ARCHIVE - 2011年12月

2011
12/31

感謝

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2011年に生かされ、3・11を体験し「生かされている」。多くの偶然が重なり生かされ12月31日に、全国へ「ブログ」で大好きな我が町「志津川」、南三陸町の今を発信している。今後も復旧から復興の姿を伝えていきたい。
最後の写真は「港橋」から八幡川の上流を望んだ、防災センターの残骸と多くの同志が殉職した場所、そして多くの町民が避難した志津川中学校、今も仮説が建ち、中学生が不自由な中で勉強をする。瓦礫の町の中央に八幡川が流れる。この川が津波の通路となり、家や車・船を巻き込み、想像を絶する高さで押し寄せた。きっと多くの人々も巻き込んでいただろう。避難し眼下に望んだ悪夢の光景は決して忘れる事はない。
タイトルの「感謝」は全国・国内・親戚・知人・仲間・同級生・子供たち、総ての人たちへの「ありがとう」の感謝でしかない。生きられる力、生きてこれた気力、生かされている神仏への感謝を、再確認した。家族と生きる事での議論・口論は生きている証であり、共に生活できる喜びでもある。何気ない事が「幸せだったといま思う」。
多くの悲しみを分け合い共に今、この自然溢れる「南三陸町」で、皆さんと又笑い合える生活を夢見る。この大災害でこの町の「膿」を全て出し、生まれ変わる新しい町づくりに、一度死んだ命と思い、総てを捧げたい。
昨夜は「命の記録」に涙した。釜石での生死の境の現実にメディアが踏み込んだ。「声なきメッセージ」、家族の最後の姿をカメラがとらえていた。一度逃げながらの祖母・母・子の死の検証は、今後の自主防災への参考なる。
職員殉職遺族の会でも、家族の最後の生き様を知りたいという。防災庁舎の屋上にいた40名の職員の内30名が津波に呑みこまれた。9か月になっても未だ現場の状況が、残った職員から伝えられないという。ここに家族が前に進めない現実があるとも聞く。
明年が希望にあふれる一年となり、皆が一歩、二歩と前に進める事を願います。
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2011
12/30

清明


右に見える志津川湾に白波が起こったと思ったら、あの恐ろしい出来事が始まった。まさかこんな事がと思うが、人の命は一つしかない。「想定外」と全てを片付ける事は出来ない。何故なら震度4が3分間、そして3回に亘る大きな地震、この時点で大きな事態になる事は想像できた。その後の6メートルの大津波警報が発令されが、これが最後の「すべての避難警告」だった。大きな予兆が2度3度とある中で、「想定外」と言う発言は、判断と行動を求められる責任者としては、判断の甘さの「謝罪」は当たり前と思う。まだまだ大災害の「検証」は追及されないといけない。職員の殉職家族は、未だに当時の事を、行政からは伝えられていない。最後の生き様が知りたいという。
高校生への私の「地震体験講話」に対する、生徒が感じた感想が届いた。
 「社会人として必要なことは、常に多くの情報を知り・学ぶ事で、何かがあった時正しい判断ができるようになること。また、多くの人たちとの出会い、話すことで繋がりを持ち、仲間同士で助け合いができるようなること、どんな時も友達を大切にしたい。何があったとき、誰かを助けてあげられるような強い人間になりたい。そのために、自分が何ができるか何をすることが正しいのか考えたい。」
これから高校を巣立ち第二のステップを進む上で、「心掛け」として必要な事を伝えられた事に、多忙の中で自分に何ができるかと考え、起こした行動は間違ったはいなかつたを、多くの感想文の文面から感じた。
今日は仙台に親戚への被災後の心遣いに、御礼に行こうと思う。何をと思うが「志津川の蒲鉾」が通年ながら、今年は蒲鉾会社の製造再建には、お付き合いの会社は無理だった。全てが「まだまだ」だ。

