくりに取り組んだ、「町づくり協議会」とはまるで違う。それは町民の多くが未曽有の震災で被災し町再建に、生きて行く事でいっぱいの、生も根も尽きたからと私は考える。

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国県が「動線」を決定し町形成を考える。この部分の多くの国県の提案を飲む事から、南三陸町の町づくりが成される。国県の予算が復興交付金の当初額「4900億」があり、多くの事業決定で交付される。国の示す事に添う事で事業資金として認められる。
「動線」とは道路のロートの事で、国道・県道がありそれと接続する町道があり、こうした道路が町形成の基本にある。防潮堤の8.7mと国道・県道の8.7mの嵩上げが基本となり、道路網が形成される。最高齢の同僚と町を思う地球規模の変化を想定する先生は、高台住宅の建設される高台を結ぶ山々に動線を走らせるべきと言う。行政は「三陸道」の命の道と、海岸線から水産物を運ぶ産業基幹道路として、国道45号・398号を整備し、町を形成すると言い、3本の道路が「避難道」としての役割を持つと説明をする。
私は「避難道の充実」で人命は守られると思う。嵩上げは高台の土の置き場として必要な事業である。地盤沈下をした土地の修復であり、高台の土地の造成の為と思う。嵩上げに関しては莫大なその資金を、住民の一日も早い生活再建の為に使うべきと思うようになった。
気仙沼市の「阿部長商店」は元のあった地区に40億を掛け、流失した6つの工場の集合体として再建すると社長が言っていた。気仙沼の水産業の早期復活と、雇用の場の確保を図ると言う。100名の雇用と工場の再建は、関連する会社の復興支援ともなる。「我が町」は水産業の部分では一部の事業所の再建で、それによる波及効果は少ないと予想する。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 12:45 】

2013
03/16

何もなく


来週で3月の予算議会は終わる。11日間で600億を超える予算が町の復旧復興に使われ、その中の町の行政予算は80億と通常と同等となった。「復興特需」はあるものの、大手のゼネコンが地元企業と共同体で多くの復旧・高台移転造成を中心に事業を行い、多額の予算が充てられる。予算には億の数字が踊っていた。
歌津地区の寄木・韮の浜の土地造成は6億3千万円余りで、出資比率によるがここはゼネコンが7割、地元事業所が3割の経費割となる。造成はゼネコンが大型重機で行い、地元企業は土地区画などの整備を3社が行い、2億前後の収入となる。41戸の高台確保1戸当たり100坪として、1500万円の造成費が掛かる。
マンパワー不足で自治体より職員の派遣がある。今年度は60名余りで来年度は100名の職員を派遣してもらう、報酬は900万円で特別手当がプラスされ、多くの地元での生活資金として300万が掛かり、1人あたり1200万円で1億2千万円で充てられ、全て復興交付金で支出される。
施政方針・予算概要で、議員の総括質問で町職員出身議員の、副町長の2人制の提案があった。今年は1人の退職で再任用は一人ながら、昨年は4人ありその一人を副長長の考えを持っているとしたら、「お友達行政」と言われても仕方がない。女川町は2副町長制ながら、中央官僚の任用と言う。町職員の採用なら視野が狭く、「天下り」と常々言われる現体制の体質は一つも変わっていない。町監査役の議会選出も町長任命は、町職員出身者だった事からも推測がされる。町の財政支出の監視役に、町長の部下だった職員があたるとしたら、監視役として妥当と思っているのだろうか、狭い考えで混乱している中で、被災地の資金運営に疑問を持っているのは私だけではない。
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震災後1か月後の私の家の周辺の光景写真です。市街地の復旧の道路の確保されているものの、震災瓦礫が至る所に広がっている。
昨日の午後4時ごろの同じ場所の姿ながら、総てが片付いたといっても過言ではない。しかし、市街地の被災者の生活環境は何一つ変わっていない。そんな生活苦の町民がある状況での、町の支援は「住宅再建の補助はしている」と、声を高く言っている。再建は個人任せで、今の生活への保護は手薄い事に、町の支援体制は環境整備だけで、住民は戻ってくるのだろうかと、私の仲間は口々に言う。
写真の旧市場まで続く道路は、私の幼少からの多くの思いでがある。「海遊び」「広場の草野球」「ビー玉・こま回し」など、地域の子供たちが共に遊び、地区児童会が学校でも形成されていた。被災地の人口移動・生活地の浸水などで、子供の減少があり沿岸部の学校の10数校が来月から統合となる。
自分だけの意地だけでは早期再建や人口減少の歯止めとはならず、多くの議論と計画修正で一丸となり町づくりが行われないといけない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:40 】

