ARCHIVE - 2012年06月

2012
06/30

水道事業所


45号線の十日町の端に位置していた「水道事業所」、昔はこの場所に「法務局」があった。裁判所・ハローワーク・県事務所の中には保健所など、南三陸町の志津川地区には、国・県の施設が多くあったが、時代の移り変わりと共に気仙沼市に移転となった。20年前からの人口減少は進み、今に至っている気がする。
水道事業所は仕事の一部が業務委託されてはいるものの、地元の職員や事業所が係り、町民に「命の水」を届けている。震災後の水道管調査の話に、市街地の水道施設は壊滅的で、復旧は時間を要するとの事だったが、半年後には家庭に飲料水を供給する事ができ、人間の力・可能性は偉大と思う。これは震災翌日のあの光景を見ているからです。私は何もなくなった市街地の地獄の姿だった。
十日町には本田医院と田中医院があり、コンクリートの建物は残ったが、昨年の内に解体され、公的な建物が現在解体されている。木造は総てが流失したこの地区は、これで建物総てが無くなった事となる。
昨日はわが社に横浜の女性支援団体が訪れた。被災地の現状を見たいと、女性支援の調査の活動だと話す。10名の代表が来町し昨夜は「ホテル観洋」に宿泊し、今日被災地での現状を視察する。我が社にも女性社員がいて、暖かい言葉を送ってれ、支援活動の協力を依頼した。
十日町の向かいの天王前でも、警察宿舎の解体・パチンコ店の解体は終わり、この地域は更地に近くなってきている。だがタイヤが山のように野積され、自然発火を懸念する。
このあいだ「火災発生」が防災無線で知らせた。また、町内では交通事故が多発と言う。交差点や交通が多い場所には交通安全のために、交通理員が、道路に立っている南三陸町の現状です。
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2012
06/29

保険センター歌津


歌津の市街地にあった「保険センター」。今は二階建ての施設は更地となっている。私も何回か入った事はあるが、合併後は志津川地区のセンターが南三陸町民の保険施設の中心なった。
歌津の保険センターには「風の里」が入り、入所性が作業に精をだしていた。わが社も仕事を発注していたが、現在のこの状況では、一般の仕事は皆無に近い。行政の仕事が中心となっている。
この場所は「歌津総合支所」の表がわにあったが、歌津大橋を超える高さの津波で、コンクリート二階建ての建物も側だけを残し、内部は総て津波の力でぶち抜かれていた。この前には仙台銀行の建物があった、警察駐在所があり、商店街の中心がここにあった。
「激甚災害法」により公的施設の再建に補助金が助成となるが、施設の解体しないといけない。このまま使える物があるのではと思うが、浸水域にあるため、総てが解体の方向に現在進んでいる。
こないだNHKの放送を聞いていたら、聞いた事のあるナレーターが聞こえてきた。最後のテロップのは「山田・・」の名前があった。「NHK放送局」での取材放送で、川崎町の不法投棄の問題を伝えていた。
彼女は被災後取材で二回わが社をタクシーで訪れ、行政の活動と津波と避難所の状況を取材に来た。色々な問題が浮き彫りとなり、彼女の取材は以後断った。中瀬町に密着し鱒淵そして仮設建設となり、地域に根付き南三陸町の「復旧への歩み」を伝えた。そして3・11から一年が経つ前日、「町長追跡ドキュメント」が放映された。現在は配られた名刺の電話にはつながらないと、同僚は話していた。彼女に話した「悲劇の町が・・・の町に」を覚えているだろうか。
先頃に台風が直撃し気仙沼地区に「避難勧告」が地区にだされた。5258人への勧告で避難所も指定したが、36名の避難となった。避難者率は「0.6%」で、避難しなかった住民は「危なくなったら逃げようと思っていた」と話す。自己責任がここにあり「自主防災」の考えは、1年3か月しかたっていないのに、自然の驚異を人間はまた忘れかけてている気がしてならない。
九州の宮崎・鹿児島そして長崎県には、現在も大雨が続いている。長崎では6月の降雨量が一日で降ったと言う。地球の異常気象はまだまだ続く気がする。オゾン層の破壊による、「ラニーニャ」「エルニーニョ」など、低気圧高気圧の異常な動きと発達に起因する。普段の状況把握と備えの気持ちは大きな「偶然を生む」、決して「運」ではないと今わたしは思う。

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2012
06/28

ついに解体


公立志津川病院の解体が始まった。名称もいつまで志津川で南三陸にならないのか、との議論も議会であった事を思い出す。チリ地震津波でも確か建物は残った気がする。病院は再建され、現在の病院も「西館」の完成で、総合病院の体制が整った。しかし、医師の確保ができず赤字の解消とはならず、「透析閉鎖」した。そして今回の「東日本大震災」が病院を飲み込み、多くの患者・看護師が亡くなった。西館の屋上で多くの人たちが難を逃れた。写真は本館の正面玄関で、こないだまで慰霊の祭壇が設置され、多くの方が手を合わせ、追悼式典はついこのあいだ開催された気がする。
公立とのかかわりは現在の主治医との出会いがあった。病院には同級生もいたし、仕事でも少しは入っていた。病院でのゴルフコンペがあり、主治医とゴルフで一緒となり、初めて公立で診察をしてもらった。その時に見つかったのが「糖尿病」で、かれこれ20年近くなる。
また、総務課には議会でも同僚だった係長がいた。栄養士にも看護師にも薬局にも同級生がいた。、義理の叔母もいたし親戚の看護師も多数いた。多くの顔見知りに一時間圏内からも、看護婦として職員が勤務していて、通勤時の交通事故の問題が、病院勤務の過度な労働ではとの議論もあった。
志津川・歌津地区の「住民の生命を守る」役目を、粛々と務めている感を強く感じる。「看護師さん」の基本は同じ「患者さんに寄り添う」、「病気と気持ちを聞き患者さんに落ち着いてもらう」、この部分が私は病院に求めている。こないだ病院に行った折、「先生に自分の体なんだから」と一言言われた。来てくださいと言う日に来なかったね。の問いに「すみません」と答えたときの、言葉だった。大納得の先生の一喝でもある。
今日から南三陸町の中学校はテストが始まる。みんなガンバレ! 病院は27年には本設となる予定だ。ぜひ「透析」の施設を完備して欲しい。

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2012
06/27

発展の象徴


この写真からここが何処か察する事はできないだろう。志津川地区が十日町・五日町の商店街の中心から、大型商店ビルとしてスタートした「サンポート」であり、多くの町内のテナントが入り、新しい人が集まる場所として、イベントや売り出しで人の賑わいを見せていた。それが現在解体されている。
被災前は「産直野菜」がサンポートの野菜販売のスペースに並び多くの買い物客が、朝どりの野菜を求め好評だった。二階の展示スペースでは、書道作品展示などなあり、来客の増加を図っていた。レストランもあり家族・友達どうしの食事の場として活用されていた。また、向かいが病院という事もあり、薬局が併設され患者さんも、病院の帰りに買い物をする事もできた。エスカレーターも町にある唯一の建物である。
この地域には病院・高野会館・警察・松原住宅など、3階建て以上の建物が多く建つ所でもあった。大津波発生時にはこの建物が「避難ビル」の役目を果たし、多くの町民を救う事となった。
昨日「復興交付金」の三次が決定した。一次が2000億円に対し57%が交付され、「査定庁」と批判された。そして二次では180%と、今後の必要と想定される資金までもが交付された。そして今回は申請の88%が交付され、168事業に充てられる。県内被災自治体の一番は、東松島市で17事業に144億と報道されていた。今後も自治体は必要な資金を復興に応じて順次、復興庁に申請をする。町は24年度までに2000億前後を「復興交付金」の請求をしていく。高台移転・災害公営住宅建設の部分が大きい。
今日はホテル観洋で2時から、佐々井師の「ふれあいのつどい」が開催される。多くの被災された皆さんの話を聞きたいと言う。ぜひ時間があったら出かけて欲しい。
昨日また私の体に病気が見つかった。少し「ショック」だったが、でも私は生きている。