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2011
12/29

面影


私の携帯にこの写真が残っていた。よく見ても何処かわからなく、「おさかな町商店街」のような気がする。こんな街並みの復活はもうないのだろう。チリ地震津波以後に再建した、志津川地区の市街地も津波により、また跡形もなく消滅した。この当時は「地盤沈下」はなかったのだろうか。前の土地に又の自分の家を建てた。
町による「区画整理」はあっただろうが、35年の津波から仕事ができる場の確保があり、10年で工場の増設や住まいの増設をし、25年目で本宅を建てた。以後28年目に再度の大津波で、再建した千葉印刷・本宅の財産・思い出の、総てを失った事になる。
私が生まれ、再建して63年目で、又、千葉家は全てを無くした。今、住まいは高台へと町民意識は増し、住んでた場所では住みたくないという。当時の復興再建は「防波堤」のみで、津波防衛体制で町を再建した。繰り返される天災は人類への「自然の警鐘」となのだろうが、それはあまりにも非情な警告で、しかし繰り繰り返される現実として、人類は受け止め生かされている。
年末にあたり今年の出来事として、「3・11」は記憶を消さないようにと、被災の当時の出来事が流される。気仙沼の中学生の「答辞」に涙した。自然を受け入れるには余りにも大きな代償と、後から後から流れる涙を拭っての答辞に、見ていて人の目を気にせず、私の目から流れる涙を止められなかった。
「復興計画」の実現の厳しさと、総ての被災者の生活の安定までの、道のりは厳しい遠い事を実感する。遠藤さんの「大津波です早く逃げてください」の放送が繰り返され、家族の思いを考える。お母さんは被災者に何かできる事をと、マッサージリハビリの資格をとり、仮設を回り活動を始めた。「娘さんにお世話になりましたよ」と声に、笑顔で微笑む姿が印象的で、そのには涙は無く、共に頑張って生きましょうと、娘の思いが乗り移ったようだった。

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2011
12/28

前倒し

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最近の志津川市街地風景、何が変わっただろうか。少しのここ2・3か月の変化を感じない、広大が故に被災地の復興が見えないのかも知れないが、久々訪れた方々も口々に話す。わが社は海水に覆われていた。
6mの市街地嵩上げと住宅地が16mの場所に都市区画整理にて、新しい町を作る町の復興計画、本当に10年での実現に向かうのだろうか。現行政の体制での方向性、予定どうりに行かない事での人口激減、若い世代と児童生徒の減少は、町経済の大きな痛手となる。早期の登米市からの南三陸町住民の帰郷が不可欠です。
昨日は4か所の南三陸町の「災害公営住宅」の建設できそうな、個人の土地への建設ができるかを、愛知県の建設業者に構想依頼の下見で町内を案内した。石巻市では早期の「災害公営住宅」での、県での買い上げと建設補助の取り組みに向かっている。被災者の仮設からの新たな生活場所への、早期復帰を計画している。
我が町「南三陸町」はどろだろう。ゴロフ場跡地への移転を打ち上げた町長、多くの疑問を与えただけでなく、ゴルフ場の移転の考えは「もうない」と今月の議会で話した。メディアを巻き込み、地域民の嘆願書も集めた中で、そんなにも早く提案を取り下げる。そんなにも安易な考えの議案と同僚議員は話す。
今は前を見て進むしかない。町がなかなか動かないなら町民が動くしかない。町民の適切な動きに町は支援し、南三陸町の再建を早期実現に共に向かう、これが「共動の町づくり」の基本だと思うが、これが見えてこない。
昨日は風邪で病院にいった。一人なら我慢もするが、90才になる両親との避難生活、高齢者にうつると命の危険も増す。また、恒例の郡の剣道寒稽古に我が「戸倉剣道」は、参加を取りやめた。多くの地域に離散した団員の集合が難しいのと、団員の祖父母の多くの逝去がその第一の理由です。

