ARCHIVE - 2012年03月

2012
03/31

海の貝に

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旭が志津川湾の中央を照らし輝かせていた。ある朝の光景です。仲間の同級生の両親の、今回の大災害での突然の死に、「お父さんは大好きな海に帰った」、「海の貝になった」と、きれいごとのように表現した事は、友人にとってどう思ったのだろうと昨夜考えた。
三陸新報から「故郷永遠ふるさととわ」の震災の記録「第2弾」が発行された。その1ページに気仙沼市・南三陸町の死亡者の名簿が載っていた。新聞には当時毎日のように掲載されているものの、改めてのチェックはしなかった。一揆に「我が町」の尊い命の消失に目を通した。知っている方々の名前に落胆し、同級生らしき確認できなかった女性の名前に、「彼女も!」と驚いた。二人とも名前が「みねこさん」で、年も同じで間違いなく彼女達だ。一人は中一の時にクラスの書記を共にしたし、一人は活発な女性だった事を今でも覚えている。
不明者の名前はなく、この海に引き波の犠牲になったのだろうか。9月1日現在で死者449名で不明は339人を数えていた。合計788名ながら現時点でも数名がDNA鑑定で、死亡となってはいるものの、数は同じである。下は2歳から上は102歳まで多くの町民のかたが亡くなられた。
役場職員の一人は言う。「町長の声が今必要」と、中学校で被災し翌日に防災センターまで、職員をあんじ迎えに行ったという。そこで町長が無事だった事を知つた。職員のドラマはあまりにも多くて悲し過ぎる。町民の安全を確保する為職務を全うした中での、殉職であった。
本吉病院に山形県出身の医師着任に続き、今度は四国から医師が新年度から着任する。被災地での医療活動をとの。「困っている地域医療救済」の正義感に燃えての赴任と言う。南三陸町での医療体制も厳しく、全国からの医師が来てくれる事を今後町民は期待している。
就職難の現状で就職に悩んでの「自殺」が41人にもなるという。被災地の現状は働く場所がない事や、被災・津波のショックで未だに、仕事に戻れない方が多くいる。多くの悲劇を未然に防ぐ対策を、オール南三陸町民でやって行きましょう。
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2012
03/30

突然

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昨日は用事で志津川中学校に出かけました。玄関には「ようこそ戸中・福祉大のみなさん」と、来校への出迎えの言葉が表示されていた。志津川中に戸倉中が一階部分を利用しての、併校しての新年度の準備が進んでいた。
玄関に横づけされたトラックの荷台が開き、学校の備品が多くの方々の手で、志津川中学校に運びこまれ行く。東北福祉大学の学生の皆さいなのか、学校の再開支援にあたっていた。
戸倉小・戸倉中の父兄に併校での学校生活の説明会が先頃あり、私の携帯にその不安の声が届いた。教育長に聞くと「色々な問題がありますが、子供たちの事を考え対応する」との旨の説明があった。志中・戸中の生徒の交流が順調にいくのには、両校の生徒・学校・家庭の連携で、教育委員会の見守りと気配りに係っている。
志津川の仮設商店街の名前は、「南三陸さんさん商店街」のネンミングが、出迎えの看板に書かれてあった。志津川仮設名店街とばかり思っていた。この一週間は毎日のように出かけているが、お客さんの多さにビックリする。こないだば西宮から2台のバスが来ていた、買い物客がお昼を過ぎても、ごったがえししていた。飲食店には店内で空席を待つお客さんが、今か今かと待っている光景に、今の状況を維持するために、更なる努力が必要と思う。来客は予想どうり観光客の「買い物支援」と、滞在するボランティアさん、建設関連・関係者が大半のようだ。
「ウジエスーパー」さんが、大型バスで販売を始め、戸倉の営業所前にも停車しお客さんを迎えていた。しかし、大型バスが町内の仮設を回るにしても、大型バスが総て仮説までいけない事がある。道路も狭く、高台にあり駐車スペースもなく、まだまだ被災者には厳しい「買い物弱者」が沢山いる。

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2012
03/29

焼却

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南三陸町の焼却場はゴミ・リサイクルゴミの一時預かり場で、気仙沼の焼却場で焼却処分をしてもらっている。今日1か月半の事業所ゴミを持っていた。二つあるゴミの回収集積場所は一つがいっぱいで、そのゴミの量に驚いた。聞くところによると、気仙沼の処理場が修理のため止まっているためとの事だった。
南三陸町のゴミ処理場は設備の老朽化とダイオキシンの対応のできない物で、10年前になるが、戸倉ゴルフ場跡地の建設話も、海へのダイオキシン問題での漁民の反対により実現はしなかった。また、協力金の裏金という「黒い噂」もささやかれ、町の大問題ともなった。
そして来年度から戸倉に瓦礫の二次仮置き場と焼却施設の建設が始まる。戸倉の地区民の皆さんには申し訳ないが、そのままで焼却施設を活用し、養殖や発電といった活用を考えても良いのではと思う。
宮城県のアワビの採卵・育成が、今回の大津波で壊滅となり、その新しい場所の選定に我が町でも声を上げたが、水温が「2度」低いと言う事で、県のアワビ育成場所には不適だった。焼却熱の活用は資源の再生と、発生熱の利活用と一石二鳥でもある。町の被災の現状からも多くの復興交付金を利用しない手はない。
気仙沼の小泉地区の瓦礫処理には、「焼却施設」ではなく「熱分解施設」を提案していると聞いた。ダイオキシンの心配もないという。小泉の二次処理場の反対者からの提案を採用したという。
新しい町づくりと言うなら、こうした施設の建設もこの現状だからできる。被災前の抱えていた問題を今だから解決する資金・提案など、町に新しい物が建設でき、「町の事は町で」の基本に帰る事ができる。
同僚も500万円の焼却炉を20基設置して、少しづつでも焼却すれば、60万トンある瓦礫もまだ1.6%しか処分されていない状況から、半年前にこうした計画を立てれば、10%はかたずいていたかもしれない。一歩一歩

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2012
03/28

はる

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「早起きは三文の徳」の言葉はやはり本当みたいです。朝6時の通勤であまりの海の太陽の輝きに引き込まれ、崖のふちまで行って携帯で写真を撮った。帰り際足元を見ると、今から花を咲かせようとする「蕾」のふきのとうを見つけた。大地の力を感じたのは、ここは大津波の浸水地域でもある。一つ二つと見つけると、一面に「ふきのとう」が咲き乱れ、春は紛れもなく被災地に「2回目の春」がやってきている。「明けない夜はない」と昨日も誰かが言っていた。
昨日は「南三陸仮庁舎」「南三陸町仮診療所」「歌津総合仮庁舎」が完成、「竣工式」が開催された。辻元代議士も出席されていた。理由は町長の説明で判った。被災後に辻元氏が来町し、公立病院の流失被害で医療が壊滅となった事を伝え、その救済を訴えた。早速「内閣府」にその南三陸町の現状を辻元代議士は伝えた、直ぐに南三陸町長に「官邸」に来てくださいと打診し、町長が赴き今回の資金ができ、今回の診療所完成となった。
3億円の診療所建設費と、3億円の診療機器の6億円が「赤十字」をはじめとする、多くの支援により完成の運びとなった。南三陸町庁舎も完成しその大きさと、広さ設備に驚いた。
私は被災者の「仮設暮らし」を考えると、もっと質素に最小限での庁舎建設でも良いと感じる。5年10年と町民の仮設生活は続くと予想される。高台移転も多くの難題を抱えている現在、行政もある程度おさえた施設建設でも良かったと思い、住民感情も意識すべきで、その温度差があるのではと感じる。
「南三陸町からの手紙」が全国・世界で多くの感動を受けていると聞く。大津波直後の町民の感じた体験した事が手紙として綴られている。一行を読んだだけで一揆に小さい文字ながら、文章に引き込まれる。私もプロジェクトに参加していて、今増刷中です、もう少しお待ちください。
また昨日竣工式と同じ時間に、戸倉地区の守り神の「戸倉神社」に、被災した神社救済に京都の神社から、多くの人たちと支援の活動があり、後藤一磨氏が宮司に変わり、その受け入れを行った。支援の輪はまだまだ続いている。