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2012
06/26

戸倉公民館


戸倉地区の志津川市街地からの入り口に折立地区がある。ここに教育の地区の拠点とての「戸倉公民館」があった。今回の津波での驚異の威力をまともに受け、二階建てのコンクリートの建物は移動し、形はあるものの基礎部分がえぐられ、建物が傾いたままで一年三か月がたった。
10日前から解体へと重機が運ばれていた。そして昨日朝には変わらなかったが、来社した方が「公民館解体始まったね」といっていた。ここでも職員が殉職して、一週間まえごろ「慰霊祭」が行われたとも聞いた。
ここでの記憶に「住民と議会の懇談会」があり、「一中三小」が機論された事を思い出す。被災の前の年で鮮明に記憶に残る。このような現状の中で、地区民の学校存続への願いは強く。故郷の愛着と学校がその根幹にある事を痛切に感じる。被災後のこの気持ちは変わらない。
この写真には被災地を緑の山々は「ずーと」総てを見ていた。この美しい戸倉地区に新たな街の形成を、今後も自然との共生のもとに、構築していかなければならない事を、町民は考えないといけない。
偶然にも公民館・体育館・学校が一直線になる角度になった。水門の開閉施設と折立川の水門も被災し、戸倉の大型施設だけが瓦礫となり残り、これらも一つ一つが順番に解体され、防波堤ができ嵩上げがされ、戸倉の玄関口として今後復興へと進む。
今日は眼科に行こうと思う。メガネの処方箋と、目の影が大きくなってきた。「やばい」。

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2012
06/25

解体1

警察
町内の大型の建物の解体が本格的に始まった。写真は南三陸警察署で、三階の建物は簡単にも、交通課から次長のデスクのあった場所、署員の道場があった三階部分も一揆に一階まで、もったいない気もするが、解体しないと新しい警察署の建設補助がでないし、被災したこの場所は「緑地公園」として、津波慰霊の場所となる事が、志津川市街地の復興計画の町づくりで決まっている。
「防災センター」は観光協会の総会で、慰霊・鎮魂の場所として残したらと話が出たと、人づて聞いたたが、6月の議会で町長は「解体をする」と明言した。しかし、防災センターのバスツアーでは、「合掌」する方が主だが、「ピースサイン」で写真に収める「輩」も少なくない。こうした光景を被災者遺族はどんな気持ちで目にしているだろう。夏に向け観光客の増加がバスの数で判る。「観光支援」はわかるのだが、町での対策も求められる。
公開質問状や町長の告訴が警察に提出されている今、防災センターの災害現場の「検証」が必要と思う。解体がされれば当時ここでどんな事があり、今後の防災避難場所としての、ビル屋上避難場所の人命の救助の、屋上の津波に負けない形状の在り方などを、調査をしないといけないと思う。
今日は朝に「サンオーレ袖浜」を回ってきた。海岸線も地盤沈下の大きさを海水浴場の階段で判った。来るはずの無い波が階段にまで押し寄せていた。名勝の「荒島」も形が変わった気がするし、波の打ち寄せる部分も土の面積が広くなった。
警察の屋上でも一人の警察官が助かった。今後解体される町内のコンクリートのビルでも多くの町民が助かっている。「歌津総合支所」では一人の職員の殉職がないのに、と昨日もこの話題の議論となった。忘れてはいけない「職員39人の殉職」を。
服部真夕が女子ゴルフで、外国選手の8連勝を阻止した、17・18と最終ホールでのドラマチックな逆転優勝に、「ゴルフ」をそろそろしたい気持ちが募った。

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2012
06/24

苦悩を聞く


突然だったが支援の依頼が私に来た。インドの佐々井導師が来町し多くの南三陸町の皆さんと話をしたいと言う。「ふれあいのつどい」と題し、南三陸町の地元の方丈様が佐々井師をサポートしている。神奈川県の「少林寺」さんの赤間さんとの、学友と言う事で、今回の活動が現実のものとなった。
6月27日(水)にホテル観洋で2時から佐々井師の講演、3時から懇談会で5時の散会となる、もちろん参加は無料となっている。短い期間での告知ながら、多くの皆さんの口コミで、ぜひ町の被災者の方々が来場して欲しいとお願いしている。
「佐々井秀嶺師」は岡山県出身で、インドの国籍を取得し、インド中央政府の仏教徒代表でもある。現在はインド仏教徒の1億5千万人の指導者でもある。
「煩悩なくして生命なし。必ず生きる・・・必生(ひっせい)。この大欲こそが、大楽金剛です。すなわち、煩悩は生きる力なのです」と言う。
私は大震災で多くの偶然の重なりにより、今生き生かされていると言う気持ちを持ち、生あり動ける事に感謝し、自分は今後に無欲となり、町のために活動したいと心に誓っている。自分の将来に何も残さなくてもいいが、欲からの脱却ができ、命がけでの行動ができる。「なんでもしたい」。この町を新しい「助け合いの町」として、町民一体の町となり、生まれ変わり残したいと思い、今後も活動を続けたい。多くの皆さんの力を借りて進んで行く。
今日は本浜地区の高台移転の、電話での移転の個々の考えを聴取したい。

