ARCHIVE - 2012年08月

2012
08/31

登米へ


商工団地に向かう左の山に造成が進んでいる。杉山だった所には重機が入り、「あっ」と言う間に家が建つ状況となった。その期間は10日前後だった。「終の棲家」として住民は土地を探す事にやっきとなり、南三陸町の進まぬ高台移転をあきらめ、登米市に多くの町民が移転している。
昨日は南方の仮設350世帯の内、一割は移転を決めていると、ショッキングな南三陸町の現状として、テレビの取材に仮設の自治会長が答えている。看護婦・ヘルパーさんなども子供たちや、将来の自分の家族と生活を考え、その多くが登米市への住居確保を進めていた。南三陸町に近く生活のしやすい商店がある場所として、登米市は最適と考えている。後押しするかのように登米市でも建設には支援策として、「200万円」を補助しているという話も聞く、調査中である。税制面でも救済策もあり、登米市の被災前の人口減への、改善への追い風が今登米市には今あるようだ。その影響は「わが町」の存続に大きな影響となる。
当初は志津川市街地の被災世帯は「2000世帯」だった。今、3地区の東・中央・西地区への移転希望は1180世帯と言う。入谷地区の災害公営住宅建設50戸があるが、この数字の異変を行政は伝えていなく、現在の人口動向も明確には発表していない。それは行政と町長のマイナスイメージ、町の消滅にもなりかねないからなのだろう。頭の痛い事ばかりが山積している。
もう一つの問題も報道されていた。町の公用請求事務が急増している。住所移転や被災地の買い取りによる土地の書き換えがあり、所有者の変更書き換えや、高台移転の土地の買い取り業務など、多くの町の書類の添付が求められる。平年だと800件が、4月~6月で「5386件」となり、20倍の戸籍業務となっている。登米市から職員支援も受けていて、登米市への依存の姿にその裏側を勘ぐってしまう。多くの住民は行政への救済策をあきらめていて、自力での生活再建が登米市への移転と繋がっていると思う。
海への期待は大きく、自然の再生力の凄さを、戸倉コミニティー会長の村岡さんは言う。「一年でこんなにもカキが大きくなりました」と、しかしながら、カキ処理場がまだ出来ていない。建設場所は冠水し港の嵩上げがされない、建設には至らず海の再生力に復旧工事がついていかない。南三陸町の美味しい「生カキ」を食べてもらう為にも、衛生処理場は欠かせなく、「食中毒」の怖さを漁民は知っていて、海再生への障害になる。
何処を重点事項として早期に進めるかの判断が行政にはあり、町の存続再建へカギはここにある。暗い事ばかりと知人にブログ指摘された。これが現実だからしかたがない。
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2012
08/30

驚きの事ばかり


朝そろそろ起きようかと思っていた時、「震度5強」の地震時間が短かったが大きかった。4時5分マグニチュード5.7だった。「南三陸町は震度5強」「津波の心配はない」とすぐに出た。現在は高台に住み津波の避難はしない事が、大きな安心へと繋がる。
震度4が3分間、M9.0とはさすがに違う。東海・四国・関東などに予想する「南海トラウ」の津波想定が昨日テレビで放送された。最悪32万人の死亡、浸水域は今回の1.9倍と言う。
何も怖がる事はない、自然の驚異には人間は「防災対策を講じかなく」、できる最善の防衛をするしかない。そして、みんな一緒です。大震災は発生する事は今回で実証され、東北の人たちは世界からの日本中の支援を受け、今、なんとか笑顔が少し取戻し生まれている。天災は素直に受け入れるしかなく。後は力強く生きる術を備える必要を思う。
昨日剣道場に向かう途中に西の空の色に、何かしら胸騒ぎを覚え撮影した。練習前の大会の反省をする。素直に今の自分の力を見つめ、今後どんな目標を持ち練習するかで、自分の剣道が変われる。「勝つことで剣道は楽しくなる」、すべての子供たちが強くなる訳ではない。私の原点の「楽しく剣道をする」と言う事と思い返す。昨日の小1女子は一日の疲れがピークとなる開始時間、楽しめの指導方法を試みた。この指導は志津川剣道スポ少の遠藤先生の指導で学んだ。生徒は笑顔で剣道打ち込みを楽しんだ。いやいや練習しても何も残らない。と再実感した昨夜だった。
自分が年取ったと感じる昨今、お盆の戸倉剣道スポ少卒業の生徒は大学2年生、小学二年生からだと10年が経つ、私よりは20㎝は大きくなり、その変化に頼もしくもあり嬉しい。また、昨日は電話を入れた先、お母さんとそっくりな声に、間違えてしまった。「・・・です」と、彼女も頑張りやだった。小中とあれから14年は経過した。現在は被災した両親の会社を手伝っているという。みんな素直に成長している姿に、指導の間違いない事を実感する。今の子供たちは震災の影響か? 何か違う気がしてならない。気のせいだといいのだが。
練習中に電話が三件、話さないといけない皆さんからだった。「無理しないで」「私がやります」、そしてもう一件はこれから対応したい。
みんなが無理をしている。私もそれはわかるが、目の前にある事を何とか乗り越え今を生きている。助けられる人は全て助けて上げたい。できる事しかできないので、軽はずみの面もあるので、皆さんも安易に受け取らないで、これは個人的な事です。公人としての行動・発言には、当たり前ながら責任は最後まで持ちたい。

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2012
08/29

TOMODACHI


米国の「海兵隊」の「ともだち作戦」は被災した翌日から活動を展開した。青森県三沢基地を拠点として、東日本の被災地の災害支援に、1万8千人・艦艇19隻・ヘリコプター140機を出動させ、日本の被災した国民の救助・物資の供給に海兵隊は活動していた。
南三陸町においても歌津地区への海上からの物資の補給があった。今、思い出すと泊のセンターに被災1か月後に出かけたとき、船舶の重油でお風呂を沸かし子供・高齢者の入浴をいち早く実施していた。これは地域の船舶からながら、事務所には外国からの物資があったのを見た。名足へはヘリでの物資の補給をし、地元の人は良くこの話してくれた。「ありがたい」と。
こうした活動は揚陸艦「トーテュガ」が展開したしたという。海上走行し安易に上陸ができる艦艇を持ち、けが人の収容は200床もあり、手術室も併設している。アメリカの「空母」があるがあの大きな船が海に浮くき、いろいろな支援活動ができる。
写真は海上に浮かべる船の構想絵図である。240m×80mの船を東松嶋市に浮かべるという構想を、被災地で計画する復興再建の、夢のような考えを図る団体があり、その講演会を聞きに昨日行ってきた。多忙な日々の中での仙台は、行く価値があった。宮城の北部の自然と、広大な海上の活用に、大きな可能性を見た。
この船で「海洋大学」「海上病院」、津波の防災拠点や船の救助港としての活用、そして「観光開発」など、海の「6次産業化」と言う大きな「希望の光」を、被災した宮城の海の開発の可能性を感じ協力したいと思った。また、海上に浮く大型船は津波からの回避と、被災地の救助の拠点となる。
形にはまった被災地の復興のみの政策に、未来の薄っぺらな町づくりと感じる。若者の新しい発想での「新生南三陸町」を図るべきと私は思う。被災地の南三陸町がいま抱える、雇用の場や人口流失を防ぐためには、当たり前の政策では防げす、多くの政策・活動に行政職員は気を配り、精査して活動を協議し再生の道を探るべきと思う。
多くの問題がある中で、大きな可能性の実現に向け、「リーダーシップ」が発揮できるリーダーの出現に期待したい。
アメリカ海兵隊の言葉に「みんな友だち」があった。外交の両国の利権争いの議論や裏はなく、ともに助け合う心に、「人類愛」がここにあった。

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2012
08/28

弱肉強食


可愛いと言っている工場にいる「猫」。家猫とは違い山の倉庫に住みエサは貰っているものの、野生の血は持ち続けていた。一昨日、朝工場に行くと、玄関に鳥の羽と血が点々とあった。もう一歩進むと、可愛い猫が何かをむさぼっていた。その光景に私は一歩たじろいだ。この辺は「山鳩」や「キジ」が多く生息している。羽から山鳩だろう。空を飛び敏捷に動く鳥に、それにも増し機敏に動く野生さを、私の工場の猫は兼ね備えていた。
「弱肉強食」と今の町の現状とは言えないが、強い者・その術を知る者は被災地でも、力強く生きて行ける。それをこの言葉で表現している訳ではないが、弱者はそのままで苦しみ我慢するしかない、今の高齢者や子供たちを持つ家庭は、生活に苦しみながらも今を生きている。
野生の動物とは人間は違う。助け合う「術」と「知能」を持っている。一人でばかりこれを活用せず、今は共に助け合い融合し町づりくに活用すべきと思う。
村井知事はさすが違うと感じた。人前でのしゃべりは経験で身に付くと言う。来年の選挙で2期目となると聞く。笑顔とユーモアと厳しさを持っていた。前知事浅野氏も大学教授でありガンで倒れたものの、復活した。素晴らしい最近の宮城の知事に頑張ってもらいたい。
我が町ではまた「告訴」「陳情」など、その原因の源は町長である。すべてに真摯に答え解決すべき事案ながら、震災直後からこの問題が、繰り返し我が町に続いている。「産廃」もある。ここも一つひとつ解決し復興に向かうべきなのだが、一向に対処に積極姿勢は伺えない。