2013
03/15

花を咲かせよう

2011-04-29 13.00.08
宮城県立志津川高校の平成23年4月19日がこの光景だ。市街地の被災状況が見えない中で、登り切った校門の脇の大きな枝ぶりの桜を当時撮影した。写真の中から見つけ元気とパワーをもらった。被災から一か月余りの時、ここで避難された皆さんには、桜の木は少しの心の支えとなっただろう。
志津川高校の受験発表があった。被災地の高台にそびえる「我が母校」、生徒の減少は紛れもない事実で、町の人口動向と復興の進捗により、存続を私は懸念する。県立高校の統合は近隣市でも始まり、登米市は4つの高校が一つとなる。
この町で生きてきて多くの仲間と、志小・志中・志高とこれが義務教育と私は当たり前の進路と捉え、最終となる義務とはなっていない志津川高校から、社会へと巣立った。町内の入中統合があり、清水・荒砥そして藤浜の小学校が、地区での大きな学校と統合された。志津川地区に至っては町の教育委員会が描く、「3小1中」と、震災を機に加速する。
現在、被災により住民の気力・パワー・反発が無い時期を、機会と捉え行政が学校集約に向かっているように私は思う。平成26年度から戸中は志中と統合となる。志津川中学校に併設して授業をしている戸中生は、今年の入学生が最後となる。母校の無くなる事への悲しみは、経験のない私には計り知れない。
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町内には葬祭場がJAの入谷地区の施設しかない。昨日も知人の母親が亡くなり焼香に出かけた。入谷鏡石へ国道398号から入った所に葬祭場があり、その地域には以前は入谷公民館しかなかったが、現在は葬祭場の他に入谷デイサービスセンターが建設され、写真は大学生の研修センターで、震災直後に入った大正大学が支援していると聞いた。多くの学生らしき人たちが「竹」で手作りの柵を造っていた。
現在多くの若者たちが南三陸町の復興支援に来ている。しかし、関係機関には多くの目論みもある気がする。
南三陸町の「復興計画」は残り八年で終結する。被災者の再建は終わりまで20年30年と掛かり町と町民には考えには高い温度差を感じる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:26 】

2013
03/14

何も無くなった南三陸町本浜


何も無くなる寂しさは形が亡くなり実感として伝わる。私の家族は誰も亡くなる事は無かったが、生まれ育った「凛」と残った建物があり、土地の基礎解体までのプロセスを、毎日の通勤で見ていたが遂に何もなくなった。「千葉家の本浜の歴史は滅亡」した。朝五時半に「我が家」の場所へまだ薄暗い時間廻ってみた。倉庫は残骸となっていた。町の地区の移り変わりの毎日を、変化がある度に写真に収め過去の記憶を忘れないようにしてきた。これからは生まれ変わる町を撮り続ける事になる。
25年度の復興の町づくり予算は、723億9673万5千円となり、昨年比で73%の増加となった。被災前は80億だったものが、その十倍となり、多くの恩恵を受ける者と、その裏での闇の資金の流れをしる術がない。「乱世」と我が町の今と見る。
私が考える問題点は、「人口流失対策」「教育環境整備」「被災者弱者救済」の三点を挙げた。住む場所を住民が確保するまでには、「職住分離」の町の政策があり、土地の造成完了にまだ2年以上を要し、その後の建設と「住宅再建元年」とは言うものの、まだほど遠い現実に住民の流失が続いている。
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この写真を使う事ももうない。
子供たちの教育環境は被災地の中にあり、校庭の仮設では被災者が一日も早い住宅移転を考え、この大変さに子供達とて「のびのび」と言うわけにはいかない。戸倉地区は26年度には地区にあった中学校が志津川中に統合され、新たなスタートとはなるものの、その地区民の寂しさは計り知れない。小学校の高台移転の設計は始まると言うが、その先の姿も見えてこない。「未来の南三陸町を担う子供達の為に」と行政・教育のトップは言う、その再建対策は一歩ずつとしかいかない。
仮設生活弱者への救済は支援物資ではなく金銭の支援が必要と私は思う。しかし、町はこの現実に「資金の支援の制度はない」と、現実的に無理と言う。自治体トップの決定とリーダーとしての決断で可能と思う。独自の生活再建資金の補助が個人の住宅建設にある女川町がある。弱者支援補助は今まで町を造ってきた「先人」達への感謝の形でもある。弱者は高齢者であり子供達である。
町の存続の為なのに他人ごとのような対策と対応と私は思う。「郷に入って・・」立場となれば、その現実にぶち当たるのか。