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2012
06/23

被災地観光


昨日撮影した志津川市街地制限区域の風景です。しばらくぶりの志津川中学校の高台からの眺めは、いつにない光景だった。志津川湾には太平洋からの「霧?」で覆われ、これが南三陸町の地形が作り出す自然美で、これを見ながら55年間生きてきたが、今は「生かされている」という気持ちが強い。
この場所には3人の若者がいて、やはり写真を撮っていた。大阪弁なので地元の人ではなく、やはり「観光目的」と感じた。観光支援が今叫ばれ、この支援は全町民に配分となるのだろうか。今日も大型バスが町内を朝から、何台も連なって走っていた。南三陸町は観光でしかしばらくは成り立たないのか。被災住民の再建は平成26・27年の高台への移転であり、生活の目途は大半がたっていない。「復興特需」は誰が受けているのだろう。
昨日の志津川中学校へいった。前ライオンズクラブ会長からの、今治くるしまライオンズクラブ様、今治地区剣道連盟様より、心のこもった「剣道具」の支援の、受け皿を戸倉剣道の代表である私に依頼されたからだ。
戸倉剣道は津波の最大被害地で、多くの団員の家族が死亡し、団員の減少の中で、今年は会員登録に志津川地区の女子一名とする事にし、今日書類作成をする。しかし、我がスポ少の「最終目標は初段取得」にあり、多くの問題があり団員入会は望めなく、何とか目標達成に子供たちを導いてあげたい。
支援の防具はそんなわけで、10個頂いたが、併設する二つの中学校に3個づつ昨日届けてきた。志津川中は部員が20名を超え、防具の不足があり、戸倉中は「武道の必修」があり、防具がないと言う事で寄贈した。戸倉スポ少も志津川中1年の初心者を団員ではないが指導していて、純団員は一人ながら多くの生徒の指導をしていた、志津川中剣道部の手助けにあたっている。練習もハードになり、私の節々は悲鳴を上げている。南三陸町を担う子供たちと、共に汗をながし頑張っている。
9月26・27・28日と、南三陸町では「敬老会」の予算が計上された。会場をホテル観洋として、仮設生活者・みなし仮設・そして被災されない町民が、しばらくぶりで顔を合わせる事が実現する。仮設回りでも「地区の人たちと会いたい話したい」と言う。高台移転にあたり各々の方向性の確認ができる良い機会と私は捉えている。
この週末の二日間は少し時間の余裕がある。何をしようか?

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:07 】

2012
06/22

おかしいぞ


昨日の「夕焼け」は異常に見えた。今回の台風も異常だし、昨日の答弁も? 「雇用確保に向け頑張る」の一言、おかしい・・・疑問が? 入谷地区の存在を私は大きく思うが、無関心に感じる行政の考えがある。
入谷地区の入大船には津波被害はあったものの、南三陸町において入谷は大きな津波浸水もなく、今後も津波の被害がない地域です。そして将来的には「三陸道」「シルク総合開発」企業進出なと、多くの可能性を秘めている。現在はこの地区への住宅建設や、復興の施設も多く立地され、まだまだ有望な土地も存在する。
南三陸町の基幹産業の一部どある農業の拠点として、今後は新たな農業の工場化の未来の生産も可能性も高い。また、市街地からの避難場所だった為、この場所での仕事の再開をめざしている人・声も聴く。
「道の駅」は観光客の分散・二分化となると行政は言う。今は海と山の「南三陸の幸」があり、購買力の拡大も予想でき、海の幸だけではない事を、今、入谷地区に求め更なる「観光客入込」の拡大で、多くの町民の皆さんへの来町による購買での、農業者の所得の増加もあると思う。
雇用の場としての企業誘致は進んでいないが、地元の事業所も求人に人が集まらないという。それは南三陸町の被災した皆さんの状況にある。早く生活の場の確保と、すぐにでも再建できる土地のある、入谷地区の「未来への可能性」を話したのだが、行政の答えの簡単なこと、驚きまた不信感が募った。もう少し丁寧に答えてほしいものと思う。
この雲の黒に「紅色」の、ドロドロした気持ちが、怒りのエネルギーとなりそうだ。やっと心の静まりの中にあったのだが、自分の「血糖値」もこんな感じかな。時間がない。

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2012
06/21

我が家


1年3か月が過ぎ新緑から夏草が伸びようとしていた。昨年の「ハエの大発生」はまだ確認していないが、虫対策もあり知人に「除草」をお願いした。100坪を超える土地ながら今後の会社再建の場所と決めている。
昨日「一般質問」をなんとか終える事ができた。災害公営住宅は建設費の8分の1は町の負担となる。高台移転の造成整備での町民への販売代金は、国庫への返還すると言う。建設にあたり町独自の助成金制度はない。住宅建設にあたり、利子補給やライフラインの一部を支援すると言う。また、入居の軽減策でも20%で1000万円の町の負担となると言う。財政に逼迫している「南三陸町」は生きている町民にも、被災他の現実がのしかかっている。
昨日は「仮設に入りたい」と言う方が、社長の友達として相談がきた。しかしながら現在は仮設の入居希望が170世帯あり、仮設の残りは22戸と言う。新聞にも掲載されたこの問題は、「南三陸町に帰りたい」と言う町民の気持ちが、町から離れる大原因ともなる。私は幸運にも高台に小さな倉庫を有していた。
震災後、「車を置かせて下さい」の要望にはできる限り答え、仮設での知人の営業開始にも、「使っていいよ」とも言っているものの、現実とは至っていない。昨日も知人が仕事を始めたいと、仮設店舗の設置依頼があった。
土地の必要性と生活の場の確保がこんなにも大変と、私はいまだに感じてないが、それは自分の家族が親だけで、跡継ぎもないせいだろう。できる限りの町民への支援はしたい。現在は車一台を駐車させている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:20 】

2012
06/20

6月台風


6月の台風は8年前に上陸大きな被害をもたらしました。今回も最大限の警戒のかなで、南三陸町は幸いにも物的・人的にも大きな被害は確認されなかった。
朝6時に通勤途中、やはり公立病院前は冠水で、ちょうど検察官が規制をかけていた。道路の通行止めで、行政の報告は県の機関との連絡の不手際があったと行政では謝罪した。午前4時に最大風速21.4mを記録し、総雨量は115ミリで、一時間の最大は44.5となり、過去最高との報告もあった。台風の時速70キロの速度が、被害を最小のものとした。もし、半分の速度だったら大きな被害が、被災地「南三陸町」に発生していた事は間違いがない。
迂回で防災センター前を通過しようと思ったら、川からの雨水の流入があり深く浸水し、通過を諦め高校の下の次の道路を迂回路を使った。しかし、水尻川からの雨水がう回路に流れ込み、小さな道路は側溝部分までの大水となっていた。この地区は側溝にふたがまだなく、危険な状態ながら、ここまで来たらさすがに引き返せなく、安全の低速度で通り抜けた。低速度で車の停止は危険と「ハラハラ」「ドキドキ」だった。戸倉の折立も勿論冠水していた。2倍の時間を要したのは言うまでもない。
今日は小中高とも臨時休業となった。保育児童は通常どうりだった。9時には道路はとうれるようになったみたいだ。また台風5号が発生し、梅雨前線を刺激し大雨にならない事を願うしかない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:40 】

2012
06/19


「バリバリ」と音をたてて南尊陸町志津川の地区民の防災の拠点として活動していた、消防署が昨日から解体されている映像がテレビで放送された。
コンクリートの柱は簡単に破壊され、重機の力に驚かされる。「光」さんの解体会社の名前の重機が「サンポート」にもあった。病院も解体が進んでいるが、大型の被災施設も「アッ」と言う間に更地となるのだろう。
消防署員の今後の災害対応が昨日の報道で伝えられた。8人の消防署員の殉職があり、これを教訓に「人命の尊重」第一に、「無線避難活動」「避難誘導はしない」など、安全を大切に活動すると言う。私の親戚筋の殉職もあった。非番ながら避難活動で道路に立っていた。
通勤の行き帰りに「う~み」のCDアルバムを毎日のように聞いている。元気と心に安らぎを感じる。20歳前後に聞いていた「イルカ」さんの歌によく似ている。「あのころの僕はわかすぎーて・・・」など、若い時代に人間関係・自己嫌悪」に悩んだ頃に、なんか慰められた歌だった。そしてこの年まで生きられた。
今日も一日頑張ります。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 05:09 】

