ARCHIVE - 2012年10月

2012
10/31

明と暗


昨日は荒町出身の茨城の佐々木さんの依頼があり、被災地の学校に寄り添いたいとの、県下の生徒会からの願いだった。その茨城の「瑞竜中」の先生に電話で「どういう繋がりがいいのですか」と聞いた。「南三陸町からの手紙」での被災地の現実を伝える活動をしている佐々木さん、3・11の「震災の悲劇」を風化させない活動に、瑞竜中の先生が感動し、生徒に伝え生徒が「何かできないか」と相談され、今回の交流支援に協力している。
学校には全国からの「支援の声」が上がっているものの、総てへの学校の対応は無理と言う。教育長にも相談するが「いい事ですね」とは言うが、受ける学校の事を思うと・・・、学校次第やその交流の形が、生徒に負担とならない方法を模索する。
被災し全国から支援や応援があり、これをキッカケとして、全国の中学生・小学生との交流は、子供たちにとっても貴重な経験であり、これからの人生で人との繋がりの良い機会である。そんな事を「ピンチをチャンスに」と言うのだろう。と私は思い感じる。
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今日の写真は朝5時30分の、西の空の満月と、東の海上から登ろうとする太陽が、サンオーレ海岸の荒島を照らす。朝焼け・夕焼けのこの淡いピンクは、血の色であり幸せのビンク色と私は取っている。しかし、被災地の色といて非常に綺麗と感じ、こんな光景に出合うと、ついカメラに収めたい衝動にかられる。こんな時に限って携帯を忘れたりする。不思議だ? 一度しかないチャンス、後悔しないよう今を大切にしたい! こんな気持ちと重なる。
昨日も「助けて下さい」と電話が来た。そして、全国を回り南三陸町の当時と今を語り続けている方から、多くの支援の姿の話で元気を貰った。
今日は役場と学校と「町づくり協機会」の第一回目の集まりがアリーナである。一人でも多くの町民の皆さんの意見を考えを、今後生まれる町に組み込めて行きましょう。
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2012
10/30

南三陸町産牡蠣


昨日は南三陸町で始まった牡蠣出荷の拠点、旭が浦地区の「牡蠣剥き場」に出かけた。時間は午前10時30分、同級生が「もう終わったぞ」と言う、今日は早く終わったと知人から告げられた。まだ、戸倉地区の剥き場では終わっていないと隣の施設に顔をだした。
写真は志津川と戸倉地区の共同牡蠣剥き場です。今月から始まった「牡蠣の出荷」、初出荷ではご祝儀相場となり通常の2.5倍の価格で引き取られた。今年の清算は10分の1とも、3割とも言われるが、南三陸町から被災後「海の再生」としての、志津川ブランド牡蠣が再び生産が始まった。牡蠣筏や牡蠣樽の流失や剥き場・殺菌施設が津波により破壊され、「ゼロからのスタート」となった。昨年の夏ごろから養殖施設の準備、そして、海への稚貝の海中投棄で養殖が始まり、今年の生産出荷ができた。一年以上の準備期間を要して、やっと流通市場に乗り食卓へと結ばれる。通常は2年3年と時間が係るが、皮肉にも密植・海の浄化により、一年で出荷ができる環境が出来た。
漁業者は生産が出来る喜びもさることながら、多くの皆さんに「南三陸町志津川産の牡蠣は美味しい」と食べてくれる事が最高に嬉しいと話す。これがあるから朝の冷たい海からの牡蠣の引き上げ、朝早くからの「牡蠣剥き」に精を出せる。今日も朝5時30分に戸倉荒町に来たが、すれ違う軽車両は戸倉地区の漁師さんの奥さんたちが、牡蠣剥きに向かう車のような気がする。戸倉地区の仮設にも志津川から多くの漁民の方が避難生活をしている。
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「恥ずかしいから撮らないで」「もっと若い人いるから」とカメラを向けたら言われた。戸倉地区の皆さんの剥き場風景はまた取材に行きたい。
写真は「滅菌処理」で一日こうして、牡蠣は静かに美味しくなっていく。この日もボランティアさんの姿を見る。ここまでの間には多くの支援団体が下支えとなり、「やっと」「何とか」ここまで辿り付いた事と思うと、関係者の感激は私のごときではないと思う。
向かいにあった南三陸町魚市場は、残骸となった基礎瓦礫の処理が「ガガガー」と大型重機が音を立てて進む。津波被害の復旧と漁業の復興が同時に行われている。ぜひ牡蠣の出荷現場と支援観光の全国からの人たちへの、橋渡し役としての係わりもあっていいような気がする。すでに実践しているだろうが。
しかし、市街地に位置する生産者は、土地の買い取り問題が心配のようだ。

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2012
10/29

未来へ一歩


週末は歌津の小中学校に出かけ子供たちから、勇気と元気と郷土愛の精神を感じてきた
両校の校長先生は「子供達が未来への夢に一歩づつ進んでいる」と挨拶で共に語っていた。子供たちの各種のパホーマンスに、先生方の熱い思いを感じる。朝の通勤のラジオから、大川小学校の亡くなった親の調査委員会から、「学校の校長取組には事なかれ主義があり、先生にもその傾向にあった」とショッキングな報道が聞こえてきた。総ての先生方にそんな姿勢はあったとは思えないが、子供たちの遺族のやり場のない気持ちが、強く表れているのも事実です。
伊里前の小学校には家族は元より、祖父母が「孫の姿」をそっと見に来ていた。歌津中学校でも、私のデキガメのアップを、後ろから見ていたおばあさんが、「うちの孫だよ」と突然話しかけてきた。歌津地区の「一体感」は、志津川地区には見られない物を前から私は感じている。
歌津中への「少年防火クラブ」の設置は、生徒の精神力の向上に繋がり、学業・スポーツに発揮される事を私は確認する。小中学生の成長は未知の力を秘めている。文部科学省の「ゆとり教育」の低迷した教育の期間は、日本の教育界の衰退を招き、子供の成長を「封印」したとた感がある。「未知の力」を眠らせておいた事は、これからの日本の経済力にも影響を及ぼす。「ゆとり教育」を受けた親と、「普通の教育」に戻った親との、教育のギャップが今後生まれ、ぶつかり合う事を懸念する。石原都知事も文化省の「ゆとり教育」を大きく批判していた。世界に勝てない若い会社員の適応力・開発力などの劣る所は、こんな所から生まれ表れている。
歌津中の消防クラブの「通常点呼」の整列の機敏な動き、立派な姿にこれからの荒波を乗り越える精神力の強化となっただろう。
被災した学校の生徒の受け入れが、国内・世界であった。歌津からも児童生徒がほかの土地で地域・家族との触れ合いは、多くの事を学ぶ素晴らしい体験となった。歌津中学校の発表で、男子生徒はオーストラリアにホームステイした事を伝えた。家族が笑顔で迎え、家族化我が子のように「笑顔」で迎え・心配してくれたと言う。そこで学んだのは「笑顔は元気と勇気をくれた」、そして外国での生活で「英語」、言葉の大切さ知ったと言う。もう一人女性生徒は北海道で、内気な自分を変えてくれた」と話す。迎えてくれた周りの皆さんの声掛けに、勇気をもって話し会話をし触れ合うた。人への思いやりと、皆さんの受け入れの笑顔に救われた。今度は自分がこうなりたいとの気持ちを持ったと、発表を見て感じた。
大人は子供たちに厳しさの中に自由を与え、大人は子供たちから真面目な純粋さ学ぶべきと私は思う。
先週ショッキングな噂に驚いた。震災後ある県の団体から来た「1500万円」が使途が判らなく、何処に消えたのか不明と言う。被災地においての直後は何が起こったか、今となっては当時の混乱で知るすべもない。あり得ない事ながら、南三陸町に置いては、今も「いい思いをする者」と、「陰で泣く人」の二つの両端を形成している。
写真は歌津駅のBRT工事風景。

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2012
10/28


歌津中学校の「文化祭」に友だちの娘さんの吹奏部の発表を見に9時からの開会に出かけた。
曇り空の寒い中、会場に一番乗り、来客席には私一人が時間5分前に陣取ったが、まだ誰ひとりも来ていなかった。来賓が10名が来場して、発表会が始まった。
英語の発表、少年の主張、弁論が、学校の活動成果として報告が一人ひとり発表した。続いて「歌津中少年防火クラブ」の活動が紹介された。男子の「通常点呼」では20名のクラブ隊員が、きびきびした整列手順が大きな掛け声のもとで繰り替えし行なわれた。男女の「軽可積ポンプ応用操法」では、指揮者含めた5人の操法姿に観客から盛大な拍手が送られた。町の昨年度の予算に計上された「少年消防クラブ」、消防と団体行動の精神修養に素晴らしい成果がこれを見て感じられた。
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2012
10/27

