ARCHIVE - 2012年07月

2012
07/31

本浜


地域の人たちとまた暮らせる事を、笑いあえるいつもの人たちと共に生きていける環境を作りたい。その一歩が、先月の21日にあり、初めて地域のみんなが一同に会した写真です。本浜は87世帯がありその中の55世帯以上が集まった。
二日ぶりの南三陸町の夕方6時、大森の高台を見たら重機があり、遠くからでも造成がしている事がわかった。その場所は今後背後地として利用されると予定をする、こんな行政の話していた気がする。
とにかく被災している人たちは、行政の高台の造成や市街地の土地利用計画の進捗を待てない。両親・家族の安住の場所の確保を、引き継ぐ世代が、自らの行動によりいち早くと、行っているようだ。
市街地の被災地地区でも地域の人たちとの集まりをもっていると聞く、しかしながら高台移転の姿が見えてはいない。
多くの人の話を聞く事、必ず人を大きくしてくれる。「自分本位」は「世間知らず」でしかない。
明日もまた新しい出会いで多くのエネルギーを吸収したい。

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2012
07/30

純真の目で


南三陸の「夏祭り」、こんな状況でも多くのお客様が来てくれた。「感謝・かんしゃ」です。岐阜県の「あゆ塩焼き」と、登米市観光協会の「トウモロコシ」と、南三陸町の「ホタテ照り焼き」を買った。若者たちの多い会場と感じた。復興市から仮設の商店街に、来場者の流れが生まれ、復興夏祭りは大成功に見えた。
昨日は「ひころの里」で南三陸町のグランドゴルフ大会が開催され、仮設からの参加者も多くあった。この日を楽しみに練習を重ねていた。気温は30度を超え、厳しい中で大好きなゴルフを仲間とできる、幸せそうな顔に見えた。歌津の高倉荘さんのマイクロバスもあった。南方仮設からの人もいて、交通手段の確保が大変での支援かなとも思う。11時には3ラウンドを終え、「松笠屋敷」での昼食のようだ。入谷地区の方々のコースの整備により開催と聞く。
全国で「熱中症」がこの厳しい暑さで、救急搬送が多発している。昨日は救急の音は聞いていなく、夏祭りでもこの暑さの中での開催、初日はこの日以上の来場で「凄かった」と聞く、駐車場が会場の近くに準備できたらと、見に行って感じた。
今日から「広報委員会研修」に二日間出かける。

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2012
07/29

癒し2


癒しを受けられるものは自然であり人間からと私は思う。そんな中で子供たちが未知の見えない、パワーとエネルギーを秘めていて、被災自治体は子供たちの未来への準備と、この子らの可能性に賭けている。
今、心のケアや孤独感からの抑制には、動物がある。私の友人も飼い猫飼い犬に震災時に「癒された」に違いない。私は家族だったりするように、身近なものから「心の安らぎ」を得る。今回の震災は多くの家族の死亡があり、家庭において仮設での生活体系はもろもろだが、写真のような子猫は躾をすれば手はあまり掛からないという。私も一人だけになったら、考えたい。
昨夜気になり方から連絡が入った。被災直後の仮設の庁舎で再開した方から電話だった。人との偶然の出会いはその人が自分に必要だから、自然と繋がりあえる。と今感じている。それは人に恥じない行動を続けている事で、そうした偶然の出会いにつながる。その方ら今回の津波で殉職した、地元の兄貴的存在の話を偶然にも菊事ができた。ビルの避難場所となっていた「松原住宅」、消防署員として「6mの津波だったらホテル観洋の方に逃げなさい」との指示を受けたという。このビルの高さは4階建てで14mはあるだろうか、それでも6mの津波で逃げなさいとの警告は、防災面でも消防にはこうした「被災防衛策」があったと思う。「行政の2mの浸水深」が基準で、避難しなければいけないなんて言う。行政のマニアルで行政の当時の結団を正当化しようとするトップに、行政執行部の一部の発言に住民すべての「命を守る」という観点からも、この町の体制の不思議を益々増加させる。その方も松原住宅は解体すべきという。私は残して後世につたえる構造物として、一つだけでも残すべきと考えているが、「防災庁舎の鉄骨」はない。
日本の平均寿命の女性長寿の国の神話が崩れつつある。今回の「東日本大震災」により、多くの高齢者が犠牲となった。その為の平均寿命が下がったのかと思ったら、20歳代の女性の「自殺」が起因していた。就職難が原因という。政府は国の今と未来への対策をする。果たしてその対策が万全かと言うと、何の成果も結果もない事がこれで解る、自国の国民を守れない事で、「国際貢献」の推進を減らしても、悩む若い国民を守る近々の国策が必要、なのではと思う。被災地の直ぐしないといけない事は、町民を町に戻す事で、この部分で町の行政の維持へとなる。戻すための町づくりを進め、町税の確保が自治体の根底にある。誰しもが判断できる事ながら、その部分が人口流失があるのに、復旧復興、観光の維持・建設の労働の場確保など、一部の町の維持でしかない。ライフライン・町基盤整備が終わった時には、若い町民がいなくなってしまう事を、多くの町民が懸念しているのに、行政の職員も痛みを共に背負う意識が必要と思う。働きたいのに働けない苦しみを、共有し今の苦境を脱出していかないと。さなみに女性の長寿国は「香港」になった。

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2012
07/28

癒し


5時から英国オリンピックの開会式が始まった。父は時間前からテレビを見ていたようだ。5時から二人で無言でテレビを見つめる。珍しく母も6時から起きて家族全員で、オリンピックを見る事は56年間で初めてで、今回の大震災がこんな状態を作ってくれた。
昨日は少年剣道の日、6時半からの定時の始まりをこの日から励行した。防具袋を開けると何やら白いものが、「カビ!」一週間前も暑い日で大分汗をかいた記憶がある。忙しさに怠けて道着を干すのを忘れた。朝6時から道着を洗う、道着からは藍色と汗が、どっさりとタライに、カビも洗えば大丈夫だし、体も洗えば綺麗になる。染みついた「私欲」「悪行」は決して消えなくはないと私は信じている。しかし、裁判所での犯罪者の姿には、嘆かずにはいられない光景が、裁判所の加害者の様子に見える。こんなにも人間は醜い動物ではないと、これまで私は思い生きて来たが、悲しい人間の姿が両極端にいる、被災地の実態を支援観光で来る皆さんには、解らないだろう。「ほら、その人!」。
昨日は我が家の菩提寺の「大雄寺」さんに、お盆の事で出かけた。玄関には写真の猫の姿があった。親猫に寄り掛かる多くの子猫、この場所が一番安心できるのだろう。囲まれた団ボールの中には母猫のお乳に4匹の子猫が、「しゃぶったり」「横たわったり」、こんなに生まれたの? 主のお寺のおばあさん「いらない!」と言う、10匹余りの子猫の今後に困っていた。「誰か欲しい人いない」と言う。私が玄関に座ると子猫たちが、興味ありげに近寄ってくる。犬猫の動物が苦手の私でも「癒される」。仮設での独居生活者・老夫婦など、寂しさの癒しにと私は思う。飼う事に制限もある仮設生活、如何にかならないものかと思案する。「保健所行きはあまりにもかわいそう」と二人で話す。生かすも殺すもどちらも悲しすぎる現実を前に、また二人で悩む。
日本は95番目の行進となったロンドンオリンピック。「被災地に元気を」と口々に言う。その元気が「自立」へと向かう事が今、被災者に一番必要と思うが、現状を見るとまだまだ先になりそうだ。その時に「南三陸町」はどうなっているだろう。私もまだ一歩一歩と言い続けているかもしれない。私個人は何もせず待つ事は・・・と言う事である。