2012
06/18

町に笑顔を


こども達の笑顔は大人に「ここにいたい」と「住みたい」との気持ちにさせてくれる。しかし、孫のために南三陸町に暮らしたいとの思いも、若者は子供の為にと復興の進まない、町の状況に背を向けている。
私が生まれ育った町、「旧志津川町本浜町」ここへの愛着は誰にも負けない。本浜地区の住民のコミニティー再建に昨日も動き廻った。「被災地の現状を見ると具合が悪くなる」は、入谷地区・荒町地区そして南方で暮らす方も口々に言う。いつになるか判らない造成・移転・住宅建設に、「10年間仮説にいます」と言う声も聴く。
また、被災した土地で営業する商店主も、ぽつりぽつりと地域を歩くと目にする。いつまで今のままの生活を続けないといけないかと、その不安から行動に移す、町民の姿が目に入ってくる。再建を諦め勤めを探し、近隣の地区に就職したとの話も多く聞く。
しかし、漁民は違っていた。「個人」「みなみの漁業」など、漁業を始める形は違えど「海に帰っている」。再建の支援も水産業は厚く、その制度を活用している人、制度に乗れない人の二つの姿があった。生活も高台移転の「土地取得」に意向は固まっていた。
しばらくは南三陸町に帰れないが、「地区の皆さんの顔を見たい」と、高齢の方々は言う。皆さんと集まり今の現状は話し、「南三陸町に帰りたい」との気持ちも出てきたら、ぜひ帰りたいと言っていた。
得た情報は行政の事実とは違うかもしれないが、本浜のある土地は「8万円」の買い取り価格、土地の買い取りは支払いが4~5年後、この二つは再建に向けての取り組みの基本であり、町民は真実の事を早く知り、再建の方向性を決めたいと思っている。
写真の「う~み」と子供たちの自然の笑顔が、早く見られる南三陸町になって欲しい。昨日は神奈川からの情報で、今月27日の2時から「ホテル観洋」で、インドから日本出身の導師の方が、南三陸町の皆さんの話を聞きにやってくる。口に出せない悩み苦しみなど、「少しでも心を癒やせれば」との事だった。平日ながら多くの方の声を聴かせて下さいと同行の方は話していた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:43 】

2012
06/17

直前


大型台風が台湾沖に現在ある。20日には関東上陸の通過予想が、気象庁より天気予報で警戒準備を伝える、現在は低気圧・梅雨前線による九州地方に大雨をもたらせ、ガケ崩れ・冠水など被害が出ている。
昨年の今頃は仮設建設が急ピッチで進んでいた。7月ごろか戸倉西戸地区の被災された方がここ「切曾木」に住む。仮設「切曾木」は写真の奥にあり、昨年の秋の台風の接近で、折立川が被災により護岸が崩壊し、勿論川に架かる二つの橋も流失し、西戸地区の橋も流された。仮設に通じる応急の橋も2回流され。仮設が孤立し荒町に通じる山道の危険な通行を余儀なくされた。
今回の応急仮設橋ながら、写真の左の橋は高く建設され、台風シーズンの増水への対策は何とかなされた。しかし、自然の猛威は被災地のまだ整備されない状況で、河川には何が起こるか判らなく、警戒は怠れない。
今日は一か月ぶりに父親を仮設のお風呂に連れて行く。母は二週に一回の入浴サービスを受けている。前から父は入浴があまり好きではなく、震災後は入らない期間が長かったせいで、入らなくてもその対策はしているようだった。軽い上着も欲しいと前から言っていたので、梅雨に向け仮設商店街の「アベロク」さんに連れて行こうと思う。偶然一昨日仮設商店街であった。留守番の母にも何か美味しい物を買って行こうと思う。
今日は来週火曜からの「一般質問」のまとめにかかる。高台移転の意向調査が進む中で、被災町民が判らない部分を深く質問し「議会広報」で、移転を希望する方の疑問箇所を伝えたい。住民もまだ悩みながら好捕地を「とりあえず」と意向に答えている。不安いっぱいの今後と言う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:33 】

2012
06/16

こんなにも


この地区は狭いエリアながら、家々が狭い道路に寄り添い生活していた地区です。しかし、何も無くなってしまった。藤浜小学校が戸倉小はついこのあいだ合併したばかりだった気がする。
全国的に人口減少が進み地方・僻地はその現象が加速していた中で、生徒数の減少からの合併があった。今回の津波で子供たちの安全安心な教育環境を求め、家族は町内から別な場所へ移る。「子供たちの生活が一番」、この考えは納得ができる。しかし、子供たちの「ふるさと」は、ずーと変わらない。こうした中でも自分の育った南三陸の地区で住み続けたいと数多くの家族が願っている。
テレビを見ていたら「ブランド化」を達成した町の職員の話をしていた。過疎により高齢化が進み、農業振興の案として「ローマ法王に米を送った」という。献上が受け入れられ、それが報道されると、町の米はあっと言う間に売れ品切れとなった。町職員がアイデアをだし町の名前が世界に広まった。この地域は「神子原」と言う。職員はこの名前からヒントをつかみ、その相手の名声が高い程、名前が比例して大きくなると言う。こないだある議員が「南三陸町産のワカメを感謝の意味を込め天皇献上したら」と町に提案したが、多くの自治体は考え、この審査は厳しいと行政はこの質問に答えていた。はたして行動を起こしたのだろうか? 何もしないよりはしたほうがいい。子供たちには「挑戦をしてほしい」と言う。町も復興に向け町民の再建の為に「挑戦」の気持ちで臨んで欲しい。
こないだ長崎県の天皇献上品の「カステラ」を買ってきた。90歳になる両親に「一生に一度食べさせたい」と思い2500円も出して買った。この辺だと1000円で買える代物だ。「天皇献上カステラだから」と話したが、父親は「いつも助けてもらっている方に食べて下さい」と言って贈った。と言う。本当に私の心を、欲のない両親に(笑い)しかなかった。
農業・漁業・商店・工業の復興は、町と各組合が一体となり、進めていく必要がある。その事業の可能性を町が分析し、大きな「復興交付金」の取得の手助けを広範囲で実施してほしい。田尻畑には菊の大工場ができていた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:20 】