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2012
08/27

普通が一番


「南三陸福幸きりこ祭り」は8月25日から9月11日火曜日までです。最終日には午後2時45分から、五日町の商工会跡地で音楽演奏しなから゛、南三陸の海に思いを届けます。
このプロジェクトには18団体が支援をして、アサヒグループ芸術文化財団が助成をしている。十日町・五日町・八幡町・南町の27店の「きりこ」と思いがメッセージとして綴られています。自分が関わった商店の記憶を心に刻み込み、新しい南三陸町の商店街の再生を、互いに誓いあっていている。多くの支援の力によって支えられ、「決して一人ではないんだよ」と言っているようだ。
「会話」は大きな意味を持つ、昨日の葬儀でもそうだった。被災後に多くの孫たちが祖父母に言葉を送っている。「もっと話をすれば良かった」が、後悔の言葉として綴られている。物心付いた中・高校生時代は「反抗期」にあり、そのあと卒業し就職・進学となり、祖父母との会話の機会は減ってしまう。言いたいのは「何時なにが起こるか判らない」、だから今を大切にし多くの会話をしておいた方がいいと、多くの子供たちに話をする。自分の人生、大人になったら「自己責任」、後悔だけはして欲しくない。家族との触れ合いは生涯記憶として残る。
母校でもある恒例の志津川高校の「旭ケ浦際」が9月1日に開催される。震災後の入学式があり、24年度の入学生の減少は、予想を大きく超え、被災地高校の厳しさばかりが露呈している。
そんな中で生徒は自分の道に向かい、進路に目標を定め勉学に励み、部活にも友だちづりくの意を込め、励んでいる様子は多くの機会で強く感じている。就職試験が9月から本格化する、この高校文化際は、高校最後のみんなで楽しく過ごせる時間でもある。大いにこの時間を楽しんでほしい。
今日は大和町で「がんばろう町村議会 固い絆で」と題された、セミナーが町内の町村議会関係者390人余りが参加し開催される。村井知事も参加し、今後の復興への誓いを新たにする。

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2012
08/26

きりこで思い出探し


昨日、志津川地区の街中に「立て看板」を多く見つけた。従業員が「きりこ」がまた始まったね。と教えてくれた。看板ではなく「きりこの商店の被災場所からのメッセージ」だった。
朝6時に町の中を散策した。城場の「保険センター」は瓦礫となり、まる寿屋さんも二階はなくなっている。大きな公的施設は2・3週間を要するが、一般的な2階建ては一週間もかからないで跡形もなくなる。日、一日と言わないうちに、町の様相は一変する。
今日は「かがり火祭り」の二日目で、八幡川を見に行った。被災前は八幡川の両脇に「かがり火」が炊かれ、ふんどしの若者が松明に火を灯し川の中を歩く、その光景を思い出そうとその場所を訪れた。しかし、現実は旧商工会の向かいには「防災センター」の瓦礫が、目の前にあり、朝の通勤前なのか、一人の男性が手を合わせていた。
昨夜も花火が7時半ごろに花火が「ドン」と上げられた。昼間は「戦没者慰霊祭」が行われ、被災地の花火は危険が伴う。その予感が「女川町の「花火大会」で事故となり発生した。今、「鎮魂の花火」が全国で被災地を思い開かれている。現在は被災者の高台への移転にのみ取り組むべきと思い、そして、水産業・農業・観光の振興復旧がある。人がいない町で誰のためにお祭りなのだろう。
第3弾の「復興交付金」が出た。宮城県には800億が来たが、我が町には「88億」が、女川には「111億」が県下4番目だった。一回目は要望額の57%交付で査定庁と比喩され、2回目は180%の交付額に「真骨庁」と言われ、今回は「108%」と要望どうりに額が被災自治体にくる事となる。
29日の臨時議会には「171億余り」が、一般会計補正予算として議会の審議を受ける。大部分が被災地の復旧工事で、この予算への質問はあるものの、間違いない予算の使い方、そのままで迅速に可決する。住民の早期の町へ帰れることと、新たな生活のスタートとなるはずです。
明日は大和町で、次は仙台で、三日目は臨時議会となる。時間は有効に、大切に使いたい。

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2012
08/25

BRT


気仙沼線はBRTとなり、線路の上をバスが走るという、ふれこみでスタートした。気仙沼線の海岸線の大部分は津波により、流失・分断されたものの、早期の復活を願い、この方法がとられJRバスが線路を走る。しかし、現実は気仙沼市内の4区画の線路をバスば走るだけで、すべては国道45号線を通る。柳津から気仙沼感を1時間30分で走っていた路線は、現在2時間を要し、各駅までの到着時間も定時とは、交通量によりまちまちの時間となり、計算しての活用とはいかない。
各自治体のトップは「鉄路」と最後まで唱え、そして今も言い続けているが、到底叶わぬ要望と現在になり思う。JR東日本は赤字路線の復旧には消極的な事実があり、宮城交通の代替バスは、互いの利益の共有が今回の「BRT」での合致となったと思う。被災地域の足として復旧にはなくてはならないもの、早期の足の確保として自治体としては受け入れるしかない。
そして今、停留所の危険が「陸前戸倉駅」にはある。セブン戸倉店の前が停留所となり、朝の通学時の工事現場へのトラックと関係者の買い物でごたがえす場所、高校の送り迎えの車との混雑で危険が増幅していると聞く。何もなければ良いが多くの危険が伴っている。写真は旧戸倉駅から折立方向のトンネルと路線です。ここがBRTとして線路だった場所を修復して、バスを走らせるなんて、予想も見当もつかないし時間がかかる。そして無理なのではと想像する。
気仙沼線の復活も南三陸町の復旧が「カギ」であり、乗降客の数が関係し、住民の町への帰還が問題である。この面からは厳しい鉄路の再建と思う。自治体はその代替としての在り方の根本から、議論を重ね、新たな道路交通網の構築を図るべきと思う。やはり「三陸道」が大きなカギとなりそうだ。戸倉地区はいったいどうなるのだろうか。本当の「陸の孤島」とならないためにも、南三陸町の第二の町拠点としての大胆な政策・開発が町に求められる。「戸倉字町」は良い場所なのだが、町は一向に振り向いてくれない気がしてならない。
今、「戦没者慰霊祭」から帰ってきた。戦争からチリ津波を乗り越えて、私の「志津川」そして「南三陸町」はある。その先人たちの築いてきた「礎」を汚すことない、町の復興そして再建をする、生きている町民には義務がある。その気持ちを失う事なくまた、南三陸町で生き続けて行くためにも、早期の町づくりが求められる。

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2012
08/24

向日葵


「絶対解体してくれ」強い口調で携帯に電話が入った。何のことかと聞いていくと、一昨日の防災センターの保存の件だった。テレビでの放送があったのかは解らないが、「見るたびに子供たちが悲しみ」「親が苦しんでいる」と言い、「具合が悪くなる」と町民の中でも少なからず語っている。
ここで命を失った人の本心を察すると、やはりこのままの保存はあってはいけないと思う。移築するとか、祈念公園となる「鎮魂の丘」の一角にそのままの縮尺にしての遺構として、再建するとか、屋上部だけを保存し合掌できる場所を造るとかなど、多くの別な形での保存の方法がある。殉職遺族の意見や、どうしたら「ここで亡くなった御霊が鎮魂となるか」が第一で、町民の亡くなられた方々の鎮魂の場所ではないと私は思う。ここで家族の方を失った遺族に、ここをどうするかがある。この場所の悲劇は「防災センター」がにある限り、苦しみは職員遺族からは消えない。いまだに家族を亡くした遺族が苦しんでいる事を知っているのだろうか。一人でも遺族が「解体を望めば」、解体しかない。更なる悲劇を生まないためにも、行政・町長がこの方向性を示すべきで、ここでまだ「観光」にとの色気は絶対許せない。語りべは「物が無くても想像力を発揮し気持ちで大震災を伝えるべきと」と父は言う。全国にいる「語りべ」は、全てが現物がなくても、説得力を発揮していと思う。この場所で子を亡くした父親・家族の気持ちを救う事が第一である。
被災地でまた同級生の「おふくろさん」が静かに息を引き取った。平時なら多くの人たちに見送られるが、混乱で町民が広く散らばり、情報も全てには伝わってはいない。私の役目は多くの人たちが心静かにいられる事と、ともに悲しみを分かち合いたいである。
ソフトバンクの一選手の「暴行傷害事件」には驚きしかない、30歳の選手は20歳の女性に何も言わず襲いかかった。「顔を見るな」がぶつけられ、運動選手のパワーは若い女性には防ぐ事は出来ない。ソフトバンクの一人の行動は、全てに大きな影響となる。
公務員の不祥事は続いているようだ、一階の女性の部屋をカメラを下げて盗撮があり、飲酒運転・公金横領など、誰でも発覚すると理解でき、大きな問題となる事の分別は、公務員試験を通過した人間なら判断できるのだが、「頭でっかち」の大人になりきれない人間が増えている。
まったく私は暗い人間であるようだ。最近のブロクの内容は、「暗い」。しかし、被災地は明るい話が新聞・テレビで公表されているものの、ほんの少しが大きく取り上げられている。暗い事ばかりの南三陸町と私は思う。