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2012
07/27

記録


松原住宅も昨日解ったが解体が進んでいた。歌津地区も旧消防署・新しい歌津消防署も解体されていた。歌津は被災した大型建物はすべてと言っていい程が解体が終わった。
志津川地区はと言うと、防災センターい未だにそのままながら、公立志津川病院は東の4階部分、そして患者・職員の多くが津波から逃れた、西の5階が昨日そのそびえ立つコンクリートビルが解体され、囲むフェンスから見えなくなった。
公共の施設が「津波の脅威の痕跡」が何もなくなって行く事に、後世に伝える遺構としてすべてが消えるのは、被災者の心のケアと問題として解体は欠かせないが、「東日本大震災」の記憶の風化となる事にも繋がる。しかしながら、最後の最後まで防災センターの悲劇の構造物が残り、こうした考え動きとなる事を「目論む輩」がいないでほしいと思う。
松原住宅は同僚議員が言っていたように、あの海沿いに残し津波の脅威としての残った建物として、あのままでも良い気がする。あの場所では誰も被害者を出さず、屋上では志高の卓球部員が津波から命を守った所でもある。住宅の自治会長の大地震後の行動が被害者を出さなかった。
行政の機能は限界にきている。多くの問題を前に、後で「こうすればよかった」と言われないよう、今を着実に検証し対応していかないといけない。私は復興復旧へ進んでいると思うが、南三陸町として、志津川らしく歌津らしく、震災からの再建がされているかと言うと、疑問を多々感じる。それは多くの住民からの声が聞こえてこないからである。夏祭りが今週あるが、あの志津川の「熱い夏祭り」には程遠い感がする。9月に敬老会もホテル観洋で開催を予定している。この大震災大津波から生き残った、多くの高齢者の笑顔がある事を願いたい。
今日も仙台への用事がある。来週の月火は東京で広報の研修会があり、2日間この大好きな町を離れる。年老いた両親も現在は体調が良いみたいだ。またお盆の8月を迎える。

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2012
07/26

消えてゆく


昨日は仙台で「防災」についての講習会がありました。山元町の山下中の渡辺校長の被災後の学校施設は、重要な避難場所となる事を話してくれた。また、行政への強い要望を学校から示し、700名の町民の避難所の活動を、きめ細やかに説明し今後の防災のあるべき姿を発表した。しかし、卒業式だったこの日、下校した生徒の5名が犠牲となったと話す。
二人目に防災アドバイザーの渡辺氏の話では、「みなし被災地」と言う言葉が心に残った。南海トラウトでの南海・西南海で発生する津波は、高知県のある地区には30mを越える津波の襲来を予想する。今は大丈夫でも「ここまでは来ない」と予想する地区に、「防災集団移転事業制度」を適応させ、今後地震津波発生前に高台移転を進めるべきと政府に訴えている。「想定外」と逃げる政府・自治体トップに、提言・提案をしているが、現実化には大きな財源という壁がある。また、岩手県宮古市の庁舎が川沿いにある事を、明治・大正・昭和の大津波で何を学んだのかと言う。我が町とてこの事にあてはまる。そして地震の最高は昭和35年の「チリ地震」がマグニチュウド9.4と最大と再確認した。
九州の異常気象の発生は、激甚法・救助法による、「復興交付金」が充てられる。被災地は復旧復興の資金は国から回されるので、必要事業費を要望し資金を確保する、国は全面的に支援してくれるという。しかし、税金であり限られた予算内での充当がある。
地核の連動が今活発に起こり、大気の異常も地核異変が影響していると言われる。富士山の活動や「桜島」の小規模噴火が次第に大きな変化をしているという。1000年にい一回と言われているが、今また起こっても不思議はない。決して不安を助長している訳でもなく、防災は普段、何時来ても対応できる体制だけは、各々が「自主防災」の意識を常に強く持つことで、家族・自分の身を守れる事になる。
二つの質問に答えたい。「議会中継は」の問があった。9月からネット配信が始まると聞いている。二つ目は「昆野牧人」の事を教えてとあった。牧人は私の同級生で、一か月前か新聞に死亡の身元判明で載っていた。気仙沼小の教員をしていたのは10年前頃だろうか、事情により京都へ、帰ってきて子供たちの支援に生まれ育った南三陸町志津川で活動をしていた。自分も病気と私には告白してくれた。今回の津波で両親・兄夫婦・甥と共に犠牲となった。これから一緒にやって行こうと言ってた矢先の事だった。
写真家「立木氏」が写真を送ってくれた。被災地のありのままの生活、我が家・我が社を撮ってくれた。その自然の両親の姿は、「遺影」としてもイイくらい、生き生きしていた。
今日は気仙沼市に二回足を運ぶ予定です。する事がいっぱい! 私は生きている。今日の写真は晴天となった荒島とカキ筏が朝日に輝いていた。

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2012
07/25

夏祭り


昨日の夜中、高校生からバイキング・花火する場所ないですか。と連絡が入り「復興ネットワーク」に電話を入れた。週末は夏祭りがありその活動で忙しいといい、さんさん商店街が夏祭り会場で、「バイキング」も行いますとの事で、ここへ行けばと提案した。
今日天王前のセブンイレブンで写真の夏祭りのポスターを見つけた。歌津・志津川の開催に400万円を補助し、今年から開催となるもののホスターは今日初めて目にした。被災町民を含めた南三陸町の皆さんに、震災からの復興に向けた姿を全国に発信するために、感謝を伝える為の開催と私は思う。しかしながら開催場所は「さんさん商店街」しかなく、「復興市」と題されていた。シャトルバスを活用し多くの町民の参加を目指すのだろうが、28・29日の二日間の開催となる。しばらくぶりの町民同士の再会の場でもある。観光主体にならない事を願いたい。町あげての行事は今、アリーナと商店街しかなく、一日も早い住民の帰還を願うばかりです。
マリナーズの「イチロー」がヤンキーズに電撃移籍した。世界中の野球ファンが驚いた事と思う。「昨日の友は今日は敵」となった、ことわざ的には逆ながら、これが大リークでは特別な事ではない。プロの洗礼そのものの姿ともいえる。ヤンキーズの若い選手の活躍の場をと、ピッチー二人とイチローの考えの交換トレードとなった。ヤンキーズはこうしたトレードが多いという。名選手が先がなくなりつつある時に、お金をかけないで獲得する事が、今までも当たり前のようにあり、今回もこれに当てはまるという。38歳でのトレード、この部分を払拭するかのごとく、一打席目でヒットそして盗塁と、イチローらしさを出してくれた。益々大リークでのプレーが楽しみだ。見習える自分でやれる事として、道具の手入れを毎日欠かす事がない。これは真似ができそうだ。だが彼の「スポーツマンシップ」は神業とも言える。
昨日の県職員の対応には頭が下がる。常々町職員の精神的なケアを心配と言う、行政も職員は多忙が嵩み精神的に厳しいと話す。しかし、宮城県職員も同じだと思うが、昨日の一つ一つの事務処理の真剣で確実な態度・行動に、心地よい気持ちにさせらた。大変な作業ながら来社した二人は、笑顔を欠かすことなく、こちらの厳しい注文・事情を考慮しての仕事だった。こちらも真剣に向き合わなければならない気にさせられた。同じ公務員ながら教育も精神も違うのだろうかと思った。
国からの補助事業は、受ける側にも「公金活用」の厳しい審査がある。町の「義捐金」への考え方も改善が必要で、「復興交付金」の使い方にも、もっと厳しく精査し、今何が必要なのかを、行政は考えないといけない。「数の論理」での民主主義を主張していると言うが、行われている現状はこれに値するのかと、多くの疑問を持つ。
「宮城県職員の姿」から公人精神を学んだ一日となった。補助事業の内定の公金の助成は、これからが大変である事を理解しあたって欲しい。