2012
06/15

早い


今週初めに戸倉寺浜までいった時に、戸倉地区に進む「第二瓦礫置き場」「焼却場」の整地が急ピッチで埋め立てが行われていた。
八幡川・水尻川では秋サケの捕獲が、昨年の被災の年にも行われたが、水戸辺川では水門が閉鎖しているせいでおこなわれなかった。そんな中で瓦礫置き場・瓦礫処理と、戸倉地区の「鮭捕獲」は今年も無理のようだ。戸倉小学校の例年の行事である。「鮭の生育観察」「鮭の放流」など、ふるさと戸倉の「生涯活動」がある。早期の復活は「鮭の帰還」と「戸倉地区の再生」が同化して見えてくる。
昨日は同級生が東京から一時帰還した。3時間も土地のことや高台移転、仮設生活の今後の対応など、多くの質問があった。仕事がなく生活の確保のために、南三陸町の生活を断念し、やっと落ち着きつつある今の生活を続けると言う。同級生の仮設商店街の「松原食堂」さんは休みで、もう一軒と「豊楽」さんに、同級生のおふくろさんの顔を見に入店した。「いらっしゃい」と元気な声が私たちを迎える。甥っ子がばあちゃんの家業を継続すると、東京から南三陸町に来て、皆さんに「元気」を与えていた。地元を離れた家族が「ふるさとの再建」に多くが返ってきている現実を町は解って欲しく、多くの支援に努力をしてほしい。
「新農業基盤構築」を震災後の町に取り入れるべきと、総務常任委員会の調査報告に盛り込んだ。そんな中で町内の農業支援に活動している方から電話をもらった。なかなか国の支援の「復興交付金」の獲得の支援が今必要で、再建の道が厳しいという。若い農業の担い手の「過酷な現実」を吐露してくれた。
朝のニュースは大きな方向性が見えてきた。「原発再稼働」「消費税問題」「子供からの臓器移植」など、多くの決断の行動が各分野で究極の決定がなされている。トップの発信は国民に安心感と期待と未来への「希望の光」でもある。上からの指示どうりだけでなく、地域にあった発信力が今、被災地から必要で、復興と再建には欠かせない。

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2012
06/14

名足


歌津名足地区の象徴がこの場所と私はとらえる。左が石浜から田の浦に抜け、右は中山・馬場そして泊浜に通じる。名足農協・名足駐在そして民家がこのT字路に密集していたが、今も津波被災当時のままで何も変わっていない。「低い所には住みたくない」が、海に従事している方を除けば大半がこの考えがある。
一年と3か月が経った。市街地を離れた海辺の集落は、戸倉・歌津など復旧は進んでいない。しかし、漁業の拠点となる漁港は必要と認めた場所が、国県が整備の決定したところだけ、嵩上げや漁船の接岸の港の整備は進んでいる。漁業は南三陸町の基幹産業として最大の産業、町の復旧復興二は欠かせない。
歌津には馬場・中山地区がある。この地区の被災からの復興は、多くの地域民の活動と、支援団体の繋がりにより、漁業の復活・道路整備など、浜地区の復興の中心でもある。名足地区にも50戸の「災害公営住宅」の建設が決定し、もう50戸も建設予定を決めているようだ。
志津川市街地の被災民の高台移転は、平成26年度中頃以降の住宅建設可能と、まだまだ遠い高台移転のスケジュール案となっている。時間が経てば間違いなく住宅建設がされるが、その時まで町民は自分の町への愛着が続くだろうか。昨夜も本浜の地区民の方が「防災集団移転に参加したいのですが」と連絡があった。その時期を伝えると驚くばかりの声が発せられた。
今、復興計画により市街地の「嵩上げによる再建」が決定し計画が進んでいる。そのな中で「果してその復興計画は南三陸町の住民が求めているものなのですか」と、質問が私に投げかけられた、「このままででいいんですか」と涙を流し訴える彼女の目は、真剣で訴える姿があった。まだこれからで、若いこれからの人たちの考えを、復興再建に取り入れるべきと思った。「バック堤防」「9m近い防潮堤」で南三陸町の、町民の自然景観の中での生活を再生できるのかと言う。「津波の来た所では暮したくない」が、多くの被災民から聞こえる中で、私はこの訴えにどう対処するべきかと考え、もっとこれからの若い担い手の考えを、復興計画に入れるべきと、「まちづくり協議会」への参加を、若者たちに促していこうと思う。
第二瓦礫置き場焼却場の聖地のスピードの速さに驚く、何日も流失した橋の再建に時間がかかったが、戸倉在郷は新しい橋が2本架かっていた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:11 】

2012
06/13

無惨


一昨日の夜「戸倉剣道」の子供たちの親から「一級の昇級審査」の申し込みがあった。日曜には戸倉中の子供ちたも初めての中総体があり、忙しかった為に夜の連絡になった。通常の生活だったら何のことはなく、横山・米谷に生活の場所が変わったからに他ならない。
締切日は昨日、歌津名足の漁協の連盟阿部事務局まで持参した。歌津名足地区にはしばらくぶりで足を運んだが、山が至るところで削られ、新たな住居の建設なのだろうか。また、大きな家が浸水域ながら修復が進んでいた。一日も早く安心できる生活の場所を確保するためで、被災住民の今の最大希望はここにある。
昨日は戸倉地区の名勝「神割崎」まで午後に出かけた。お客さんは「車がない」「早く来て欲しい」だった。被災が無くても高齢者が住み海への従事には、多くの障害があった。その中で頑張り水産業を続け生活をしている高齢者に頭が下がる。しかし、「80歳です」というご主人には、笑顔と力を感じた。「千葉県に南三陸のワカメをおくるんです」と話す。こうした皆さんが南三陸町の産業の基盤を作ってきた事を、私たちは決して忘れる事なく、継承をしていかないといけない責務を強く感じる。
昨日は友人が「死んだつもりで南三陸町の再建しましょう」「そのためなら何でもやります」と言ってくれた。町民の中にこんな「風潮の芽生え」を私は感じ、その切実な声を多く貰い、こちらからも一緒にやりましょうとお願いしている。こうした住民・町民の動きの流れが、町に元気を与え新たな「まちづくり」の原動力となっている。
写真は被災の残骸として残る戸倉小学校で、その前には真っ二つになった何艘もの船が、折り重なるように瓦礫となり置いてあった。今回の津波被害の「象徴」が戸倉地区にはあると私は思う。
昨日の携帯に収めた写真は、復興の姿として今後伝えたい。しかし、その姿はいつもの大きさでは伝える力が弱く、できるだけ大きく発信したいと思っている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:17 】

2012
06/12

夜明け


「明けない夜は無い」と言われるが、長い夜はきっと子供たちは怖い。「まちづくり協議会」の設立が準備されている。ぜひ多くの町民が新しい町づくりに参画し、高齢者と若い家族が安心して暮らせる、南三陸町のコミュニティー形成にアイデアを出して欲しい。
仮設自治会長・区長・各団体関係などから選ばれる。行政は高台移転への提案を聞き、行政は提案をくみ上げ都市計画に生かしていくと言う。「町民の声」を行政が形にする。阪神淡路大震災でも、協議会がきめ細やかな街づくりに意見をだし、綺麗な美しい町に再建させた。
日曜日は追われる時間の中で、歌津中学校で開催された「中総体剣道」に向かった。男女団体戦共に決勝トーナメントに入っていた。短い時間ながら偶然にも、女子の決勝は5対0で敗れ、男子も準決勝で5対0で、共に歌津に敗れた対戦を見た。被災後の練習もままならない中で、チーム主体は女子は2年・男子は1年が3人で、今後に期待し練習に励んでほしい。大人は皆が生徒の練習環境の整備に取り組んでいる。
昨日の好天の一日から、今日は肌寒い雨の朝となりました。温度は5度以上も低い気温の南三陸町です。そんな中で昨日は市街地の公共施設の解体は行わられず、先週末の姿のままだった。
また、昨日は建設課長・復興推進企画課長・総務課長・保険福祉課長と会いにいった。すべての課で問題と多忙を極めていた。多くの会話から「町の今」が見えてきた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:15 】