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2011
12/27

橋脚

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この朝7時頃の風景どこか判るだろうか。道路も鉄道も津波により破壊された海岸線を走る、交通網は「橋脚」だけが残る。撤去するにも巨大コンクリートで解体も時間が掛かりそうだ。
写真は伊里前の入り江に架かる、「歌津大橋」の橋脚で、雲間の旭が照らす巨大残骸となり、海岸の巨石のように朝間に写しだされる。「歌津大橋」の復旧は難しいとの、国土交通省の話も聞く。橋脚は津波の勢いで傾いてもいる。津波防災では、堤防と国道のかさ上げで、旧伊里前地区は復興へと向かう。利府町の海岸地区があり、漁民の集落で現状のままの少しのかさ上げで復興に向かう。早く生計の海に戻りたいという。
昨日は気仙沼に行った。朝に出発、雪を心配し7時に家を出たが50分で目的地に着いた。雪はなく道路もすいていた。町民からの行政への願いに動いた。津波被災の事業所の経営がままならない。自社とて行政の仕事が今は現実2割を占める。行政の発注の仕事はできる限り、地元の事業所で賄うが、私の持論でもある。それも公正に納得できる平等性を確保してであり、行財政にマイナスとならないようにである。事務機器・被災イベント・慰霊祭などである。形と仕上がりは別にしても、被災事業所へであり、用をたせばこれでいい。必要以上の経費を掛ける必要はなく、総ては被災者と復興復旧へのためだ。当たり前の行政の仕事である。「復興計画」の素案はいったい誰の「案」、誰のためと疑問が募る。
歌手「綾香」がバセドー病から復帰第一弾「はじまりのとき」で、今日の苦しみは明日に繋がる。と言う歌詞だという。24才。日曜日の葬儀の三浦さんは25才、これから夢と希望に向かう女性だった。
のべ人数1066万人の自衛隊が、昨日全て東日本大震災の被災地から撤退した。ご苦労様でした、そして感謝です。私は気仙沼の帰り、歯医者と10日ぶりの入浴で、少しの風邪が悪化し、今日佐沼の「主治医」に、薬を処方してもらいに行く。私は恵まれ過ぎている事を常に感じる。

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2011
12/26

怖かったろう

2011-06-19 05.12.33
いろいろな事実を聞く!写真は戸倉地区の保育所の裏山の神社で、園児が津波から追われ最終的に、ここで津波を逃れたと言う。園児の記憶のフラシュバックが心配です。
私が避難するキッカケとなった方の仏前に線香を昨日たむけた。被災後の処理や生活に追われたからは、言い訳になる。また、本吉で町職員殉職の葬儀に参列した。ご両親の不明のままの葬儀の決断は、娘と代わってやりたいのお礼の言葉にある。
彼女は総務課庶務として活躍、と副町長は弔辞ではなす。私も町の配布物でお世話になった、それ以上に彼女は宮城県剣道個人戦で準優勝の輝かしい栄光の持ち主でもある。小柄ながら先を読む事ができる事は、強さと人への心配りとして社会人として、いかされていると私は確信する。
39名の町の殉職職員の家族の、諸々の思いがある、私は多くの声に耳を傾け確認する。あの時の真実を聴きたいと、遺族は口々に言う。12月の定例議会で三月の慰霊祭の補正予算が、採択された。
復興・再建と言う名で多くの復興予算が使われる。どさくさ紛れに不明朗な予算の動きがある。恥ずべき行為をしている貴方がた、今は被災者と町の真の再建に使いましょうよ!

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2011
12/25

魚市場


久しぶりで南三陸魚市場に出かけた。かれこれ3か月ぶりかもしれないが、復旧から復興への大変化に驚かされた。「秋サケ漁」への準備で仮魚市場が建設され、川へのサケ捕獲施設が設置され、町からの進捗状況は聞いていた。写真は市場向かいの加工・販売の工場、漁船の鉄工所が以前より大きく建設され、左側には仮設ながら大きな施設が二棟、その向こうには大型加工場建設に、クレーンが空高く伸びていた。手前には建設された仮市場があり、多くの水揚げ機器が置かれ、その脇にも大型施設「冷凍氷施設」のようにも見える、着実に水産業は前に進む。
志津川湾には数々の養殖施設が浮かぶ、ワカメは来春、カキは2年後、ホヤは3年後とも聞く、銀サケも来年初夏ながら水揚げができ、各種水産物も水揚げされている。心配はアワビ・ウニが津波で流され、岩場の海草も同じく流失した。市場のあった「旭ケ浦」も地盤沈下だが、この工場再建をみるに市街地よりは、沈下が少ない。大森に向かう道路は今も冠水し、大森屋さん前も海水で迂回路があった。志津川造船さんの周りは海水が覆い、仕事の不便を感じる。大森の町営住宅の無残さ半端なく、屋根には流失した家が少しづつ「朽果て」て、砕け落ちる姿に家主の心情は、限りなく辛く悲しいものと感する。
仮設の魚市場岸壁には漁船が何隻も係留されていた。向こう岸にはホテル観洋が光輝いている。その裏は南三陸町の公有地である。ぜひここに新しい南三陸町の第二の市街地、想像しただけで「ワクワク」する。なんでこんな夢の場所活用をしないのか、山でライフラインが・・・と言う。ゴルフ場跡地より絶対ここが良い。
どこを見て復旧復興をしているのかだ。町民を見てください、職員でも議員でも、決して自分自身ではない事が判らない今の町の行政を思う。市場から荒砥への高台の家々の復興の姿に驚かされた。みなさんもぜひ一度行って見て欲しい。