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2012
07/24

町瓦礫救済


日曜日の朝に戸倉地区の「第二瓦礫置き場」が現在どうなっているのか見に行ってみた。折立からの戸倉小学校は被災のままで残り、体育館の瓦礫姿は解体され、あの津波の猛威を感じさせる瓦礫の鉄骨はなくなった。しかし、小学校前には未だに集められた瓦礫が残る。
戸中前を通り水戸辺の峠を越えると、水戸辺川の橋から山の方向に写真の光景が見える。入口には瓦礫が新たに運びこまれ、今後の焼却にまわされるのかと思う。新たに二本の橋が建設され、ゼネコンの力の大きさを感じる。確か「清水建設」との数社の建設会社の共同体で、焼却プラントと瓦礫の分別の場所が区分けされ整地されていく。秋にはプラントが稼働となると思っている。
上沢前・在郷は水戸辺川沿いに家々の並びあった。川の両側には田畑があり山裾には大きな農家の家が点在していた記憶がある。私の友だちの家もあったが、今はその場所にさえ近づけない。この場所も入り江の奥、そして陸地の奥の奥まで津波は押し寄せ、まさか「ここまでは来ないだろう」と、多くの住民が津波により死亡した。そこに今、町にある瓦礫が集められ焼却へと持ち込まれ、津波での志津川市街地に点在していた瓦礫が、減少しているのはこうした場所の移転があるからである事が、現地に多くの瓦礫がある事でわかる。清水小学校の校庭にあった自動車の残骸も、無くなったと思ったら別な残骸が又置かれていた。町内の各種瓦礫の集約が見られた。天王前のタイヤも近々現在の場所から移転されると、都市計画策定委員会での書面での報告があった。
今日は県からの補助事業の助成の確認に職員が来る。我が社の場合はすべての設備が完了した事への書類と機械の搬入がまちがいなくされているかと、見積・領収書の額を調べに来る。現在「5万円」の差額がある事に対しても調査聞き取りをするという。
今、事業補助の決定となった町内の「62社」もこれからが大変だと思う。建設の場所の確保、建設会社の確保、工場建設の資金の確保が初めにある。それが全て期間内に完了して、現実にかかった資金の書類等のまとめなど、資金が補助され支払となるまで、今後がまた大変と私は思っている。
「夏休み」に入り通学バスの時間が変わったのか、現在は会社の隣への学生の集合が一時間遅れとなった。この夏期の頑張りが、後期の活動に結果として現れる。熱中症は今年6千件が発生し10名の死者が出ている。体調管理のもとでスポーツに取り組んでもらいたい。

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2012
07/23

お盆


歌津地区は志津川と違う動きが沢山あり、志津川に住んでいての状況では、起こっている事が掴めていないのが現実です。昨日は国道45号沿いから、歌中裏や樋ノ口・舘浜など、見る範囲では何も変わっていない。しかし、「升沢」の山の造成開発には、奥までは見渡せないが、未知の場所として今後発展の可能性を感じる。伊里前市街地が嵩上げやバック堤防・防波堤など、多くの防災施設の設置で、市街地の再建は難しい。升沢は津波は襲来したものの、歌津地区の繁華街となり得る場所は、ここしかないような気がする。
樋ノ口の造成を予定する場所は半年以上が経つのに、赤土がむき出しのままで、雨での赤土の流出が地域で問題ともなっている。町から遠くにある事が遅延の理由なのだろうか。
昨日は小学校・高校の金管やブラバンの地区大会が、登米市「水の里ホール」で開催され、知人の娘さんの伊里前小が県大会を出場決め、志津川高校も県への道を繋いだ。剣道の戸倉の教え子も今は音楽部で活躍している。人を思う心を持つ素直な優しい学生になっていた。三年生という現在、進学受験の道と聞くが高校三年生は一回しかなく、悔いのない高校生活にしてもらいたい。
現在まだまだ目の前には多くの壁があり、安易には乗り越えるのは難しいが、その達成には多くの人たちが「笑顔」がある。その喜びの顔を見るために頑張りたいが、独りよがりでない事を確認しながら、周囲の人たちから認められ支持されての行動をしていきたい。
今、「夏野菜」を多くの人たちからもらう。三人家族なので食卓に必要な量は限られ、無駄にならないように毎日、食べられるよう色々な料理で食べるようにしたい。だが、仕事場から帰ると家では何もしたくない。朝、五時前に起きたので冷蔵庫の残り物と、いただいた「キャベツ」を入り、煮物にして朝食として食べた。旬の野菜「美味しい」に決まっている。
今日は書類の整理とスポ少の事務処理と、年初めからの借金を支払う。私だけでなく被災地での残った商店の経営者は、普段の数倍の労力と時間を要する。何もできないでいる事の苦痛と、何かをする事は大変ながら、余計な事を考えずに仕事できるのは、前に進める気がし将来への希望がある。この部分をぜひ共有・共働したい。
今週は仙台に二回出かける。そして我が社にとっては大きい仕事と言える仕事の納品と、従業員への給料支払がある。来週の30・31日は東京に出張となり、追われる日はまだまだ続く。

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2012
07/22

本浜団結


昨年から一年四か月ぶりに本浜地区の皆さんと顔を合わせる事ができた。昨日は袖浜「下道荘」さんに本浜地区の皆さんが集まった。最高齢の方は「皆さんの顔を見て涙が流れる」と話していた。区長は住所の把握に大変だったと話す、個人情報の壁があったと、今回の集まりの実現にご苦労されたと第一声で地区民に伝えた。行政区の積立金の処理や、行政区の存続今後に苦渋の決断を、総会に掛け皆さんにその意見をあおぎ、地区民全員の合意の元にその案件決定した。
最終的に多くの意見議論が皆さんから出され、行政区はここで休止し、本浜行政区は行政の名前を、今後の移転や意向調査の為、名称に関しては今後も残すと、皆さんの合意をもらった。
町から離れ既に南三陸町本浜地区から出る事を決めた方もいて、その理由には体・生活・年齢などもろもろの理由に、「とどまってほしい」「又いっしょに集まりましょう」など、地区の再建への強要など、こちらからできるはずもなく、「また会えるように頑張っていきましょう」と話すしかなかった。
行政区には「七福神舞い」があった、若者たちが「継承したい」と集まった皆さんに話した。地区の会費の配分の残りを「地区民の絆」として渡し、配分された中から今後の活動費にと、手渡す光景に「本浜の絆」の姿が見えた。地区民はばらばらになるかもしれないが、一つの「繋がり」を残せたことは良かったと、そして地域の伝統が若者たちの手により、残せた事が大きい。夏祭りでの「七服地舞い」が、数年後にまた見られる事を願い、3時間ながら短い楽しい一時を過ごした。
事務局は30人程度を予想予約していたが、実質的には50名を超える行政区住民が集まった。87世帯から、津波により10名前後が亡くなられ、残った84世帯の7割近くが集まった事になる。志津川市街地の他の地区ではなかなか集まる事が難しいという中での、状況下でのこうした多くの集まりになった事、役員の皆さん二感謝を申しあげたい。
集まった方でまだ私の役割の、行政区の高台移転などの意向調査、未だだった20%を加えられた。5割の一緒での東・中央地区への移転を確認できた。その他にも1割の町に残る人、町外へも1割、思案中も1割だった。後は世帯が無くなった方が3世帯と高齢者の施設での入居者など、9割強の把握に至った。「下道荘」さんへの無理なおつまりへの協力には、地区皆が感謝の言葉を述べていた。

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2012
07/21

故郷


ショッキングな一日となりました。夕方に「三一会」私たちの同級生の会の、「再会」の機会を事務局が設定した。私は子供たちへの剣道の指導があるので、30分ぐらい参加し、いつもの仲間数人と話すことができた。
「俺さ住民票を登米市にしたから」と言われた。仲間のみんなは南三陸町の住民のままで、みなし仮設を含めた仮設に入っていると思っていた。選挙権を言うのではなく、「共にこの生まれた故郷でずーっと生きよう」との意識を持ち、被災後も頑張っていると思い、一時の隣市での南三陸町住民としての生活がなされていると思っていた。
昨日も知人の登米市への住宅建設など、仲間が遠くにいってしまう感覚があった中で、昨日の会話があった。ショック!
「都市計画審議委員会」の会議は、都市計画地区に東地区を決定するという決議が審査され、決定し県へ伝えられる。一日も早い仮設からの高台移転を進めるためにも、一歩づつ手順を踏み居住区の確保が今求められている。そこに移住を希望する住民の意向に、「戸建希望」が132世帯、「災害公営住宅」に454世帯との報告に衝撃を受けた。これは志津川の制限区域の50パーセントにあたる事でなおさら驚く。土地希望がこんなにも少ない事と、生活が厳しい事への住民の防衛への対策が、公営住宅を希望している現実が示された。議会でも戸倉地区の住民移転では、100世帯が戸建で50世帯が公営住宅希望と現在の戸倉地区の意向調査が報告されていた。市街地と地域による居住環境の選択への違いが、どんな原因なのかもっと深く調査をしたい。
こんな状況から考えても「南三陸町」の再建は本当にできるのかと、行政も議会も「復興計画」が机上の議論でしかないのかと、将来への不安がつのるばかりだった。
田尻畑の大規模な「菊栽培工場」の建設の落成が今日あったと、会議に先立ち町長より報告された。水産業・加工工場の再建は現在進み、市場近くでの再開が現在あるが、商業・加工者は「高台での工場再開」を望んでいる事も昨日知った。これぐらい今回の津波被害と怖さがあることに、みんな同じなのだと実感した。
住民から「今回の災害を思い出したくない」という気持ちがまだまだ根強い事を昨日知った。災害を風化させない事や被災者し死亡した人を忘れない事とは別に、こうした亡くなった方への鎮魂は皆がもっているものの、この忌わしい悲劇の災害を早く忘れたい方がいる事も、忘れてはいけないと解った。今後の活動には慎重にあたり、こうした言葉には真摯に耳を傾け、丁寧に答える事が必要と思い知らされました。