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2012
03/27

繋がり

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昨日は「戸倉剣道」の教え子が、少年団の戸倉小の子供たちが総て卒業での、「戸倉剣道」が一つの区切りとなつたとブログに書いたらら、早速、心配しメールをくれた。皆が卒業したから少年団を終わるでは、10年近くやつて来た伝統と歴史に申し訳ない。小学生の入団を待っています。
戸倉小学校の児童との繋がりは小6生が高学年で、彼らも小学校を巣立ち10年が経つと、23才となる。もう大人として社会の一線で頑張っている。まだ、結婚はないが長男も多く、帰郷する事を願うが、今の南三陸町戸倉の姿を見ても、家族も本人も帰る事を躊躇するだろう。祖父母・両親が暮らしてきた、故郷「戸倉」の再建のため、その一員になり、新しい南三陸町「戸倉」を創造して欲しい。
昨日、またフォーラムの開催の出席以来がきた。28日は予定が入っているので、参加を見合わせた。「有識者」の方にぜひ来ていただきたい。との事だったが、私はその域にはたっしていないが、「南三陸町の再構築」のためなら、時間の許す限り、参加し現状を伝え、多くの全国・世界の皆さんに来町してもらうため、その発信者としての活動も続けて行きたい。
パソコンの少し判る従業員の雇用を決めた。ホームページ二つとブログ七つを復活、再編集する。ブログは現在やている「愛と死と・・・」の他に、南三陸町からの「贈り物」「結婚したい」「ヤング」「政に思う」「お悔み」ともう一つの「けっこんした~い」の七つで、被災前は定期的に総てを発信していた。
南三陸町は現在全国民が注視している、一番有名な町かも知れない。今は発信不足の低迷する町の姿が、私の目には映る。写真は昔の姿が跡形もなくなった、「大雄寺」の山門で400年以上の大木がお寺まで続く、葬儀行列のつうろだった。この光景に涙するが、「歴史は又創られる」、と言う、その大役は未来の子供たちの手に委ねられている。

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2012
03/26

中学

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中学の教育に「武道」が取り入れられ、志津川中は「柔道」で戸倉中・歌津中は「剣道」と決まった。昨日の大会はこんなにも多くの剣道大好き少年たち、3割近くが中学校に行き、同じ3割が海岸線の地区の子供達、多くが津波の大災害を受けた。67チーム参加ながら常に参加していた気仙沼地区のチームが来ていなかった気がする。
昨日は多忙の中での大会の引率、前夜に「オーダー表」を作成していない事に気づいた。朝商工団地から5時に戸倉の工場まで、紙は印刷社なので大丈夫だったが、その大きさに悩んだ。30分ぐらいで完成させ、再び中学校したの「ファミマ」へ、そして再び戸倉地区を通り田尻の会場に向かう、あわただしい一日だった。
先週の議会で住宅建設への「利子の助成」があった。役770万円だった。造成・建築・その他に合計でこの額が上限で利子補てんされる。他にも別角度で支援制度があった気がする。説明で5000万円の建築で30年ローンを組むとその上限の「770万円助成」になると、例を挙げての説明だった。1500万で15年ならどうなるだろう。三分の一で200万円でも助かる、支援加算金も含めると1300万円で自宅が建てられる事になる。しかし、資材・建設費も高騰していて、「机上の計算」のとはいかないだろう。住宅建設にあたっては多くの支援制度があり、利用しない手はない。多くの情報を住民に流し、早急の町の再建に町民を向かわせて欲しい。仕事も収入もない町民も多く、生活の再建には時間がかかり、厳しい現実を理解して欲しい。
その前には「防集」の合意が必要と言う。「防集」とは防災集団移転制度で、地域の意向と合意によって、土地造成から「災害住宅」と「土地区画整理」での高台移転までの国の支援制度であり、数百億円かかる事もあり、それは住民構成数によって違う。ちなみに戸倉のゴルフ場跡地に関しては「111億円」の造成整備費と、行政より報告があった。現在、にらの浜、寄木・藤浜・馬場、中山など、24年度から本格的に「防集」が始まる。2年間がスタートから整備までには最低かかる。
本浜地区は100ぐらいから「85戸」ぐらいになり、95%は所在を確認し、今後方向性の確認をする。私の予想では半分ぐらいになる気がする。それは紛れもない「人口減少」の現実である。

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2012
03/25

:剣道

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「戸倉剣道スポーツ少年団」が、きょうの大会で最後となった。今季残っていた6年生3人の卒業がある。志津川の小学校の団員2人がいたが、戸倉小学生と共に総て、中学に進級する。今日の試合は生徒にとっても、私にとってもほろ苦い最後の試合となった。
10ぐらいは戸倉剣道の指導者として経つ、50人以上は団員として卒業した。この震災が無かったら、4年生がいたが震災で転校をした。今回の震災は他のスポーツ少年団にとっても、大きな岐路となっただろう。しかし、゜戸倉剣道」の名前はこのままで当分は活動したい、戸倉・志津川小を含めても現在は小1が女子一名である。
「戸倉小中・志津川小中団員募集中」です。先ずは見学からどうぞ。しかし、志津川中学校武道場までの、子供たちの夜の送迎が最大のカギである。被災された子供達を持つ家庭は登米市を始め58か所の仮設での生活、自分たちの生活の維持もあり、子供たちのスポーツへかわりは、してやりたいけど厳しい。である。
写真は今日の大会の審判長の注意の風景で、審判長は「遠藤清吾氏」である。67チームが参加しての大会350名の少年剣士とその家族・関係者が1000名は集まった。南三陸町には「遠藤三兄弟」がいる。お兄さんは私の理想とする指導者です。現在は休んでいますが、また復帰する事を願っている。精神・姿・気品、総てに自分にもっていない物を持っている。遠藤先輩がいたから今の私がいると言っても過言ではない。
今日また確認した。私は剣道大好き人間である事を。志津川中学校にはこの子供達を含め、戸倉剣道スポーツ少年団出身が5名もいる。その他に8名の新入学の生徒が、志津川中剣道部に入るという。友達に声を掛けたらしい、まだまだ志津川の剣道の貢献への活動はできそうである。

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2012
03/24

春遠く

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今日の朝、まさかの大雪信じられない光景が一面に広がっていた。タイヤ交換をしなくて良かった。今日の雪は水分を含みすでに道路は「ビチャビチャ」状態、カーブは滑る気もする。朝、テレビはこの雪のせいか、商工団地の倉庫の「我が家」はNHKしか映らなかった。
写真は東山公園で、南三陸町の「避難場所」と「桜の名所」です。開花は宮城県は4月15日の予想だと思った。大災害がこの町とこの場所にも押し寄せたが、昨連も被災後は綺麗に桜が満開となった。私も風景を伝えようと、昨年も桜と被災地を写しブログで紹介したが、桜のピンクの満開はいくらか心を癒してくれた。しかし、今は一年たっても現状復帰のむずかしさと、その被災の南三陸町の広さがある。
昨夜二件の電話が8時30分ごろ入る。この時間は私もすでに睡眠モードと、電話が来る事は決してない。東京と福岡からで、父の友人からだった。常々多くの支援物資を送ってくれる。この恩返しに「千葉のり店」さんから、美味しい焼き海苔を送っての感謝の連絡だった。この時間両親は就寝中で、いつも私がその御礼で話をする。「何か必要な物あったら言って下さい」「ご両親を大切にしてください」が最後の言葉である。私も二人の友人以上の気づかいに涙がでる。「もう大丈夫です」と話はするが、人とのつながりがここにある、被災後に強くなった方と、疎遠になつた方がいる。皆大変なんです。父の友達は「花が咲くと心も少しは癒えますかね」と、春のおと連れがあり暖かくなればとも話す。
南三陸町から町外に移り住む方に、情報端末を配るという。町の情報の遅れをこれでカバーするという。1500戸を対象に「300戸」からすでに申し込を受けている。他の自治体は前に「南三陸町」より進んでいるように思うのは自分だけなのか?。学校も終業式を昨日に終え、新たな学期に家庭は準備に取り掛かる。