皆で助け合って


伊里前小学校の「学習発表会」が今日の9時40分から体育館であり、朝の母のヘルパーとデイサービスの準備の中で、歌津に出かけて来た。
友だちの子供さんが合唱で手話で歌を歌うと言う事で、それを見に行った。手話サークル「波」の皆さんが指導して、児童は学習発表会に臨んだ。みんなの歌と手話をマスターしての発表は素晴らしかった。写真は一年生の「大きなかぶ」の朗読劇で、大きくなったかぶが抜けないとおじいさん、それにおばあさんが加わり孫と、犬・ネゴ・ネズミが力を合わせて大かぶを抜くことができた。力を合わせ協力すれば何でもできる。この事を劇ではこども達に伝えた。被災地の学校の学芸会にふさわしい劇と私には映った。南三陸町の町民が一丸となり頑張ろうと子供達が言っている。しかし、「我が町」は大分違っている。
兵藤校長は「命と故郷の大切さを子供たちに知ってもらいたい」と言い。そして141名の生徒は今一生懸命に頑張っている。と会場のPTA・父兄や来客の皆さんに話した。
会場までは歌津駅側から学校の体育館に向かった。急な登り坂の左は気仙沼線が走っていた。そして今、BRTに線路が道路化されていた。ここから港までトンネルがあり、45号の国道を通るよりははるかに時間の短縮が見込める。本吉も鉄道が被災していない部分も今、道路化が始まると言う。JR東日本の「BRTへの変換」へは確実に進んでいた。
午後は佐沼に被災者の3軒を回る。

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2012
10/26

衝撃


衝撃的な一日だった。気仙沼市本吉まで出かけ、帰りは国道沿いの小泉・歌津市街地・寄木・志津川市場・本浜と今の風景を写真に収めた。
小泉の瓦礫焼却場は着々と工事が進み、津谷川には橋が架けられようとしていた。小泉海岸は45号の海側は水没し、シーサイドパレスと言われたホテルの残骸が海岸に浮いているようだ。河口に右側は大土嚢が幾つも高く積まれ、冬の低気圧対策の護岸整備をしているようだ。歌津の港地区のお店の鉄骨だけの建物は修復に足場が築かれていた。歌津の市街地は基礎が家ごとに山積みされ、平らだった伊里前地区はその見る影もないが、復興はこれでも進んでいる。寄木の漁港に回ろうと歌津農協前を通る。被災後に積み上げられた向かいの瓦礫は全てが撤去され綺麗になっていた。峠の家は修復建築が進んでいた。寄木漁港に行く道路は寸断され、道路は修復されず漁民は遠う回りして漁港での仕事にあたる。「早く何とかしてくれよ」と漁師の方がこの不便を訴えていた。次に志津川の市場の「牡蠣処理場」を見に行こうと回った。多くの仲買の仮設工場が市場に隣接し、造船所もあり何処がどこか判らなく、市場をぐるぐる回った。見つけられずこれからが本番と、次の機会にまわした。市場一帯を見て回り一つに目がとまる。船着き場の一角で冬場の準備をするボランティアさんの黄色いジャケットに目が留まった。8人前後が漁師さんの指導で仕事をしていた。「ここにもボランティアがいる」、本当に南三陸町の復興の大きな力となっていた。そこから大森から松原公園に続く一本道路、真っ直ぐに町から市場までの産業道路でもある。新井田川の「曙橋」も見てきた、この川が流れを変える事となる複雑な心境である。本浜に来たら自宅のあった場所を見る、「一年前と何も変わっていなかった」。写真の光景ではワカメ養殖の浮き玉が山のように積まれていた。遠くには上の山が見えるが、あの高台まで津波は押し寄せた。高台にあった「城洋新聞」さんの被災した自宅も知らないうちに半分が無くなっていた。昨日の町の風景は被災のままと感じるが、復興への足音が聞こえてきた。
前段の衝撃もさることながら「石原知事辞職」の報道は驚かされた。オリンピック招致で世界的に活動している中でその途中でもある。「猪瀬副知事がいる」と言うが、果たしてどうだろう、副知事だからの今の活動がある。80歳で「官僚体制」の改善にこの年が、再度の政界進出、政界の若返り、地方議会の高齢化が指摘されている中での、「政治を何とかしたい」と気持ちの表れが、この行動となったのだろう。
復興交付金の活用率が監査委員より調査され、山元町の10%に満たない消化率と、100%に近い東松島市の交付金の活用があった。土地土地の高台移転の状況があり、行政職員不足が復興を送らせている。土木職の仕事は通常の15倍とも言う。の交付金の活用率で我が町は出てこないと言う事は、順調に事業が進んでいると判断していいのだろうか。37億が決算では消費されずに残った。
昨日は会社の給料日、納品もあり多忙な一日となった。

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2012
10/25

桃源郷


しばらく前に仲間から新井田川が、計画でその川の流れを市街地の国道ルートにより変えるとの話を聞き、「嘘だろー」と切り返した。
新井田川は本浜と大森の間が河口となり、上の山と天王前の境を通り新井田まで市街地を走っていた。河口では魚が住みアサリが何十キロも取れた。幼いころは「カニ取り」や「クラゲ取り」をして遊んだ。山間には水田が広がり、メダカが泳ぎホタルも沢山いた。本浜橋のたもとでは「ウナギ釣り」もできたあの頃を、今も忍ぶ。
そんな川も時代とともに護岸工事や川の橋整備なされ、田んぼも埋め立てられ量販店やアパートが建ち、魚も虫もいない川となった。人間の住みやすさと生活の為に自然を人工的に変えてきた。「自然破壊」でもある。自然のあるべき姿は人間に合わせるだけではいけない。自然に繰り返される天災にも最小限の人口的に手をと私は思う。子供を連れて「ホタル狩り」はもう、南三陸町志津川では「おとぎ話」の世界になってしまった。自然の多い町を造るのか、人口的な近代的な町を造るのかと言うと、震災からの復興には近代的な町形成を町は構築しようとしている。
その一つが昔ながらの川のルートの変更だろう。こんな事は私の頭にはなく、古い頭と言えばそうなのだろう。自然の好きな私にはそれしか無かった。その最大の原因は国道45号の嵩上げにある。今の国道を生かしながら、嵩上げでルートを模索するとこの方法になったのだろう。川を生かし今までのままの方法はあったのだろうが、震災からの復興は市街地の大改革へと国は行政は「舵」を切った。
都市計画の志津川市街地形成で祈念公園計画がある。新たな情報を聞いた。八幡川の西を広大な地域が「慰霊の丘」や「鎮魂の碑」の建設予定があったが、この地域の変更で縮小すると言う。今後の方向性の中での変更なのだろうが、そこに居住し今後の生活設計を図っていた人たちの、被災からこれまでの計画はどうなるのだろう。
「職住分離」の被災地の都市計画の基本があり、今後も津波発生を予想し8.7mの防衛体制、今回の16~20mもの津波が襲来した市街地、再生の防災体制はこれでいいのかと多くの疑問を感じる。再度の津波が同じ規模でも、日本国は半分経済的に沈没するかもしれない。という事は南三陸町の産業・経済の町の生活の生業すらも消えてしまう。飛躍した考えかも知れないが、先人・長老は想定をそれ以上に思う。
そして言う考えに、高台は40m以上に一カ所に集め、町を丸ごと移転させる。国道も40m以上の内陸を走らせ、そこに産業道路を結び、避難道を何本も海岸線から、国道に結ぶである。国道はまさして「三陸道」と並行して海岸の山沿いを走らせると言う。
まだまだ長老と言っても、行政への提言者として厳しい目を向けている。

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2012
10/24


しばらくぶりで水尻橋より、荒島から登る旭を見た。この風景が大好きで幾度となくブログで紹介している。朝6時今は太陽がこの場所にあり、志津川湾の沿岸の道路から見る景色は見る場所に寄って変わる。多様な海・山の地形に太陽の輝きも見え隠れし変わる。天気により雲の形により自然は色々な輝きに変わる。これも何気ないものながら、自然景観から感じる喜びとして捉えている。
昨日はローン問題で復興局よりの担当ふたりの説明と、ローンを抱え苦しむ町民の現状を伝えた。平野復興大臣の示す「ガイドライン」はローン負債の整理制度ながら、個々の世帯により状況が変わる。震災前の制度では99万円までしか私産はみとめられないが、この震災では500万円と義援金の約200万の700万円からが認められる。しかし、抱える住民は利子分の免除や高台移転の土地の「等価交換」などを求めている。
政府の「債務整理ガイドライン」は高額に債務が残り、資産・財産がなく、支払に難しい方たちには朗報とも言える。早い債務整理でこれからの収入は自分のものとして蓄積、今後の生活にもローンの悩み苦しみから逃れる事ができる。制度活用には財産の処分・保険の解約など、ローン契約対象者の財産を清算し、義援金名目の金額以外の500万円の手持ちしか認められないと言う。被災の土地を100万と見て資産計算し、土地買取額のその差を自分のものにした方もいた。こんな実例もあったと聞いた。
担当者は「法テラス」などの弁護士の「無料相談」や、県のローン相談を開設しているので、悩んでいないで是非相談してほしいと話す。多種多様なケースがあり、個人の判断ながら各種制度により救済方法があり事を知ってほしい。聞き取り調査は1時間30分を要した。
この債務整理ガイドラインは個人の住宅ローンであり、事業所の救済策というのはないと言う。事業所の再建策は政府の制度があるが、多額の債務の整理に苦しむ同業者の話も聞く。天災は誰にも当たりようがなく、頼みの綱は「政府」しかない。こんな債務者が被災地には多くいる。「リセット」という言葉が何回かでてきた。私も前に向かう気持ちとして「リセット」という考えでここまで走って来た。
ひとりで悩まないで相談してほしい。私で役に立てるなら電話でもいいので、解る限りの説明をします。私の知人や相談された方には、今まで何人かに調べて伝えてきた。
いま私には「祖母の土地の父への相続」が、大きな問題として目の前にある。「町づくり協議会」の参加により、地元行政区と近隣の行政区の新たなコミュニティー形成の計画部会に加わる。また地域の皆さんの笑顔の中で暮らしたい。