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2012
07/20

太陽光


原発の問題が大きな社会の動きとして今あり、「原発をどうするか」が国民の中で議論されている。二分化と言うよりも廃止が大勢を占め、原発による利益をもらっている会社・自治体の力が働き、電気会社の「電気量は会社が決定かる」という、独占的な料金体系の経営の奢りが、いまだ消える事無く経営存続にあの手この手で、国会議員にも官僚の影響力が掛けられている。「自然エネルギーの議論」「原発の安全性」についてもっと、国民・電力使用者と議論すべきと思う。
「自然エネルギー」として第一に考えられるのは、ソーラーパネルである。南三陸町では津波被害の「塩害」の杉の「木質バイオマス」が提案されているが、活用までには至っていない。
入谷地区の南三陸ロウソン入谷店ができて、半年ぐらいになるだろうか。初めて昨日来店した、店舗の脇にはソーラーが設置されていた。電力の補充への自然エネルギーの活用が大手企業で太陽の自然を利用している。しかし、設置には補助金があるものの、設備設置にはそれを大きく上回る資金が必要で、設置への資金が支払終わる頃には、パネルの消耗によるメンテなどで、取り換えなどの時期となると聞く。自然エネルギーの活用には政府が取り組むべき政策で、民間では資金が大きくかかる事が難点でもある。

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2012
07/19

素晴らしい自然


昨日は議会広報委員会があり、町民のみなさんには是非「議会広報みなみさんりく」をお読み頂きたい。読みやすい広報に努め、活動や町独自の住宅再建支援策など、今後の町民みなさんの活力に繋がる事を掲載しています。議員個人の活動は「一般質問」にあります。また、町民の声ではお二人の個々の町議会への思いや考えを述べています。8月1日の発行となります。テレビやこうした町よりの情報には、今後の生活にプラスになる事も必ずあります。文字に親しむ事は頭の体操にも良いと聞きます。
午後は労働基準協会の総会にも参加して、労働災害が平時の三倍になったと報告がありました。復興が進む建設業だけでなく、製造業でも労災が増えていると聞く、休業から再開に当たっての事故も多いと話す。我が社も新人が務めて4か月を迎える。危険な機械にはセンサーや操作注意の記載が至るところに表示されているが、時々けがの回避について言うことは、「機械はどうなってもいいから無理はしないように」と強く話をする。再建しても従業員の怪我は復活しても、再開の気持ちを削ぐ事に繋がる。石巻では一人が死亡しているとの報告もなされた。
気仙沼振興センターから来週、現場の機械の設置確認にくる。県の補助事業での書類申請から最終確認まで、6回以上の事務所へのおもむきや書類の提出報告がある。町の事業所での申請は商工会・民商など、加盟している商工事務所が行う事が大部分のように話を聞く。私は「挑戦」のために試練として、こうした事に他人任せでなく、自分で震災後取り組んで来た。機械設備も政策金融公庫への書類申請は、石巻支店が被災していて、仮の事務所が商工会議所に併設していた頃から行動した事をいま思い出す。申告もすべての資料が流失した中で、税理士も被災してしる状況で、先月末に滑り込みで23年度の申告を済ませた。22年度は6か月延長の猶予期間があり、年末に申告の多くの緩和策により終わらせた。両親の高齢で自分一人しか頼れなく、知人の協力によりここまで走ってこれた気がする。
昨日は午後3時頃に西の傾く太陽の方向を考え、素晴らしい緑の景観が美しい、「入谷林際地区」の写真を撮りにいった。小さな盆地のようなこの地区は、小さな集落が肩寄せあり長い間ひっそりと生活を続けている。大きな災害もなく安定した環境がある。現在国道398号線沿いの開発が進む、三陸道のインターも小森地区に建設がすすんでいて、物流の拠点がここに有利に今後展開する。現在も多くの事業所の出店が土地の整地現場を見てもわかる。
今日は午後に納機にメイカーが来る。復興支援への感謝の気持ちを伝えるべき機械といて購入する。知人も登米市に家を建てている事を昨日知った。朝には浜地区の三世帯が登米に移転を決めた。町には行政には何の人口流出の手立てもない。

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2012
07/18

みんなの海


三か月ぶりに大森地区から、市場のある「旭が浦」に出かけた。水産業は多くの補助事業の助成支援を受け、国の後押し全国からの援助を頂き、早く以前以上の再生を遂げているように私は感じる。しかし、町の復興は水産漁業にかかっていて、生産と仲買そして販売ルートの確立は欠かせない。水産の商店の事業者の貪欲な再生意欲が、震災のこの地に今は必要に思う。私が仲間・知人に再生への働き掛けには、皆がしり込みしている現実で、こうした今後への生きる努力が、新しく生まれ変わる「南三陸町」に必要と思う。
被災しあれから何の変化もない、我が社と自宅に行ってみた。瓦礫のまだ多い「松原公園」から再建された大森地区、そして仮設の市場までの道路が写真の光景です。新井田川で橋の破壊があり道路がズタズタとなっていたのに、今は一直線に「道」ができていた。しかし、南町・本浜・大森の両側の被災地の状況は、何もすべてが変わってはいなかった。
大森地区の二棟の町営住宅の解体が進み、四分の一を残し終わろうとしていた。ここに住んでいた町民には多くの思い出がここにはあったはずなのに、他所に移り何も知らないうちに想い出を振り返ることもできないままで無くなってしまっている。その他にも公的施設は解体が進んでいる。歌津消防署・自然活用センター・警察宿舎など、ブログで紹介していない、南三陸町にあった建物が、ここ2~3か月のうちに解体された。8月に防災センターもその予定に入っている。一般の住宅や施設もまだあるが、この部分が無くなると、町は「まったいら」となる。市場の復活はこれから比べると、復興への大きな歩みに別世界に見える。
市場には「造船所」の併設も見られる。海の復興には欠かせなく、町外で造船する漁民も多いが、地元の造船会社も二社あり、一社は鉄骨で現在工場が作られている。当所は浸水域であり、満潮となると会社は水中に浮かぶ孤島のような感じだったが、埋め立ても進み、安定的な造船に大きく舵がとられた今の状況が垣間見れた。
ブログでも紹介した漁業者の復活の拠点の「番屋」も現在は消えていた。市場には従業員の姿も多くあり、人手不足の町内の再建事業所にはうらやましい限りである。
未知の可能性を秘めた「海」、町民皆が潤う町形成が生まれるように、行政の働きかけをお願いしたい。みんなの「海」だから。