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2012
08/23

物言わぬ語りべ


昨日用事で南三陸町役場にいった。玄関には記者・カメラがご覧のように、誰かの「ぶらさがり」「かこみ」でいっぱいだった。また町長の記者会見なのかぐらいに回り込むと、後藤さんと佐藤さんがそこにはいた。取り巻く皆さんと共に聞き入ると。「防災センター」の言葉が何度も質問に出てきた。「そんなに早く解体しなくてもいいのでは」「あそこは物言わぬ語り部でもある」「町民・全国から存続の嘆願書がだされている」「観光語り部とは関係なく」など、多くの答えが聞こえてきた。
月初めには志津川地区の殉職遺族の会の子供世代が、防災センターの解体について、「もう少し待ってほしい」「解体をどうするかの検討を」との陳情がだされた。
私は、町長の「解体する」と発言があり、行政は9月が年内の解体の計画として町で進めているという。現場の検証と殉職職員が最後どう生きようとしたか・・など、生存する職員、町長・副町長から聴取することで、それを町民に公表する事で、多くの問題とわだかまりが解消できる気がする。
歴史的天災が発生し何の現場の検証もしない、行政と警察などの「果たす役目を持つ機関」の、このまま歴史の後世への継承をしない事に多くの疑問を持つ。私も多くの偶然により今生きている。この事は全て多くの人たちに語ってきた。本などにも掲載となった。これで南三陸町の悲惨さと「職住分離」の必要性と、その防災対策の在り方を議論し、今後発生を予想する天災への、犠牲者を最小限にする取組を、今も続けているつもりです。
昨日は水曜も戸倉剣道の練習が新人戦に向け始まった。もう一人新たな生徒が参加し25度を超える武道館で練習に励んだ。中学生の体型・体力とも一年生ながら。56歳の私にはきつく、昨夜は親指を踏まれ「黒血」となり、爪が取れそうだ。本気で生徒に向かう事でこんな事も起こる。練習後は入谷の「24時間ローソン」で、晩御飯を買いビールの350を一本、これが私のご褒美となる。
また、昨日は東京から剣道の教え子が来た。頑張っているみたいだが、人生のまだ大人の出発点、いろんな事がある、できるだけ遠回りしない人生を送ってもらたい。親代わりには親がいるのでなれないが、今は実の子供のように厳しく接している。それで今の苦悩が回避できだら、いくら恨まれようが私は良いと思っている。
多くの知人の今の私の行動と判断はどうなのかを聞く機会が私にはある。「叱咤激励」は真摯に受け止め改善したい。人の道を私はどうのこうの言えないが、自分の経験での失敗や悔いは多くしていて、同じようなあやまちを、できる事ならさせたくない。この一点に尽きる。大人は難しい。

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2012
08/22


写真は歌津地区の馬場・中山地区の被災直後の避難場所となった高台から被災地と太平洋を望んだ。少し下がると被災した家屋がまだ残っている現実に、復旧もまだ終わっていない現実を見た。もろもろの事情もあるのだろうが、こうした建物が無くならない限り震災は復旧したとは言えない。
昨日は猛暑の中でボランティアさんは志津川市街地で活動をしていた。町の庁舎では職員の、勉強会として住宅建設のメーカーが、建設の提案をし職員が真剣に聞き入っていた。今回の大震災でランフラインの断裂と言う面から、オール電化としての、ソーラー発電による「蓄電」「売電」のシステムが、各企業のセールスポイントとしてあった。その他にも「5本の木」は緑の木により熱を防いだり、鑑賞による心の癒しなど、あらゆる家庭の環境整備により、「節電意識」を常に持つ事に繋がる。原発の依存からの脱却と言う今後の問題に対処できる方法でもある。
またショックなデータが示された。福島県の太田沖のアイナメから2万セシウムが検出された。通常の200倍と言う。ただこの地区は水揚げ規制が係っている、市場には出ていないが、まだ原発の問題は続いている。しかし、この数字は「ホットスポット」の可能性と言う、根魚のため沈んだ海底のエサを好み食べている魚のせいでもある。淡白な魚で甘か辛く煮込むと最高に美味く、歌津沖の釣りで54㎝の大物の釣った時の感触を今でも覚えいてるる。岩の穴場を好む為が高まった理由と思う。
昨日は「防災集団移転」の20か所の4か所を回った。名足・馬場中山・寄木韮の浜・藤浜など、意外と場所と環境は良い所だった。海の見える場所が大半で道路にも近い、しかし、「この場所では」との声も一か所あった。また、第二瓦礫置き場や、戸倉の産廃の見つかった場所にも少し入ったが、確認はできなかった。その他にも委員から国道の再建案として、歌津皿貝から三浦石油の上を通り権現山を通り歌津中の裏に、こんな大胆な構想も提案され、権現山も調査の対象とした。
充実した「総務常任委員会」の調査に満足できた、猛暑の中の視察調査となった、現場を見る事は議場の説明よりも、納得できる町の移転の現状と知り感じた。。
第二弾の横浜のお寺に「南三陸のブランド菊」の発送プロジュクトが今日実現する。南三陸町とのお仏様を通しての繋がりに、涙が溢れてくると住職さんは話す。それに協力できた事に私自身も光栄と感じている。
昨日も横浜から仕事が送られてきた。叔母二人が長い間暮らしている「神奈川県」からの多くの支援に感謝しかない。

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2012
08/21

前略みわ様


昨夜の登米市での「南方仮設盆踊り大会」は、登米市の皆さんの協力支援により、元気と希望を頂いた気がした。南三陸町からは「トコヤッサイ」で感謝の気持ちを伝え、登米市の皆さんからは、豊里地区の「よさこい」が披露され、市の各地区で「よさこい」のチームが、元気な踊りを大人と子供で力強く舞ってくれた。また、テントには焼き鳥・枝豆・ホットドックなどが、チケットを販売があり、長蛇の列で買い求められていた。その他にサービスでトウモロコシやゆで卵が配られていた。
南三陸町民の方はしばらくぶりの再会に、立ち止まり近況と当時を振り返っていた。「移転はどうなるの」「義捐金は」など、今後の生活への不安を私にぶつけてきた。近くには布施市長が職員と支援で参加された方と歓談していた。多くの南方仮設の方々の登米市への転居の増加もあり、被災地救済に尽力支援に努めている。終盤に南三陸町長の出張の帰りに寄り挨拶をした。
子供たちは水風船のプールに集まり、楽しい笑顔で納涼の水遊びに一生懸命だった。こうした光景がまた南三陸町に見られるように頑張っていきたい。布施市長が会場の参加者を見つめる眼差しが印象に今も残る。顔見知りが声を掛けてくれ、「焼き鳥をどうぞ」と「何時に来たの」と焼き鳥振る舞ってくれた。多くの知っている名前が「ご祝儀披露」で紹介されていた。のし袋の準備を忘れた。
昨夜「みわさん」を強く思い出した。私の公人となる一つのキッカケが彼女でもある。もう7年にもなるが「小学校道路整備活動」「リコール申請」「町長選出場」など一人で取り組んだ。城洋の社長の協力支持もあり、教育環境整備など弱者側から、行政の改革と言う巨大な力に向かい合った。
日系二世の彼女のこの頑張りは何処からくるのだろうと、不思議に思ったが、「わが子」のためには母親は戦う、この事実を今思う。多くの辛い事悲しい事を一人で背負い、大きな代償がこうした活動に、わが身と子供たちに降りかかったと感じている。活動での「差引」を考えることなく、家族を守るために彼女は志津川町に「警鐘」を鳴らしてきた、その「警鐘」の継続を私はしている気がした。彼女はその危険性を感じ多くの行動をとった。
私の周りには「ジャンヌダルク」が沢山いる。そのひとりには間違いなく彼女がいる。多くの人は「欲」で行動をする。私にも無い訳ではないと時々思う。彼女の「我欲」は微塵も感じない。
こんな女性が今ひとりいる。いや何人も生まれようとしている。一緒に立ち向かいましょう。