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2013
03/13

被災の現実は癒えず

2011-04-24 13.56.35
2011年4月中旬の私の自宅と工場です。先週末に志津川仮設商店で街兄弟3人で酒を酌み交わしました。兄の定年退職と私たち弟の今後について、昔から今までを話し会いました。そこには写真のこの一階部分となった倉庫の二階での生活がありました。チリ地震津波により残った二階部分を一階にしての親子の生活から、子供たちの部屋にと両親が、工場倉庫として建設し、二階が兄弟の生活の場となっていました。
昨日に自宅と倉庫の基礎瓦礫申請を再提出し、「今月に解体をします」と言われ、二年間少し杉での解体・基礎撤去が滑り込みでなされる。
11日の東日本大震災二周年の追悼式の政府の主催で、宮城県代表として同級生の息子さんが追悼の言葉を読み上げていました。震災後の4か月前後が経った頃、同級生が「嫁と孫が・・・」と電話をくれました。慰める言葉も見当たらず、ただ話を聞いて上げるしかなかった事を思い出す。今日になり知人のメールと、彼の兄が電話をくれた、「天皇陛下の前で、宮城代表として」と、しかりと被災者の思いを語っていたと言う。
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「アルファーダイヤモンド」さんの前を通った。旭ヶ丘の弟の家にしばらく世話になり、被災後の飲料水の確保は、ダイヤさんの地下水? 井戸水? を飲料水として使わせてもらった。飲料水の再開は半年近くも掛かった気がする、近隣自治体からの給水車支援があり、ペットボトルの支給もあり、行列を作っての水汲みは1か月に及んだと、当時を思い出す。
今日は町の施政方針と予算の内容の、「総括質問」に初めて臨んだ。なんでもやらないと議員としての意味がない。

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2013
03/12

南三陸町 一つに 一歩から

2011-04-29 12.55.06
南三陸町の「震災2周年」と題しての800人の犠牲者への追悼式典、私は「三回忌法要」と強く受け止める。正式には「東日本大震災2周年南三陸追悼式」で鎮魂の一日となった、そんな中で街中は復旧工事が一歩ずつ進む。
写真のこの光景から南三陸町は新たな町づくりを始めた。どこから手を付ければいいのか、行政だけではどうしようもなく、物質てきにも精神的にも言い表せない町の崩壊は、被災の無い人たちからの多くの支援が必要で、日本人は一つになり、この輪は世界へと広がった。まだ現在は復旧への途上と言える。その道はまだほど遠い。
式典は東京からの映像を映し出し、安倍総理の被災者家族への追悼の言葉から、天皇陛下の「お言葉」では、「この苦しみをみんなでわかち合う事が必要」と御言葉を全国民にお話になられた。また、チリ国と南三陸町の高校生の音楽を通しての追悼の歌は、会場に響き参列した家族に強い癒しと、心の安静を与えてくれた。子供たちの文化をとおしての活動と復興は、町の復旧に大きな勇気と夢を与えた。
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磯の沢地区にしばらくぶりで行ってみると、大きな変化がここにもあった。被災前に葬儀会社として町の中心部で営業していた「山形屋」さん。今回の津波で全てを失い、県の補助事業を受けるものの、土地は何とか確保するが建設は、3.11を目標するが昨日でここまでが進んでいた。商工団地近くながら国道45号から、100m余り入った場所に建設される。
また、三陸道の高架が建設されていた。ここを通る? もっと山手の方だと思っていたが、商工台地ICができるので、間違いはないと思う。町の形成は大きくかわり、新しく町を見て見たい。だから私はこの町で暮らす事を決めた。
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また南三陸町だ新たなスタートとなった店を紹介したい。新井田地区に初めて飲食店ができた。「浜の屋」さんである。海の家や屋台風の店を天王山に開いていた。
新井田の奥にあった家も被災し、直後に津山総合体育館に避難していた。現在も津山から通っていると聞く。避難所での多くの支援者との繋がりが生まれ、その「縁」の力に寄り「南三陸再建」に貢献したいと、会社をいち早く開き、「復興ふくろう」の手づくりグッズを全国に発信し、南三陸町の現状を伝え、働く場を作り被災者支援にあたった。また、今回の「ラーメン店」は、町にボランティアで来てくれる方々への食の提供として、手軽な食事としての「ラーメン」を企画した。
駐車場も広く確保し「皆様の御出でをお待ちしています」と、店主の高橋さんとスタッフは言う。昨日は味噌ラーメンとギョウザを食べた。「炙り焼く豚」も絶品でした。