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2012
07/17

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連休の3日間は被災からの書類を整理した。その中に仙台での被災地の状況を伝えた、「泉松陵高校」の講演のCDと生徒の受講の感想の資料を見つけた。
「命の大切さ」「仲間を作る」「将来を考えた行動」「人のために何かをする」など・・・、多くのことを知ったと言う。昨年の12月のことながら、町のこと・会社のこと・家庭・家族のことに追われた中での、時間に追われた頃の事だった。こうして二日間の来客の合間の半分づつの事ながら、昨年の事を多くの資料で振り返ることができた。
しかし、まだ通帳の復活をしていないものもあったし、書類の提出も半年もたつのに出来なかった。など、被災後の混乱の中で次々にやらなければならない事に、自分の能力がついていけない現実を確認した。
今月もあと半月多くの会議や集まりに追われる予定がカレンダーに記載がある。これにまた新しい事が入ってくる。トラブルや予定の見落としでの、相手への迷惑をかける事が自分としては許せなく心配だ。
最近は9時間前後の睡眠をとれている。時間がもったいないと今までは6時間前後で良いと思っていたが、体の疲労感が抜けなかった。年齢と言うと先輩たちに「何言ってるの」と叱られる。とにかく私の周りの先輩たちはまだ若い、父の姿は私の大きな力である事を、毎日再確認させられている。
一昨日細浦の叔母のところに行った。帰りに元清水小学校の前を通ると、被災した車両が校庭いっぱいにおいてあったのに、すべてが片付けられていた。
この場所には被災後の行政の混乱があった。仮設住宅建設の第一候補として町はここを県に示した。仮設の建設には規定があるはずで、海から500mで津波の被災地であるこの場所、県からの場所確認で課長が示すものの、一言「だめです」が、テレビで放送された事をいまでも思いだす。混乱とはいえこの判断に「海の怖さと甘さ」がある。
現在「戸倉ゴルフ場跡地」に高台移転が進む。当初の誓願陳情で1500名以上の4地区の高台希望者があったが、現実ふたを開けると、公営住宅が50戸と土地付きが100戸で、見込んでいた250戸には程遠い、4地区の枠をとったのに、この数字は戸倉地区民の流出がある気がする。折立の知人に聞くと、海で生計を立てている人は残るけど、そうでない人はこの場所での生活にはこだわっていない、と。土地の「等価交換」をなぜ行政は国に町として訴えないのかという。
伊里前地区も240世帯のうち、2か所への移転は110戸にとどまっていると言う。この問題点の検証よりも、早く土地取得し移転を進めたいがあり、「三陸道建設」「水産業・漁港整備」など、復旧復興へのやらなければいけない事が多すぎて、住民の真の意向や生活状況の改善には、行政のやるべき仕事が多すぎる現実が今ある気がする。
今、何をするべきかもう一度考えるべきではないか。知人の言っていた「町がなくなる」と。

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2012
07/16

悲しみの連鎖


昨日は父親を仮設のお風呂に入浴させた。今朝日課となっている父の体重測定で、一キロ体重減ったと、昨日の体のアカが一キロもあったとと言う。一か月に一回の入浴でいいからとの言葉に甘えてのことだが、「お風呂に入ると体調いい」と話す。月に三回ぐらいは入れようと思う。今日は母親の「入浴サービス」の日で、町のサービスが始まったと父が言う。以前は登米市との広域連携で登米市からサービスが来ていた。母は月に二回の入浴を受けているが、今までのヘルパーがこの部分に回されたのか、今まで来たことのないヘルパーさんに、まだ慣れていなく長い間お世話になった方がイイと言う。「優しい言葉」を介護しながら下さった事が、大分嬉しかったようだ。
写真は昨日の3時頃病院の「芳賀商店」さくの店の前から写真を何気なく撮った。この場所には同級生の家が基礎だけ残り、そして芳賀さいは最後まで店を守り、津波により死亡した。お母さんは「慈恵園」には亡くなられたと後で知った。この場所からの防災センターと、この辺の地区民が避難した高台にある志津川小学校が見える。役場庁舎からこんなにも近く、避難の指示があれば大人なら10分とかからない。津波の速さは時速100Kにはならないだろう。雲仙普賢岳の火砕流が「時速100キロ超」であり、予測はしていたものの多くの報道機械・研究者などが犠牲となっている。比べられないものの「逃げられなかったのか」と、この写真の構図から感じる。この日も防災センターには多くの人影が見られた。
「ふるさと納税」が6000万円があったと報道された。500万円の納税者がお二人もいた、大変町にとってはありがたく、多くの町民に有効に使っていただきたい。私としては南三陸町を担う子供たちの、「教育支援」に活用していただきたい、学力向上や世代間交流や国際交流など、友達づくりや仲間の助け合いなどの、教育費に充ててほしい。今までの行政の使い道には疑問もあり、納税者の要望もある、今投資的なものに充てるべきで、一部の人たちだけのプラスなる使途となんしては、もうやめるべきと思う。
滋賀県の大津市の中学校校長のあの話し方・説明に、自死した遺族への「心遣い」に欠ける態度と謙虚さ・真摯さの何物も感じなく、怒りとこんな学校に「子供を通わせたくない」と思った。子供は居ないけど、教育事情の複雑な「保身体制」があると専門家はいう。私も「不登校」の相談されるが、「こんなに子供・家族苦しむなら学校なんかいかなくても」「転校したほうが」とアドバイスする。参議院のヤンキー先生が言う。「学校は戦場じゃない」と。加害者の親が「私の子供がいじめにあったり自殺したらどうするんだ」と、父兄会で話したと言う。被害者の親は「真実が知りたくよろしくお願いします」と言った。どっちが加害者で被害者なのか。子供は親の背中を見て育つと言う。「モンスターペアレント」の見極めも学校には必要である。
せっかくの連休ながらこんな事を考えている私です。

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2012
07/15

できる事から


15日の日曜夜中2時に目覚めた。それは昨夜7時半に布団の上に横になったら、そのまま熟睡しこの時間に起きた。テレビのNHKでは「被災地の瓦礫2000万トン」の現在の状況を放送していた。私は二回目の視聴となったが、南三陸町は岩手県大槌町より瓦礫の移転は進んでいるが、処理はこれからである。テンビでは瓦礫焼却炉の「火入れ式」が放送されていた。県内11個の焼却炉の建設焼却は、あと3施設の本吉・気仙沼地区を残すだけとなった。
今日の南三陸町はくもりながら雨は少し、途中にある「公立志津川病院」は西病棟に解体が移り、一部六の部分まで、バックフォーのアームが伸び、コンクリートの建物は壁がはがされていた。毎日の光景ながら、目に刻みこんでおきたい。
雨の中でホテル観洋前の国道45号線の、「ゴミ拾い」の二人の女性の姿があった。見ると60歳前後の方のようで、カッパ着にゴミ袋と撮むハサミを持って、一個一個空き缶を拾っていた。誰に自慢するでもなく、誰からも賞賛されようとは考えない、その行動こそ議員以上の行動ともおもれる。この謙虚な行動こそが、欠落している人間が多くなった気がする。
朝は冷蔵庫の中の古い物を総て捨てた。着るものをフリーザーの上に重ね置きしていた物を、昨日買ってきた組み立て式の収納ケースを作り、綺麗に見えないよう整理した。そして、スープを作り食した。
連休は書類の追加のまとめをする。来週は会議が四つと納機があり、本浜地区の被災後初めての寄合が、袖浜の「下道荘」で土曜日昼間あり会費はなしと言う。どんな懇親会になるか、おとなしく見てようと思う。
写真は林のカーブから、気仙沼線の下越しに「カキ養殖の樽」を見た、秋に入ると南三陸町志津川の「ブランドかき」が水揚げとなる。密植が今はなくその成長の速さと、湾の豊富な栄養分は、大水がでて海水と交わり、プランクトンの適度な発生で、美味しいワカメ・カキ・ホヤが育つ、「宝の海」が目の前にある。

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2012
07/14

鹿いたよ


剣道の教え子が進路の相談で時々会社を訪れる。こないだ学校の帰り「鹿が福祉の里にいたよ」と言う、「嘘だべー」と話すと、シャメを会社のメールに添付してくれた。本当だった。瓦礫の町になっても、自然も生き物もこうした環境から、間違いなく生きるために再生をし帰ってきてている。南三陸町の住民もこの町を捨てないで帰って欲しいが私の願いです。今直ぐでなくてもいいです。またこの町で会いましょう。
昨日は25年前に「志津川剣道スポ少」の基礎の黄金期だったメンバーとあった。小山光夫先生の七段取得の祝賀会の参加依頼に快く答えてくれた。「また剣道始めますから」と言う。こんな嬉しい言葉を聞けるとは予想もしなかった。志津川剣道の原点に戻れる事を祈るだけです。
高台移転の現状を知らない被災住民が沢山いる事を、多くの人たちと話して感じる。「今後どうなるのかと」、移転場所・建設資金・二重ローンなど、目の前には解決するのに難しい問題が何個もある。まして仕事をしながらの再建の構想を考えるには、厳しい生活状況がある。行政ては「「なんでも相談してください」と言うが、どこから始めればよいのか、この時点から悩む。
今日も週末大勢のボランティアさんが来町している。今日は大手企業の証券会社の新入社員の研修で、260人ぐらいがバスで5~6台でやってくると言う。町内には宿泊ホテルは一か所だけで、週末の親戚が法事などできても、泊まれる場所のないのが、現在の町民の悩みの種でもある。
民間の方の経営の「慈恵園」老人ホームも被災し、再建の構想が一歩づつ進むと聞く。高齢化の一途をたどる南三陸町、早期の建設と入所場所の確保は、近々の町の支援による再建が求められている。