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2012
10/23

早く住宅を


大部分の住民が知らない見えない所で、住宅建設が進んでいる。土地や人脈や内部資金を持つ人たちが、いち早く次の住家を創造する。一般の人たちには厳しい状況が、目の前に沢山ある。
昨日も知人と会った。私の周囲の最近会わない人の、今を知る事が出来た。この前も役場の帰りに新東浜団地を通った時の、写真は建設中の建物です。その他にも津波到達地点の境や、山の高台への「終の棲家」の建設をする。「罹災加算200万円」を活用する人の数も、皆さんが考えるよりも遥かに多い。「高台移転は何時になるの?」が、しばらくぶりに会う町民皆さんの声です。
現在多くの町の活動団体への義援金があり、行政も財政難の被災前からの状態から、各部所に常時以上の予算(復興交付金)が回されている。こんな気がしてならない。復興交付金は国民の税金であり、町民の税金でもある。復旧・復興に向け大切に活用してほしい。住民の生活の確保の次に町の再建と思うが、行政は住民の迎え入れる基礎の体制を第一に進める。人口の流れは間違いなく流れる水のように、町外へと流出していた。
国民年金は年金受給額の決定そして支給されると、その後に大病しても「障害年金」の支給がされない旨の説明を受けた。高齢者社会となる日本の「生活保障」は、生活保護への道しかないのかと思った。こうしたことから、現在被災し国民年金について、今後を深く考えさせられる。
今日の朝にも折立川には二羽のサギが、川の小魚を狙っていた。八幡川・水尻川には鮭の捕獲の鉄柵が設置された。水尻川はいまだに水門が津波の破壊で閉じられたままになっている。戸倉地区の水戸辺川は「第二瓦礫置き場」があり、まだ見てないが鮭の捕獲は難しいと思う。捕獲して採卵して川への稚魚の放流は、2・3年後の鮭の回帰への活動であり、豊漁の種まきとも言える。
何でもだが将来への道を希望へと、一歩一歩と思う。
巨人が苦しみの末に勝利した。この流れは「日本シリーズ」への弾みとなる。野球をクライマッシスシリーズ前は見たことはなかったが、この三戦は途中からながや最後まで見た。人々に諦めないでと教えてくれた気がする。「夢を諦めないで!」。である。

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2012
10/22

普通に


週末の光景では東山の「西宮神社」の秋大祭があり、神社の登り口には大きな「のぼり」が掲げられた。また、葬儀・法要もあり、その中の「孫のお別れの言葉」に涙した。多くの愛情を貰い育った孫の、素直な祖父への感謝、「天国ではばあちゃんと大好きなお酒を」と、沢山の地域の方々が参列し涙した。
旧農協跡地の被災自動車置き場は、一回目が運ばれたあと、また、多くの町内の被災車が運ばれ重機により小さくされ、処理会社への輸送に備えていた。
朝のニュースで一番気になったのが、山梨県の西桂町? での町長・機会の同時「リコール」が成立し、双方が不在で行政運営がしばらくの間成される。発端は昨年の7月の選挙で町長が「うなぎのかば焼き」を有権者に配った事で、反町長派の議会でのこの問題のみで、町の問題に取り組まない議会に町長派が「議会のリコール」を出した。これも「政争の具」と言う事になる。政府の「特例公債法案」も、総理の解散との引き換えと、これも同じ国の被災地・外交問題を棚上げにしての、国政の具の姿が見える。国の予算の40%を赤字国債が占める。地方交付税の配分は、6・9月と配分されていなく、都道府県・各自治体の借り入れの利子は、220億円にもなると言う。政府が遅れた分の利子を補てんすると言うが、これも国民の税金である。無駄を無くす家庭の生活があるのに、政府の危機感の無さに呆れるばかりです。
昨夜「終活」と言う意味解りますか?  とテレビで問われた。前にも聞いた。自分にとって身近な問題で、死んだ後看取ってくれる人がいない人たちが、自分で死後の事の活動をする事です。都会では多くにこの現実があり、自分でお寺を見つけ「戒名」を貰い、永代供養を払い位牌に納まる。周囲に迷惑を掛けず自分が準備する。「80万円」だと言う。両親二人は90歳、順番だと私が最後となる。こんな話をする時もある。兄弟・親戚もいるが、迷惑をかける事を私は望んでいなく、時々こんなことも、事あるごとに考える。
ブログは「エンディングノート」かもしれない。毎日を大切に自分らしく生きたい。70歳を過ぎても町を考え、90歳でも正義を貫く、周囲の姿に「もういいんじゃない」と思い、これからは若者による、新しい末づくりを期待する。
高齢者が生活に心配なく安心して、のんびり暮らせる町が理想で、子供達に高齢者が話しかけ、静かに笑顔で見つめられる環境を構築できればと、理想の町を思う。

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2012
10/21

雨にも負けず


被災後の町民の生活環境は色々な状況下にあり、その中で慶弔の機会を迎えている。被災後の「我が家事情」は、結婚式が4つあり法要が5回あった。こうした儀式を平時と同様に坦々と行う事が、いま必要と私は思う。被災したから・・・を少しでも無くす事で、多くの悲しみから逃れられる気がする。
戸倉街道は最初に「セブンイレブン」が開店し、買い物事情問題が解決され、ドライブインも被災店舗の修復努力で始まり、最近は二店舗が開店に向け準備していたが、昨日は「ほったて小屋」が食事処としてオープン、「登り」を立てアピールをしていた。来月には「魚屋」さんがいよいよ営業を始めると聞いた。復興への足音は静かながら聞こえている。
「アメニモマケズ」は宮澤賢冶の詩である。写真は石巻市大川小にあった野外のイベント広場で、塀には「銀河鉄道」がいっぱいに書かれてあった。大きな夢と希望に向かい、雨にも負けない風にも負けないは、あらゆる人生の荒波にも負けないで生きると言う意味で、子供たちの「誓い」だった。これからの明るい未来への夢が、道半ばで途絶えた子供たち、全国の子供たちには、この亡くなられた子供達の分まで生きて欲しい。
旧警察署の裏の水たまりに、多くの「白サギ」を6月に見た、自然形態の異変が10m四方に30羽近くが、場所を競うように集まっていた。原因は海岸線の木々が津波により破壊され、近隣の行き場を無くしたサギがここに集まった。テレビでは大量に集まったサギの被害を伝えていた。通勤時には3つの川の橋を通るが、小魚を狙うサギによく出会う。昔ながらの自然の光景と思っていたら、こうした事情があった。
今日は10時に葬儀と、午後は入谷から払川を通り、石泉に同僚に会いに行き、高台移転道路の計画提案の相談に行く。来週もローン問題・相続問題・広報会議・・・と、仕事以外の事案を多く抱えている。

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2012
10/20

生かされて


ここを何とか乗り越えないと色々な事が起こっていく。無理せず生かされてのだから、生きて行った方が良いと思うが。
今日は朝3時30分まで熟睡できた、父は夜9時前に帰って来たのは記憶するが、その頃すでに眠りに入っていた。朝4時に父が「疲れた」と、2日目の今日は私に「行ってくれ」と、これが目覚めた最初の会話だった。
今日予定していた、志津川小学校の学芸会は出席を見合わせた。10時からの法事に代役で参加する事を決めた。
五時にいつもの通勤での志津川湾の朝焼けの「自然美」、あわてて胸に手を、携帯を家に忘れた。荒町の会社に行きデジカメを取り戸倉の高台に向かい撮った風景が、今日の一枚です。放射冷却現象が志津川湾にも表れ、海面には「け嵐」らしき湯気が海面を漂っていた。
今日は皇后様の誕生日と言う、書面でのお言葉にまだ見つからない2700名の不明者を気遣っておられた。同級生の両親の不明に「大好きな海に帰った」と話した事を思い出した。今回の大震災の大津波は、総てのものを海に引きづり込んでいった。しかしながら、いま多くの海の恵みを漁民にもたらし、町の再生を海に託す。皮肉ながらこれが現実としてある。朝のこの光景に「生きている幸せ」を感じている。共に生きましょう!

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写真撮影した戸倉高台とは、戸倉小学校の子供たちがかろうじて津波から逃れた「五十鈴神社」があり、小高い山で寒い一夜を過ごした、こんな場所です。
今日は今年一番の寒さというが、あの時の寒さは比べようもなく、子供たちは怖かっただろうが、先生たちの最高の判断と励ましなど、適切な対応に感謝です。一瞬の判断の違いは人生・家庭までもが、いま崩壊の中にある事を決して忘れてはいけない。
明日は10時からの葬儀に出席させてもらいたい。優しい心を持った人たちが、私より先に旅立って行く気がしてならない。弱い人たちが今救われなく、弱肉強食の社会が町にある気がし、やるべき事が社会には沢山あると思う。
朝4時半、NHKの桂文珍さんの「帯久」と言う落語を見た。人のいい店主が同業者に願われるままにお金を融通し、逆の立場になった時、小さな願いへ耳も貸さない、相手への仕打ちに罪を犯した。良い人が苦しみ悪人は世に憚る。これが世の中にたくさんある。そこはさすが落語、奉行所の裁きで良き心の持つ人が救われる。こんな気持ちのイイ落語で目が覚め、ブログを打っている。
週末はたまにはのんびりとしたかちたが。昨夜、嬉しい電話が入った。でも「油断せず頑張って」と言ってあげたが、最近で一番嬉しい電話だった。まずは一段登っただけだよ!