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2012
03/23

隠ぺい


ストーカー殺人の警察署の隠ぺいが明るみとなった。ストーカー相手の母親と祖母を殺害した事件は、広域の警察の連携のむずかしさと思っていたが、千葉県習志野署の一週間待つては、「北海道慰安旅行」があったからが原因だった。いくら予定していた行事とあれ、解約費と二人の人の命には代えられない。一週間延ばして下さいと言った刑事が旅行に参加していた。警察官としての公務員としての、意識にかけ指導もなっていない。警視庁長官もこの事案に説明のしようもなく、厳しく調査すると言う。
東電の電気料のが17%値上げします。と企業・一般に通知した。しかし、企業の電気料は契約期間があり、値上げの通知に対し、契約期間中は「支払拒否」ができる事を、通知の内容に説明をしていない。東電の社長は「値上げは権利」と言い切った。このことでも電力会社の「独占体質」の「おごり」がこの言葉や行動にも見える。
耳三陸町長のドキュメントが一周忌の「追悼式」の前日にNHKで放送された。外部に流れる事はあってはならない、防災センターの屋上で職員が撮影した、カメラ映像の一枚が全国に放送となった。職員遺族の会への了解もないままで、流出した事への調査は、昨年3月の末頃にどんな形かはわからないが、対策本部が考えられると言う。この時期の写真データなど、職員・出入りした人が「メモリーカード」から、PCを使い持ち出す事は不可能で、何で一枚がNHKにと考えれば、それが必要な人物が放映される近々に流したのではと、私は推測する。
これまでも「権力の隠ぺい」は、社会を揺るがす大きな事件として、国民の世論を動かす。道徳や人間としてのモラル意識の回復は「悪い膿」を出し切るしかない。
昨日あおいクリニックの本田先生と「さかなのみうら」さんで会った。22年12月以来の再会だった。南三陸町の医療機関・介護施設などの役職の場にあったが、町の被災後の情報が来ないと嘆いていた。こうした方々の今後の町の医療体系の構築には、地域性も鑑み必要か人物と思うが、その連絡は希薄なのはなぜだろう。
石巻工業の野球部主将は、春の甲子園で全国に誓った。「日本中に届ける勇気・感動・笑顔、見せましょう日本の底力「絆」を」と、地元・県民ならず全国に被災地の感謝の言葉を述べた。今は被災地のこうした「メッセージ」が必要と思う。被災地でもある茨城県議会は、被災地からの瓦礫受け入れを県議会で受け入れを決め、知事も地元の自治体市町村・民間に、瓦礫の焼却処分を打診した。
南三陸町も今月中に被災地の地価が決定するという。こうした中で全国の「公示地価」が発表となった。気仙沼市は-18.3%の下落で全国一となり、石巻市は60.7%と日本一の上昇となり、被災地の土地は「二極化」という、歪みをみせている。ちなみに東京銀座は1㎡当たり「2700万円」で、また今年も上がった。
今月末までに町民も土地がいくらになるか判る。これで南三陸町の動向も、大きく変わる気もする。自分だけの為となる「隠ぺい」は、誰の利益となるか突き詰めれば、おのずとその裏側が見えてくる。
写真は志津川高校の「モアイ」です。私は個人的にはこちらのほうが好きです。

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2012
03/22

色々


昨日は「チリ国」から大統領が南三陸町に御出でになったという。志津川中学校と志津川高校も訪問した。被災後も志中には大使などの「チリ地震津波」との関連からの訪問だった。志高へは何で?というと、被災後に生徒の玄関の向かって左に、モアイの石像が設置されたからなのだろうか。
こないだの卒業式に行った折に発見した。志高生が「モアイ缶バッチ」を、被災地からの発信と支援の輪という意味合いを持つ、作品の考案があった。一度皆さんも母校「志津川高校」に出かけたら見て欲しい。町内に建設された松原をはじめとする、二つのモアイは津波により破壊されている。今はモアイ像としては高校にしかない。
ある先生が「モアイ」の意味を説明してくれた。「モ」と「アイ」の二つの意味があり、未来へと向かう? だったかな。今後も「チリ国」との交流は、今回の事を通しても又深い「絆」となった。
高台移転候補地からの「遺跡」の発見で、造成・建設が遅れている南三陸町、「旭館」をはじめとする、古い遺跡が町内全域に点在している。大久保の茅葺の家も文化財として四国に移築される。今年の大雪は、地震により崩壊しかけたが間逃れ、今度は雪の重みの倒壊を防ぐため、ミドリの覆いで現在は保護されている。
歴史との出会いを大切にしていきたい。、

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2012
03/21

子供


世界では多くの子供たちが、飢餓や虐待で理不尽な「死」に至っている。犠牲者はゆはり「弱者」であり子供たちが犠牲になっている。
私は子供が大好きで二十歳を過ぎた頃から、女性というよりも「結婚」にあこがれ、その先の両親に「孫」をと思うようになった。屈折していたかな? 結婚観は案の定「バツ一」となった。しかしながら、子供は大好きで子供たちの「涙」や「耐え頑張る姿」に、目から嬉しさ悲しさがあふれ出る。「頑張れヨ!」の気持ちが総てである。
志津川小学校の卒業式が16日にあった。震災後は生活の確保と、子供たちの動揺を無くすため、町外に多くの小学生の家族が移り住んだ。58人の卒業生ながら、頼もしい子供たちの姿があった。1年生は40名に満たないとも聞く。全校では240名が280名と生徒が戻ってきている。「我が母校」、在校生が少なくなっていくのは寂しい。今から45年前は「900名」もあったのに、今日も日本最古の学校が閉校となった。ピーク時300人が今は「7名」と言う。
話は大きく変わるが。世界一の世界指名手版リストの「№1」は、ウガンダのコニー容疑者だと言う。皆さんも知らないでしょうが、武装組織のリーダーで、子供たちを誘拐し兵士に作り上げたり、女の子は33名を妻にしたという。その最初の子供の兵士の仕事が「両親の殺害指示」だった。それに背くと即座に殺害した。その殺害を一人の男の子が見ていた。兄弟は首をはねられた殺された。「両親の殺害支持なら自分わ殺して」と叫んでいた。この光景と告発がアメリカのNPO法人が、動画を作成し世界に配信した。全世界がこの悲劇を知り、無名のこの容疑者は世界で知られる事となった。この世界の動きが「オバマ大統領」を動かした。ウガンダに軍の指導者を派遣した。殺人・誘拐・強姦など罪と2万人も殺害しているという。弱い子供を使って両親を殺害させる、この非道は人間ではなく、こんな事が世界で起こっている事に、人間という動物が判らなくなる。
大人用おむつが「子供用」を抜いた。昨日は「地下鉄サリン事件」から17年で、指名手配の2人も懸賞金が500万から1000万円になった。研修医師の「マッチング」があった、医師不足の地方病院は町の重大課題となつている。98名の研修医師も病院選択には、自分の研修場所での技術・知識の向上もあり、地方の病院は着任は厳しいという。

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2012
03/20

厳冬

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3月もあと10日で終わり、4月の新しい年度そして「新入学の春」が来る。しかしながら、「春分の日」の春彼岸、朝に車を見ると5㎝も雪が積もっていた。昨夜はその予兆も無かったのに、まだまだ「スタットレスタイヤ」の脱着は出来な。4月になると、一度は必ず雪が降る「南三陸町」です。
58地区に点在する「仮設」で生活する被災者の、今年の大雪での生活を心配するが、「特に支障はなかったです」と言う。テレビても「仮設を準備していただいた事に感謝です」と、被災者の多くの支援の中で、「贅沢は言え
ない」との気持ちがある。子供達がこの自然の猛威の中で、頑張っている姿を大人が見て泣き言を言ってられない。剣道スポ少でも、団員は練習に来て辛さを口にしない事からも、大人より「秘めた可能性」が見え隠れする。その純真な心を守り伸ばす使命が大人たちにはある。
今年の大雪の朝、20㎝近く降った雪道を歩いても、携帯に収めたかった「雪景色」がこれです。国道の谷間にひっひりと家が立ち並び後ろには木々の雪、自然の美しさに朝から酔い、何か天から「贈り物」を貰った気がした。「早起きは三文の得」というが、これなのです? この日も6時ごろで国道を通る車も少なかった。
首長の発言をメディアは常に狙っている。良い面も悪い面もである。被災地ではメディアも沢山いて、被災者が自分であっても、被災民に気づかう発言が求められる。そんな中での石巻市の亀山市長が「運命」と、今回の犠牲者に対しこの言葉を使った。謝罪はしたが、運命とは今回の津波で命を失う事が決められていた。と言った事になる。著名人の言葉は重い。自分の人生をも変えてしまう。私も多くの「失言」「文章」で指摘され、発言・行動に慎重に今を生きている。

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2012
03/19

支援観光

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今まで確認しなかった箇所に何件か見に行った。旧志津川中学校の避難場所だった高台も被災した。片付けられてはいるものの、慈恵園・ディサービスセンター・のぞみ作業所・志津川社会福祉協議会の入っていた場所は、室内の瓦礫は取り除かれているものの、今後の活用はなく、解体との方向と浸水施設の利用はない。ながら「名足小学校」「戸倉中学校」は今後活用するとの、地域の要望に応える方向性を見せている。地域の教育施設の廃止は、自分たちの「歴史」を消されるという気持ちとなり、ここは考えはいろいろだが、難しい判断と決断が求められる。一階まで津波ながら防潮堤防を3m回し、裏山への避難路を確保できれば、数億の施設は蘇る。
写真は「コインランドリー」と「カフェ」と言う。今、南三陸町には多くの「コインランドリー」が建設設置されている。冬場は寒さと天気で乾かすのに大変という。こういう理由から多くの活用がある。また、町民が集まれる場所として、「サロン」がお茶のみ会の場として、仮設の集会所や、支援団体が運営する「つどう場所」が創られ、生活行動の不活発を予防しているようだ。
昨夜も志津川仮設商店街の「豊楽」さんに行って夕食をと思ったが、5時半には「終わりました」と、昨日の日曜も盛況だった事を伺わせる。大型観光バスの来町は、全国からの「南三陸町」への支援活動と言える。先頃も「京極」さんに、宮川理容さんに父親を迎えに行った折、「京極」さんにそばを食べに言った。五名の女性団体さんが来店され、にぎやかに食事をしていた。こころで大感謝である。お昼すぎだったが「行列」のでき始めだった。4・5店の飲食店、もう少しあっても良い気もするが、一週間通しての来客数となると、順調かというとまた違う。各店30名ぐらいが無理して入れる人数、あくまでも仮設の商店、限界もある。
今日の月曜日も団体客が来るという。若くして亡くなった同級生の店「豊楽」は、80才となるお母さんを、娘さんの息子さんが、おばあさんと「二人三脚」で切り盛りする店です。ブログをご覧の皆さんも、ぜひ「元気」をこのお母さんから吸収してください。まだまだ元気なお母さん「無理しないで」。