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2012
08/20

もう海


「世界が眩しい」! これを白内障となりいま体感している、現在の私の目の状況です。パソコンのメインのフォント「10.5」が、近眼・乱視もあり見る事の厳しさ、そして普通より目が疲れるのがこのせいと感じている。
先週に被災した会社に行こうとした時の、市街地の状況で結局跡地には行けなかった。被災直後に知人が「市街地は海の中です」と言う言葉を思い出す。今週も「かがり火復興市」が志津川仮設商店街で開催されるようだ、被災前の八幡川の夏の終わりの「かがり火祭り」を思い出す。多くの町民が屋台や各種イベントに群がり、子供たちの笑顔があふれていたあの頃を、現在の開催は誰がおと連れてくれるのだろう。昨日は商店街の「マルセン」さんに行き、蒲鉾揚げと刺身を買った。先週末は「花の店アン」さんで、花いっぱいの店の華やかさで、被災地である事を忘れそうになった。
最近は「尖閣」「竹島」と領土問題で、中国・台湾・韓国とが日本を罵る姿が、連日のように放映されている。海域の資源の獲得がその裏の事情だ。戦争での日本の責任はすでに果たしているのに、侵略の時代をまた他国の怒りが再現している。「従軍慰安婦問題」は私ながらも申し訳ない気持ちを持つ、しかし、「アジア女性基金」を創設し、当時の謝罪・反省を今でも実践している。多くの戦争問題は時折々で解決し、良好な関係で「友好」へと進んでいるのに、政治・資源などの目論みを陰で潜めて、どこかで「反日」を助長する策略がある気がしてならない。
オリンピックで世界の平和を皆で確認し感じ合ったのに、サッカーの韓国選手が観客から「独島は我が領土」とプラカードを掲げ、後味の悪い最後を見た。まだ、韓国の大統領の任期の切れる前の「発言」と「パホーマンス」、本人の有終の美は「火種の再現」をして、両国への溝を深めただけと感じる。これからの若者の憎しみ合いは、世界が助け合い生きて行くという、被災地で生まれた「世界からの支援」に逆行し、「実効支配」による自国の主張は、世界の裁判所により、国連での協議により解決すべきと思うが、国連も大国は自国の不利となる事を良しとしない現状にも関係する。
争いはもう見たくもない。共に手を携え生きたい。南三陸町にも多くの問題も、「人間の欲」が原因にある事は、人が生きている限り無くならないのだろうか。目を背けたいが、現実を直視いまを私は生きている。何も変わりはしないから! 写真は観光プラザ前です。無くなったけど。

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2012
08/19

集い


昨日は志津川仮設商店街で「盆踊り」が開催されたとテレビで報道された。仮設商店街は現在30店舗で、2店舗の空きを先般「募集」をしている案内が、商工会から届いた。
集いの場所を創る事は私の公約にあり、震災前に旧志津川小学校跡地のくろしおグランドに建設予定だった、志津川保育所・図書館の複合施設を、町民が気楽に寄り合える所として、この場所の在り方を構想に入れ、提案として唱えていた。しかし、子供たちの教育場所施設として、ふさわしくない事が今回の大津波で実証され、想定の危うさがあったのは否めない。現実として始まる前の施設建設は、震災の被害への、ある意味で危険を告げる事となった。
昨日の「仮設商店街盆踊り大会」は、現在唯一町民が集まれる場所としてある。このイベントがある事は知らない人たちが多いと思う。その反面、写真の南方仮設での「盆踊り大会」は町の庁舎にポスター掲示で、私の知る事となり「行ってみよう」と言う気にさせた。支援団体の後押しで開催やポスター作製ができたと思う。南三陸町から登米市への仮設生活を、南三陸町の町民の誰が考えていただろうか。そして、今生活がここである現実を、楽しいものにしていくために、心を癒すためにも南方仮設の交流・親睦が、生活が長くなる事を想定し、こうした開催が必要と自治会が行政が考えのだろう。
メディアは書き方・言い回し・放映仕方で、大きく内容を「良くも」「悪くも」できる。この事は一度公人として発言した事で、「こういう意味で言っていない」とその事実を知った。そして地元のメディアの危うさを大いに感じている。「行政より」を強く感じる。仕事として強いものに身を寄せれば、多くの情報を簡単にもらえるがある。南三陸町情報は「ブランド化」してあると、今の放送事情から読み取れる。
昨日の「南方仮設からも町民が訪れた」は、このメディアの被災地での心温まる行事と伝え、この裏には多くの目論みを、疑って行政を見つめてきた私には強い。
20日現曜日5時からの「南方仮設盆踊り」には是非行きたい、本物の笑顔の「とこやっさい」を見たい。今、多くの南方仮設の住民は登米市に「安住の地」を求め、土地の確保・建設に動いている。「南三陸町に帰って来て!」と、私は言い続け、一人でも多くの方が帰り、また笑いあえる「集いの場」を創造して行きたい。

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2012
08/18

私達の町


今回のお盆の志津川市街地を含めたボランティア支援、汚い・熱い・臭い・重労働の中で、皆さんの一人ひとりの手で復興は進んでいる。写真は十日町と本浜町の地域にあたり、昨日の写真の川向にこのような状況が広がっている。
朝来るとき塩入の「まる寿屋」さんに足場が築かれ、解体が始まるようだ。この場所は「祈念公園」となり、気仙沼線の内側すべてが買い上げられる予定だ。2m前後の嵩上げでの整備が今後進められるが、「防災センター」の解体問題が、再浮上の様相が新聞で報道されていた。町長が言うように「解体!」する事は、今後の予定に盛り込まれている。殉職した遺族は、この屋上で最後まで自分の家族が、職責をどのように全うしたかを、いまだに検証をしていない事への、怒り願いが若者遺族が知りたい事と、私は感じている。すべての津波の痕跡が解体されつつある中で、なにを後世に残すのか行政は一言も発していない。
警察の告訴の受理がまだ警察は検討中と聞く。町への不信感は「住民監査請求」など、一部の住民により起こされているなど、行政の復興への進捗は、取り巻く現状でなかなか進まないと住民は言い、しばらくぶりで来町する人々も口々に「進まないね」と話している。南三陸町の防災センターの解体は、震災の象徴であり、解体の有無もあるが警察による、現場検証をするべきと私は常々言うが、そのできない理由が何なのか疑問に思う。東京のレスキューOBが防災センターの瓦礫清掃にボランティアで来た事を考えれば、専門家での「検証」はできるはずなのだが。
歌津地区の上沢の町民が4・5日前に行方不明になったが、福島県で無事に発見された。今後も仮設「独居老人」のこうした事件の多発を懸念する。一日も早い昔ながらの近所付き合い復活を果たすことが、こうした問題の解決に繋がると私は思う。あの方は私が訪れると、涙を浮かべながら今の生活への不安を訴えている。
今日は私の地区の「健康診断」がアリーナである。父親はアリーナまで「8分」かかる道を、行くときは送ってくれと言う。しかし、戸倉の会社からの送り迎えは一時間を要する、90歳過ぎた親父にはまだまだ頑張って欲しく、往復はタクシーでもと言うが、生活費の節約を図っている現状にある。昨日は「補聴器」を契約してきたという。片方一台「12万円」に驚いた。耳の聞こえにくい事に自分でも不便を大いに感じての決断と思う。
私が仕事を再開していて、公的立場にあり、何とか皆さんの支援で二人の雇用を得て経営している。家庭は年金生活の両親が私に頼らず、生活をしているが国の「生活支援」があるから生きていける。一年半も間もなく経過しようとしているが、被災者の仮設生活者には何の「光」も見えてきていないようだ。

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2012
08/17

寛平ちゃん


写真は一昨日の汐見「港橋」の被災地での普通の車の通行光景です。そこには目立つ事もなく、一歩一歩前へ進む一人のランナーがいた。
「アースマラソン」を前立腺ガンが見つかったのにもかかわらず完走した、吉本興業の「間寛平さん」、吉本新喜劇で私と同世代ながら若い頃から、彼のギャグや笑いの元を見つめてきた。「血すうたろか」「あへあへ」「アメーマ」などのギャグは私には不好評で、杖つき老人の芸も過激すぎて理解に苦しんだ。しかし、マラソンに取り組む彼の真剣さは、普段の芸風からは想像できない、真剣な眼差しを感じた。苦しいマラソン中でも沿道の人たちへ、挨拶や答える姿があり、子供たちへの声援にこたえる姿は見ていて、こっちまで嬉しくなる。被災後に「明石家さんまさん」が来て、笑いで電気をくれたが、寛平ちゃんはさんまちゃんとは違う意味の力を南三陸町の町民にくれた、それは前に一歩づつ進む事を教えてくれた。
後は「鶴べいさん」だろう。気仙沼にも来たが、彼は笑いで「人とのつながり」を教えてくれる。「笑顔がまたこの町に溢れる事」を私は願うが、こうした笑いを被災地に送ろうとする「芸人」たちの支援、本当にありがたい気持ちでいっぱいです。感謝!
昨日夕方、東京と広島から相次いで電話が入った。町の情報を聞こうと時々電話をくれる。しかし、この生まれ育った南三陸町の現状は、生活に事欠かない場所で生活する人には、いくら説明しても、復旧復興のなかなか進まない中にあり、生活の苦しさは伝わらない気がする。ここで明日を考え生活して、さっぱり前が見えない進まない現実に、皆が苦悩をしている。ふたりには帰って来て一緒に復興に向かおうと、電話をくれるたびに話すが、この願いの声も小さくなってきた。自分が焦りすぎなのかも知れない。
13日からの盆休み、歯にかぶせていた物が取れて、今は歯茎で食べているので痛い、今日から再開だろうと早めに治療に行きたい。「歯の大切さ」は友人から常々言われているが、何もないと歯医者が遠のいてしかたない。現在町の診療所以外に、個人開業医が志津川地区に一軒ながら、住民が少ないせいか余り待つことなく、治療ができる感じがする。予約調整にて待たなくても治療する体制を作っているのだろう。
今日は三重県からお客さんが来る。今日まで我が社も休みだが、私は今日から仕事となる。今週も暑い日が続くようだ。昨日は補聴器の会社がアリーナに来た。父を送ったのだが、帰りは歩きで「熱中症」を心配していた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:14 】