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2012
10/19

原野に光


南三陸町戸倉地区の現状を伝えたい。荒町に向かう西戸地区の右側では、こないだまで農業者が農協からの仕事で草刈りをしていた。日当は1万位と聞く? 瓦礫の基礎も山のように積まれていた。漁民の作業も漁協よりの、海岸清掃活動は1万2千円で、今も行われているとも聞く? 20万前後の収入は、今までの農家の年収から比べると、ずいぶん高額となっている気がする。漁民は「頑張る漁業」により今の仕事をする。ワカメ・カキなど三年間で事業は終了する。こちらは漁協から収入をもらう作業費と、頑張る漁業での収入とは異なるのも不思議なきがする。しかし、漁民の個人での再開では二千万の水揚げとなった歌津地区の、ワカメ収入には驚かされる。この部分では被災前と同じに再開している。漁業・農業・林業にも復興交付金はあるものの、何時まで続くのか? 必ず終わりの日がくる。これから立ち直る事となった時、安定した収入となるかが心配で、第一次産業離れを関係者は懸念している。
昨日の写真は町の噂では「高野会館」の建設と言う。今年中の完成で、3・11の三回忌に合わせた開業を目指す。ある人の話だと被災前から言われている、ホテル観洋の傘下に入っているとも言われ、多くの民宿の再建がならないままで、力のある企業のみの再開が見られる。町の支援なしには弱者の再建はままならない。これが被災地の大問題ながら解決策は打ち出されていない。
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この写真は旧陸前戸倉駅前にできた店名は「ほったて小屋」で、戸倉の波伝谷の方が飲食店として開店するらしい。現在は海産物の水揚げは漁民の自由にはならないと聞く。食材の確保が厳しいとの話も聞こえてくる。
建設での周辺環境の「竹塀」はボランティアさんと共に作られた。バス2台での支援、本当にありがたい。ここが片付くと手前の「草刈り作業」に今度は精をだしていた。被災現場の整備に時間を惜しむかのような活動が、多くの町民の心に温かく力強い。
昨夜は三重県・愛知県の「南三陸町再建サポート隊」が四人、仙台の一人の6人で、一回目の会議を開かれ、多くの情報と有意義な時間を過ごした。

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2012
10/18

会場


今は大潮の時期で志津川市街地の海岸部は、陸地と海面・川の水位が一緒となっている。これで津波による地盤沈下の状況が明快に判断できる。基礎解体の重機も海水の中で、電気機器や車体に塩害を受けている気がする。防潮堤の8.7mの議論も町内の隅々であるが、行政の国県からの防災計画の整備事業に習う、行政の今の対応を私は疑問に思う。「私たちの町づくり」は町民の意見の反映が基本にあるはずなのだが、国県の復興予算での町の再建があり、「計画が変われは復興が遅れる」との、理由づけは町民の意見封じに私は思う。10年20年・・50年もかかる新たな町づくり、先は一向に町民には見えてこないが、行政には見えているようだ?
「拡大解釈」は私の性格から生まれる。楽天的・ポジティブは失敗も「成功の肥やし」とまで認識してしまう。商工団地の土地問題について遠藤副町長の話を、自分の良い方向に受け取り、昨日、副町長に役場内で呼び止められ、ブログに書いてある事違っているよ! と言われた。土地は行政指導の中にあり、一応は現在も縛りがあると言う。1000年の一度の大震災で土地もない状況で、住宅地のない時にそうばかりは言ってられない。また商工団地内ですでに工場・倉庫用地として建設された方々の事も考慮しなくてはいけなく、近隣の人たちの理解を図り進めて欲しいと、話を付け加えてくれた。倉庫用地には自宅も被災前から数軒建ち、土地の縛りは土地の販売とのバランスにより、以前から住宅地としての緩和を行政では既にしている
南三陸町では高台移転は最短は26年9月にと計画されている。女川ではあと1年で、他の被災地では28年ともいわれている。土地の確保・整備そして移転は多くの時間が係る中で、こうした自治体の被災者救済策は、あらゆる手段・活用が住民から求められている。
今日は仙台で新たな「復興プロジェクト」の第1回目の会議に出かける。高台移転や安定な居住場所の確保に通じる部分でもある。再建者は財産の全てを流失している、この部分への対策がまだまだ行政は不十分ながら、最大の支援は政府・国にお願いするしかない。
今は楽天的にポジティブに前を見て考えるしかない。

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2012
10/17

鎮魂


ばっぱのごはん「ほったて小屋」が戸倉駅前に建物ができた。まだ営業はしていないが、おもしろいネーミングと店名表示は、専門家の企画かなと思える。また西戸の入口には「西城魚店」ができ大きな看板が上げられ、店内も設備が進み、開店を待つばかりかなと思う。自力再建での開店かと思うが、何もなくなった地域での建設は大変な事で、多くの店主の努力と協力の元に、やっとここまでたどり着いた先人達に頭が下がるし、見習うべき学ぶべき所が多い。「ほったて小屋」さんにはバス2台のボランティアさんの協力により、手作りの竹の塀がある。情緒たっぷりで被災地にはよく似合う。
昨日は入谷に「刺身が食べたい」と言う両親に、及川魚店の刺身を買いに出かけた。その帰りに消防署と役場の跡地により手を合わせてきた。
志津川消防署は今年の4月ごろ? 解体となったが、署員の最後までの避難誘導の末に命を落とした方が多くいた。その跡地には交差点の片隅に、小さな花が二つ置かれていた。この場所は「さんさん商店街の駐車場、多くの観光客が車を止めても判らない所にある。県合庁の日陰の片隅にあるが、私の亡くなったいとこは「俺はここでいいんだよ」と言う謙虚な人でもあった。しかし、余りにも人命救助に活躍された皆さんの「鎮魂」の心の薄い行政の対応と私は思う。「今は復興に全力で」と言うのだろうが、少しの気遣いぐらいはできると思う。
震災直後の殉職職員への対応、戸倉地区民への登米市への避難場所設置、今も仮設で暮らす高齢者への救済対策など、行政トップの判断と支持のなさに、何処を見ての政治行動と思い言い続けているが、差ほどの変化は今も行政にはない。
先月の「敬老会」の対象者への招待状が届かない方の理由として行政の説明を受けた。被災直後は各々が家族など遠くに避難した。そこから一次二次避難があり、現在の仮設での生活をしている。「郵便物の転居移転届けが出されていないから」とその理由を分析する。二回目の転居地に「案内状」がとどまっていたのではないか、誰も住んでいない時は郵便は返ってくる事で、転居していた事を把握し、転居先を探すと言う。
現在は「緊急雇用」などで、福祉士が仮設を廻っている。その方々の活動で解決できるし、自治会長・班長が仮設にはいる。こうした方々の活動で、問題が解決できるのではと話した。「初めての試みですのでご理解下さい」と言うが、案内を貰えなかった方への謝罪をと思う。ここまで多忙を極める? と言う職員に負担は掛けられないと、後日私がその説明に登米市に行こうと思う。
今の立場はするべき事が沢山ある。ローン問題・住宅再建問題・雇用問題・行政の監視・従業員の仕事開拓など、こちらもやるべき事が沢山ある。
今日は広報委員会で、昨朝は五時間かけて原稿を仕上げ、会議に安心して向かえる。

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2012
10/16

町民の再建は何時


今日は朝4時に会社に来た。広報の原稿のまとめは日中は、電話・来客・仕事により集中できず無理とわかり、この時間に出社して5時間かかり仕上げた。
会社の電気が付いていたと5時に来客がありました。昨日から始まった「牡蠣剥き」の仕事へ行くと、事務所に寄ったとの事でした。「朝は寒い」とコーヒーを一杯飲み、志津川漁港の市場へと出かけた。昨日からの「牡蠣剥き」は志津川・戸倉と別れ剥き場があると言っていた。昨日の初値は例年の2.5倍と報道で話してはいるが、身は小ぶりで海水の温暖化のせいで、成長が2か月遅れている。
夜中の1時半に目覚め、色々考えると眠れず、こんな行動となった。両親も夜中2・3回トイレに立つ、父は「寒ぐねえが」と母に声を掛け、「大丈夫」との夜中の会話に、年を取っても二人はいいなと、眠れず夜中に思った。
写真は総合体育館のアーナ前に建設が進む「生涯学習センター」である。公的施設が着々と建設されてはいるものの、町民の安全安心な生活の場はなかなか見えてこない。木造建築の建物で建設会社は毎日仕事に追われているようだ。一般の住宅や商店は大工さん不足で、建設途中の建物が町のあちこちにある。写真のこの建物も工期が「12月28日」と書いてある。事業者は商店・工場を建てたくても業者が、地元や近隣にはいなく、事業の再建は特定の事業所や行政の建物しか見えない。
来週の23日火曜日、仙台の「復興局」よりローン問題の担当者が来て、議員控室で南三陸町民の「二重ローン問題」の聞き取り調査をする。この問題を抱えるすべての家庭が、多種多様は返済・家庭状況を持つ、一概にこれが対策と言う制度はないが、「ガイドライン」による返済免除は、大きなリスクを含み、聞き取りした皆さんは、この選択肢はないようだ。「手のいい自己破産」と言う。しかしながら、ローン額によっては、この手段も取らざる負えない状況も垣間見える。私は自宅・工場など身近なものを全て失ったが、まだ救われていると多くのローン問題から感じる。私ひとりに会いに来るのだから、多くの事例を伝えたい。聞いて欲しい問題があったら連絡して欲しい。
昨日はブログで募った「被災地の米販売」に、また仲間が今年も答えてくれ、メールで注文をくれた。米専業農家で作られた「こだわりの南三陸町産米」です。昨年は5件の問い合わせがあった。これも全国の支援でもある、感謝! 感謝! です。南三陸町戸倉においでの節はお立ち寄り下さい。
一日も早く安心して仮設からチョット広い場所に住みたい。こんな何気ない希望が現在、南三陸町の住民には叶えがたい状況がある。お金「復興交付金」の使い道をどうにかならないものだろうか。