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2012
03/18

特需

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復旧・復興への関係企業が国の「復興交付金」の恩恵にあたり、国民は被災者のため多くの支援を増加させ、風化させないよう「継続支援」を図っている。
仙台「国分町」は建設業者の来店増加で、大盛況との話が、震災直後から続いていた。県外からの多くの関連業者が、被災地の復旧工事に進出し、地元建設会社と共同事業をしようとしていて、今後その動きは大幅に増える。被災地元には宿泊施設もなく、新幹線のもより駅まで来て、そこからはタクシーやレンタカーしかなく、メディアの足はこれしかない。今まで不況を連呼していた、人たちはこれを好機として、復活を願う。
「復興グリーンジャンボ宝しぐ」は、大好評で落ち込む売り上げが、なんと「1.7倍」で150億の売り上げだった、販売前に売り上げの70億?が、復興支援を唄っていた。私も初めて少しだが「支援に回るのなら」と「夢」と共の、宝くじの二つの意味に乗った。3月23日が発表と聞くが、この日もまた多忙中であり、発表など頭にも無いかもしれない。
写真は志津川中学校からの先週5時30分ごろの風景。この夕間暮れの薄明かり、3・11と同じに見えてくる「フラツシュバック」がこれなのだろうか。国道398と並ぶ八幡川、横断する「気仙沼線」、今は当時の面影も消えてしまった。私は八幡川を上る津波が、船・家・車・・・総ての物が、黒い津波と共に登ってきた。この光景は一年が過ぎても脳裏と目に焼き付いている。信号の赤と車のヘッドライトの帯だけが、連なる。後は変わらない瓦礫だけが撮りのぞかれた被災状況が広がる。
八幡川の防災庁舎側は1mに嵩上げで祈念緑地となり、手前は6mのかさ上げで観光・商店ゾーンと、工業施設がゾーンニングされている。職住分離の政策で、ここには町民の居住地は造成されない。
私は八幡川の「バック堤防8.7m」が、この町の魅力になる気がする。都心の「荒川」の土手の光景が目に浮かぶ、それを家族と散歩したり、ジョギングをする町民、住居となる高台から海までのコース、潮風に吹かれながら最高の気分となる気がする。自然との共生がこの町で生きる「最善の道」です。しかし、この地で多くの町民の命が失われた事を忘れてはいけない。

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2012
03/17

卒業


今日は一年前と同じ時間4時に起き活動した。電気もない・水・電話など生活の元となる、当たり前に使っていたライフラインの総てがない生活だった。
水は新井田川の上流から、バケツとペットボトルを5本ナップザックに詰め、2・3日に一回は水汲みに川に行った事を思い出す。放射能は、そんな事を考える余裕もない、というか「今日起こっている事」が判らない頃だった。
昨日は志津川小学校の卒業があり、58名の子供たちが中学生の階段に立った。高校・中学校の卒業も終わり、最後志小の節目の日となった。
後で志小の風景写真は紹介したいが、写真は見てのとおり志中である。、この震災で多くの「心の傷」を負った子供たち、家族と共ながら誰かが居ない現実の中で頑張っていた。私の少年団の子供たちも5名が、学校は違うが家を失くし、家族の死亡など、子供にとってはどうして受け止めて良いか判らない現実にある。その状況の中で「卒業」の主役として、立派に「凛」とした姿に涙した。気丈に式に臨む姿、3・11から被災に耐え生活していた子供たちの顔を思いだす。
避難所では仲間と生活する事に笑顔さえ見れた。しかし、その裏には多くの不安があった。この心情や「これからどうなるだろう」の不安は小学校高学年とて、無いという事はない。家族に心配かけまいと思っていただろう。そして、昨日卒業を迎えた。激動の一年、きっと強い大人となるだろう。
志津川小学校の卒業生は2クラス58人、在校生は250人くらだろうか。被災前は「400名」を超える児童がいた。私たち31年生まれは5クラス「250名」を数えた。子供たちの減少は被災地での生活環境があり、家族が生活する為に止む無く近隣への転出を考えたためだろう。
戸倉地区においては、子供ちたにこの被災状況を見せたくない、子供の心情を察して、この地の生活をあきらめた家族の声を聴いた。また、南三陸町戸倉地区に戻りたいと、志津川小での校舎を利用しての、戸倉小学校の来年度の生活に、家族が登米市から南三陸町の仮設に入居し、戸倉の学校の再建を願っていた。
「町の宝」である子供達の維持は、町の存続に大きな影響となる。一日も早く町の復旧しかなく、荒削りの「町づくり」でもいいから、南三陸町の「町民帰還」が私は必要と思う。新しく「防災に強い町」の構築もあるが、誰もいない町にいくら「素晴らしい町」を造っても、何の価値もなく、人が元のように住んで初めて「復興」となる。

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2012
03/16

頑張


「ガンバレ」と言う言葉が被災直後は禁句となっていたが、このスポーツ活動を見ていると、もう復活しないといけないと思う。今年の寒い道場で、裸足・冷たい道着・重い防具をつけての剣道、小学生ながら大変で頑張っている。今月末にはこの成果を見届ける大会で応援の中で、「頑張れ」と試合に声が出される。
被災地も一年がたち、「生活不活発病」からの脱出する為にも、この子供たちの姿から元気をもらい、来る春に向けて頑張るときが来ました。
昨日は「志津川仮設商店街」に一挙に5軒回った。「千葉のり店」「マルセン鮮魚店」「宮川理容」を昼間に、夕方は「はしもと」で夕食、「京極」さんはこの日ものれんは収められ、予定の材料が終わったのだろう、今度はお昼にでも「かつ丼」を食べに行きたい、あの味は今でも恋しい。
東京都は人口が1268万人で世帯数が636戸と、一世帯あたり「1.99人」で2人を割った。大都会東京の一世帯の人数は、学生や働く人たちの集まる場所、一世帯が「ひとり暮らし」が多く、この数字は当然ともいえる。独身者が増加している事も起因するが、現代の社会問題でもある。
昨日は「婚活」が仲間の議題に上った。被災後のみならず、全国でに「人とのつながり」や「一緒にいる事」など、結婚への気持ちが増幅している。チャンスとも捉えられる。しかしながら、被災地の独身者は家も財産も総て無くし、「結婚してください」とはなかなか言えない。都内の女性も今がチャンスで、共に助け合う事を「ボランティア」などをとおし、現地の人たちとの交流で、多く男性や女性の相手の事を、この厳しい現実だからこそ、素直に出せて相手を知る事ができる、「出会い」「結婚」となるキッカケとなるかも知れない。
「なでしこジャパン」女子サッカー、韓国との女子クラブ頂上決戦、3対0で日本が勝った、若き「京川」がヘディングで後半2ゴール、18才である。若きアスリートが頑張っている。また、「春の甲子園」で石巻工業高校の主将が選手宣誓の栄を手にした。今から宣誓の言葉が楽しみである。

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2012
03/15

余震

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昨夕の地震はいつもと違うように感じた「津波注意報」が発令され、海岸線に近づかないでくださいと、防災無線が呼びかける。まだ、これぐらいの地震なら、津波はと言う気持ちはある。しかし、海の近くに民家は減ったものの、元の場所近くに再び仮の宿として建設した漁民の方もいる、南三陸町の実情です。
50㎝の津波が北海道・三陸沿岸に予想された。50㎝でもリアス式海岸には、入り江に入ると2倍3倍となる事を忘れてはいけない。今回は予定された沿岸に、20~10㎝の津波が観測された。津波注意報の発令された地区のかたがた、さすがに「3・11」を体験し、常々より公民館などへ避難した光景が写された。口々に「大津波が来たから」と言う。今回の津波の脅威がいつまでも風化することなく、「油断」からの被害者が出ない事を祈りたい。
私にとっては夜中の九時過ぎ、千葉県東方沖で「M6.1」震度5強の地震が発生した。津波の心配は無かったものの、液状化や塀の倒壊が起こった。ショックで高齢者が一人亡くなるなど、地震発生の多い地域にとって心が休まる事はない。九州でも震度4も発生している。
3・11の「東日本大震災は」宮城・宮城・茨城の沖3か所の震源地での連動地震だった。この地震の連動誘発の地震が。あの日に「80個」あったと聞く。今回の地震の「余震」はまだまだ続き、震度6前後の地震も今後間違いなく発生するという。海岸線の太平洋側の津波発生は確実視され、多くの不安が国民にあるが、過剰に反応する事なく冷静な行動が求められ、この部分で被災地では、多くの人々が「九死一生」で尊い命を守り、救われている。
「人類への警鐘」と私は受け取る。自然を地球全体を顧みない人類があり、オゾン層の破壊のCO2排出、戦争での原子力の開発実験・地下資源の将来を考えない資本主義の「人の欲」など、「天は怒っている」ように感じる。原発廃止での電気不足が懸念され、「人間に我慢する事」を警鐘しているのかも知れない。贅沢ばかりを求めてきた自分もあり、もっと我慢する事に取り組もうと思う。今後は「我が町」にバイオマスをと6月に提案したい。