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2012
07/13

海と雨水


熊本県大分県の豪雨は記録的な雨量となった。その陸地に降った雨はまるで津波のような威力を見せ、アスファルトはめくられ田畑は泥で覆われ見る影もなく、「今年はもう終わった」と、秋に向けた収穫の断念と、復旧作業への何に手を付ければいいのかと路頭に迷っていた。
写真は荒町から折立に向かう国道45号線です。こんなにも海が近く、平坦なこの地区の状態が見てとれる。この場所は早期に再生した、銀ザケの稚魚の中間育成の場所からで、ここから300mの場所の西戸地区の国道沿いに、現在建物の建設が進んでいる。自力での再建への取り組みと思うが、依然営業していた「西城魚店」さんである。国道にあり南三陸町の行き帰りの「三陸の海産のお土産」の購入場所として、多くの来町者に好評だった事を、当時の賑わいから感じる。また近隣の戸倉地区の鮮魚の買い物場である。元町議会議長の須藤さんの奥さんとも、よくここで顔を合わせ「頑張っているの」と激励の言葉貰ったた。そのお二人も今回の津波で逝去されたと聞く。何も無くなったこの地からのスタート、ここには多くの思い出があり、建設場所として再開できる事は、私にとっては羨ましい。現在志津川地区本浜町の私の「千葉印刷の原点」での再生は、新しい町づくりの方向性の中で、叶わない願いでもある。今後予想する「宮城県沖地震」からの津波発生の大きなリスクを背負つてのスタートでもある。南三陸の沿岸の津波対策の工事は5年後10年後の完成か、先は今見えてこない。
11日の議会で議員全員にアメリカの学校から、「防災センター」を残して欲しいの手紙が配られた。手紙には今年8月の解体とまで書かれていた。6月の解体と行政では言っていたと思う。解って欲しいのは、この屋上で町の職員が30名亡くなり、その他にも避難した町民がここで被災している。この場所の残すべきと言う意義も理解できる。ここで何もなく、職員・住民が総て避難し犠牲がなかったら、皆がこの「防災センター」を残す事に何の異論もないだろう。この辺を理解した上での「要望」なのだろうか。何の裏も「企み」も無い事を願いたい。
南三陸町は「海と川の綺麗な街」、この自然で町民は生かされてきたのだが、この自然を人間が、自然の姿と営み以上に介入してきたことも、多くの犠牲となった原因ではないかとも思うようになった。

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2012
07/12

2011.5.29.6.6.15

2011-05-29 06.06.15
携帯もカメラも機能の凄さに驚く。震災後はこの光景を後世に伝えようと、足と自転車で被災地を歩き映像を撮り続けた、携帯での映像の取り込みも限界があり、その保存の手段もなく、限られた光景をブログで公開・発信している。このデータは、昨年の5月29日の朝六時の6時15分とデータ内容に保存されていた。
写真は「南三陸町魚市場」であり、あの大きな建物の屋根はバラバラになり残ったと思っていたが、写真には鉄の柱が水産資材が散乱した中で、しっかり基礎のコンリクートに鉄骨だけが立つ。
昨日は「荒砥漁港」「にらの浜漁港」など、三港の物揚場の嵩上げの工事の採択が議会でなされた。5000万円以上の工事は議会の承認が必要となるからだ。この二つの漁港も津波により、90㎝前後の沈下があり満潮時や大潮のときは海水で覆われる。来年の3月25日までの完成を予定している。漁業の施設の復旧が町の復活とつながり、震災直後から早期の復旧を漁業関係者は、町に強く要望をした。
小沢新党「国民の生活が第一」と命名された。しかし、国会議員の活動や精神として当たり前の事と思う。論点は「消費税」「原発」ながら、将来の日本の現実を考えると、通らなけれはいけない問題で、先送りは不安の払拭にはならなく、「安定収入」「老後の安定」を考えると、国民が真剣に議論すべきと思う。「マニフェスト」は時代の流れでの変更は、是々非々でもある気がする。
最近は誤字が増えているだろう、「白内症」はパソコンの文字が見えない、お許しいただきたい。手術をするまでこれは続くが、「南三陸町の今」を届けたいと言う気持ちは組んでほいとお願いする。
今朝は2時30分に起きた。テレビで、県内不明者の数を「1479人」と伝えていた。南三陸町の不明者は昨年9月1日で「339人」となっている。海の引き波での不明が南三陸町は他の地区より多いと感じる。この地形が増加となった理由なのだろう。現在時々新聞に死亡者の氏名の掲載されている。
昨日の夜は「南三陸町体育協会」の総会があった。役員担当の役員死亡も把握できないくらい、行政の仕事の多忙があるし、団体や町民の混乱も続いている。

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2012
07/11

番屋

2011-05-07 16.08.58
被災後に志津川地区の漁業の若者の有志が「番屋」に集まり、これからの漁業再開への結代式のように感じた会が昨年5月7日旭が浦地区の一角で開催されていた。
当時の津波での瓦礫の中に番屋が仲間の手によって建設された。建設の資材もない中で、空には大きな大漁旗が力強くたなびいていた。偶然通りかかり会の様子をスマートフォンで撮影した。建物には部屋いっぱいに集まり、これからどうしたらいいか、一人ではできない事も、同じ「志」を持つ仲間なら、きっとできない事は無いと感じた。そして現在「南三陸町の漁業」は間違いなく復活し、前より以上の再生へと向かっている。
滋賀県大津の「自殺の練習」などで同級生を死に追いやった事件があり、教育委員会の会見が何回も放映される「言い訳」の映像に、腹が立った。生徒側でなく教育委員会という大人の「保身」が垣間見られる。「見て見ぬふり」していた先生、一度先生は注意したが後は笑っていたと言う。
大津市の女性市長は学校での以前のあいさつで、自分も中学生時代「いじめ」を受けていた事を告白した。その市長が告訴に対し、裁判での「和解」を市でする事を決めた。
学校での被災地状況は、精神的な問題は生徒・児童だけでなく、先生にもある現実を聞く、そうなると「教育委員会」の存在と活動などの責任は大きく、体制の強化を望む。
宮城県内の求人が昨年の「3.3倍」と言う。被災地三県とも大きな伸びは、「復興特需」でしかない。建設業・製造業・宿泊業の伸びが大部分で、「水産工場」が再建され従業員の募集があり、宿泊は大手の建設会社の、被災地での労働者の宿泊であり、現在だけの求人増加でしかない。労働形態はバランスが必要で、町の形成はこの部分で「町復活のカギ」でもあるのだが、この求人増は今だけである。

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2012
07/10

日の丸

2011-05-01 15.02.19
昨年の5月1日に本浜地区のとある場所にこの風景があった。「日の丸」は日本人の魂であり、「復活再生を皆で頑張ろう」との気持ちと取った。
この場所は新井田川の水門の隣の船揚場で、旧市場の左堤防がこの先にあった。子供の頃は「カニ取」をして「アナゴ釣り」もこの場所から先端で夜中までいた。
水門も見えるがここの思い出は「うなぎ釣り」、子供の頃、最初で最後に釣ったウナギが怖くて、釣り針から外せず家に釣竿につけたままで帰った。祖母が「うなぎ丼」にして食べさせてくれた。その旨さを今でも覚えている。海も川も綺麗で魚・貝など何でもとれた。この頃も堤防の高さがあった。当時は5mで今度は8mにもなる。今後生まれる子供たちの目にはどんな風に映るのだろう。
父が朝、「スタンド小森にできたんだな」と言う。昨日も通過したが気付かなかった。小森には現在国道398号があり、道路がう回となり蛇行する。この意味が分かった三陸道の「高架橋」の足桁の建設の為とわかった。
昨日は議会の「三陸道視察」があった。三陸道の「志津川トンネル」は想像を絶する規模と、工事の現場のゼネコン開始やの日本の建設技術の力に驚くばかりだった。仙台河川道路局の桜田所長の説明で、三陸道は「命の道」として位置づけられ、今後また発生する「宮城沖地震津波」を想定し、今後の津波からの避難地としての、効果も期待されている。
「建設特需」は続くが、海の再建がある。同時進行で住宅地・商店などの、町づくりへの社会経済の形成」で南三陸町の再生となる。
優しくまじめな子供ほど、「いじめによる自殺」となる今回の事件、何とか「自死」だけは留まって欲しく、なにも恥ずかしくないから、誰でも良いから「SOS」で知らせて欲しい!