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2012
10/15

ふるさと


今日から宮城の「牡蠣出荷」が始まると言う。温暖化のせいか牡蠣の状況が悪く? ここまで伸びてしまった。今月の4日まで、先週と出荷の期日が言われていたものの、やっと市場に流れ漁師さんの収入となる。「身を結ぶ」、大災害から一年七か月の苦節の時が、晴れる日が来たと言う感じだろう。
昨日は石巻地区の出荷準備風景がテレビで流され、漁師の代表の方も満面の笑顔で答えていた。例年の30%ながらあの壊滅的状況から牡蠣の生産がスタートした。10月15日は2週間出荷が伸びた事になる。殻つき牡蠣出荷は別な場所で殺菌消毒の処理がされるともいう。こんな被災地の現状を考えるとこんな方法もあった事にきずいた。
写真の光景は「良きふるさと」を表現する時に、イラストとして私は良く使うスタイルでもある。この稲を刈り天日干しの棒杭が現在私の営業する工場までの通り道で、毎日のように見ていて、こんなにも近くに昔ながらの風景を感じられ、心を落ち着かせてくれる。
同年代の「このまま仮設にいるかなー」との言葉に私は怒った。今、被災地に居て先頭とまでは行かなくても、復興に向かう町の中にあり、多くの知人にはいつも支援は憚らなく、自分にとってマイナスでも、知人の再建に繋がるならと言う思いが強かった。これも自分の「人よがり」でも良かったが、何かを始める事で町に明るさがでると思っていた。それなのにこの言葉は大きく私を落胆させた。
被災地には多かれ少なかれこうした人たちはいる。私の多くの仲間は町の復旧復興の大先端で活躍している。「共に立ち上がろう」と多くの町民の皆さんに、今後も私は言い続ける。今、私たち世代が少しでも南三陸町の基礎的役割をする事で、これからの子供たちが大きくこの町で生きられ、暮らしまた次世代への被災地復興を継承してくれる。
消費税の8%から10%の2段階の2年間は、駆け込み消費での急激な落ち込みを防ぐ為と、何気なく見た昨夜の放送で知った。その中で日本の平均所得は「400万円」余りと聞くが、国の人事院は大企業を参考にする。宮城の県人事院でも50人以上の企業の、40?才の平均所得の600万円を参考にし、今年の給与のカットはしないと聞いた。何処を基準にするかは「お役所仕事」と言う感を否めない。
デンマークは25%の平均消費税というが、所得平均は600万円となっていても、社会保障の充実に国民は「幸せ!」と言う。所得の4割が税金で取られても満足している。自動車には180%の増税が課され、日本の3倍となり自転車での通勤風景が流された。贅沢は人々を幸せには必ずしもしない。
今日は原稿書きの一日となりそうだ。

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2012
10/14

仲間から元気を


土曜日は震災の影響が少なかった仲間からの誘いで、温泉への招待を受けた。土曜日の夕方まで仕事の多忙な友だちも時間を待ち、戸倉を5時過ぎに出発した。
三陸道の石巻から矢本パーキングまでの道路は、仙台に帰る車が合流点で大渋滞となり、その後の鳴瀬の料金寺に係ると、その多くが国道45号通り仙台方面に向かい料金所を回避する。。建設関係者が多く週末とあり、仙台などの宿泊地へ戻ったり、大手の建設会社の拠点も仙台近辺にあると言う。
東日本沿岸の災害地の復旧・復興は、各県の建設業者があたっているが、地元の建設業者の半分しか復旧工事に参加していないと言う。多くがゼネコンに流れていて、被災地の建設事業所は仕事が無いとも報道で話していた。これが南三陸町でも言え、大型重機の大半はレンタル重機を活用しての復旧工事が動いている。
仙台の温泉街は被災直後もお客さんが切れなく、宴会が行われたと聞いた、関わった人たちは「原発関連」の人たちだと言う。女川町の原発も震災で稼働が止まった。その現地の調査や安全な対応に当たった。仙台の近郊の大型ホテル街も目立った被害も少なく、震災後は被災地支援でその受け皿となった多忙を極めたと言う。
現在は仙台で「パラリンピック」があり、多くの関係者と秋の観光シーズンが重なり、大混雑があったが、五時の出発で7時過ぎの入館は疲れを取るよりは疲れたのが事実です。
写真は秋の草花の「コスモス」が、歌津商店街の「三嶋神社」の片隅にそっひりと咲いていた。この光景に写真から少しの癒しを被災地に来て下さった、ボランティアさん・観光支援の皆さんに、被災地の悲劇の現状を柔げてくれている。
歌津地区も市街地は基礎としての瓦礫の撤去が、急ピッチで進められている。吉野沢の途中には山を崩しての造成地も赤土を露わにしている。
南三陸町の見えない部分で、町を歩くと復興への槌音が聞こえ見えてくる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 18:38 】

2012
10/13

「ホッ」と


昨日は副町長の「遠藤健冶氏」と話す機会を得た。10分ぐらいながら政治的にも人間的にも、その大きさを知る事となった。私の同級生の兄で大森に住んでいた。奥様も商工会でお世話になり、生前のお父様とも、遊戯館で良く顔を合わせ知っている。行政での直接的なやり取りで、町長の隣り副町長と私は捉えていて、単独の彼を私は大きく評価し始めている。同級生にはよろしく頼むと言われたが、今はこちらがお世話になっている。人との縁は奇妙なものと感じている。
商工団地の土地の現在の在り方について副町長に聞きに行った。工業団地としての造成から販売で一定の期間の「転売禁止」があり、一期は工業用地・二期に倉庫用地など、土地利用の縛りがあり10年が経ち、その縛りは解かれている事を聞き知った。誰かに言われた「あの土地については遠藤副町長に聞けばわかる」と、開発時にその中心的な立場で係っていたからだった。
固定資産税の土地の所在は「非住宅地」となり、誰がこれを見ても住宅は建てられないと判断する。建設課長・企画課長もこの事を知らない、これが行政の幹部としていいの? とも思った。よく言う「混乱の中」は通用しない。私もこれで一歩を歩められそうだ。
千年に一度の大災害で高台移転への住民の生活再生に、改善できる障害には行政は条例の改正は、どんどんやって行くべきと思う。2・3人の方からの「商工団地内に家が建てられるの」の問いに、胸を張り「大丈夫」と答えられる。わからない事は行政に聞くべし? 聞けない時は議員に聞いてもらった方がいい。これで二つ目の副町長との議論で道が開けた。同僚が言う「是々非々」がここにはある。
自治体職員の対応に最近は「こころよい」ものを感じ受ける。復興推進課・窓口など対応に感謝し、各課にも全てでご支援を貰っているが、行政・病院など地元職員の対応・接客の改善を! と同僚は指摘をする、色々な町外からの来客はもとより、地元の住民のわがままにも親切に答えて欲しい。皆さんの笑顔が「南三陸町の顔」と言う事を常に心に置いて欲しい。私にも言える事で、昨日の6町との議員交流会でもそれが言える。
今日は朝8時半に元気なヘルパーさんの声に、私の家庭の倉庫も明るくなった気がした。暗い話が多く会話にも笑顔が少ない我が家に、朝一から今日は良い事がありそうな気になる。母は今日は「デイサービス」に行く。
倉庫の庭の物干しの支柱の根元に、明るい黄色の小さな花がひっそくとたたずむ。心を和ませ、元気をくれる、そんな力を秘めていた。携帯で「パチリ」と皆さんにも見せたかった。ひと時の癒しとして「人は花を愛でる時間」が今足りない気がする。今日は天気イイ、外でススキ・コスモスなどの野の花を愛でてはいかがですか。