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2012
03/14

地価


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15日ごろ前の水尻橋から望んだ南三陸志津川湾からの日の出でした。まだ厳しい寒さ、冷たい空気から綺麗な旭の光景が生まれた。自然が作り出す造形美で、海・天気・気象条件・雲・時間など、総てが合致し、初めてその光景がその場にいて、偶然出会う人間だけが見られる。
今の私は、「花粉商」が始まったようだ、質問時の「鼻水」は最悪である。その他にも突然の睡魔は、血糖値の上昇による、原因だと先生はいう。対策として夜9時の就寝と、4時には起床し「オハヨン」の民放のニュースチェックからだったのが、5時までの就寝にした。朝は軽い食事で、昼職は抜く事で「血糖値」の安定で、睡魔を防ぐ事にした。議会の6日目ながら、議場での最悪の状況を回避している。
会期中は通勤の刻々早くなっている日の出のため見る事は諦めている。しかしながら、陽が昇るのが早くなった。6時半の水尻橋の通過だと、今はすでに日は高く、オレンジ色から薄い黄色の旭と変わっている。空がオレンジの薄明かりから紅に近いオレンジ色で水平線が燃える、この朝の光景が私は好きだ。冷たい雪の山の光景も本当に美しい。一瞬であり時間が経つと消える、はかない、人間が造れない光景、これに出会った日は「いい事」がある気がする。
上越市で現在「地すべり」が起こっている、21世帯80人が避難した。目の前で少しづつ、愛着のある暮らしていた住まいが破壊されていく、自然の力は今回の「大津波」が実証した。気仙沼市立階上中の卒業生が「答辞」でこの惨い現実での多くの死や思い出・暮らしが自然の猛威に打ちのめされた、しかし「天を恨まず」この現実を受け止め支援への恩返しをしていきたいと、涙を学生服の袖で拭い話す姿が、全国の共感をうけた。偶然私もこの姿に涙した事を覚えている。町の施政方針でも「自然との共生」を唱っていた。
今度は「民放」で、当時の未希さんの声が流され、防災センター屋上での光景が流された。防砂センター内も映っていたのにビックリ、それは昨年の訓練風景だった。いろんな映像が今後も何処かに残っていて、突然メディアに流れる事を懸念する。遺族への死者への冒涜と私には映る。行政に残る写真映像にはもっと悲しい映像があるという。適切な保存・管理を願うしかない。

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2012
03/13

ありがとう


「ありがとう ありがとう」「しあわせ しあわせ」と歌う、南三陸町の「志小」「戸小」「入小」「伊小」「名小」の5校の児童の歌声の「追悼式」に参加し、全員が涙した。生きている事の喜びや、普通で生活している事の幸せなど、この震災から子供たちは多くの事を知った。全世界が一つで、助け合いの気持ちが大切だという事を理解した。
政府の「追悼式」で台湾政府の代表が、指名権者から外され一般席にという、外務省のミスがあった。台湾からの支援は今も多くがある。津波直後での避難者の仮設建設中に、被災された南三陸町全世帯に「義捐金」が直接、「台湾仏教協会」から町民に配られ、多くの町民が感謝していた「ありがたい」を口々に言っていた事を今でも思い出す。寄贈された消防車は「未希号」と名付けられ、今、町内の防災の先頭で、町の火災予防をと巡回していた。先頃は台湾赤十字社が、南三陸町の保険・医療・福祉関係施設の再建にと20億円の支援をしてくれた。こうした多くの支援への感謝への、こうしたミスは政府としてあってはならなく、許されない。
気仙沼マザーズホームも津波の襲来を受け、入所の子供たちを連れて先生は「中央公民館」に避難した。ここは海から100mぐらいの所にあった。当然ながら今回の大津波は、みるみる内に屋上に、避難民446人と共に3階屋上までおいやった。船舶燃料タンクが流出炎上し、公民館へこの二つの襲来、こども達はどんなに怖かっただろう、泣くじゃくっていた。ホームの先生も「もうダメ!」と思った時に、ロンドンのいる息子に最後のメールを送った。
息子さんはロンドンから何ができるだろう。と考え、「ツイッター」でつぶやいた。すると全国から多くの返事が返ってきたという。それを「東京都の猪瀬副知事」が見ていた。すぐに都の「消防庁」に電話で「救助要請」をだした。翌朝「救助へり」が気仙沼の現場に到着、こども達から救出し、二日間で446名を救助した。避難していた人は誰一人怪我なく、都庁消防庁の救助ヘリは救出を終えた。この情報はテレビを通し見たのは初めて知った。ツイッターは若者がするものと言う考えが私にもあった。こうした手段の必要性を、こうした大事件では必要だと知らされる。3か月前に町内のパソコン通の若者から教えられたが、出来るまでには達していないが、私のパソコンには「ツール」は入っている。
「マザーずホーム」は、障害を持つ子供たちを預かる施設と前聞いた事がある。この大災害時での行政のマヒもあり、弱者救済がままならなかった。津波対応として「てんでんこ」はあり、「自助」「共助」と言われるものの、人々の助け合いの精神があり、制度のみの主張は成り立たない。
我が町には「殉職職員遺族会」があり、町長の謝罪と説明を求めている。そんな中でNHKの放送の防災センターの写真の放送がされ、その管理・所在にたいし、町は出していないという。「調査」「抗議」をNHKにすると言う。こうした行政の数々の問題が、町の復興を遅らせ町民の不安の募らせている一つになっている。こうした町の問題の発生に、行政の町存続の危機感の無さに、落胆しかない。共にと言う声を聞き入れる耳を、トップは持ち合わせていないようだ。

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2012
03/12

一年前の朝


2011年3月12日、寒く冷たい昨夜からの雪の朝だった。被災後は弟の旭が丘の家に避難するも、電気も無くコタツに5人で少ない毛布にくるまり過ごした。夜中12時ごろには車で被災地の様子を一人見つめていた。
朝眠れず何回も真っ暗闇の中、星の明かりで向かいの志津川中学校を眺め、夜中のヘリコプターの動向や、向かいの山の奥からの赤い煙を心配する。多くの人が何回も被災地の様子を見に来た。朝7時に携帯で撮った写真がこれです。今日の朝の風景と本当によく似ている。
土・日と震災の一年間を全ての番組が、振り返り放送をしていた。2時30分からはアリーナにおいて「追悼式」が体育館であり町民が埋め尽くしていた。新たな現実と、津波の怖さを各角度から分析し、その自然の脅威を全ての人間が感じる日となった。
この中に志津川高校からの映像があった。二人の女性の津波からの奇跡の生還があった。その一人の「粕谷さん」は、私の叔母の同級生で、被災後誰かに「探して無事を確認してほしい」と依頼があり、仙台に避難した又、同級生の知人の方から無事である事を聞いたが、足首を骨折し入院していますと事だった。ユーチューブ見たし、昨夜の映像に残っていた。自宅の裏の塀2mから飛び降り、足首を骨折し、その足で畑を駆け上がり何とか津波から逃げた。もう一人の鈴木さんは、足が悪く立ちはだかる堀に阻まれたが、偶然の二本の角材が流れてきてその間に挟まり、流れてきた屋根に乗り上げられた。映像にはそのままの姿も残っていた。まさに「奇跡の生還」を映像がとらえていた。また、慈恵園老人ホームでも、職員の菅原さんが、ご老人の女性94才を車いすで津波に流されながらの救出が映っていた。被災後おばあさんは「認知症」ながら、当時の記憶がままならない中で「菅原さんだよね」と、19才の彼の名前を呼んだ、菅原さんの目からは涙が、助けられてよかったと、彼は助けられなかったら将来・一生の悔いになったと話す。
気仙沼市大島の海兵隊と子供の話には私も泣いてしまった。被災し父親の魚屋の店は流され、息子は無口になり気力を失くす姿に、母は海岸の店の前の冠水があり、人がと通れなく復旧のトラックが通ると、ぬかるみが波となり押し寄せていた。人が渡れないからと、その波を防ぐ土を運び土手を作る仕事を与えた。小学生の手で小さな道具では直ぐに作った土手もまた流される。記録を撮るために海兵隊がそれをカメラに、何をしているのかと不思議だったという。この姿に胸を打たれアメリカ海兵隊の何人かが、一緒にその作業をする。子供には自然と笑顔が生まれたと言う。今回の海兵隊の活動は歌津地区てもあったが、なかなか被災「地の復旧が進まないなかで、大島の応急の港の復旧作業は9日?で終わったと思った。子供と海兵隊の作った土手は「栄光の架け橋」と名づけられた。海兵隊の撤退には島民が、日本国旗と星条旗を二本竹に掲げ、見送る姿に、この交流は共に助け合うの気持ちと、国境を越えた被災者救援がある。
マザーずホームの先生に押し寄せた津波と火災からの、子供たちの救助は「IT」の力を実感させられた。被災後の当日から一年間の被災地の復興が続いているが、始まったばかりである。