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2011
12/24

絆見直し

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今年は大震災により「年賀状」が、被災地では控えられている。全国では順調な販売となり、昨年の-3%となっている。しかし宮城県では-29%で、他の3県でも減少となっている。増えている理由に震災により、人との「絆」の見直しと話している。昨日はこの地獄のような「津波」、放射能被害での故郷からの離別の「原発」などが、今年の出来事で放送されていた。全国からの支援は、人と人との繋がりの大切さを、皆が再確認する事を知った。
南三陸町での神社仏閣も大きな被害を受けた。写真は「荒沢神社」で、太郎坊・次郎坊や歴史的な遺産がある。神社わきの沢には漁船が未だにそのままの姿を残している。自宅も高台ながら一階まで津波が来た、10m以上は襲来した。戸倉なども「戸倉神社」「慈眼寺」や、歌津も「津龍院」「旭浦八幡神社」などが流失した。檀信徒・氏子も守られてきた、支えの神社仏閣の無くなった事に、例年の行事ができない事に不安を感じている。
昨日も多くの話に驚く、町職員幹部の町外への住宅所得に驚き、町の高台移転での説明の不備、本当に「南三陸町大丈夫」と行政の活動に不安と疑問が募る。自分なりに議会での行政の報告を、住民に丁寧に説明している。それしか今はできないが、現在3つの土地に「災害公営住宅構想」を地権者・建設会社に計画図面を製作計画している。住民の意向調査を仲間と一緒にする。町の「復興計画」は高台に示されているが、入谷・志津川・戸倉にも、造成費を掛けないで建設できる土地がある。
又、地域での「本浜町再建構想」も、今後進めていく事で昨日は話ができ、自分が連絡役を務めたいと思う。若いものが「復興計画」に参加意見を述べる事の必要性も強く語りあった。

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2011
12/23

伝える

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友人にチャンスを頂いた。被災後の町の復旧の混乱の中で、復興に関わる人間として、何が自分にできるのかと自問自答する毎日が続いている。ブログでの町の変化や復旧がままならないいらだちを、毎日ブログに日記のように書いている。もの忘れが年のせいかひどく、大切な情報・今の考え方として残している。
写真は仙台の高校での被災地「南三陸町」の現状状況と、災害の心構えを生徒100名の前で話した風景です。被災後の貴重な撮影写真を説明に使った。生々しい被災地の当時の現状に生徒らは、静かに耳を傾けてくれた。南三陸町民・宮城県民・全国・世界に、「東日本大震災」を通し、今後への防災意識の向上を願っての活動をしている。
昨日は仲間と飲む機会がが出来て、登米市に席を設けた。夕方からの路面の湿りは多くの危険を秘めている。一昨日の雪と「クリスマス寒波」で、週末の連休の交通は大分気を付けたい。勿論帰りは代行で、5人で乗ると一人あたり1500円から2000円、命には代えられない。
そんな時に仲間の「スピン」「凍結での車回転」との話を聞いた。だからこの時期の夜の車の運転は怖い。場所は米谷からの入谷鏡石付近で、以前にも死亡事故があった。直線でスピードもついつい、「あっ」と思いブレーキを掛け滑ったらどうしようもないと言う。スピードを抑え車間距離・時間の余裕を図ってもらいたい。
住民の「高台移転説明会」は30か所と聞く、町長は2か所に参加した。アリーナでの志津川地区の住民説明会には300名が参加した。代替え地の状況はまったく住民には伝わっていない現状があった。私の土地はどうなるの。こんな現実も9か月を過ぎ、多くの町からのアンケートが町民に届けられているのに、しっかりとした説明がされていないという。これでは「一歩」も前に進めない、今後の住民の方向性も決められない理由がここにあると思う。