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2013
03/11

南三陸三回忌


平成23年3月12日の朝はこんな雪の寒い日から被災地の復旧復興は始まった。私の目には当時の建物などの大型瓦礫は無くなったものの、何も変わらない広々とした、あの時の光景に感じる。被災地のある方が言っていたが、「ここでの再建がされて初めて復興だ」と言う。こことは元の住んでいた場所である。
昨日は同級生や親戚、気になっていた数名に線香を手向けてきた。当時の事そして今に至るまで、家族しか知り得ない、亡くなられた家族の話、「なんであの時」がまだ家族の心には強くある。少しの生と死の狭間での、行動・運の違いに現在の差が、余りにも大きすぎる現実としてあり、今を生きていると言う。将来の孫・子供達の為に、心落ち着ける日まで、ゆっくり笑顔が戻るようにと、声を掛ける事しかなできなかった。
震災死は約2万人となり、15000人の死亡と2700人の不明、震災関連死が2300人となった。まだ震災による入院もあり、精神的に苦しむ皆さんもまだ多い。そんな中での政権政府・自治体の震災対応のリーダーの、復興の何なるかの真の絵を気持ちを描けない持てない、震災復興に「言葉だけの」計画・議会・対策などがある。昨日の被災者多くの不満は、私の気持ちとも通じ合う部分で、何が復興なのかと考えさせられる。

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今日も「防災庁舎」の寒々とした赤茶けた鉄骨がそびえ立つ。「なんでまだあるの」の声は昨日も聞いた。「見ると思い出す」、「子供達も見るのもいやだ」。そして庁舎の事など関係なく、今を一生懸命生きていると言う。
昨日の報道の検証では、20㎝で車は流され、人は足をすくわれ流される。海上の潮位計は7分間での5.77mの海面隆起と5.05ま海面低下での、女川を襲った津波の脅威を伝えた。引き波の速さ力に町の全てのものが、海に引きずりこまれる姿は、正に生き地獄と言う。1万人の人口で870人が亡くなり、261名の不明者の意味は引き波による物と理解できた。釜石の防潮堤は海底から33mと言う、20階建ての一塊3.6トンのコンクリートが、「洗掘」と言う現象により、津波の脅威の力で破壊され海底に沈んだ。1200億と言われる1200mと600mの堤防の建設費1200億が、海の藻屑となった。国交省の津波防災対策担当者は「防潮堤は高くする事は考えていない」と話す。これが検証による津波対策ながら、我が町の対策は、検証前の国の防災対策そのままを計画しているしか言えない。
私は行政トップに聞いた。「復興計画は国からの計画そのままで」「町独自の津波への防災対策になにか」をの問いに、「町の考えで復興計画を作った」と言う。こうした検証からの津波被災の新しい町の姿を、独自計画での再建を考え発信するリーダーの出現を、私は思う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:25 】

2013
03/10

鎮魂と復興と夢へ


明日で3年目を迎える。志津川中学校のモニュメントごしに志津川市街地を望む、見る限り何もあの日からの変化は感じられない。しかし市街地で見る限り少しずつながら、瓦礫は撤去かれ次の段階の被災地の整地、区画整理そして嵩上げは八幡川の東側が4mとなり、西側は「祈念公園」としてまだ計画中だが、1mの嵩上げでの緑地帯と「津波鎮魂の丘」に慰霊碑建立となる。これはこうなればいいと思っている私の気持ちです。志中の寄り添う親子のモニュメント、被災者ならず全国の国民が、被災地と寄り添い生きて来た2年間と思う。CIMG1611.jpg
今日は志津川中の卒業式で、110名余りの今回卒業生徒のはずだったが被災後に、生徒・家庭の諸々の状況で、88名の卒業生数となった。3年3組の先生が遺影を抱え卒業に臨む姿もあった。議議長は皆さんには「鮭が川に戻るように南三陸町に卒業しても帰ってほしい」と祝辞で述べた言葉が、印象的だった。CIMG1625.jpg
9日10日と週末となり、また多くのボランティアの活動が町の中にある。風が強く作業も大変ながら、今年も全国からの支援が暖かくなり、「観光支援」と共に活発になる。仙台・宮城DCも4月1日から始まり、来町にあたり一日も早く、手を合わせられる場所が出来る事を願う。
明日の三回忌を迎えるに当たり、町内に報道関係者が多くいる。日曜とあり報道特別番組として、多くの津波の映像が紹介されている。石巻の日和山から見える大橋で取り残されたトラックのドライバー、女川の引き波での10mを超える岸壁が滝となる姿、しかし、「なぜか南三陸町の姿」がない。津波検証が被災自治体でなされているが、我が町の検証は町民にも、私たち議会にもしっかりとした報告はない。志津川・歌津が取り残されているような気がする。歌津仮設商店街では「ワカメのしゃぶしゃぶ」のイベントが、今日開催されていた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 14:36 】