2012
08/16


「綺麗な海を全国の人たちに体感してもらいたい」が被災地からの支援に対する感謝です。
現在南三陸町の沿岸全域が海水浴をするには、危険がいっぱいです。引き波による家々の残骸が海岸の砂場にあると予想し、私は子供たちを危険にさらす恐れがある。
そんな中で入谷小のプールが完成し、入谷の子供たちは伸び伸び水泳ができる。オリンピックでの水泳選手の活躍に刺激を受けているだろう。また、ホテル観洋さんのプールもはいれると聞く。大久保・林の子供たちが歩いて、色取り取りの浮き輪を手に歩く姿を目にする。「夏は海」と言う当たり前の事が出来ない南三陸町の子供たちがいる。この状況の救済に他の自治体が招待をしている姿をテレビで見る。沖縄での笑顔で楽しむ子供たちの無邪気さに安堵する。
写真は戸倉の被災した「陸前戸倉駅」の前にある監視カメラらしい。町ではなく国土交通省が設置した。津波防災の迅速情報の収取と、国道の運行車両の救済へも繋がる。この場所の他に清水小学校前にも見つけた。町が防災の監視の面で弱い部分を国が整備したのだろう。もちろん県の国の出先機関には情報は流れているのだろうが、行政へのネットワークはどうなのだろう。
昨日は私の倉庫の生活場所に、甥っ子姪っ子たちが来て、その子供たちがうるさいと父は言う。本音は嬉しいに違いないが、最近は少しの事でも疲れると言う。一昨日も地元の孫と仙台から孫が子度たちを連れて突然来た。お墓に行きたいので案内してくださいとの誘いに、出かけたが一番高い墓地は上とあり、子供たちの元気についていけず、マンペースで下りてきたと話す。余計な事や無理をさせないが、両親の健康維持と「我が家」の生活スタイルを位置付けている。
「異常気象」は現実のものとして全国に発生している。京都府宇治市志津川地区の一時間100ミリの豪雨が一時間以上も続き大きな災害が起こった。志津川地区と聞き強く他人ごとでないと思う。現在市街地では「側溝清掃」がボランティアさんの手によりおこなわれている。秋の台風による高潮や大雨を想定し、市街地冠水の防衛対策を講じている。これをボランティアに依存して良いのかとも感じる。被災後の自衛隊での重機による作業は、スピードも段取りもパワーも違う、この方法で良いのかと大きな疑問も感じる。まだまだ多くのボランティアさんの支援を求めているが、そんなに活動する場所があるのだろうか。
ボランティアさんが来てくれて、町民の皆さんとの交流もあったほうが良いとも思う。何度も何度も来てくれる支援の方々への「感謝の交流」を、受け皿の「社会福祉協議会」と、町が支援しこうした場を、作業を休んでも、南三陸町独自の感謝の場の企画提案が、あってもいい時期に被災地は来ている気がする。
明日から仕事が始まる。少しでも余裕を持ちはじまれる体制づくりを今日しようと思う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:37 】

2012
08/15

大雄寺


大雄寺の高台の墓地から志津川湾の荒島が見える。ここから海の悪魔がやって来た。そのすべてを先祖代々の墓は見ていた。マグニチュード9・0の地震で墓地のお墓も多くが倒壊し壊れた。その後の事だが雪がその非情さを増幅した。大震災での天災の「死」は天命でなく、「理不尽な死」とある人が言っていた。誰にもあたる事が出来なく、誰を恨む事も出来ないと。それ故に辛さが消えない。
南三陸町の志津川市街地の側溝の清掃が、ボランティアにより行われた光景が、テレビで昨日放送され、150名がお盆に来町し被災地支援を行った。それに対し受け皿の「社協」職員が、今後も多くの支援をお願いしたいと話す。
今日は「間寛平さん」が、被災した岩手から福島までの400Kをマラソンで巡る。今日は気仙沼市から南三陸町の志津川市街地中央に2時30分に通過し、沿道から「頑張れ」「ありがとう」の言葉に手を上げ、一人ひとりに答えていた。この気もちの優しさが、被災地に被災者に「頑張ろう」という気持ちを与えてくれる事を願いたい。多くの人が寛平さんにつく訳でもなく、伴奏の自転車一台で「黙々」とひたすら前に向かい走る彼の姿が私は大きな力を貰った。戸倉は折立から海岸線を回り、石巻市十三浜を通り塩竈・仙台へ、パフォーマンスではない事は、多くの職員が殉職した「防災センター」を横目に通過した事で伺える。
今日は剣道の戸倉スポ少の教え子が二人顔を見せてくれた。大学・高校の卒業後は南三陸町のために頑張って欲しいと告げた。次は新しい被災地の海岸線の形成、津波防災の在り方や、海洋大学・海洋病院など、奇想天外な構想の提案に、「夢を求め」この事業への協力を約束した。こんなお客さんも来社した。
次はメディアが来て、父の友人が来た。父を仮設のお風呂に送り、初盆の焼香をして、寛平ちゃんに声援を送った。次に大家さんが話とノンアルコールを持ってきた。夕方またお客さんが来てニンジン・ナスを持ってきてくれた。
今日は今からブログを更新する。忙しい一日となった。

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2012
08/14

お盆


今日は夜半からの大雨があり、例年だと5時には「墓参り」に行っていたが、今日は雨が上がった11時頃に行く事を布団の中で考え決めた。母と共に初めて行った時期は覚えていないが、小学高学年からだと記憶し46年にもなる。私の父の叔母の家がお墓の近くにあり、「山」と常々呼ぶ。目当ては「おこずかい」と「とおもろこし」で子どもながら、つられての「お焼香」だった。
昨日の13日に戸倉門内の「慈眼寺」さんに仕事配達に行った。写真は「本堂」「自宅」全てが流失し、斜面に並ぶ墓地だけが残った。普通は明日が墓参りの日なのに、多くの車が墓地の前に止められ、墓参り人たちだと言う。被災地であり町外の登米市に住んでいる戸倉地区民も多い事と、自宅を守っていた家族の津波での死亡に、帰省のラッシュを考えこの日にしたのだろうと推測する。仮設の本堂には檀家の皆さんが住職さんと、今後の事を話しているように映った。
最近夜中になると体がかゆい、蚊に刺されたのかと思ったが違うようだ。布団に虫が、それとも体の内部が変調を来しているのか、その原因が分からなく寝不足が続いている。オリンピックから今も続いている。さっきも戸倉の会社の床の上で眠っていた。今度は寒気がする、お客さんが来て話し込んだら少しは、具合がよくなったみたいだ。昨日は冷や汗とお腹の調子が変だった。でも自分は不死身だと体には自信がある。
今から「墓参り」に行く、大雄寺のお墓の一番上が我が家の墓地で、そこから叔母・大森・父の叔母と三軒で今年は帰ってきたい。昨年もだが「ハスの葉」は買わず、生花と線香だけにした。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 12:21 】