2012
06/11

荒々しい海


先週の台風が低気圧になったその余波が続いている。南三陸町志津川湾の戸倉折立の前の海です。戸倉小学校前の大きな土嚢は高潮高波により、地盤沈下した分大きく被災地に白波となり押し寄せていた。
黒崎のパーキングの下は遠浅で、低気圧の波が幾度となく押し寄せ、さすがに「サーファー」はいなかった。海岸線の土嚢は1年も経ち、破れ草花が袋を破り目を出し、自然の力に驚く。
東京にいた時が関東沖に台風はあった。志津川しか知らない自分には、帰郷しての被災地の海水の流入や、折立地区を車で通過するときの、海の近さと押し寄せる大きな波に、「地盤の嵩上げ」はどうなるのだろうと、心配でならない。
今日の「碧い海」は豪快でまた美しい。南三陸町は「新防災都市」として復活する事を祈る。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 19:40 】

2012
06/10

生きている使命


今日は朝から雨で「消防演習」は野外は中止になり、志小体育館での開催となった。後藤町議会議長の訓示に消防団の被災後の活動は「生きている使命」と、南三陸町の為に活動して欲しいの訓示に感じた。他の開催の訓示には、消防活動のなかでも、自分の生命も大事にして下さいと、今回「殉職」された団員の無念の死への命の尊さを、全団員に告げた。
震災で団員四名の殉職があり、気仙沼・本吉広域消防でも10名の署員が亡くなった。現在は南三陸町消防団は400名で、南三陸町消防署職員は43名での、町の消防防災にあたっている。海岸線の集落が津波で被災し、消防体制も分団の人数確保が大変な中で、15名の新入団団員の若い顔ぶれがあった。
お昼に「南三陸町春季消防演習」が報道で伝えられ、その中に昨夜「高台移転」で議論した仲間や、復旧復興で多忙を極める同級生の顔もあった。また、今日は団旗が津波での流出に、真新しい「団旗」が南三陸町消防団、菅原団長に送られた。
一時間の団員への表彰などで演習は終了した。その後は歌津中学校に「中総体」での志中生の試合を見にいった。結果は厳しいものがあったが、実践力不足を大いに感じた。また、9月の「新人戦」に向けた練習になる。来月には「昇段審査」「級審査」がある。今後は勝ち負けにこだわるべきか悩む。
歌津中学校の剣道指導者と親の会が一体となっている姿が、団体戦の女子優勝に繋がったと思う。選手の中には大きく成長した生徒も見受けられた。子供が安全安心して練習ができる環境が必要だ。私は一歩も二歩も引くことには、何の問題もないが、15年見つめてきた中学校の現場とは大きく違っている。これも今回の「大震災」のためと自分に言い聞かせている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 13:55 】

2012
06/09

解体へ


歌津の保険センターの解体がはじまった。このコンクリートだけが残った歌津市街地、この裏には木造の歌津総合支所があったが跡形もなく流失した、しかし、職員の死亡者は無く全員が裏の高台に逃げ難をのがれた。なのに?と疑問が残る。避難マニアルだった。「たいしゅう」の看板の場所には大衆食堂さんがあった。「高橋森雄」さんがいる。歌津町会議員議長までなさった。「高森さん」とは私も仕事で出入りをしていたが、私にも優しい声を掛けてくれた事を今でも想いだす。今は人は打算で「人付き合い」をしている人が多い。私は仲間とは計算ずくでなく、共に話し合え相手を思い生活をしている。やったからどうがしろでは決してない。こんな人間関係があるから、仲間たちにも友達が多い。
途中になったが、大衆さんの隣が同級生の「千葉釣り具店」があった。お父さんの鶴治さんも人に差別がなく、息子には厳しく、彼は誰もが認める優しい人間になった。「人を思いやる心」は誰よりも持っている人間だから、今でも本音で付き合える。向かいの家には「牧野くん」がいた。志津川から歌津に住み、大学を卒業し学校事務員の研修期間中に不慮の車事故で21歳で亡くなった。彼のお父さんとも仕事でお世話になった。その向かいには「小野幸時計」さんがあり、社長さんには仕事のトラブルで、仕事の厳しさを教わった。この地域だけでも多くの思い出を私は持ち、今後もこの場所が復興しようとも、古き時代の事を友とお茶を飲みながら話せる時が必ずくる。
志津川病院も解体がスタートし、向かいのサンポートも入り口の三分の一は解体された。警察もである。昨日は建設課にいった。本浜地区には鉄骨の建物がまだあり、私の自宅の倉庫も一階の鉄骨だけが残った。被災後残っている建物の住民も解体はしないといっていたが。解体の申請がだされたと聞く。帰り社長に「解体の申請書見ましたか」と聞くと見てないという。見てないから勿論だしていない、早々に解体申請を出さないといけない。震災後、捜索と鉄骨回収してもいいですか。これが建物の解体の許可の元だと思っていた。まだまだ混乱は続いている。
今日は1年半ぶりで後輩たちとの会「独身会」を、仲間宅で静かに開催する。皆もお酒を飲む機会は、葬儀の席以外は皆無に近い。ほどほどに切り上げ、明日の「春季消防演習」「中総体剣道」に備えないと。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:14 】

2012
06/08

かぜ


くりこま高原駅に二日ぶりで降り立つ、宮城の地の農村の風は澄んでいて体に癒しとパワーをくれる。
志津川の景色は少しだが変わっていた。病院の解体は日一日と進み、水道事業所の解体準備も進む、商工団地には町のメインバンクが、「7月中開店」との看板が出ている。その隣にはあわびのマルヤ五洋、向かいにはメカブのカネキと、南三陸町志津川の町を誇る企業がある。
7月の1日に歌津の中学校体育館で、南三陸町復興支援後援「泥かぶら」が開催される。文部大臣奨励賞作品で「泥だらけのかぶと呼ばれた女の子が綺麗になりたかった物語」です。本当の人間の美しさとは何かを考えさせる物語と思う。被災地に欠けつつある、「愛することの歓び」「信ずることの静けさ」「生きて働く嬉さを」など、多くの生きている事での価値を、成長とともに知っていく。私も多くの人たちから、個人として何をすべきかを、教えられている。
今日は就労への支援の準備をしたい。多くの制度が被災地支援にあるが、雇用する側が活動しないと、被災者の働く意欲に繋がらない。現実に被災地には仕事がなく、活動し始めた事業所に、南三陸町の存続を願い、共に頑張りましょうと訴えたい。
目を見て話を聞いてくれる「平野復興大臣」、多忙の中で30分間しっかりと被災地の状況に耳を傾けてくれた。議員会館で「松本龍」氏が私たちの前を過ぎていった。多くの国会議員さんを目の当たりにし、「初心忘れるへからず」と、初登庁の初々しさを持ち続ける事は難しい事なのでしょうけど。必要かなと自分自身に問いかけた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:30 】