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2012
10/12

晴天


今日の南三陸町は「晴天です」が、その晴天の青空に「防災センター」がそびえ立つ。9月末までの解体の予定ながら。一年七か月が経ってもいまだに、今後の方向性は行政のトップの判断に委ねられている。
ブログには「防災センター」の映像を載せる事は、極力現在は避けている。何故ならいまだに「見ると具合が悪くなる」「あの時を思い出す」「家族の死から抜け出せない」があるからだ。対し「観光」がある。いつになったら「検証」「記録保存」への行政の活動が始まるのだろう。
昨日も夕方4時過ぎにホテルのバスが、「防災センター」から「戸倉第二瓦礫処理場」へとの、観光コースとして存在しているようだ。
昨日は夜、辞典を佐沼に買いに出かけた。震災の色々な本のブースがあり、表紙には南三陸町の「防災センター」は無かった。もちろんDVDもなかったのは被災者への配慮なのだろう。テレビの各局のDVDの販売宣伝に、前は「防災センター」がトップで放映されていた。現在それも見なくなった気がする。「風化」をとるか「配慮」ととるかは、双方の各種の思惑も見え隠れする。そこには震災で亡くなられた、南三陸町の人たちや家族の「心情」を察する事に欠けているし、町民への気遣いに欠けている。「将来の子供たちの為に」「未来の南三陸町の為」と言う。今、一生懸命にこの将来の生活が見えない中で、生き抜いている町民が見えてこないし、見えていない気がする。
写真は戸倉の仮の事務所の裏に、「レモンバーム」の群生がある。何本か摘み取りテーブルに置く、葉っぱを揉むとハーブ特有の香りに心が落ち着かされる。こり時期に花が咲いていた。夏場の大群生を一旦刈り取ったものの、この再びの群生で花を着け身を結ぶ生命力の大きさに、少しの力を貰った。
山にある工場までの道のりの田んぼは、稲穂の波に変わり、そして刈り終わり「天日干し」が杭に掛けられ、コメが自然乾燥され美味さが増す。
工場の「米農家」の大家さんが、今年のコメの価格表を持ってきた。24年産米「ひとめぼれ」のユーパック発送で、10K1個で5100円、10K2個で9000円、10K3個で12900円となります。南三陸町の志津川・戸倉の山の清流で育った「ひとめぼれ」絶対美味しいです。なぜかと言うと、一足先に試食させてもらいました。ご希望の方は080-1801-6399までか、メールにて連絡下さい。南三陸の新米を心を込めて作りましたとの伝言です。
秋晴れの南三陸の青空の下では、住宅基礎の瓦礫撤去と、ボランティアさんの活躍がいっぱいです。

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2012
10/11

旅行


土地の買い上げ問題は相続以外にも難しい各々の状況があり、簡単にはいかない。昨日も「復興推進課」に聞きに行った、田畑・空き地に関しての買い上げは? だ。田畑は買い上げはしないし、それ以外の居住してない土地は買い上げはない。が結果です。買い上げしない土地は土地を整地した後で、一か所に集め土地を作り換地し返すと言う。同僚が買い上げ成立のない時は、「土地は歯が抜けたようにバラバラになる」と言った事を覚えている。こうした対応策を行政はとるのだなと、やっと解った。
「我が家」も祖母から父への土地贈与をする事と決めた。なにもしないままだと「買い上げ移転」は何も進まない。行政の住民の色々な問題解決には、行政は何もしないし「法律」とか「制度」と言い、個人の救済には消極的だと言う事を、議会の議論の中で感じている。自分が身をもって解決するしかない。行政の仕事とな何なのか?
南三陸町長は現在、「オーストラリア御礼旅行」だと言う。新聞報道などでも伝えているが、近隣自治体の「長」がこうした海外までの活動をしているだろうか。こんな事をしている場合だろうか? 私は剣道ポーツ少団で、全国の同じスポーツ団体から物資の支援を頂いた。「御礼など何もしないで良いです」と電話でも話していたし。手紙にも「頑張って子供たちの事をお願いします」と言ってくれた。こうした御礼の交通費の「経費」はどうなっているか聞きたい。今の生活に困っている被災住民がいる中で、自治体の長はもっとするべき事があるし、町の予算でのこうした行動なら、考えないといけない。被災された町内の方々も「支援への御礼」で、全国へ赴いて講演をしていると聞く。絶対に行かなければならないのだろうか。とも思う。公費ではありえない。
私も仙台の高校へ行ったが、高校で決められている謝礼は車代としてであり、進路指導の一環であり社会人となっての生き方を話した。仙台のもう一つの講演は被災地の現状を話してくださいで、お昼の弁当をごちそうになっただけです。被災地の伝承や感謝は被災地にあった、御礼の姿でイイと思う。まして地球の裏側まで行くのは、時間・経費の面からも町民の不信感を抱く行動と思う。
昨日「しお彩」さんの南町の跡地に車が止めてあった。しお彩の後藤さいの車内販売である。自費での販売車の購入をして店の再建を考えている。多くの事業所が無償の国の助成を各種類受けている中で、後藤さんは一歩づつ店の再開を夢見る。こうした若い町づくりの担い手を、町の都市計画に参加してほしいと私は常々思う。
商工団地は「非住宅地」と固定資産の裏に書いてある。住宅が建てられない縛りがある。1000年に一度の天災で、住宅を建てる土地が町に無い現在、この縛りを解除する事に、建設課・企画課の課長は難しいと言う。人口流出がある中で住宅問題は町が解決しない大問題ながら、住民のこうした要望に消極的である。津波直後からこの問題を提示していたが、解決への方策も示されないままにいる。
漁業の若き関係者に役場であった。今の県漁協・漁民の行政への願いを聞いた。写真は志津川市街地の瓦礫撤去がいよいよ始まった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:17 】

2012
10/10

みんなでスイング


昨夜は友人からの「久々の集い」に参加した。日中は若くして亡くなった友人のお母さんの用事に半日時間を取った。被災しながらも仮設で一人、明るく元気を貫く彼女、そして人に弱さを見せない「お母さんに学びます」。この時期なので用事は勿論「役場がらみ」です。南方から役場の二往復は時間が掛かる。南方生活者の現実はここにもある事を、体感した一日だった。
夕方からの「集い」には七時前に付いた。「風庵」が会場となり30名色々な方々が会場いっぱい。同級生の「三一会」事務局長が開催メンバーながら、三一会会員にも呼びかけた。会員は3人がしばらくぶりで顔を合わせた。ゴルフを通した20名余りの会ながら、今は集まれる環境にはないが、「仲間にひと時の癒し」をと企画したのだろう。
「JAZZ FOR TOHOKU」のコンサート、岡淳さんのサックスと、ドラム・ピアノ・ベースの写真の4人ながら、ツアーは今度で「風庵」は2回目、メンバーが変わりながら東北の被災地を巡っている。「行くだけでも意味がある」と言う岡さん、多くのコンサート場での、被災地からのセッセンジャー的役割があると語る。被災地で会場来てくれた皆さんと触れ合い・語り合う事を、多くのコンサート会場で話す事で、被災地の現状を伝えるのだと言う。復旧から復興に向かう被災地の人たちの、日々変わる環境・心情を全国の人に知ってもらい、被災地への支援の継続を「ジャズ」をとおし訴えていくと言う。そんなふうに私は受け取った。
毎日の復旧で多忙な方や、仕事の先が見えない方や、皆さんを元気にしたいと思う人など、被災地で今を生きている多様な皆さんが集まった会場となった。歌をまだ歌える気にらない、人のいる場所はまだ、夜道はまだ怖いなど、色々な津波による心情の中で、手拍子やセッション、しばらくぶりの再会に笑顔も生まれ、少しは心和む事ができたと思った。
「パンチパーマCG?」は、JAZZ FOUと観客が一体となった瞬間だった。「チリチリチリ」でである。「楽しかった」、恥ずかしさなんか、そこにはなかった。苦手な「ジャズ」を大いに楽しめた。
アンナ朱美さんの「虹のプラネタリューム」のバラードも良かった。昼間は「のぞみ作業所」を訪れた。通所生も「チリチリチリ」はきっと楽しんだ事と、盛り上がった様子が頭に浮かぶ。音楽は人を癒し元気にしてくれる。
今日は議会の「広報委員会」です。10月は「休会中」ながら所属部署は多忙だ、休会だが委員会は調査がある。また、私には「二重ローン問題」で復興局より、ローン対策の職員が東京から「聞き取り調査」に今月、私に会いに来る。現在調査を終えたが、この問題はこれからと言う、二世帯・三世帯家庭に多く、新しい町づくりには解決しないといけない、人口流出問題とも直結しそうだ。
今日も一日「頑張るぞ」。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:45 】

2012
10/09

合掌


「おばちゃん元気!」、しばらくぶりで友だちの母の声を聴けた。震災後初めての話ができた。現在は南方仮設での家族との生活ながら、震災直後は仙台で娘さんの所にいた。その後体調を崩し入院していたと前聞いたので「げんきだ!」の声に安心した。父と川柳仲間で「また川柳すっかなー」と、嬉しい言葉を聞く、「志津川に帰ってきて下さい」に、「帰りでー」と、これがこのまで生きて来た町の人たちの真実の願いです。
昨日は悲しい情報も聞いた。グランドゴルフでお世話になった「清雄さん」の死だった。昨年の暮れに南方の集会所で、高台移転の説明会で疲れ切った元気のない顔を見た。奥様を津波で亡くし、そのショックは当人でしかわからない。お世話になった方への焼香には、葬儀は大雄寺であったが行われたものの、その日にちを知るには厳しい状況にある。「合掌」は震災前の家のあった場所で手を合わせてきた。何かせずにはいられない。
大川小学校の前には「慰霊塔」が建てられ、焼香台もあった。高台の道路沿いには学校の写真の入った「慰霊碑」もすでに立っていた。南三陸町には多くのボランティアさんのバスツアーがある。宿泊は「皆三陸ホテル観洋」に大部分がお世話になる。その数はこの連休は志津川市街地の支援活動の、瓦礫の撤去の数で判る。3・11から一年8か月が経つが、まだ防災センターの所には震災直後の「献花台」のままで、亡くなられた皆さんへの行政の「鎮魂の姿勢」として、余りにも淋し過ぎる。一日も早く現在の場所の近い、防災センターの見える所に「慰霊塔」の建立をお願いしたい。
志津川の仮設商店街の空きの2仮設が埋まりそうだ。入居には多くの不思議と、怒りの声も私は当初から聞いていた。大きな影響力が見える。私の知人も多く入っている。各々が再建復活の願いを込め仕事の復活を、事業主が叶えようとの出店があった。出店を諦め町外に出た人もある。そんな中で私の先輩二人が復活しそうだ。「寿司の弁慶」さん・「お好み焼きの田中前」さんだと聞く。多くの不安で出店を決めた。空きの二店が埋まらないままで、今に居たり一年目を迎えようとしていた。二人の先輩の店の帰郷は最近にない私の吉報です。あの田中前のスペシャルお好みを早く食べたい。ボランティアさんにも食べてもらいたい、南三陸町の志津川の味です。ぜひご賞味を!
京大の山中教授が「ノーベル医学生理学賞」を受賞した。「iPS細胞発見」である。受精卵が多くの体の臓器を作るが、人間の細胞を使い「受精卵」に戻す。これにより病気で無くなった臓器を受精卵から作れると言う。長く生きていると医学の進歩で、今まで治せなかった病気を治せると言う、「人類の夢」が叶おうとしている。まだこれからと山中教授は言う。もう一つ、私の是非見たいのが。「中島みゆきコンサート劇場版」が今度の土曜日「マイカル」で上映される。若かりし頃ラジオからは彼女の歌が常に流れていた。60歳を迎える彼女は今も現役で、今も「新鮮な樂曲」を世に送り出している。私も56歳まだまだ頑張らないと。
今日は南方の同級生のお母さんの、行政からの書類と土地問題の解消にお手伝いです。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:25 】