2013
03/09

愛する家族・人がいるから


剣道の理想の私の指導者「清喜さん」のテレビでの涙に大震災の悲しみを又新たにした。
奈良の「薬師寺」での法要に被災地の20名が招待され、その中で代表として心を打ち明ける手紙を読んだ。3.11が来ると「あの日とあの時間に戻される」と言う。「高台に逃げてください」との愛娘「未希さん」の最後の言葉に、「第一に命を考える防災にしてほしい」と言う。「未希、私たちの心にはいつも貴方は残っています」と手紙の読み上げた。
清喜さんとは一年位あっていない、ご両親は南三陸町の海の再生に又歩みだし、お母さんも仮設で暮らす被災者のために活動もしていると聞く。自分たちも被災者であり、心の傷を負いながら今を生きているふたり。何もして上げられない事を詫びたい。
花粉症が出始めている。乾燥と共に鼻が何か変である。また目の方も眼底出血のレイザー治療による、効果が今でてきて調子は良い感じがする。
昨日の朝の靄は「PM2.5」だったのだろうか。宮城県名取での値は「65」と警戒数値まで至ったと聞いた気がする。
花粉・黄砂・PM2.5とのトリプルパンチ状態の眼に近づきつつある。
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一昨日の細浦の徳性寺で曹洞宗の尼僧の皆さんによる三回忌法要は、100歳にもなる尼僧の方もおり、寺の被災での仮設本堂の高台までの道が大変だったという。普通とは違う状況の被災地の姿に、生活の大変さを痛感していた。
撮影させてもらった写真に、子供を抱き護岸いっぱいに近寄り、手を合わせる親子の姿に、被災での苦悩は知り得ないが、その背中から多くの悲しみを感じた。
今日は風の強い朝となった。葬儀の参列と広島の知人が再建の相談に来る。建設会社も支援したいと来社する。明日は3.11の三回忌の前日、何軒かの焼香に行く準備を今日したいと考えている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:09 】

2013
03/08

三回忌を前に


昨日は南三陸町細浦の徳性寺にて、曹洞宗の尼僧団50名余りが、「東日本大震災」で亡くなられた方々の、゜三回忌」にあたり祈りをささげた。
曹洞宗の研修の一環として作成した100体の「お地蔵様」を被災し逝去された、法要に参加された皆さんに手渡した。「紙塔婆」にお名前を書き海に流し、尼僧団全員で鎮魂の祈りを捧げた。多くの人々が供養会に参列し、悲しみを新たに海に向かい手を合わせた。
津波は憎いが海からの恵みで栄えた細浦地区があり、南三陸町は海とは切っても切れなく、海との共生がある。「海を見るのが怖い」と言う方も多く、今回の津波による多くの死者と不明があっても、被災後も海の再生による生活がある。複雑な気持ちでこの光景を見る。
まだ町には鎮魂の手を合わせる場が無い中で、海に向かっての合掌は在るべき姿に思った。伊里前小学校校庭での天皇皇后陛下の海に向かい頭を下げる姿を思い出す。こないだ佐沼でみなし仮設に住む方は「陛下と並ぼうとした町長、あの失礼はありえない!」と言う。本当の鎮魂は形だけではなく気持ちと思う。この時、人は目立ってはいけない事を誰もが知っている。
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昨日、会社の前の登りを見つけた。戸倉荒町の中央に位置する我が社、これまでは戸倉荒町地区の学校の送迎バスの乗り場としてあり、朝7時30分頃には子供たちの元気な声を聴いていた。
「南三陸バス乗り場」の登りは2日前に立てられ、会社看板の支柱に紐で取り付けられていた。今までは向かいの「並石橋」の手前に、委託された「志津川観光タクシー」の車がいた。バス乗り場のこうした目印は必要で、乗る方は高齢者で数名ながら、被災地の現状を考えると重要の交通手段としてある。
こないだ志津川小学校に出かけた折、戸倉小の志津川小への併設があり、帰りのバスを先生方全員で、手を振り送る姿があった。毎日こうした先生方の見送りは、被災地を通り登米市などの仮設に帰る生徒は、心強く明日も頑張ろうという気を起こさせる。
志津川から広島へ避難した知人が今日来る。直後に車での避難があり、その車と共に帰り再建を目指す。再建には車は欠かせなく、無事に帰るよう「気を付けて」と言葉を送った。