2012
06/07

政府実感


昨日と今日、東京に「陳情」で議員団がハードの日程をこなし、7時前の出発て帰りが7時30分過ぎで、議員が成果に繋がる活動と互いに確認し合った。
初日は仙台の国土交通省と復興局での活動は、担当に南三陸町の多くの問題点を、陳情書の他に議員から多くの質問がぶつけられた。今日の平野復興大臣への陳情では、議会の4つの陳情の他に、「何か議員個々の質問がありましたら」と、大臣が陳情団に問いかけた。原発問題・高台移転・建設資材の高騰問題・戸倉駅の復活など、今までにないくらいの質問が、大臣にむけられた。私は「被災地の買い取り価格と高台造成地の取得価格の格差の短縮・解消を」と質問した。高台移転に関しては「防災集団移転で国は支援を最大限する」と大臣、しかし、町の政策・取組の部分もある。と自治体の対策案も必要と私は受け取った。
参議院会館で元官房長官の千石さんに、議員会長であり総務委員長である鈴木春光さんが、千石さんに声を掛けると、「何処から」と話かけられました。「南三陸町からです」と言うと、千石さんが「赤十字をとおし仮設病院に3億円の支援がありましたね」と話し、鈴木議員と肩を並べて会館を歩き議員団と接触するキッカケとなりました。
病院の建設の披露に「辻元きよみ」国会議員が出席された時、建設の要望を国に伝えた成果と思っていた。千石さんが南三陸町に来た折に、町長の要望に応えたむねの話を、議長がしてくれた。
宮城の東国会議員が議員団の橋渡し、小野寺議員も親身に南三陸町の問題に多くの時間を費やしてくれた。国土交通省大臣政務官とも貴重な15分の時間を割いていただいた。多くの成果に満足させられた(国会陳情」で、政府の大臣も「何でも連絡下さい」と、暖かい被災民を思う心が伝わってきた。
口々に国会議員の先生は「南三陸の復旧・復興が今回の東日本大震災再建の象徴」と話し、私たちの町への政府の重点地域だと言う事を知らされた。
高台移転が今後どのように進むだろう。「三笠宮」さまが逝去された。国会会館で元総理の麻生さんの顔を見かけた。妹さんが三笠宮さまの奥さんだと聞いた。多くの偶然が今回あった。寛仁さまは福祉活動に力を注いだ。本人も「アルコール依存症」を告白し、「人は皆障碍者」と何らかの病気に人はかかる。だから健常者は障碍者の事を想わないといけないと言う。素晴らしい人間は早く亡くなるようだ。
写真の遠くに何かが見えます。国会会館の屋上に案内された。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 21:53 】

2012
06/06

天体ショー


一昨日は剣道七段の「小山光夫先生」の写真を撮りに、志中剣道場に出かけた。現在「志津川中親の会スポ少」の指導者として月・木曜日の指導を依頼されている。8時前の帰り時、何気なく明るい大きな月に目が止まった。曇りで月が欠けていた。それは違っていた「部分日食」だった。地球の影が月に映った現象だ。何気ない空の風景、それが天体ショーだったとは後で知る事となった。
今日も朝から「金星太陽面通過」がある。次回は105年後と言う。今日の南三陸町の天気は曇りで、大阪以北は曇りか雨で世紀の天体ショーは見れそうもない。テレビ映像で十分と私は思う。
「宙ガール」が増加している。宇宙の宙はそらと言うらしい。そらガールで「歴女」など、女性の興味の範囲は男性より別の部分にあるようだ。昨日独身の仲間が来た。「婚活」頑張っていた。自分が行動しないと「人生のパートナー」は見つかりそうもない南三陸町の現実、ボランティアとの出会い・結婚と、被災地のウエディングと報道していたが、こんな出会いは50歳を超えた私たちには厳しい。また入谷・歌津などにも多くの40歳以上り独身男性がいる。行政が「婚活」にもっと力を入れるべきと思う。
「金環日食」と「部分日食」そして、今日の金星の太陽通過、こんなにも2週間ぐらいに自然の現象が重なる事で、地球に異常がないのだろうか。昨年の出生数は105万0698人で過去最低で昨年より2万人減少した。原因は女性の人口が減った事らしい。また出産年齢は30代が20代を超え、晩婚化が進んでいる。女性の出生率は「1.39」で横ばいだという。人口の減少は国の成長に比例し、インドの成長はまだまだ続いている。
「金環日食」が若葉にあたり、地面に木漏れ日の太陽が沢山写し出された光景が、テレビで放送となったが、その自然現象の美しさに感動した。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 04:51 】

2012
06/05

菜の花の海


先月26日の土曜日、午前の気仙沼の帰り歌津の元気を感じた。歌津「伊里前福幸商店街」からは、音楽が聞こえてきた。ジャズのナンバーだったと思う。その前の被災地は少しづつの復旧は進むが、一面に「菜の花」が瓦礫を埋め尽くすように咲き乱れていた。商店街は店数こそ少ないが、大漁旗が何本もたなびき、「いらっしゃーい」「元気です」「楽しんで行ってください」と、見た瞬間にそのアピール度が伝わってきた。
伊里前川には今まであった場所の上流に「ざわ」が作られていた。「ざわ」は「しろうお」を捕獲するための仕掛けでであり、しろうおの遡上が震災後にまた始まり、今年は「しろうお」を味わう事ができた。にらと豆腐を入れただけの「吸い物」だが、小さいしろうおから良い出汁がでる。一日も早い被災前の伝統・行事の復活が、被災者の再建の力と、皆が集まる事で元気が増幅する。
南三陸町歌津には「大漁旗」がよくにあう。被災直後も大漁旗で作った帽子が反共を生んだ。海の方もワカメの豊漁・高値で個人生産した漁民は、多くの収入になったと聞く。ワカメの根っ子「メカブ」はもっと高値で取引された。志津川でも銀サケの復活もあり、今後はカキ・ホタテが秋にかけて出荷が始まる。
女川町では「人口流失の歯止め」に、独自の経済支援をする。一世帯に「200万」、住む家により「150万」「100万」を町が支援する。財源は「財政調整基金」から20億円を充てる。私も町の予算で「住宅再建に支援すべき」と常々言ってきた。行政が被災住民への住宅建設助成は、住民がここに住宅を建て、とどまろうとする気持ちを増加させる。女川町はさんまの加工工場の誘致、瓦礫の早期の他の自治体への搬出など、多くの町再建への政策を行っている。女川原発など大きな問題を抱えていてである。
我が町はどうだろう。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:38 】

2012
06/04

再興


昨年の阪神・淡路、今年の雲仙普賢岳の所管調査があった。火砕流の長崎、島原市・深江町の自然災害は想像を絶する猛威だった。先週の被災からの復興の先進地視察でした。
昨日の結構式の終わりの車移動の中で、6月3日が発生からの21年目と言う。午後4時8分に起こった。43名の死亡があり遺族は80名と言っていた。被害が大規模災害ながら、火山の最初の噴火から溶岩ドームの出現もあり、予測できた災害で市民・町民が災害を予想し、避難し発生を監視していた中での発生だった。
火山の調査や消防団の監視、そして報道陣の取材の中で発生した。時速100キロも超える火砕流の速さに逃げる間もなく死傷者を出した。土石流も発生するも監視カメラの設置て被害を逃れた。
東日本大震災での南三陸町の死者不明は違えど、仮設の数・被災者の数はだいたい同じであり、その中で早期の高台移転があった。気になる事は「公共用地に高台移転はなったか」「住宅建設で政府からの再建資金100万・200万の他に助成金はあったのか」、この問題には、私の期待する答えは無かった。
「我が町」の復興再建の姿が見えてこない。現政府もいろいろな事が起こり、政治政策を日本の再生に向け進めているが、政策や取組の結果責任は過失として問われない。すべてが国民に跳ね返ってくる。この構図と自治体の再建も同じに感じる。最善の方向性は国民目線でお願いしたい。日本国も民主主義の国なのに、どこかでその形が変わったのだろうか。
今日野田総理の「内閣改造」だという。田中防衛大臣他5名の大臣が変わる。オーム真理教の菊池直子が逮捕された。見つからないだろうと思っていた。情報提供も500万から1000万に変わったばかりだと思った。
日本の「大和魂」が復活する事を期待する。金・金だけではない事、幸せとは何なのか、もう一度国民は考えないといけない。被災されたお母さんは全財産を「タンス預金」していたという。大部分が通帳復活と思っていた。現在日本のデフレは国民の「内部留保」はタンス預金であり、お金が回る事でデフレの解消になるという。複雑な現実を知った。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:25 】