2012
10/08

子供の為に


志津川市街地の都市計画は想像もつかない山の再開発で造り出される。土地の測量・土地買取・整地と当初の予定では26年9月、それからづれ込みそうながら、戸倉・歌津の基礎の取り壊しは間違いなく進む。志津川とて始まれば一揆に行われ、そこへの嵩上げも始まれば、目に形として現れて見えてくる。
写真の南三陸診療所の右の山に、ケアセンターや役場・病院が建設され、残りのすべての土地が、志津川被災地の代替地として個人住宅建設の土地として、土地「6万5千円」で希望者に販売される。
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昨日の結婚式は「人前結婚式」だった。身内の結婚式で多くの事情も踏まえて本人たちが選択した。記念に残る式は、私の祝辞は「信頼」「感謝」の気持ちを持ち、これからを生きる事を伝えた。「命の大切さ」を、消防の上司が教訓として、家族の為に仕事をして、「自分の命を最後まで守りなさい」、と彼に伝えた話した。子供たちへの愛情いっぱいの彼、家族がパパをきっと見守ってくれそうだ。
政治家は「自己保身」をあらゆる言い訳で、有権者を納得させようとするが、国民はもう「飽き飽き」している。多くの離党が今なされているが、「信念」は貫いてほしい、信念を通すための離党と言う、説明責任を投票者に伝えてほしい。人を騙すだけの行為は止めて、この国の危機を本気で乗り越える改革できる人に、そして有権者も「投票責任」を真剣に考えるべきです。
縁故・地域・「買収!」などの考えでの投票はもうあってはならない、自分の為ではなく「町の為の行動」で、将来の子供たちの暮らす「町づくり」に向け考えていきましょう。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 13:58 】

2012
10/07

頑張れ漁民


三陸沖が現在「海水温度以上」となっている。水産品も多くの影響を受けている。2週間前に「松嶋牡蠣」が大被害と報道があり、例年の2割の生産に留まるという。志津川は震災で牡蠣水揚げは被災前の10%で、一年物で今年の出荷を迎えている。しかし今後の被害を懸念する。
海水温は現在「25度」と言う。例年だと「5度」なのに対し、この差に魚が沿岸に寄らないと言う。秋サケの水揚げが岩手の釜石では、昨年9月の九分の一で、定置網で取材時には3本しか入らなかった。三陸沿岸「秋サケ漁」は、漁協水揚げの三分の一を占める。南三陸町魚市場の秋サケの漁獲高・水揚げ量も漁協の大きな収入源ながら、海水温の今後の動向は大いに漁民にも漁協を及ぼす。
被災地の厳しい漁業の現状に、再度の漁業への逆風となろうとしている。それは4年前からチリ国で「銀鮭」養殖が始まった。今年は本格的に日本への輸入が開始されると言う。国内の銀鮭養殖への価格の安値が心配される。11万トンものチリの養殖量は、日本と匹敵する?と言われる。国内の鮭の流通は、原発での売れ行き不振や、安値に生産者は苦しみ、今度は「海水温」「鮭輸入」のダブルパンチでの、南三陸町の水産業の現実がある。
写真は歌津の高架のバイパスが途中で途切れる、その向こうの伊里前の旧漁港で、残った新造された漁船が、港に浮かぶのが見える。大きな土嚢が地盤沈下の市街地を守っている。
昨日は震災後初めて石巻十三浜の浜を通った。以前の見慣れた沿岸の道路は以前の見る影もない。十三浜の総合支所は「ここが?」、と思い、釣鐘神社は周囲の家々が無くなっていた。「大川小学校」が十三浜浜からの橋を渡ったはもとにあった。この日も多くの方が慰霊碑に手を合わせていた。「何で山にあるのに」「山に逃げて行けば」と声が聞こえてきた。なぜと私も思うが、これは本浜地区の亡くなられた人々の行動に、解明の一つがある。「津波の方向に目を気をとめていない」があった。大川小も学校の校庭からは、北上川の状況が判らない。大きな堤防がその光景を隠している。立地も人の判断も色々の原因が複合して、大災害となり未来の地方の担い手の「子供たち」を失った。
南三陸町には現在進む「8.7m」の、防潮堤・川沿いの土手の建設がある。これで低地での仕事・生活でいざと言う津波の監視ができる。自己の目視で津波からの「自主防災」となるのだが、こうした観点からも、人の命を守る事を考えると、国・県の津波防災対策にも、改善の余地を思う。
今から気仙沼の結婚式場に行く、「祝辞」「歌」など身内のだけの結婚式ながら、何とか二人の記念となる式としたい。知人に勧められた長淵の「ひとつ」を歌おうと思う。

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2012
10/06

東地区


今日は志津川市街地の「都市計画整備事業」の東地区の天王山側の半分の部分の地区を紹介したい。
志津川地区は南三陸町の被災世帯約3600の内の、半分以上の約2000戸余りの世帯があり、西・中央・東の高台への移転が計画され、10月となり土地の測量や買い取りが、行政により急ピッチで行われている。津波の瓦礫撤去・処理から市街地の基礎撤去へと、第二段階へと現在進んだ気がする。
写真の現在のアリーナ駐車場の浦山から、その奥に連なる山がその予定地です。商工団地の信号から入り右側「東浜団地」の山側を造成整地し、災害公営住宅・住宅地としての土地区画整備が行われ、住民の高台移転地となる。
CIMG2735.jpg
写真の配置図は東地区の半分ながら、9月14日の時点での計画図で、454戸の予定する東地区全ての「災害公営住宅」がここに建つ。町で建設する「800戸」の公営住宅の半分以上がここに建つ。初めは1000戸の「公営住宅」の予定も現在200戸建設が減っている。戸建住宅は「132戸」であり、ここの地区は高齢者のマンション・戸建の地区となる。選択の理由は道路を隔てた向かい側に、役場・病院が建つ事で、多くの町民高齢者がこの場所を選んだと私は思う。
今から病院で「血糖値」を図ってもらう。健康な体で町再建に向かう、体調づくりは住民に必要です。

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2012
10/05

清水浜


目を閉じてみる。気仙沼線の南三陸町清水浜の駅の橋脚の向こうには、清水の街並みがあった。何十年も地域で支え合い生きて来た、地区の営みがあった。私の脳裏にはしっかりと、ここに町があった事を覚えている。
清水の海岸は堤防に囲まれ、その堤防の高さは中学生ながら「高い」と記憶する。広がる海は遠浅でアワビ・ウニが豊富にあった。海の近くにあった「沼」でのスケートも友だちと遊んだ。町からは自転車で行った、志津川と清水の小学校から、志津川中学校で一緒になり、楽しく遊んだ仲間が多くいる。町の友だちの家に中学生ながら清水の仲間が4・6人泊まった。私の家も離れに一人の部屋だったので、仲間が入りびたりで、遊んだり勉強もした。何人かはいまだに会うが、もうこの震災により「チリチリバラバラ」になった。
清水の高台移転はファミマの向かいの山と決まった。写真の左右の山も候補地としてあったが、遺跡などがあり二転三転し、最近決定し移転は2年後のようだが、あのゆったりとした街並み集落の再生の姿は、見えてこない。
昨日は戸倉在郷・上沢前の同級生が夕方来た。高齢の母親のこともあり現在東京で暮らす。今回は土地の買い上げの事で県の河川局との職員に会いに来た。「第二瓦礫置き場」の焼却プラントの下が彼の土地である。三年後となると彼は言うが焼却は一年で終わる。今後のプラントの活用も議論されているが、跡地については宅地・農地としての権後についてもこれからだ。彼の土地は水戸辺川の1.3キロ地点で、堤防のかさ上げは「7.3m」と説明された。土地の計画設計もまだで、買い上げの価格も活用に合わせた買い取り額であり、決まってはいないと言う。東京での生活は母の老健施設の入居にも、区の福祉の支援の充実を話す。町内の施設だと16万掛かる入居費も4割の区からの補助があると言う。東京生活だからこそ家族が安定して生活できると話す。
町の事を思っているはわかるが、南三陸町に暮らしていないと、自分が関係する事、町の状況などは判らなく、復興の新しい町づくりにも大きく参画できない。町を考える私のパートナーだっただけに、厳しく彼には当たってしまう。
町の土地の買い上げが本格的に始まった。朝に同級生のお母さんから電話がきた。土地の贈与の話だった。我が家も父親が祖母の死亡後「土地の贈与」まだで、土地の買い上げでも祖母の名前で通知が来た。これがまたややっこしい、対象は9人で三人が亡くなっている。20年前に書類は揃ったものの、贈与されずに今に至る。父は言う、固定資産税を今まで掛けてきている、「こんな時に法律とか言っていられないだろう!」「ダメなら買い取ってもらわなくても」と強気だ。国も法律・制度改正や特例処置を講じないと、被災地の高台移転はますます遅れそうだ。