2012
08/13

事件・感謝


伝えたい事が沢山ありすぎて、毎日のブログを打ち終わり更新してから、「この事を伝えたい」と思い出す。
今日一番に伝えるのは、歌津上沢の75歳の男性が10日から「行方不明」となっている。こんな事が昨年もあり、近くの木でその遺体が見つかった。今回も耳の遠い高齢者ながら、心配がつのる。3日目の9時にも定時の防災放送で、繰り返しその消息の情報をと行政が呼びかけていた。
今日の7時の南三陸町志津川は、濃い朝靄で国道の走行も30m先もボンヤリとして見えない。今、南三陸町では交通事故が多発している。帰省・観光客・工事大型車両・朝夜長距離走行車など、無理な運転も多くを目にする。昨日も石巻の道の駅「上品」で出入り口で事故があり、警察が実況見分をしていた。お盆の準備・帰省客で道路・駐車場はごった返していた。町の交差点では交通整理が、これもつなぎ雇用かと毎日気になり見ている。運転はぜひ気を付けて時間に余裕をもってと言いたい。
昨日は突然父親が「老人ホーム」に行きたいと言う。父と同じ世代の親戚が入居していて、元気に暮らしているか顔を見たいと言う。初めに南三陸町のハイムメアーズに入居の、小野寺夫妻に会いに行く、受付で話をする。名前もうつろで「及川・・」、色々話していると、・・さんですね。「昨年被災後に亡くなられました」と言う。奥さんが亡くなり後を追うように旦那さんが亡くなったっていた。メアーズの経営母体の岩手水沢での事だったという。親戚がわからない混乱していた中で、親戚筋が静かに息を引き取っていた。身元引受人が甥っ子があたり引き取ったていた。耳の遠い父も私からその事実を聞き「絶句」していた。自宅に帰り90歳の母も少しの認知ながら、驚きを隠せなかった。隣のグループホームに、剣道の知人を訪ねた。大喜びで自分の部屋まで案内し、町の震災後の取組と、町の政策の不備を父に一生懸命話していた。御年は85歳前後と記憶する。町への気遣いを未だに欠かすことがなく、町への情熱に頭が下がる。しょうがなく町を去る住民が増加する今、こうした町民の皆さんが多くあって欲しいと願うばかりです。
次に「いこいの海・あらと」に行った。一か所目のショッキングな気持ちを引きずり、父のいとこに会いに行く、家にいた時は被災前で高齢ながら普通であったが、高台にあった家は地震の被害で、両親のホーム入居を決めた経緯がある。元気そうな二人の姿に安どの父の様子が一目でわかった。
今回の大震災で多くの身内が被災ではなく、命を閉じていく現実に、時代の変遷のめぐり合わせがあり、悲しみを増加させる。
10時の放送では町の水道事業所から「節水協力」を町民に呼びかけていた。我が家だけでも多くの問題と事件が発生していた。
写真はボランティアの活動で、田尻畑の水尻川河川岸の清掃に、真夏の炎天下の中で作業をする。熱中症対策の水分補給と休憩を取るなど対策を講じてほしい。最近は聞かないが、ボランティア作業中の救急搬送もあった。
多くの町の情報が入ってくる。人口の減少防止対策はとられ無く、流出の話が次から次に起こっているこの現実を行政は何も伝えず、発信もしていない。「南三陸町に帰って来てください」と言った。言葉と行動の一致を、私は何処にも感じない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:51 】

2012
08/12

続ける


知らず知らずの内にブログの発信も「2020回」を数えた。批判され、苦しみ疲れるなら「やめたら!」の言葉も、幾度となく言われながら、ここまで続けてきた。止める事は容易いが、やり続ける事は「好きだから」に他ならない。多くの反応や人を返し見ていますなど、自分の満足よりも、「南三陸町の事を知りたい」が、アクセスしてくれる方の気持ちのようだ、リピーターが多いようだが、アクセス数も「8万回」を越え、継続と積み重ねでこの数字となった。後2万回でナンバーの桁が無くなる、どうなるのかも見て見たい。一週間の更新されない時は私の身に大きな事が起こったと、理解しこんな奴がいたなと思い出して欲しい。しかし、無料ブログ「FC2」はサーバーは存在し、私の記録も永遠に残る。私の生きて来た「証」がここにある。
昨日の「小山光夫先生七段昇段」「最知明広先生七段教士号取得」の祝賀会には、本吉郡剣道連盟、志津川剣道協会が面々がお祝いに集まり、小山先生の知人の方々、最知先生の雄飛剣道関係の皆さんを含め、総勢33名が剣道談義に華を咲かせた。開催の主催は「戸倉剣道スポ少」で、団体数4名で会の進行を行ったが、多くの皆さんの支援があり、遠くから駆けつけてくれた、「お陰様」の感謝の気持ちの通い合いがある。今回の津波は人の心も引き裂いた気がする。だが、どこの会も色々な悩みや問題を抱え運営に当たっている事を知った。「今を精一杯やる事」が大切と再認識をした。
昨日は「盆花」の配達に大森へ行った。帰りに国道45号線と平行に走る、本浜町の道路をしばらくぶりで通過した。我が家の前を見ると沢山のボランティアさんが、瓦礫の小さいゴミを拾い集めていた。その数は100名を遥かに超えていた。大分片付いた気もするし、基礎部分も減ったのか土も多く見えた。写真がそれです。
この二つの目の前の盆前の要件を終え、また新たな目の前の事を一つづつ処理して行く。南三陸町の「決裁書」を見積合わせで受注した。来月の決算議会で使う、今月末まででこの時期は私の盆休みはない。



【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:40 】

2012
08/11

人を偲ぶ


アリーナの土手や清水浜に向かう道路沿いに「たかとう」の看板が今でも「凛」と建っている。たかとう商店さんは国道45号線沿いの天王前にあり、南三陸の海の幸を観光客に販売していた。旦那さんの高橋さんは笑顔で全ての来客に答えていた事を、私は今でも忘れられない。現在も看板はそのままで私は良いと思う、「たかとう」さんの存在した「証」として、経費が掛かっても、多くの家族が亡くなったと聞いているが、親戚・縁者の方々の許可があれば、このまま掲げていて欲しいと私は思う。目立つところに今も綺麗に「南三陸町志津川の海産物発信」を今後もこの看板は役目を果たしてしくだろう。「合掌」。
子度たちの生活は大変のようだ。夏休みを利用しての被災地支援は続く。国内・国外の子供たちの招待、全国の学生・教育委員会の教育支援、通常の「ふるさと学習会」など、多くの活動で子供たちの体が「悲鳴」を上げていないか心配だ。
失敗は直ぐにでなく一日を賭けて取り戻すと、アーチュリーの金メダリストは言う。
「戸倉ゴルフ場の高台移転地の産業廃棄物問題」、町の二人のトップは何も知らなかったと言う。引き換え戸倉住民の多くが、ゴルフ場の開発時に、大型トラックが建設廃材を積みゴルフ場を行きかう姿を記憶する。20年前ごろの事でこの二人が「噂」すら聞いた事がないと話す。こんな事を誰が信じるだろうか。これを知っていて高台移転をこの場所へと言ったとしたら、現職の地位を失うからに他ならない。また、発覚し、この産廃の場所を被災者救済の名のもとに、隠ぺいしようと画策したとしていたらと思うと、本当に政治と言う怖い面を感じる。楽天副社長の本城氏が私費?でこの土地を町に寄付してくれた事に対し、こんな事件が起こった事を、5月27日発覚で臨時議会開催まで2か月と2週間経つと言うのに、その報告を町はしていなく、「9300万円」の高額感など町にとっては現在「微々たる金額」と、多くの復興交付金でお金に対する感覚が麻痺としか考えられない。仮設生活者は明日のお金「千円」にも困っているのに、行政と町民のお金の価値観が大きく違う。
お盆には多くの方が「我が社」を訪れたいという。この疑問を大いに議論したいと思っている。9月の定例議会もあり、その構想も練らないといけない。
今日はホテル観洋で剣道の南三陸町の関係者が一同に集結する。それは小山先生七段昇段と最知先生七段教師号取得の祝賀会を開催する。35名が出席する、運営は戸倉剣道スポ少所属の会員、私も含め4名で行う。私が司会ながら出来る限りの祝賀の会としたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:12 】

2012
08/10

感謝を添えて


神奈川県の少林寺の赤間さんに感謝、そして、その隣の「お花屋さん」ありがとうです。
入谷の生産者の方の協力により、南三陸町のブランド菊「黄金郷」を含めた、アレンジ供花を横浜市栄区への発送を昨日終えた。赤間さんとの出会いは「ブログ」からだった。南三陸町に「被災者とのふれあいのつどい」で、南三陸町への笹々井師の随行での、南三陸町での開催の支援告知での係わりが、今回の南三陸町の産品の発信へと繋がった。「ありがとうの感謝を添えて」とシールを貼って、わしたちの気持ちを伝えた。
その後で入谷地区に共同で事業を再開した、「菅原整骨」「工藤商会」「佐藤輪業」さんの、共同体の三店の写真を撮った。国道398号線の旧道でカーブにあり、見逃しそうだが志津川の駅前・市街地の商店が、限られた志津川地区の浸水地区以外での再開は、目立った土地の確保は厳しい現実がここからもわかる。
そこからまた奥地に建設された「岩沢仮設」に向かった。一軒の用事だったが仮設の人たちに囲まれた。高台移転は・義捐金は・巡回バスはなど・・・、多くの現在の不安を次々と聞かれた。9割方は質問に答える事ができた。岩沢仮設の人たちは地域の清掃や仮設生活者の共働などに力を注いでいる。一番感じるのはこんな山奥の不便な場所しか、仮設建設の場所が無かったのかと行政に言いたい。一日数本の巡回バスや「車弱者」の居住対策も万全ではなく、荒町への「200戸仮設建設」の陳情に、私たちの声に町長は「ダメ」と言った。この事を話すと、「南方に行った人たちは帰ってこないよ」と、「こんな場所があったのに何んで町外に町民の人たちをやるの」など、岩沢の仮設生活者は口々に話す。
一つ一つのミスが「南三陸町の消滅」や、「責任の所在の有耶無耶」など、誰がその真意を町民に伝えるのだろうか。
あと2・3日でお盆の週に入る。我が社も土曜日から私ひとりが会社に詰め、色々な対応に当たる。時間がある人は荒町の会社に電話をしてから来てもらいたい。荒町の会社にはテレビやエアコンはついているが、不在な時は「山」にいる。山と言っても「工場」である。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:03 】