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2012
03/11

未希


一昨日・昨夜と言い、衝撃的な南三陸町の映像が、NHKの23年3月11日、大津波が防災センターを襲った時の真実が、映像で職員の声で語られる事となった。今日の「追悼式」に合わせたかのように、職員遺族の姿に、防災センターで多くの同僚を失くした事に、「もういい」とこれ以上の悲劇に対し言っていた。
全国・世界の皆さんが職員「遠藤未希」さんの存在を知った。防災センターでの「大津波が来ます逃げてください」の呼びかけを、職員としての責任を最後まで全うした。防災センターでの真実では、見希さくの放送中に、「もういいよ」「屋上へ」的な行動が、残され紹介された記憶データの「30分のドラマ」として、録音データに保存されていた。
未希との出会いは「志津川剣道スポーツ少年団」だった。指導者である父親について来ての小学生だった。当時は30名近い大所帯で、あまり目立たなく気づかなかった。そして志津川中学校剣道部に入部、そこでコーチとして私は彼女の「一生懸命」な、何事にも取り組む姿を見る事となった。3年生の時には部長として先頭で、女子部をまとめ上げていた。華奢で長身の彼女、その分を努力と頑張りで克服していた。
卒業後の未希を見たのが「役場事務職員」だった。新任女性職員は「役場窓口」として町民の接受付が多く、彼女も「こんにちわ」と笑顔で対応をしていた。「未希」?「はい、よろしくお願いします」、だった。4年前だったろうか、三年をへて「危機管理課」への移動でも、「変わりました、また宜しくお願いします」と、さすが剣道の礼儀教育は父親直伝だった。
被災後、両親はセンターから内陸を娘を探し歩いていた。そして、5月4日の新聞で志津川湾で見つかり、7月に結婚予定の彼が、左足首の「ミサンガ」で、未希さんを確認した。
「娘の声が聴きたい」が母の願いだった。一昨日の「30分のデータ」には、その避難呼び掛けの地震直後からの彼女の声の記録が残っていた。初めは「津波が来ます避難してください」だったが、刻々と状況は変わる「6m」の津波が、「10m」の津波となり、母親は娘の声の変化を聞き取っていた。「「最後の10mの放送の時、ちょっと怖かったんだなー」と、「本当によく頑張った」と、娘の行動を誇っていた。しかし、生きていてほしかったが真実の思いだろう。44回の放送の声があり、27分後の「10mの津波襲来」を3回繰り返し、対策本部の誰かが「未希ちゃんあがっぺ!」と、データのかすかに聞き取れる声が残っていた。ここで録音は終わった。
24才これから結婚して、楽し事・嬉しい事・苦しい事・悲しい事なと、多くの事を経験し家庭を築き、母となり両親のような家庭を築きたいと思っていただろう、明るい「未来」への「希望」へ向かい進むはずだった。これからの親孝行「恩返し」が始まるはずだった。今日は町の「追悼式」が開催されるが、会っても家族にかける言葉が見当たらない。
昨夜は一時間15分、防災センターでの職員・住民の津波との戦いの光景が、NHKで初めて町民に知らされる事となった。屋上の鉄塔電波線に、騎馬戦のように皆が固まり、屋上への津波の襲来に備える姿があった。40名余りの屋上にとどまった職員、結果10名が残った。その塊の中に外側には同級生の危機管理課長の「阿部慶一」くんの姿もあった、こうして大津波の中にいたんだなー!と、高橋君もいた。一つになり互いの手でみんなを包むこの写真は、南三陸町の「絆」そのものである。未希は何処にいたかは、これからは把握できなかった。
この音声記録・昨夜の屋上の光景写真は、家族にどんな新たな「岐路」となるのだろう。生き残り「今」生かされている自分には、はかり知る事は無理である。南三陸町の再建に努力するしかない。
未希は、町長は、何処にいたのだろう。「亜里沙」さんは? と他の職員は何処にと、多くの家族の思いと悩みを町民皆で分け合いたい。

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2012
03/10

再建


この地区は五年前に「合併」した旧歌津町の伊里前市街地です。写真は「歌津大橋」の上から市街地を望み、まだ遠くの山には「ヘリコプター」による、捜索が毎日のように続けられている4日目ごろの風景です。町には津波の痕跡があり、人命救助・捜索があるゆる手段で、警察・自衛隊・消防・漁民など、町民あげて活動していた。
歌津地区は被災後の地区民の方の「津波ビデオ」がテレビで紹介された。その光景は想像をやはり超える姿が残っていた。歌津大橋は国道のバイパスとして建設され、町内「伊里前」のストロー現象から、しろうお祭りや田束山の「つつじ祭り」などで、商工会・地区民の協力のもと、町に新たな集客があった中での、今回の津波だった。
3・11の津波は、歌津漁港、湾の入り江の大橋、海抜「15m」はあるだろうか、その道路まで津波は一揆に押し寄せた。ビデオも撮っていた方も、後ずさりして逃げる声が入っていた。橋脚の乗る大橋は、橋脚のつなぎから地上へ落下した。津波の力のもの凄さに驚かされた。津波は避難場所でもあった、高台の伊里前小学校校庭にも押し寄せ、地区民はまた上の中学校まで逃げたと後で聞いた。天皇陛下は中学校の避難場所に見舞いに御出でになり、被災民と膝突合せ当時の事を聞き、お見舞いの言葉を述べられた。その後で津波の到達した、伊里前小学校校庭から、歌津港と志津川湾に対し、皇后様と共に深々と頭を下げる御姿を今でも思い出す。
市街地には新しい公民館や保険センターなど公的施設や、水産業が盛んな地区として、新築の家も多かったが、全てが瓦礫と化し今後の見通しとて、何も見えない不安な状況に地区民はある。今進められている歌津中学校の奥の山が、伊里前地区の契約の土地があり、「高台移転」候補地ではあるが、多くの問題があり、現実までにはあと2年・3年とかかるように思う。新たな吸収合併も地区ではささやかれている。
歌津駅に関しては、線路の上をバスを走らせる構想が、「気仙沼線」にあり、鉄道の復活は難しい。また、市街地だけでなく海岸線も壊滅的な姿となっている。海水浴場の「長須賀海岸」は半分の砂浜が流失に、観光への影響は「民宿」の多くの崩壊・流失が最大の問題たろう。
「山口美江」さんの孤独死は私の今後の生き方を考えさせられる。親の介護をするため引退し、親を見届け送り出し一人暮らしだった。先週の事で「心不全」で亡くなっていたという。親の為に身を捧げ、これから自分の幸せをと言うときの、この世を去る事となった。人生は自分の為にあり、親も自分たちの為だけに生きる事を「良し」とはしていない。こんな考えが高齢化の「老々介護」の日本には必要となる気がする。
今日は南三陸町の三校の中学校の卒業式に参加した。卒業する生徒たちから、未知の力を感じ、エネルギーを頂いて来た。