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2012
07/09

驚異の再生「海」

2011-04-15 10.48.10
被災後1か月後の漁民の活動の姿です。サンオーレには漁船が打ち上げられ、養殖用などの数々のブイが海岸に残った漁民が残ったトラックで回収し今後の養殖再開の漁具として活用した。
あれから一年3か月が経ち養殖は間違いなく再生を遂げ、まだまだ従来の状況とはなっていかないが、一歩一歩「新たな漁業」をめざし、若い担い手が笑顔で働ける環境づくりを町上げて進めていきたい。
漁業の現状は「とる漁業から作る漁業」と現在はなっている。そんな状況の中で漁民の収入はなかなか増加していない。漁民の平均年収は「251万円」であり、サラリーマンはそれに対し「412万円」と、2010年のデータがあり、後継者の定着は厳しい。漁業の先進国ノルウェーは、魚の乱獲の時代があり、水揚げの減少に苦しんでいた。現在は漁獲制限と保護のため、ニシンは10年間も捕獲の中止を上げ、それにより以前の数倍に漁獲は増えたと言う。こうした大胆な政策により、平均年収は900万円となり、漁業従事者も30歳代以下が4割にも達すると言う。将来への後継者確保は安定した収入に比例し、数字的に表れてくる。
漁業権の資格取得は県に管理があり、県は「漁業特区」を被災後に掲げ、民間企業の参入による、新たな漁業体系を模索したが、県漁連と当初大反対ながら、新しく変わった県連会長は特区の複合も模索する事も視野にいれているようだ。反面個人での従前の漁業により、被災後一年目ながら、ワカメで一千万も水揚げをした漁民もあったと聞く。南三陸の自然のエネンギーに無限の可能性があり、新たな漁業の形態も求められている。「オー!カ゜ッツ!}の取り組みを紹介していたが、コンサルタント的な市場把握のプロが加わる事が、成功への道には必要と感じる。
今日の朝気付いた。戸倉小学校の体育館が解体されていた。公共施設の解体は急ピッチで進んでいる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:34 】

2012
07/08

大漁端

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歌津仮設商店街の大漁端の青空の下でのたなびき、復興の風として見えているが、この姿とは別に状況は大変と風の便りに聞こえてくる。
3日前に朝8時前ながらバスの列、昨夜のホテル観洋には20台を超える観光バスがいただろうか、そのバス一部と思うか、被災地のルートとして「防災センター」に3台が並んで向かっていた。一日も早く「復興支援」での来町者のための、鎮魂の場所を準備する必要を感じた。
今日は剣道の「級審査」が歌津中学校であり、「段審査」が気仙沼武道館であった。又、歌津では昨年は中止となった「本吉郡小学校学年別選手大会」が今年は開催された。しかし、志津川からの剣道少年団が参加できない、団員の減少がその理由にある。本吉町も団員不足が団体の大会への出場とはならなかった理由のようだ。
級審査は受験した全員が合格となった。「戸倉剣道は団員が一人と指導者ともに合格し、これから少年団が「復興」と共に再建に向かう体制が整った気がする。
昨夜は介護の厳しさが見え、老々の介護の過酷さがあった。私の手を母親は拒否をし、旦那である父の言う事しか聞かない。父は腰が痛い「難で言う事をきかないんだ」と「パシ」、寝たふりをしていても、何が起こっているかは想像できる。若い当時の「酔っ払いの介護」が、現在は逆となったと、この現実を思い南三陸の民間の「老人ホーム」の復活をぜひ早くお願いしたい。
今日の写真は「こんな復興を」と感じる明るい光景でした。今日来たお客さん「俺が何か悪い事したか」と言っていた。この言葉は行政への何の独自救済策の手立てもなさへの歯がゆさだった。何処にこの怒りをぶつければいいのかと、帰りぎわにこの気持ちがこのままでは消えないよ。と話す・・・

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2012
07/07

復興ふくろう


私の知人の会社で社長は家も総てを流失し、現在前と同じ地区で復興への仕事をしている。地元の被災した町民を雇用して、被災後まもなく新井田ガード下で仕事を始めた。「復興ふくろう」を製作し、被災支援で全国の皆さんに販売している。東京の「宮城テナントショップ」でも好評と言う。南三陸町支援は「手作り商品」が多く、大漁端の帽子・キーホルダ、ホタテの貝を加工したものなど、地元で開発された物を多くあり、「復興タコ鎮」はそのヒット作の代表だろう。
「復興フクロウ」の新しい工房が写真の仮設です。中小企業基盤機構の補助事業で建設し、手狭だった場所から少しの解放された場所での作業をしている。この地域は今後「志津川駅」のロータリーができる予定の場所であり、5年ぐらいで移転を余儀なくされ、まだまだ厳しい事業所の状況がある。
被災後初めて新井田の奥へ雨の中を行ってみた。当時は線路の土手に中型船が寄りかかっていた、その光景を未だに鮮明に覚えている。なぜかと言うとブログで船を海への搬出を呼びかけたら、滋賀県の車のシートペルトの会社の方が見てくれて、私たちのシートベルトの活用はできませんかと、救出支援の声があったからです。温かい全国からの支援の気持ちに感謝しかなく、混乱の中で受け入れ体制が整わず、お詫びした事を思い出す。
この奥はまだまだ広く開けていて、津波最終到達地と思う所は「杉の塩害」がある。初めての見た光景は家は無く、緑の野原に何艘かの船が未だに残っていた。
今回の津波の予想の高さを6mで、リアスの入り江は三倍以上となった結果がここにある。今後の予想される「宮城県沖地震」での津波は7mで、8mの防潮堤とバック堤防、6mの嵩上げで市街地は守れるのかと思う。人間の天災の被災地の再生のエネルギーは、無限の力を秘めている。
市街地の被災地再生よりも、高台移転の早期実現が私の考えといて、今後も訴えて行きたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:15 】

2012
07/06

再スタート


現在は親戚・いとこ・兄弟・友人への、支援の気持ちのしるしは「千葉のり店」さんの、味付けのりと決めている。震災後も前あった店舗跡地で、多くの努力の元で、震災した3.11から4か月目には、営業をしていた気がする。社長・専務の再建への意欲があり、それが「南三陸町復興」の足掛かりであればと気持ちで、現在も志津川仮設商店街で頑張っている。
早々の補助申請での決定は水産業の再生が、被災からの復活と政府は捉えている。あの震災後の混乱の中での、再建の活動は精神的にも厳しい中での事だったと思う。私も今年に入り2月の末に、駆け込みで第三次の補助申請に間に合わせた。今回の四次に多くの南三陸町の事業所が、補助事業を通過内定したというが、これからが大変で、再建への計画内容・土地の確保など、補助金が下りるまでには、多くの難問がその前にある。
昨日は写真家の「立木義浩」さんが来社した。震災の現状の写真ではなく、再建していく人々の姿を撮りたいと話す。テレビ画面の人とこんなに近くで二人で話した事はなく、その人間性に感動した。「写真甲子園」をたまたまNHKの特別番組で見た、その時の画面にいた人が立木氏だった。あの髭の顔の人だった。「私は71歳です千葉さんはまだまだ若い」と、今後も頑張れとエールの言葉を贈ってくれた。
牛舎内の会社工場と、こんなにと思うくらい私の話す姿と、バックの牛舎を、高そうなカメラに収めていた。写真甲子園でも石巻の高校の女性の作品が、トップに入った気がする。生々しい震災の姿ではなく、この環境の中で毎日繰り返される自然の光景で、この悲劇を別の形・角度で表現していると、私なりに感じた。
今日は議会がある。剣道関係の事務局としての通帳も二つ作った。団の規約がないと通帳が作成できないと、「戸倉剣道」は15年も経つが、自分も被災し再建途上の中で、小さい団体の事務管理は大変である。被災地にあり行政の業務指示の厳しさが、今必要なのかと思う。そこまでするなら「義捐金の開示」も、議会にはするべき業務と私は思う。