2012
08/09


今朝1時に、夜中ですが目が覚め何時と時計に目をやる。今オリンピックは何をしているかとテレビのスイッチ、丁度女子レスリングを放送していた。これが私の最近の行動です。
小原の一回戦が始まる所だった。泥臭い戦いに経験の長さを感じ、心配のない戦いは安定感を感じた。自分の体重には階級がオリンピックになく、妹が結婚引退を機に、姉は引退・結婚からの逆のカムバックと言う。最初で最後のオリンピックで「金メダル」を獲得した。多くの応援と協力により取れたと話す。最大の応援は旦那さまだろう。
金の獲得には多くの苦悩と挫折があったと言う。こうした経験を経て人は精神的にも強くなり、人との協力や支援の有難さへの感謝が、スポーツマンとしての資質や、人間としての躾を内面に備える。
「君に言いたい、独りよがりと周りを利用し自分が上に立とうする事は何の意味もなく、仲間と協力し共に支えあい今を生きて行くことが大切です。一人だけで、人を踏み台にしての偽りの自分作りでは、周りが認める人間にはならない。」
私は多くのアスリートの話から、多くのスポーツマンシップ(精神)を学ぶ。君は何を聞き何を学んでいるのだろうか。余計な事だが私は君が心配でならない。たまに自分にも、こうした事を問いかけて、今を生きている。
伊調は期待どうりの活躍を見せ、当たり前のように「金メダル」を獲得した。けっして簡単ではない「金メダル三連覇」、彼女の人並以上の努力と練習に敬意を称したい。
卓球の「愛ちゃんは努力家」で、「石川選手は天才」と言う。私も努力家と自称する。人の倍練習をして挫折を味わい、やっと人並に今があるが、今も反省の繰り返しでもある。もう色々な面での成長は少ないだろうが、努力は今後も続けたい。
昨日も色々あったが、少し興奮した。真摯なき姿勢には誰にでも頭にくる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:28 】

2012
08/08

疑惑だられ


道すがらの2店のコンビニの前を毎朝通る。朝7時・お昼・夕方と、工事関係者の人たちの買い物で、店内は大混雑の時間となっている。それが、支援観光・ボランティアバスの横付けで、通路までがいっぱいとなる。これも「復興特需」でもあるのだろう。それに町外への仕事に向かう町民がある。
志津川市街地・戸倉折立地域は何も変わり映えはしない、今日の写真はこんな紅色の十日町に降り立ち、現光景を撮った。一年四か月の時は何処に費やされたのだろうか。
昨日は横浜に南三陸町ブランド菊「黄金郷」を40束を発送する段取りを済ませた。今年は開花が早くなり生産者の準備が厳しいというにも関わらず、何とか「黄金郷」を準備するという。被災地への全国から「支援の声」に答えるのは、希望する産品生産者の指名と声を第にして言う。「ありがとうの感謝を添えて」のポスターやシールと一緒に送る。
今週初めに長野県の宮沢大造さんから50Kの「男爵」のじゃがいもが段ボール3個で我が社に届いた。限られた数なので、聞くところによると大きな仮設には支援は少しは届いていて、20世帯前後の仮設には少ないと聞き、町内・登米市へと80袋、大きな物が多く4個前後をレジ袋に入れ、自治会長に届け、配布をお願いした。
やはり「救急搬送」多すぎると感じる。戸倉荒町は石巻「日赤」へ向かう道路であり、そのせいで多いと思うのかもしれない。今週初めも戸倉セブンでもバトカーと、そこから来たと思える救急車とすれ違った。コンビニの看板も先週は大破していた。カーブにあり多くの来場者と、大型ダンプカーの行き交う場所、被災地の現場では色々な問題が起こっている。
荒町の会社前には現在、岩手の建設業者が地元の商店の店舗を造っている。ここ二・三日の突然の雷雨にも豪雨にも、作業の手を止めずに作業を続けている。岩手も仕事が建設会社には多い、次々に新しい現場が待っていると聞く。地元の建設会社も同じで私の依頼する小さな仕事は目も向けてくれない。こんな中で2年後の高台移転可能後は、建設業者と関係の深い個人ばかりが復興へと向かうばかり。と思う姿が南三陸町にある。
公平・公正・平等の国民に与えられた権利は、いったいどこへ行ったのだろうか。それを守るのが町自身なのに、町が不平等に何の対策も取っていない気がしてならない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:41 】

2012
08/07


「戸倉小学校解体したんだね」と志津川地区に住み現在南方仮設に生活する知人に言われた。一週間で解体となった校舎、毎日繰り返し町内の施設解体がある中で、住民ならずとも戸倉小学校の解体はショッキングな事だった。写真は被災後に戸倉地区の光景を記録した裏山に、しばらくぶりで向かい写真を撮った。戸倉の象徴が消え、何も無くなった場所と、太平洋の志津川湾が青空の下に、何も無ったかのように広がっていた。
昨夜は「なでしこジャパン」がフランスに2対1で決勝に進んだ。次のアメリカ対カナダ戦は、凄まじい両国の意地がぶつかりあった。なでしこ戦の試合が終わると同時に目覚めた私は、後半の怒涛のフランスの攻めを凌ぐ日本のハラハラの姿を見なくてすんだ。朝4時からの「オハ4」を見たいと起きていると、残ったアメリカ対カナダ戦が流れ、番組がなかった。2戦目は初めにカナダが2点を先取した。どちらが勝っても「なでしこ」は銀メダル以上との安心感から、その後は安心感から音声で母のベットで見えないテレビを布団で横になりながや聞いた。現実化・夢か凄い戦いの様子が聞こえた。いったいどうなっているのだろうと、6時に起きてアメリカ・カナダ戦を見たかったが。「なでしこ戦」が繰り返し放映されて、アメリカ戦は話でしか聞く事ができない。結果的には3対3の延長でのロスタイムにアメリカが1点を取り勝利した。この苦しみを越えたアメリカと、カナダの王者との戦いの気迫に脅威を私は感じた。3位決定戦・決勝戦が益々楽しみになった。澤選手の母が言っていたように「決勝は楽しんで戦ってほしい」が、私の思いとダブル、「一番綺麗なメダルを」は日本人なら皆が思うだろう。
昨日は電話が沢山来た。良いものやら望まないものまでだった。大久保仮設の「おじゃっこ会」に始めて出かけた。仮設の人たちに近所の人たちも参加して、支援員の話で楽しんだ。被災者雇用ながら、すべての人がこの仕事に向いているかと言うと「違う」と感じた。歌津長須賀海岸の「コクボ荘」の奥さんが来ていた、しばらくぶりで会った。すべてを失ったものの、明るい声で元気を貰った。集まった方々にもそれは伝わったと思う。もう一人会いたかった方もいた。「申し訳ありません」、この言葉しか出なかった。「難で逃げなかったべ」と一言「ぼつり」と言葉が返ってきた。

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2012
08/06

南方


こないだ神奈川の方にショッキングな情報を聞いた。「被災地である娘さんが自殺しました」と言う話に、私の知らないところで、ひっそりと「若いこれからの命」が閉じられていっていた。合掌。
昨日も知人のお母さまが逝去され、追われる生活の中、次々に起こる事に追われ、葬儀の参列は叶わなかった。高齢者ながらこの大震災を乗り越えてきた。過去の多くの災害からの復活を見てきたに違いなく、こうした過去の逆境を乗り越えた皆さんに学ぶ事があり、現在は過去へ復興の新たな再建の形を示す町の指名がある。
昨日の行動で皆さんから感じる事は、これから生きている人の生活場所を早く作る事と、これから南三陸町で生きて行く、若い人たちの思いを意をくむ事で、皆が次のステップに進む事ができると痛感した。
昨日もまた新たな町の動きが生まれそうだ、自分一人でもこんなにも多くの事が起こっている。残された町民の身の上にも多くの事が起こっているに違いなく。これまで数々の障害を乗り越えここまできた。まだまだ越えないといけない階段が目の前には広がる。
昨日の南方から佐沼の帰り道には、登米市の多くの造成の土地と、農地が住宅地の敷地へと変化し、住宅の建築の様相が見えた。登米市は南三陸町の町民の受け皿として、行政は動いていた。しかし、我が町は人口流失の目に見える対策は取っていない。取れないのが南三陸町の現状で、これが住宅の建設まで2年とかかると、登米への人の吸収は今後加速する。
町内にまた変化があった。城場の「保険センター」もついに解体への動きがあり、民間の汐見の元「阿部小児科」も解体が始まった。公共の被災建物の解体はあと「防災センター」だけと志津川市街地はなった。
写真は東京での「広報研修」で、全国から担当の委員が集まった。