2012
06/03

生命のパワー


八幡町の佐又酒店の向かいの、八幡川沿いにこのような物体を見つけた。川沿いには大きな「ポプラの木」が何本もあった。その一本が津波によりなぎ倒された。その半分になった木にツルが巻きつき成長し、折れたポプラが再生したかのように見え、車を止め携帯に撮った。
この光景を見て「もののけ姫」をなぜか想像した。ダイダラボツチが現れた瞬間の映像がある。荒野となった山々に一揆に草花が咲いていく。一年と3か月が経とうとする皆三陸町、しかし自然の再生は震災の復興再建より、目に見えるように進んでいる。
この木の周りにはコンクリートの瓦礫やコンクリートの鉄線が、人間の再生を邪魔するかのように、埋め尽くしているのに草花の緑は花は、どんどん上へと成長していく。
今日は11時から結婚式があった。何とかトラブルもなく拙い司会の中で終了した。新婦は「素晴らしい司会ありがとうございます」と、労をねぎらってくれた。90歳になる父は体調がよくないのに、たまに環境が変われば気持ちもさえると、短歌を作り詩吟で歌いあげた。
やはり子供は父親母親の背中を見て成長する。「ほおら足元を見てごらんこれがあなたの生きる道」、これはキロロの「未来へ」である。この歌はカラオケが続かない中で、自分が新郎新婦に送った。
今日は歌津の方も結婚式を挙げていた。同僚の本家の家らしいが、ホテル観洋では会えなかったが、この日の二つの結婚式は被災の町にとって、最大の喜びあふれる光景があった。
それにしても瓦礫の市街地には緑の再生に、驚きを感じる。しかし「防災センター」前では観光バスが何台もとまり、センター広場にはあふれる人並みとなった。支援観光の場所としての手を合わせる場所は、6月中の公共の建物の解体があり、それに替わる場所は何処になるのだろう。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:46 】

2012
06/02

風化阻止

メニュー 060
3・11から一年と3か月になろうとしている。世間は復旧そして復興と言っているが、あの日から立ち直れない被災者が沢山いる。
仮設の生活者は今後への不安と、南三陸町へ・元の生活に帰りたくても、働く場や資金を得る手立てもない。義援金・支援物資も、自立への損傷とならない範囲で、仮設生活者に行政が支給支援すべきと思う。長引けば長くなるほど、多くの不幸や事件に繋がる危険性を心配する。国内で竜巻が発生し、災害がまた発生し、南三陸町の大災害が忘れられると危惧する。
全国から支援の輪はまだまだ必要で、その訴えを多くの町民や知人が言っている。写真は昨日話した茨城県那珂市の荒町出身の佐々木さんの活動を紹介したい。
那珂市のイベントに南三陸町の産品を販売し、南三陸の現状と産品を紹介したのが昨年だった。今年は「南三陸からの手紙」の被災者の津波の恐しさを伝え、支援の風化をさせない活動をしている。
写真は那珂市の市長さん・教育長さんに寄贈した時のもので、右から2番目が佐々木さんで、私より3歳下だった気がする。市内の小中学校にも一冊づつ寄贈した。今後は読み聞かせもしたいと話している。
復旧・復興は大会社や組合など「復興特需」に沸く関係団体は良いが、一般の被災住民は長期に渡る支援が必要で、こうした活動は大いに意義がある。
私も微力なから精一杯の活動をしていきたい。最近その活動の支援の輪が、拡大している事を肌で感じている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:34 】

2012
06/01

南三陸町最高


昨日・昨夜と時間に追われる一日となりました。しなければいけない事の半分もできないでいる。日々に時間が後押している一日がまた終わった。
先々週から色々な事がありすぎ、記憶にとどめておくためブログに書いておく。6月20日日曜日は仙台で結婚式があり、村田の式場まで2往復、仙台で披露・宿泊し朝五時には会社に帰った。22日は仙台で印刷組合の総会があり、全国の組合員からの支援に対し、感謝の意を伝えたく懇親会に参加した。23日も仙台に人を送り、午後2時からの商工会の総会に参加し、会の活動と新体制への動きを見た。夕方から志中剣道部へ引き続きスポ少で、子供たちと剣道で汗を流した。24日にまた5時まで仙台へ行った。25日は臨時議会・総務委員会・広報委員会と3つの会議に参加し、時間が5時30分まで係った。その後仙台に向かい、7時に付き夜9時半に帰り、夜12時に帰宅し爆睡した。26日はホテル観洋で交流会があった。また仙台に向かう。27日は「復興市」で、特設舞台の踊りを写真に収め、午後には「う~みコンサート」を聞き、その彼女の歌に感動した。土曜に買い求めたCDを仙台の行き帰りに聞き、眠気を吹き飛ばし、心の癒しと元気を得る事ができた。さすがに日曜は月曜日の曜6時50分の出発にあたり、残務と準備をした。当日は3時に起床しブログを打ち更新をした。そして三日間の所管調査で雲仙普賢岳の被災地に向かった。30日に帰郷して5時に志中の剣道部へ行き指導、6時30分からのスポ少に臨んだ。
この間にも仕事とトラブル処理がある。倒れる事もなくこの10日間の、無謀な生活をこなしたが、充実感でいっぱいである。生きていられるから、出来る事でもある。この中での憎み合いは何の意味もない。この意味を先輩同僚から知り教えていただいた。
朝の志津川湾の旭と漁業の営みに感動した。古くから続く姿ながら、今日の光景が百年・二百年前の光景と同化して見えた、今日の気持ちは復興再建への新たな気持ちとなった。
う~みの「遠藤未希」のため作った歌がある。「あなたへ」、♪この澄み渡る秋晴れの空を あなたにあげましょう 人のため生きた あなたへ♪ メロディーに彼女の生き方に、癒しと元気をもらっている。あなたの町の顔として窓口の職務を超えた「笑顔を」今でも思い出す。剣道部の女子部の部長?として、一緒に剣道で汗を流した事も決して私は忘れないよ。♪この空白の今日の私を あなたにあげましょう わたしの最愛なる あなたへ♪
荒町の出身の「茨城の佐々木さん」ご苦労さまでした。南三陸のこの悲劇の風化をさせない活動に感謝。 

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:08 】


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