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2012
07/05

子供たちを守れ


現在「戸倉剣道」は解体の危機まできている。そんな中で志津川地区の指導者の育成にあたる。指導の基本として「子供たちの事を第一に考える」を目標に置く事ができる人を上げる。私の指導の形は「精神的にも強い剣士に」「友達の事を大切に思いやる剣士」「両親と子供の中間に位置し皆で笑える団体」にする事がある。
今週末にある「三段審査」への挑戦に、剣を交えているものの、20歳の年齢差に体力の違いを肌で感じている。剣道への再かかわりは「志津川剣道」にあり、出向と言う形で「戸倉剣道」を引き継ぎ新しい形で誕生した今の会がある。現在は信頼感の希薄を思う。現在一緒に指導している仲間を、「志津川剣道スポ少」再結成の旗頭に今後進めようと考える。昨日も練習相手として剣を交えるも、体がきつい、しかし夜は5時間の熟睡を得られた。
「滋賀県大津」での昨年の中2男性の自殺は、「いじめ」が原因であったが、教育委員会は生徒からの調査アンケートの中身の隠ぺいがあったと、教育委員会で謝罪した。「自殺の因果関係が認められなかった」が理由と言う。「自殺の練習」と称した「いじめ」があり、暴力と「死んだスズメを口に」と言う。こんな現実がありながら、市の教育関係者の児童家族への更なる「いじめ」と感じた。まだこんな事が学校で起こっているなんて。
学校での事故のスポーツが順位で紹介されていた。50件の一位は「柔道」で、剣道が13件と言う事で少し安心した。「武道の中学必修」と言う事で、南三陸町では志中が柔道となっている。怪我・事故の発生防止には、顧問への指導や外部の指導にも注意喚起を図るとあった。私は中学校・スポ少と20年の指導をしているが、大きな事故のない事に、この数字を見て安堵している。
写真はアリーナ内にできた「あさひ幼稚園」で、この建物の「幻想的荘厳」さに驚く、幼児教育から子供たちは両親の背中を見て成長する。

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2012
07/04

地鎮祭


この日は小雨だったせいでテントでの「地鎮祭」だった。わが社の向かいの空き地に家が建つ、津波の襲来を免れた戸倉荒町地区に被災後三軒目ながら、志津川市街地からの移住は初めての気がする。
「お陰様で」と家主があいさつに来た。しかしながらこの地区の空き地はあるものの、ほかの場所への移転の話は一年3か月が経つが、その噂は聞こえてこない。
「町長北海道で講演だって」とある人から聞いた、月曜日の頃なかと思う。昨日は野田総理が仙台に来て、村井知事と会い仙台市内の被災地を回った。テレビでは「高台移転の締結式」があり、副町長があいさつをしていた。藤浜・韮の浜・寄木だったと思う。町長は??・・。
「観測史上最大の猛威」が九州地方を襲った。福岡のある地区では「豪雨と濁流」が家を飲み込んだ。「一時間に91mm」と言う記録を観測した。土手が決壊し家も水田も道路も飲み込んだ。
「年々水量が増えている」と言う、異常気象を日本の多くの地点で観測している。地球異常が起こっているのは間違いなく、火山噴火の予兆なども現実としてあり、自然災害防災の回避は難しいが、普段からの自主防災意識が必要であり、考えないといけない。行政・消防にも住民を守る事への限界を感じる。
本浜地区も地区での高台移転への集まりの通知がなされ、少し遅いが前に進んだ。ずいぶん前から進んでいた伊里前地区の高台移転が、暗礁に乗り上げているとも昨日聞いた。一番最初にやらなければいけない問題ながら、目の前の壁は大きい。
昨日は南三陸町での自治体派遣職員の生活をテレビで放映していた。登米市からの通いで、残業の後の一人での自炊は疲れを癒やせるかと言うと難しいようだ。職員の被災後からの疲労も精神的にもピークをとおり超え、真剣に改善に取り組まないと大変な事が起こる予感がする。

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2012
07/03

再生へ


町内の瓦礫は散在していたものが撤去にスピードを増している。瓦礫は戸倉在郷の「第二瓦礫置き場」に移動しているものと想像する。戸倉地区に私はいるものの、その少しの時間がないのが現実で、毎日時間に追われている。
最近大変ではないが、体の不調がある。眠い・もやもや・寒気そして「目がおかしい」、この原因は把握はしているが、この解消にはまだ時間が必要と、だいたいの予定は立てている。もう一つの原因は家庭にあるのかも知れない。寝不足なのかも知れない。夜中の両親の介護への動きがあり、これは私の家族生活の中で避けて通れない現実です。別居するわけにもいかないし(冗談)。色々生活での短所はあるが、それ以上の長所を今回の震災で私は知り、今生かされているのかも知れない。
最近火災で家族の焼死が世間で続いている。現場検証で判「刺し傷」とかが判明し、「無理心中」「家族間の問題」・・???。との現実がある。今後高齢化が進み、この問題は日本の大問題となっていく。福祉環境の整備と対策を今から取り組まないと、その時がきてからでは遅い。被災地は復旧復興が一番の目標というが、この部分を先送りにすることは、町が成り立っていかない事を、肝に命じておきたい。
「再生へ」との題を付けたが暗い話から始まってしまった、写真は旭が丘団地の登り口に、これまでとは違う大きい建物があった。基礎部分を見ると通常の形ではなかった。浸水域である事が何か関係しているのではと思う。志津川デイサービスセンターのの下にも、震災後にいち早く家が建った。残った基礎を利用してその家の方(大工さん)が建設したと聞いた。行政に聞くと「建設許可は下りなく今後町形成の中で撤去してもらうようになる」との話が今も頭に残っている。
昨日の新聞に「四分の三補助事業五次」が、南三陸商工会で提出協力した事業所が、50%以上通ったとあった。県内では16%なのに、我が町の事業申請の通過には驚くべき物がある。しかしこれからが大変で、多くの事業の達成に向けた資料が必要で、短期間で県への提出が義務付けられている。中身もさる事ながら、決算書・事業内容・事業計画など、国からの補助を受けるには、多くの書類の提出を求められる。
私も現在自分でその提出をしているから判る。商工会さんの資料作成支援をお願いしたい。

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2012
07/02

優しい心で


南三陸町は「きょうは雨です」。昨日は「泥かぶら」、ある老人の言葉に、気持ちの優しくなっていく泥かぶらに、心を開いていく人たちの姿に三回も涙しました。「白内障」の医師の診断から、益々涙もろくなった「私の富」、この南三陸町復興支援の講演に感謝です。観客の少ない事を「私たちの準備不足」と、開催に尽力された方への気づかい、これが被災地への全国からの暖かい支援の「気づかい」と同じと感じた。遠く「八王子」の地から皆さんの早い復旧復興を願い、また皆さんに会いに来ますと、最後まで被災地の皆さんを思う言葉に頭がさがった。カーテンコールのあとはステージから降りて、観客の皆さんと手を握り合い、「ありがとう」「頑張って下さい」と、一体となったふれあいに「一人じゃない」と泥かぶらの意味を実践した姿が会場にあった。
昨日は27日に来町したインド仏教徒の指導者「佐々井秀嶺導師」の支援の方が来社し、「御陰様でした」と協力への御礼に訪れた。
お昼には被災地支援の活動提案で、東京よりお客さんがあり、内容を聞くと今後の高台移転への後押し、仮設から脱出と、一時的な生活の場所の確保など、被災住民の「優しい提案」に協力支援を心に決めた。
朝のメール確認には、先週来社された「アンウーマン」の皆さんより、御礼の言葉が綴られていた。来た翌日には「バスツアー」で、気仙沼から岩手に「支援ガイド」の、津波の猛威の話にその悲惨さを再確認した。と言う。宮古の惨状に大きなショックを受けたと話している。ここ南三陸町だけじゃないとこの感想から、全国民が一つとなりこの「国難」を乗り越えないいけないと、「復興の象徴」言っていた、平野復興大臣の言葉に、答えられるような「復興への取り組み」を、南三陸町から提案していく必要性を感じた。
朝のテレビで高台移転に国から専門家が、気仙沼市や南三陸町などに派遣されると、伝えていた。そのニュースのバックの映像には「防災センター」が、今もそびえ立つつている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:19 】


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