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2012
03/09

兼業


ここは見てもなかなか何処か判らないと思うが、戸倉地区の西戸から荒町地区の玄関口を望んだ写真です。被災から8日目の国道45号線で海岸部から立ち並ぶ建物が瓦礫となり、津波最終地点の道路の両方に瓦礫となり、山のように折り重なっていた。
写真で見るとたいした事のないようだが、瓦礫の列は荒町のは入り口いっぱいに続く。折立川が左でこの部分の瓦礫が撤去なつたのは23年12月を経過しても終わらなかった記憶がある。ホテル観洋から戸倉地区に入るが、そこからここまで2.5Kの道路沿いの建物総てが流失、跡形もなく残るのは戸倉公民館、戸倉小学校が平地に残る以外は、生活の「証」と「歴史」が消え失せてしまった。
右側には「気仙沼線」があったが、戸倉折立の「陸前戸倉駅」は壊滅したものの、この鉄道は「命の道」となった。道路の崩壊はもとより、戸倉半島から国道45号の主要道路には、「折立橋?」が倒壊・流失し、水戸辺・在郷などの海岸部の住民の救助場所への避難は困難を極めた。戸倉小・戸倉中の子供たちは、倒壊した折立川を渡り、気仙沼線の線路を通り荒町へたどり着いた。また、ホテル観洋の観光客や近隣の住民も、同じ線路を通り荒町地区民が救助場所として支援した。
この地区の小さな集会所は被災者でいっぱいとなった。以前、荒町の住人だった方の息子さんが、福島で医師をしていて救助活動に駆け付けたとの話も聞く。そのご両親は志津川市街地で被災し亡くなった。
荒町に避難してきた戸倉地区の住民は、その後「登米市」の学校や体育館・公民館で、仮設ができるまでの5か月間過ごす事となった。
当時は連日の自転車での被災地の状況把握の行動があった。車は残ったがガソリンがなく、横山まで自転車でのアリーナ「商工団地」倉庫からの行動は、被災後八日目となり、疲れのピークを迎え、二日間ぐらい寝込んだ事を思い出す。無我夢中で生き活動・生活した一週間だった。
都会での「老々介護死」があった。認知の95才の母を65才の娘が見ていた。娘が急病で倒れ、母は餓死したという。今後、日本中でこんな事が起こる。私とて他人事ではなく、昨日は母を介護の父親が風邪で体調を崩し、9時に私が返ると「このまま死ぬかと思った」と話していた。千葉家は家族が今、一生懸命に生き続けている。新たな町づくりの為、そしてその町を見届けるためである。町長の兼業、三役とも今までの行政業務の現状に、何の問題もないと言っていた。一新した幹部職員に期待したい。

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2012
03/08

勇気


3月11日の救助劇があり、一夜明けた現場の写真です。中央の被災した家屋の屋根瓦が壊されたのが、その現場で流され「旭ヶ丘」地区の登り坂で津波が止まった。
「助けてー」と午後4時ごろだったろうか、津波の脅威に避難し集まった住民が、唖然・沈黙していた時に、このかすかな声が聞こえてきた。「誰かいるぞー」と若者たちが、瓦礫で足の踏み場もない家の屋根に飛び乗った。二十歳くらいの男性が三人救助作業にあたった。瓦を壊し屋根板を外し次に重なり合う柱を外そうとするが、難関だった。近所に呼びかけ「ノコギリ」を準備、津波で何重にも折れ重なった太い柱は、思うように撤去できなかつた。少しづつ下にはお母さんが救助に安心したのか、非情な様子から落ち着いた顔となつていた。この下の場所には消防署もあったが総てが破壊されていた。たまたま避難して活動していた署員の方の応援を貰い、1時間? 2時間? が経過しただろうか。やっと人が一人通れるスペースを確保した。「ありがとうございます」と何べんも頭をさげていた。驚いた事に、その下にはご主人がいた。二人を救出したが、共に怪我はないものの、狭いスペースと寒さで少しの衰弱が見られた。その後で地区民が毛布を持ち寄り、向かいの山から道なき道を8人で二人を安全な場所に救助した。地区民の皆さんと、若者がそれに気づき危険や自分の身の安全より、救助に向かう「勇気」がある。南三陸町にはこうした若者の活躍が今後も必要となる。
この場所では他に2人と、別の登り口で4名が署員により救助された。他に津波で流れついた高齢者の救護もこの山で行われた。3・11南三陸町被災地では全域で、「生と死」のドラマがあった。
昨日は「7度」で今日は「-2度」と寒暖差が大きく、風邪・インフレエンザが流行している。独居高齢者はひとりで無理我慢をせず近所に声をかける「勇気」をもって欲しい。

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2012
03/07

告訴


昨日、写真の「サンポート」には多くのボランティアが片付けに入っていた。とっくに漁具は撤去されてはいるがスーパーの中は何の手も入っていなかった。記録には18日となっている。12日から17日までの写真が無いのは、携帯で撮影してたものが携帯ショップのミスから、写真情報の保存ができなかった事を今でも悔む。この間も志津川町内や歌津地区も毎日のように歩き、撮影を続け限られたデータ容量もあり、必要分を残しデータ記録保存とするはずだったのだが。3・11当日は携帯のデータがいっぱいで、大津波を見てはいたものの、その悪夢の光景は撮影できなかった。しかし、今でも「あの光景」を忘れる事はない。
自転車での町内は小森・清水・新井田・大久保・田尻畑などの津波最終到達点をカメラに収めたのだが、写真は数枚しかない。写真の場所は志津川病院・高野会館・郵便局・笹原診療科など、多くの商店が密集していた地区でもある。被災直後は高野会館からの400名近い人の救出や、病院屋上の患者・医師・看護師など、津波でぬかるんだ市街地から、自衛隊とともに脱出する姿が、被災後の新聞で知った。市街地への立ち入りには多くの勇気が必要だった。道路の復旧を急ぐ事もあり、新井田「マツダオートプラザ」前から、建設会社の重機が、塘路の瓦礫撤去による道路確保が、被災後4日目ごろから始まった気がする。津波の破壊力は半端なく、瓦礫は残った大きな鉄筋コンクリートの建物に引っかかったり、建物の中に入り止まる以外は、綺麗に街中から山間や海底へと運ばれ、志津川市街地の国道には、意外と障害物はなかった気がする。
サンポートの内部も重機での大きな建物の中の瓦礫撤去はできなく、人皆戦術での方法しかない状況で、一年となる今ボランティアさん達の手作業で当たっていた。建物の中は危険がいっぱいであり、多くの何があるか判らない瓦礫での、怪我や事故の無い事を願いたい。
昨日衝撃の報道・情報を聞く。「町長告訴」と大工さん・殉職の家族・高校生等々、多くの人が話す。何の驚く様子も無かったのは何故なのだろう。町民も予感していたのか? 被災しそれどころでないのか? 復興に向かう自治体のトップなのに、なんでこんな問題を発生させるのか。考えられない、危機感の無さが総てを物語る。
また、ひとりの町の歴史を作った事業所社長さんの、訳ありの死去を知った。いったい何をしたら、何をしないといけないのか! 被災地の陰でひっそりと町民の死がある。南三陸町の瓦礫は一向に片付かない。今年の夏から第二瓦礫置き場で、分別焼却が始まるが予定どうりいってほしい。

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2012
03/06

風化


23年3月11日から一年を迎えようとしている今週、24年3月11日の「追悼式」にあたり、当時の「南三陸町の悲劇」の現実を風化させないためにも、あの時を振り返りたい。
午後2時46分、南三陸町の議会中突然の地震、近年起こっている地震ぐらいと、そんな危機感は無かった、しかし、大きな3分間、何回かに分かれて起こった。これが三陸・宮城・福島の震源地での初めての「連動」での地震だった。その後あの「東日本大震災大津波」が発生した。
写真は被災翌日の午後、現在の「仮変電所」から、ベイサイドに向かう被災者の列です。新井田にあった「自動車会社」の車が数多く重なり合い、津波後の夜中に火災が起こり大火事となった。右奥にその煙が翌日も燻っていた。当時の夜ラジオは、「避難者のいる避難場所のアリーナに火災が向かっている」と放送があり、何も津波以後の町の状況が見えない南三陸町があった。自衛隊の「ヘリ」が町にきたものの、志津川中に着陸を試みるも、夜間で多くの避難者があり、危険と引き返す「ヘリ」の姿が、真っ暗闇の中で私は見ていた。
直ぐの大地震後の町内は「平穏」の中で割れたガラスの片付けや、車もまだ急ぐ光景はなかった。私は役場庁舎から八幡川側を自転車で、当時の町の様子を見ながら自宅へ帰った事を今でも思い出す。昔ながらの田舎の街並みだった。
今日の南三陸町は、前日朝の大雪が日中の大雨となり、街中は解けた雪と雨が国道を冠水させていた。「大潮」でまだないせいか歩道から雨水があふれるくらいで、通行の禁止まではなっていないものの、地盤沈下の町は今後も大雨と大潮での冠水が懸念される。排水溝も清掃はされたが、地盤沈下で海水の逆流が今後も発生する。
石巻にボランティアで入った30代の男性、被災直後から1年間「600万円」の自費を費やした。将来の自分の仕事のためにと貯蓄していた資金で、まだ居たいが財政的な面で帰るという。被災地とボランティアのこれが現実です。
昨日、石巻の「大街道小学校」に米国の歌手シンディーローパが、さくらの苗木を持って子供たちのプレゼントをした。「トゥルーカラー」「・・・ライク・ハァン」など、80年代聞いた大好きな歌手です。子供たちが話す苗木を貰い「復興のために頑張る」と話す。