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2013
03/07

良い事・悪い話


昨日朝6時前に新聞配達のおばちゃん、「これ落ちてましたよ」とメガネを差し出す。火曜の議会開始があり、金曜の役場への用事の最後、事務所に帰りメガネが無い事に気づいた。そこから問題解決に動き、土曜日に電話でメガネ店で保存する処方のデータのままでの、メガネの依頼を今後の事も考え、二個を注文し日曜の12時30分までながら、1時間も私を待っていてくれ、一日目の滑り込みの質問に間に合った。自分の不注意ながら、現在は4個のメガネが手元にある。おばちゃんには何かお返ししないと!
歌津中消防クラブの事を昨日紹介した。受賞は学校と関係機関そして地域が一体となった活動があった。しかし、昨日関わっている親の事で驚くべき事実を知る。自分の立場は町民の公僕であり、共に協力をしていけるよう導く事が職務ながら、一つの私の疑問をぶつけたが、「あなたの考えは違う」と私は席をたった。総ての大人と親は子供の事を思い行動するのは当然ながら、そこには地域性・伝統・情・流れなどがあり、それを加味して全体を上手にまとめる、があり。これまでは先人たちの「和」を大切にした活動があった。それが目に見えぬ根回しと圧力を講じている事を感じる。私も今まできた問題を議論し解決してきた、多くの「対話」の必要性を思うが、無理のように思った。
「先生疲れないように」「先生大丈夫」が、私が今まで交流・活動を続けた親たちからの気持ちで、人は色々あるにしても、人を利用し人を排除し、「人の恩を感じない」、こくな人間は目の前から見ないようにしているが、それにより泣く人があり、その為なら戦おうと思う。私は汚い手は嫌いで、泥臭く今までも戦ってきた。
私の周りには今いろんな人がいて、生きて来た姿を正直に話す。昨夜も「おかしいでしょう」と初めて話す人に1時間聞いてもらった。自分は自分のようにしか生きれない。公務員の半分の人とは性格的に合わないかもしれない。今夜も気の合う仲間と、始まる「スポ少」の体力づくりに「ジム」に行きます。

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2013
03/06

避難道


昨日の「防災教育」の質問に、「名足小の再建は」を質問した。復旧工事の総額は3億円を超える。担当に津波の防災対策は講じているのかには、避難道の整備確保と、教育の場所は二階とし、二階から直接避難ができる体制を構築し、山への階段も整備し津波対策をする、と言う。校庭の周囲に津波防衛の塀とかを回すのかなと思っていたが、「大きな地震が発生したら逃げる」との言い伝えどおり、津波から逃れる避難道の確保で対応する。学校の教師への「防災マニアル」の作成配布だが、地域や父兄には配布の予定はないと言う。歌津の中学校消防クラブの、消防庁の「防災まちづくり大賞」の受賞は、地域の消防署・消防団・地域民の支援を受け、協議会を作り活動を永続できる環境整備の構築に対し送られ、地域と学校が一体となり「防災教育」を図っていく事に意義があると、前校長から助言をもらい知る事となった。自分に従順な人は守り、「意を唱える者は排除刈る」、こんな町の体質は「新しいまちづくり」はできないと私は思っている。
今日は5時半に水尻橋を通った。この写真の光景に魅了され、「綺麗と感じた時」にブログで写真を紹介している。もう一枚は志津川湾に漁港から仕事場に向かう、一艘の船と戸倉半島の陰から登ろうとする朝日の「紅色」を撮影した。「明けない夜は無い」と言う、あの津波の何も無くなった町が、確実に復旧を遂げて今がある。正にこの「ことわざ」どおりである。
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駆け込み退職がある。退職金引き下げの法改正で、1880人が昨日までの数字がだされた。教員・警察・ほかの地方公務員、などで、安定した職として就職希望の多い職種でもある。担任などの先生の多くも卒業前の退職もあり批判もある。将来設計や家庭事情もあり一概に批判は出来ないとも思う。
「グリットロック」と言う言葉をしっているだろうか、津波による自動車渋滞を言う。石巻市の海岸線の地区の検証で、交通渋滞に巻き込まれ亡くなった人が多かった。南三陸町も津波直後はこの現象があった。私も国道45号の渋滞の前で、細い道路から前に進む事が出来なかった事を思い出す。津波から逃れようと我先にと、常軌を逸した人間の精神状態があり、それをおかし生き延びれた現実もあり、運が良かった悪かったとしか言いようがないと、当時を振り返り話せる人々がいる。私は幸せです。亡くなられた皆さんの無念を伝える役目を担っていきたい。
被災を受けた子供たちが多くいる。「物言わず一人遊び」「戦争ごっこが好きになった」とその行動をテレビの中でも目にする。専門家は、「被災のシックが脳に残る」、こうした子供には遊び・おもちゃで「心を表す事」が必要という。子供ならず大人も人から支えられている。と言っていた。
昨日は元役場職員の方とあった。「高齢者はこのままでいい」と話していると言う。高台移転も土地買取も、何の意向も考えていなく、仮設での生活でいいと! これが被災地の悲しい現実です。一人で暮らす淋しい生活がいつまで続くのだろう。