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2012
10/04

癒やされ


今日朝6時15分に戸倉セブンに寄った。この時間BRTのセブン停留所には、多くの学生が電車ではなくバスを待つ、1時間10分は気仙沼までかかるだろうか? 毎日のように停留所に立つ、今日は10名ぐらいがまだ寒くないが、家族の車で送られ気仙沼の高校まで通う、この生徒たちの耐える気力と頑張りは、強い南三陸町の担い手として育ってほしいと私は願うばかりです。
写真は歌津の升沢住宅団地下の国道45号線沿いの、新設整地された商店です。この場所は「田の浦」からの津波が通過した所で、管の浜からの津波がファミマでぶつかった。写真の手前から病院・薬局・お店・車屋・建設会社の宿舎になっている。津波到達地点で「危険地域指定」とはならなかったのだろうか? しかし、町・住民の再生には当事者の納得しての建設なら「あり」と思う。志津川にても廻舘・御前下には危険区域で津波到達地点ながら、10月1日前の建設には規制が無く、現在家が建てられている。しかし、大工さくの確保にならず建設工事が遅れている。
毎日のように目の見え方が違う気がする。「白内障」「眼底出血」が進んでいるのだろうか。私の保育所の頃、父の妹にあたる叔母がいた。私が生まれた時は目の視力が弱視以下で中学に入る頃には失明した。決して美人でもなくスマートでもない叔母ながら、大きな優しさに私は包まれていた。母親と眠るよりも叔母の布団に潜り込み、眠る事が多かった事を思い出す。最後まで独身で共に暮らしたが、その優しさへの恩返しは出来ないままで亡くなった。最後は「マーサ」黄色ブドウ球菌の体内の増加により、私を含めた兄弟の看護、気仙沼のシルバー人材の佐藤さんが、優しく介護し皆に優しく看取られ逝去した。叔母は新聞配達を目が見えなくなる直前までし、何年か・何か月か配達を私は手伝った。「親の因果が子に報い」、良い意味で私はこの言葉が今日頭を過った。一生懸命に自分の置かれた環境で生き抜いた叔母、私もこんな人生になるのだろうか? と、こんな人生でも良いかと思えた。親の背中を見て子が育ち、親の生き方に子が似るように、私も周囲の人間に感化され今を生きている気がする。
こないだある社長に、私の弟は糖尿病で「白内障」の手術を受けて失明した。気を付けなさいと言う。多くのリスクを現在の私の体は持っている。こうした事からも忘れていた叔母を思い出した。
今日の皆三陸町の海は台風の影響か、大荒れの海であり漁民の皆さんには仕事に、水揚げに多くの配慮をお願いしたい。養殖カキの出荷の「牡蠣剥き」が四日? と聞いたがどうなのだろう。
山や海などの自然の変化に注意してほしい。私は自然を「侮っていた一人」だったが、多くの自然の急変の体験に寄り、死への直面に近い事を経験し、その怖さを知っている。すべては「自己責任」です。

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2012
10/03

風土


歌津に出かけた折に「みなさん館」を見てきた。オープンは7日日曜だったと聞くが、確認して出かけてほしい。管の浜地区は「及新」さんが建設され、ローソンができ、プレハブの貸部屋が45号線に並んでいる。内陸の津波到達の地区にも事業所・建設宿舎、また、自宅再建の家々も建ち始まっている。
こないだから歌津の伊里前の高台移転の情報を聞きまわっている。契約の山への移転から、元の位置への商店街の再建、升沢への45号線沿いの移転など、二分三分する考えがあり専門家を入れ今後どうするか検討し、行政に働きかけていくと言う。また、行政の公的施設の建設も歌津に置くべき、升沢地区は歌津の中心であり、銀行・郵便局・保育所などはここに建てるべきで、今後はここを歌津の中心として、考えるべきと言う意見もあった。45号線も海岸線から歌津の高台を通すべきと、今後発生する津波の絶対到達しない場所へのルートを考え検討するべきと言う方もある。5年後の開通の「三陸道」が伊里前地区の高台移転予定地にルートがあったが、避けてのルート変更となり、現在移転戸数の減少と言う事が起こっている。市街地の国道の嵩上げによる通行への議論はあるものの、国土交通省では国道復興再建に向けた設計の考えは決まっているようだ。防潮堤の建設も今となっては見直しは難しく、これを変更する事で町の「復興計画」も大幅な遅れとなる。町としても変更はできないと言う。町民の提案も「中央防災会議」での考えが優先し、町もこれにならっての復興再建の道を歩んでいる。
変なのは県の管轄で町の瓦礫は撤去されている中で、防災庁舎解体も県の計画は9月清水建設で解体となっているのに、町はこの解体だけは「残す」を前提で、引き伸ばしているように思う。
週末に知人が電話をくれた。「松原住宅は死亡者も出さず、あそこで助かった方もいる。こうした意味でも遺構として残してもよかったと思います」だった。私も当初から思うし同僚の仲間もそれを言ってはいるものの、町ではこうした議論もないままに、あの大きな建物でさえ「あっ」と言う間に解体を終えた。行政の考えが議員であっても解らない事が多い。未曽有の天災ゆえの事と言う、秘密裡の内に多くの事を行政は処理している部分もあるようだ。
現在、「被災者・住民が不在の復興」と言う、行政運営がなされている。行政キェック機関としての議会の役割も果たされているかと言うと疑問も残る。膨大な復興事業の隅々までの調査は現実として無理である。
みなし仮設・仮設生活者への詳細情報の周知、今の行政の状況では難しいのが現実だろう。また、被災住民も全ての情報の把握は厳しい環境の中にある。

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2012
10/02

流出2


昨日も南方の仮設生活の方が電話を下さった。高台移転の今後や敬老会の不備など多くの問題に、どうしたらいいのかなど電話で30分以上も話した。
行政は混乱の中にいると未だに言い、職員が足りないなど、事務仕事の膨大さに奔走してる。一年六か月が経ち「志津川市街地の高台移転」が26年の中旬と言う中で、「復興計画」の入居計画はすでに赤信号の状況を思う。仮設の生活者はこの目標設定の日を心待ちにして頑張っていた。しかし、今町の状況を話すと「みんな登米市に移ってしまうよ」と、仮設生活者の心情を吐露してくれた。
国・県の政策や資金の決定確保があるものの、南三陸町自身でも今後の問題に、できる事から取り組むべきと思う。今、観光客の交流人口を言い、この辺の活動を積極的にすべきと言う関係者も多くいる。被災前から「人口減少対策」として、交流人口の増加を進め、観光客流入で図ると町長は言っていた。防災センターの保存もこの方向性が色濃く見え隠れする。写真は昨日の朝の写真である。八幡川の水面と防災庁舎の被災跡地の陸地は同じとなっている。海水が鉄骨の腐食へと進んでいて、ここに被災地の「観光支援」の案内は危険を伴う。殉職遺族の「陳情」で、「いつ解体するのか」と詰め寄る遺族に、副町長は来年の10月と答えたと言う。この時期までこのままの姿で解体もいない事は、遺族の悲しみを考えない、来町と手を合わせる人たちの安全を考えない、町の対応は支援をしてくれる全国の皆さんへの「裏切り!」と私は思う。川からの海水の流入を防ぐ、安全な場所に慰霊鎮魂の場を設けるなど、対策は何一つ計画すらされていない。遺構の保存計画も何一つせず、津波の記録・検証もこれからと担当課は話している。混乱はいつまで続き、対策はいつするのかを示すべきと思う。
ある人は言う「責任担当者が全てを抱え込んでいる」「部下にできる事は分け与えるべき」と、優秀な人材が今必要と行政は言う。派遣職員のマニアルどうりの説明で、「心繋がる事が大切」と今回の大震災で学習したはずなのに、行政は住民の再建に適切な対応を考えるべきと思う。
今日朝コンビニで漁業を営む同級生とあった。やはり「がんばる漁業」をしていた。「船は」と聞くと「まだいつ来るのかわからない」と言う。造船は県漁協に依頼していると言い、ワカメが始まる頃には来ると言う。決められた仕事量への対価で現在は漁業を続けていた。漁民は漁業資材の借金もあり、六分の五の補助事業での船などの再建をしながら、今年を含め残り2年で「がんばる漁業」の国の対策も終わり、漁業の個人での事業が再開する。三年間の仕事で再建資金の蓄積もできず、厳しい漁業経営からの撤退する漁民も多い。村井知事の「水産特区」の提案に漁民はどう舵を取るのだろう。
南三陸町の流出は人だけではなく、繋がり・知識・営み・心までもが消えて町から無くなろうとしている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:32 】


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