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2012
03/05

音楽


「志高定期演奏会」に出かけました。志津川高校の第二体育館が会場で、被災後体育館ならず校舎全体が、被災者の避難場所になっていた。老人ホーム・ディサービスセンターの皆さんが、当時の津波来襲により「命からから」逃げて救助したのが、志津川高校で生徒だったと聞きました。被災後「ユーチューブ」で近隣の住民が、津波に追われながら登ったのが、志高の登校坂であり土手でした。
この「第二体育館」は昨年8月過ぎまで住民の避難所として、生活の場所となっていました。当時何回か訪れた時の現場の、状況と昨日の会場はまさに「天と地」ほどの差を感じたが、避難者の頑張り生きる姿がありました。私が行くと「今後どうなるんだ」と生活者から問われ、私も含め行政の混乱を伝えるしかなかった。
演奏会には高校敷地の仮設から、高校生の活動に多くのかたが訪れ、生徒の演奏に「一時の安らぎ」を感じているようだった。被災後はじめて同級生のお母さんもと会えた。80才半ばながら震災後も頑張って生活していた。「がんばらいヨ」と声を掛けられた。同じ地区のお母さん、「あちこち点々として今高校にいます」と言う、本浜地区の住民の被災後の調査中で、コミニティーの地区高台移転の活動を、若い人たちが頑張っているから、と伝えると「また元地域の人たちとの生活に戻りたい」と話していた。
音楽部の家族は元より、菅井元顧問が来ていた。40年になる楽器が心配ですと話す。志津川高校の音楽部が好きで、生徒たちが心配で、見守り応援したいのだろう。遠く2時間も掛けて来てくれた事に感謝しかない。
また、同じ時間に「龍谷大学」の音楽部が、志津川中で合同演奏会があり、行政からのそこには出席していた。志高音楽部の今回の演奏会は、住民の皆さんに被災後の支援に感謝と、一年間の部の成果を見てもらいたいが、一番の目的で、もう一つに3年生を1・2年が「お世話になりました」の気持ちで、互いに演奏して送り出す。があったと聞きました。こんな優しい子供たちが住む、南三陸町、早期の復興を大人は頑張らないと、「さあ仮設から一歩前に進みましょう」、第二体育館に入っていた皆さんは複雑な心境だろう。

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2012
03/04

支援

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南三陸町への来町のみなさんは必ずとぃって良い程、「防災センター」に行く。そこで手を合わせる。この場所と価値を活かす方法をどうするかと考える。
昨日も南三陸町上空には2機のヘリコプターが舞っていた。テレビでは3月11日の震災一周忌に合わせ、特別報道番組が予定され告知の画面が繰り返し放送されていた。また、あの津波の多くの悲劇の映像が、テレビから繰り返し放送される。忌わしい記憶がまた再現する週末を迎える。
南三陸町の不明者捜索がこないだ報道されていた。津波のヘドロと内陸の土が一緒になった、被災地の土を掘り起こしが、警察・建設会社・機動隊によってあった。多くの町民は「引き波」で海に連れていかれたという。しかしながら、瓦礫となった町内の陸地に、不明者がいる可能性は「0」ではない。
3日前に警察から「遺失物あります」と通知が届いた。母親の「20年度の医療龍収書」だった。津波前の書類は今の生活には必要ない。ただ、ボランティアの方が拾い届けられた物と言う。ありがたい。父親が行くと言う、私は必要なくなった物と行かなくたっていいんじゃない。と話したが、帰ってきて「こんな物」と夜話す。
被災があり以前の生活に我が家は「リセット」をした。肉親を亡くされた家族は、なかなかそれができない現状にある。私は「リセット」しないと前に進めない性格である。そして今「一周年」を前に、多くの家族がその決断を決め始めた。
今日は皆さん「志高音楽部定期演奏会」がある。午後1時30分から開催される。部員の各々の思いの中で、その気持ちを楽器に込め、この一年間を振り返る。

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2012
03/03

雪景

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今日も昨夜からの雪で、町内総てが雪景色となった。通勤途中この景色の美しさに、携帯で立ち止まり立ちつくし、風景を携帯に納めた。
南三陸町の「ブランドワカメ」の高値で漁民は一安心である。今日も昨夜からの大雪の厳しい寒さの中で、一つの船に乗り合わせワカメの収穫が、荒島」の手前の志津川湾、入り江で行われている。雪を降らせた低気圧のせいで海は少しの荒れ模様で海岸線には時折、大波が打ち寄せていた。
解体される「防災センター」に寄り、今日は写真を撮ってきた。むき出しの鉄骨に雪が積もり、町の職員の殉職者の「霊」、さぞ寒いだろうとその「無念」が伝わってくる。今日も三脚を持ちカメラマンが、この雪の被災地と防災センターを撮りにきていた。
写真は大久保地区を超えて観洋手前で、断崖絶壁から写真を撮ったが、この上の国道45号を乗り越え、こんな高台にも津波は来た。民家が4軒並んでいるが、一軒は解体・一軒は修復・二件は無事だった。同じ場所でこの津波の流れで大きな差がある。途中の大久保地区の民家・枯れ木への降雪の美しさに目を奪われた。途中のホテルまで行って引き返し携帯カメラで撮った。今はもうこの景色はない、一瞬の瞬間しかなく近々ブログでこの地区の雪景色を紹介したい。
仮設名店街が南三陸町にでき、「語り部」講習会が南三陸町にあった。登米市南方イオン跡地での仮設暮らしの、南三陸町町民はなんの興味を抱いていないという。なぜなら今の生活に追われ、新しい年度となる「四月」、自分の24年度の準備が始まる事に追われている。また、近隣に各種の店がある事で、生活には何不自由がない、生活費の食いつぶしと、今後の生活手段を考えているからだ。「もう帰ってこないよ」「生活に不自由がないんだもの」と、町民の方の行政の「登米市への仮設建設は失敗」と、声を大にして言っていた事が、昨日の行動から再確認した。
手狭でも苦しくても不自由でも、この町で暮らす事で、町民は町の復興を考え意見を行政にぶつけられたのに、行政は時間を掛けじっくりと「新しい防災に強い町づくり」をできる、そんな環境を作るために仮設建設を登米市に行ったと言っても不思議はないとの、同感の気持ちで一致した。後の結果を考えない、その場しのぎの政策と思う。町有地があるのに!

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2012
03/02

卒業


1980年前後ごろは高校も荒れていた時代だった。90年はピークに達し、当時はやった歌に尾崎豊の「卒業」がある。歌詞には「支配からの卒業」と、最後で高校生のファンと共に合唱する。
しかし、昨日の志津川高校卒業式は、「すべての人たちに感謝」である。震災後学校は「登米」「上沼」の2校に分散し両高の協力により学習を続けられた事に感謝し、2学期からは被災者と共に仮設の建つ、母校に戻り生活をした。全国・世界・町民からの多くの支援に感謝だった。友と共にこの過酷な環境で学習・部活などの生活で助け合った、多くの学友・後輩の志高生との助け合った事に感謝です。3・11から被災し家族の励ましと、多くの悲しみを分け合い、この卒業に立てた事に感謝ですと話した。卒業生と残る在校生、そして、父兄の代表謝辞でも感謝ですと、学校・先生方に感謝を述べた。
私の友達も知らないうたに卒業生の親としてここにいた。友達も会社が被災し失業、3・11から一年を迎え「失業保険」もあと少し、自分も「新たな道」を模索するが、まだ「その進路」は決まっていない。子供の高校からの「卒業」、どんな気持ちで卒業式に出席しただろう。共に頑張ろうぜ! です。
昨日は仙台へ「製本」の外注に、印刷物を持ていった。設備はあるが多くの自分の仕事を抱え、外注する事に決めた。町の復興への調査・学習に時間を費やす。当たり前の事ながら、被災地では今、当たり前の事が普通にできない現実がある。作成中の「南三陸町からの手紙」は、当時の南三陸町の町民の各々の、3・11当時の行動が、手に取るように綴られている。ぜひ読んでもらいたい。昨日は町で「語り部」の勉強会であったが、こうした冊子が資料となる。町民みなが語り部である。しかし、当時に戻れない人も数多い事を考慮したい。
今日は今月末の「田尻剣道大会」の参加申し込と、仙台での現地状況報告での、話が書物になるという事で、その校正がある。復興再建補助制度の「申請書」の製作があり、来月の一般質問の資料の整理もある。今回の議会は「一問一答」の質問に一本化され、10名の議員が壇上に立つ。多くの傍聴者やメディアが議員の質問と、町長の震災復興への加速への答弁があり、その説明・考えを述べないといけない。何故なら町民の不安は、「町復興の姿が見えなく遅い」と言った事にあるからだ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:52 】


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