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2012
08/05

ずーと支援します


岐阜県白川のテントの「あゆの塩焼き」が美味そうで店の人に声をかけた。「ご苦労さんです」の声掛けに「被災直後からずーと南三陸町支援に来ています」との話が帰ってきた。有難く感謝でしかない。初めての復興市が志津川中学校で、全国からの支援物資やボランティアの皆さんにより、あの瓦礫の山積みとなった被災の丘で開催された事を今でも思いだす。
岐阜県白川町商工会青年部の「みそ焼けいちゃん」と、看板には大きく書かれてあった。被災地の支援は「地場産品の発信」でもあり、今後も含めた青年部の交流がここにはある。この真夏の猛暑の中で、せっせと炭火であゆを焼く姿に、白川町の被災地を思う心と、自分の生まれ育った町の特産品発展を願う心がここにある。町全体を考えていることが「原点」にある事は、誰もが思うことで、現在は復興という方向性に、復旧復興の名前を利用した動きが、今の町には見え隠れする。
8月の解体で進む「防災センター」に、解体まった! の動きがある。その理由もわかる気もする。津波の脅威の痕跡としての必要性も理解できる。お訪れる「被災地支援観光」は、南三陸町の収益にと一部の人間は言うが、「町民不在」の感は拭えない。もう一度議論も必要だが、家族を亡くした人は、この場所で悲しみが「フラッシュバック」すると言う。今回の津波はまだまだ住民への「混乱の種」を巻いている。
そんな時に長野県の知人が、農家の人が「南三陸町に生産したじゃがいもを是非送り食べてもらいたいと言うので受け手になって」との話があった。受け皿を探すが誰もいなく、自分が小さい仮設に配る事にした。歌津・南方そして町内を今日回りたい。
また、復旧・高台移転の遅延に繋がりかねない事案が中内の水面下で起ころうとしている、原因はと言うとまた「あの人」となりそうだ。第二瓦礫置き場の焼却場の建設は進み、補助事業の事業所も62社が決定し、町内に個人の造成建築が進み、昨日は10社の水産業者での建設された、冷凍工場が報道で紹介された。10数億の国からの被災地の補助事業によりできたと言う。被災者住民には関係も薄く、一部の今後の業者プラスでしかない。住民はいったい何処に向かえばいいのか。その矛先は? 「泣き寝入り」が実実のような気がする。朝に父親が志津川の大火、チリ地震津波からの復興は20年かかったという。そして今回の大災害は50年! それ以上かかるだろうと予想していた。

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2012
08/04

入谷地区


先月28・29日は志津川の「夏祭り復興市」が、仮設商店街の隣接する場所で開催され、多くの町外からの来場者で賑わった。花火も少し上げられたとも聞く。29日の午前中に入谷「ひころの里」で町のグランドゴルフ協会杯のゴルフの風景写真です。少し工夫して撮影してみました。
手前の花は「ねじり花」と友だちから聞いた事があり、その中央はグランドゴルフのプレーの姿で、最後尾には「でん」と松笠屋敷がある。真夏の入谷地区の緑が冴え、この日は暑くプレーは大変に見えた。この日も「ひころの里」「シルク館」に、カップルや家族連れが足を運んでいた。シルク館からは「織姫慕情」のメロディーが聞こえてくる。来場に石碑のセンサーが反応し音が流れるシステムと聞く。
海岸線が被災し海水浴シーズンの今、「サンオーレ袖浜」「長須賀海岸」はいまだに、海水浴場の復旧整備は進んでいない。しかし、この間は「歌津名足小学校」の生徒の、海岸清掃と地引網が行われ、海水浴場に子供たちの笑い声と笑顔が復活した。
昨日は志津川中学校に朝7時30分からの、全校ランニングの練習を見に行った、時間前には生徒が集まり、グランド一周と準備体操、そしてメニューをこなしていた。仮設住宅が三分の一をグランドが埋める中で、生徒たちはのびのびと真夏の中を力走していた。「熱中症」には、生徒・先生が気を配りペットボトルの準備をしていた。
その後で入谷小の新設となったプールを見に行った。25mの5レーンがあり、水深は9mで飛び込みもあるからだろう。浅いスペースも設けられ低学年用と思う。山間の小学校には子供たちのためにプールは欠かせない。震災の23年度初めにプールはできるはずだったが、今年度夏前の完成に子供たちも待ち遠しかったと思う。
現在「ロンドンオリンピック」で、水泳陣の健闘が輝いて見える。この姿に入谷小の子供たちも、今日もプールは盛況かな。
学校での写真撮影は「学校長の許可」がいる。ルール規則なのだろうが、ここにも「個人情報保護」の壁がある。自由主義国としての昔の日本の姿は今はなく、互いに知り合う近所付き合いの希薄さが、多くの問題を引き起こしているようにも感じる。

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2012
08/03

救世主


少し前に戸倉の第二瓦礫置き場に行った際、写真のような焼却プラントを見つけ驚きの中でシャッターを切った。町内の瓦礫の減少は戸倉の第二の処理場に、移したことによるもので、処理が進んだのではないが、今後、分別され焼却される事となる。
仙台に住む同級生から「お墓掃除」を依頼され、昨年も作業をしてもらった「シルバー人材」の方にまたお願いした。彼は現在、南三陸町在住の近い親戚がいなくなった為、私に用事があると電話をくれる。しかし、両親が暮らし続けた志津川への愛着があり「高台移転の土地希望」を今後するという。
茨城県那珂市の佐々木さんから「広報いな」が届いた。彼が「南三陸町からの手紙」を市内の小中学校すべてに、この本を寄贈した事が記事にあった。出身地南三陸町の津波の現実と、被災した「町民の声」綴った本を見てもらいたいは、那珂市の地元の子供たちの防災教育に役立つとも考えたからだ。彼は南三陸のわかめを初めとする海産物を市内で開催かるイベントに陳列し、南三陸町の被災地支援の活動を続けている。「少しでも力に」と言う。
私のいとこ・甥っこ達に子供が生まれた。甥には女の子「ゆりあちゃん」とメールで、生まれましたと連絡が入った。3・11の震災後に8月の結婚式が決まっていた。「こんな大変な時に」と案内状を二人で持ってきた。周りを気遣う二人の気持ちを持っての「ふたりの結婚生活」は、問題が無いと私は太鼓判を押したい。残念なのは二人とも南三陸町の将来を担う子供ではない事で、今も若い町民の流出に何の策も講じない行政にしか見えない。両親の皆さんも「雇用の場もない」「生活の環境も進まない」、今の南三陸町に見切りを付けて町外への就職・生活支援の考えを口々に話す。
今日は今から志中の「駅伝」の練習を兼ねた、全校ランニングを撮りに行く。そして、入谷のブランド菊「黄金郷」も写真に収めに行く。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:26 】

2012
08/02

記録


何気なく道かずら、町から2日間不在だった戸倉の風景に、折立の町向いの「戸倉小学校」に昨日目をやった。行く前何もなかった校舎が、二日間の間に解体がここまで進んでいた。
3.11当日は迅速な教職員の避難誘導により、学校から逃げる際の犠牲者は一人もなかった戸倉小学校。398号線向かいの高台から、小高い隣の山の頂上にある、確か「五十鈴神社」に逃げ上がった。私の記憶するこの史上最大の大津波から、「逃げた経緯」を風化させないよう、学校の解体もしっかり記憶し記録した。
戸倉の小学校の屋上には丸い球体があり、これが学校の象徴に私には見える。被災前は体育館の建設により、大会を控えた練習に、三階の教室を使用しての練習を思いだす。こうした活動・生活から一変した生活を今、小中学生は送っている。その現状に向かいしっかりと直面し、勉強・スポーツに取り組んでいる。
今日は「緑の堤防」を被災地に活用する事を提案している大学教授が南三陸町にくる。細野大臣は教授の提案には賛成するものの、問題もたくさんあると意見は合わない。しかし、仙台のある会社では会社周りに小高い緑の丘を設け、今回の津波から、多くの地域民が被災を免れ、会社も津波から守られたと聞いた。瓦礫問題を早期に解消するための方策といて、当初から議論され活用をしている自治体もある。できる事は検討し実施していくべきと思う。
昨日は副町長に会いに行った。隣の行政区「大森」の出身で、日曜に地区の方より「私の方は健治さんが・・・」との話をしていた事を確かめに行った。多忙を極める副町長、私に「隣の地区です」と、私に活動してくださいとの話になったと私は理解した。私は地区は関係なく「高台移転」により、安全な生活の場所に、町民の皆さんが、早く移れる為なら、できる事は何でもしたい。
最近の心境での昨日の「弱音」は、昨日の行動で払拭できた気がする。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:51 】


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