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2013
03/05

生も根も


今日の朝6時30分に志津川十日町のケンズ跡地から、西を望んだ光景ですが、基礎瓦礫は撤去され市街地形成の為の区画整備と、嵩上げ4mが今後なされ、道路・防潮堤などの造成が進められる。とりあえずは土地の境界と区画整理がされる。
こんなにも夜が明けるのが一揆に早くなった。「白内障」の私には林の峠の信号の向こうから登る旭が、視野を「真っ白」に突然塞ぐ、運転には十分気を付けてほした。
3月定例予算議会、3人目の私までが想定していないが来てしまった。トイレで議長に「めいっぱいやっていいから」の声に、1時間30分をフルに使い、町長と教育長に質問した。スーパー出店に答えが出ていない町の対応に、「何で町民が求めるスーパーの出店を町が拒むのか」と聞くと、「建設を止める何の理由もないと」町長の口からでた。出店して良いのかを再確認する。「私の答えを理解されていないのか」とイライラしたように、私には写った。出店のゴーが出たが、これからがまた大変のようだ。
建設には色々かかり2年弱かかると聞いた。建設が決まっても町民の買い物の場は、まだまだ登米市であり、気仙沼・石巻への高騰するガソリンでの買い物は続く。
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被災直後から営業していた「蔵八ラーメン」の駐車場に、バックフォーの重機が2台並んで置いてあり、基礎瓦礫が撤去されても店の大型バスは、デンと構え残っていた。
住宅建設のスピードに驚いている。山を削る造成工事が終わったと思ったら、家の骨組みができていた現場を多く見る。本格的に高台移転が始まる、狭間での建設ラッシュである。
今日も重大な情報を聞く、緊急雇用が来年度の予算にあり、599人で14億余りが復興交付金から充てられる。この期間が3年間と言い、という事は23年からだったと思うので、来年度で終わる事となる。
同僚が質問した、「従業員の雇用にあたり町から補助は出せないのか」は、事業所の公平公正の観点からも、こうした補助制度は難しいと言う。
とにかく町も町民も大変な状況が、27年度から始まる予感を思う。

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2013
03/04

トンネル


三陸道の「志津川トンネル」の貫通式が昨日あった。東の志津川側からは前田建設が、西の登米市米谷側からは東洋建設が、トンネルを両方から掘り進め、中間地点での最後の爆破で「志津川トンネル」が貫通した。4年から5年はかかる工事を、一年4か月で貫通させた。復興の加速を図った成果が出ている。
村井宮城県知事・小野寺防衛大臣、そして夏の選挙を迎える参議院議員が多数参加しての貫通式、多くの儀式にのっとり工事現場監督による「貫通確認」「万歳三唱」「清め塩」「祝い神輿」など、大工事の達成を祝いの盛大な式典が、トンネル内にて開催された。最後には「入谷打ち囃子」が貫通に華を添えた。
終了後は398号の「水境トンネル」を通り登米市へ、メガネ店で紛失したメガネの代わりを取に行き、寺浦地区にみなし仮設生活をする家庭に御邪魔した。同級生の兄で元気そうで安心した。足が少し不自由な状況であの大津波から避難した、と言う。避難指定場所だった「上の山緑地」から、熊野神社を通り志津川小学校に津波に追われ避難した。三日目には登米市へ兄弟を頼り今に至ると言う。震災の次の日に小学校で無事な姿を見ていたが、今は少し落ち着きを見せていた。みなし仮設を廻る町からの「福祉士」への感謝を何度も言っていた。登米市で開催されたみなし仮設生活者の集まりには、40名もの町民が集まり楽しかったと言う。しかし、もう南三陸町には帰らないと言い、登米市の住民となっていた。
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昨日の会議での人の接し方に「頭にきた!」、途中退席は自分の最大の抵抗でした。飯の時も考えれば考える程、「今度会ったら」と、考えながら一晩眠り二時半には目覚めた。人は眠ると頭も落ち着く、自分自身も決した「立場を翳し」、大きくならないようにと常々気遣う。役場の職員にもいろいろな人間がいる。議会でも「職員教育」が時々でるが、各課長などトップへの態度は従順となる。何故なら「左遷」「格下げ」など、管理職の特権には従わないと大変で、これで大きく環境も生き方も変わった職員もいる。こんな職員を何人か知っている。私もこの立場が無くなったら「ただの町民」となる。
今日は大切な一日としたい。

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2013
03/03

美波


昨日は再放送で「復興への命のリズム」を見た、確かそんなタイトルだった。京都のヨサコイ今村組? が南三陸町の子供たちと北海道の「ヨサコイ祭り」に合同で参加するドキュメントでした。戸倉・志津川の中学生の「本心を言え無い、声を発せない」、など前に進めない子供達へ、チーム今村組の女子リーダーが、「本当の笑顔がつくれるように」と共に苦しみ頑張った。戸中の小野寺さんは6月の中総体への参加のため、リーダーに選ばれながらチームから離れ、美波は自分の本当の心と声を出していない事が、ヨサコイの踊りに出ていると今村は言う、「お母さんはヨサコイ街灯の向こうできっと待っているぞ」と叱咤激励する。今村も共に涙し、「これでいいのか」と葛藤する。多くの日々の笑顔の中に子供たちの苦悩があった。祖父母を亡くし、母を亡くした、まだ幼い思春期の子供達に全国から心の支援があった。昨年の7月放送で、本吉・気仙沼の「中学校総合体育大会」の6月ころ撮影だった。こんな事があったと思い出す。戸中は生徒が少なくチーム編成で、部活の仲間のために北海道行きを断念し、美波の真実の気合いを、今度は見聞きできる事を楽しみにしたい。
昨日は「三回忌法要」で大雄寺の高台から志津川湾を望んだ。この土曜日は午前中から30分刻みで3.11で亡くなられた方々の法要が営まれていた。
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町の至る所で変化していた。写真の「石造」が墓地の丘に建立されていた事も初めて知った。静かに被災地と志津川湾を見つめていた。
岩手県大船渡では「奇跡の一本松」がモニュメントとして建立された。一本松で作った「オカリナ」で、「ふるさと」を子供から大人までが参加し演奏をする。しかし、私の町では未だに「慰霊塔」「鎮魂碑」「モニュメント」も何一つ建てられていなく、観光振興・水産再生が幅広く進められている。多くの亡くなられた人たちで作られた、志津川・歌津地区の美しく華やかな町があり、その感謝と鎮魂の活動を形で表そうとの姿が、何一つ見えてこない。まずは一つでもいいから「鎮魂の碑」を建立するべきと思う。
こないだこんな歌をラジオで聞いた。「被災後の静かに降った雪、未だに解ける事はなく」たしかこんなイメイジの歌で、津波襲来の後に深々と積もった瓦礫上の雪、一向に進まぬ復興と人々の心は未だに癒えない、こんな事を歌にしたと私は感じた。2年を迎えようとしているのに、小さな個々の再建はあるものの、市街地の被災地の復興の姿が見えてこないと、被災地の人たちは口々に言っている。
今日は、11時30分からの「志津川トンネル貫通式」、一昨日無くしたメガネ代用品を取に佐沼へ、2年目となり始めて知人のみなし仮設へ行く。帰って来月結婚披露の従妹の相手と会い、5時から打ち合わせ会、そしてスポ少の会議が6時30分に役場である。空いている時間で5日からの一般質問を整理する。こんな私の今日の予定行動です。

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2013
03/02

卒業


平成24年度志津川高校卒業式が今年も3月1日に開催された。ビジネス科15回で22名・普通科65回で93名の卒業生が学び舎から巣立った。保護者の先生方への謝辞に、東日本大震災の3月11日の一年生として、やっと高校生活にもなれてきたあの日、大震災大津波が町を襲い、多くの避難者・負傷者の救助や支援に生徒達が頑張った。教室は避難場所となり、カーテンなどは救急医療の代用や津波の濡れた方の介助品として使い、子供たちは被災からたくましく強く成長してくれた。と涙ながらの感謝の言葉に多くの保護者が涙した。私ももらい泣きで写真を撮るのを忘れてしまいました。生徒の減少は紛れもない事実として、我が母校「志津川高校」は大震災により大きな危機を迎えている気がする。そんな当時一年生だった生徒の「皆勤賞」に20名が輝いた。と校長は胸を張って言う。私とて一時期の「上沼」「登米」と二校に分かれ登校しての皆勤は、私にも信じられない生徒の努力と頑張りがあり、誇れる後輩の姿を全国に発信していきたい。
朝のニュースに26年3月末で、国の借金が1107兆となり、国民一人当たり870万円で、生まれたばかりの赤ちゃんにも、その借金がすぐ発生となる。25年度の予算の国債発行額は42兆となり、国の借金は国民総生産「GDP」の二倍となったと言う。少し「ピン」とこない数字だが、我が国は被災地再建・経済再生を目的に国民の生活安定確保のため、多額の借金大国となる。
昨夜の強風は震災後にはない恐怖を痛感じた。昨日も4月末の全国の気温があり、世界的な気象以上は間違いないようだ。明日も35mの強風が東北地方を襲う。
岩手県釜石のある地区の「防災センター」が解体される。我が町の「防災センター」と同じ境遇にあった。避難場所と指定され100名以上が、死亡・不明となり「遺構として残すべき」と今まで議論され、解体せずにいたが「施設を見たくない」との住民の気持ちを聞き入れ、8月の解体に決まった。気仙沼の鹿折地区の大型船の「遺構としての保存」を市は望むものの、持ち主の「解体したい」との要請に市長も解体する方向と話す。私の町は「町長の業務上過失致死」の警察の検証も終わり、町長の「諸々の事情で解体は出来ない」はクリアされている。4月からの「観光キャンペーンDC」が三か月間、宮城県でもJRとホテル・自治体が一体となり観光推進を図る。ここまでは「観光支援」の皆さんには見てもらえるかな。
今日は3.11で亡くなられた親戚の「ご法事」でず。先月中から町の会場事情で、多くの方が三回忌をすませている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:09 】


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