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2011
12/22

二次被害

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我が町「南三陸町」では、また被災者の二次被害が続いている。何もなければまだまだ生きられる命も、多くの精神的障害・不安により、気持ち心の闇に今陥る事か多い。誰もがあの人は大丈夫、そしてこれから町の復興の為に動いてくれると思っていた人の、昨日の訃報を知る事となつた。
歌津の館地区のお寺の和尚さまが亡くなったとの話に驚いた。仕事でもお世話になった方で、歌津地区ならず、町の民生委員や国際交流協会などの会長を務め、多くの人たちの信頼を受けていた。また、大きな存在がこの町から消える事となった。町を去った田の浦地区の宮司さんと言い、震災で被災し復旧に向かう途上での、南三陸町からの人材の消滅に、今後の不安が町民を襲う。二次被害の防止には身近な人の心配りと、互いに会話や助け合う事が必要で、現在普通に生活しているようでも、常々語り合う事、体心の休息を取る事を皆が気遣う、こうした活動が大切だ。震災だからと言って「酒はダメ」「大笑いはダメ」なんて、言っているとストレスの病が忍び寄る。「いいじゃない人間だもの」。
私の義理の叔父も住職で布教教化に被災しながらも全国を飛び回っている。私の菩提寺の住職さんも、昨日はサッカーの長谷部選手からの、幼稚園再建にと「4000万円」の支援に、被災地を案内する姿がテレビで放映されていた。幼児教育の環境早期整備に活動している。
南三陸町では、生産者が仲間と震災後にカキの全国支援の会員を募り、2億円以上の募金でカキの再生がはじまっている。今日は「及善かまぼこ店」の6代目が、被災ファンドなるもので、1000口の460名余りを募り、再建したとの報道もあった。被災し仮設生活者があり、方やこうして復興を遂げて営業再開者がある。南三陸町の状況と生活は日々変わるが、何とか二次三次の被害者だけは出したくない。

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2011
12/21

ご苦労様

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田畑もいろいろあった一年間、津波による「塩害」、放射能での「風評」があり、当地方は農協の米への安全宣言があり、しかし米販売不振による農家への、全国からの支援買い取りが、私の「ブログ」での呼びかけにも、ご協力支援いただきました。感謝しかありません。福島の現状を考えると、言葉もありません。東電・政府の全面的・あらゆる総ての面での手助け支援をお願いし、原発の在り方でも国民すべてが、原発を考えるキッカケとなりました。国民が「我慢し共に助け合い生きていく時代」が来たのだと思います。
高齢化の南三陸町の現実のコモゴモがあります。昨日は「89才」の生活と現実の色々に触れました。我が家の両親二人もこの年で、老々介護で行政のあらゆる支援、政府の制度に助けてもらっています。そのな中で御陰様の元気があり、昨日は「毎日放送」の取材で大騒ぎ、そして来年に向け「生き方を改める」と父親、老々介護の限界対策に、歌津地区への福祉施設のデイサービスへの通所を決めた。自分の体力の限界と、自分の時間・生き方をすると言う。こうした決断が我が町の高齢者に必要な考え方だが、しかしながら、これができる人たちも限られている。また同年の方の葬儀への参列があり、帰りには同年の旦那さまを持つ奥さんの、町での頑張り生きる姿をみました。高台で震災災害は逃れたものの、生活の不便の中で高齢者運転で、何とか今を生きていた。私はこんな町民の皆さんと共に助け合い生きて行きたいと考える。
また、聞かれた「義捐金あるの」と、これが被災者の超えであり真実です。誰々は1億以上ももらっているんだってね。と私に聞かれても「噂」を「事実」と確かめる、現状での「術」はない。うー寒い町風景です。

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2011
12/20

雪景色

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今日の南三陸町は雪の朝となりました。さすがに車はいつもよりスピードを緩め、安全運転のように感じる。
 写真は志津川の五日町の志津川小学校入り口に、ボランティア団体の建てた「クリスマスツリー」、夜は被災地の中に一つの「光」となり、町を照らしている。
 昨日は5日目の議会があり、一般予算補正で東北5県の新聞紙上で掲載された「町長の兼業問題」で、議論が交わされた。冒頭宮城県の新聞に掲載されないのはおかしいと、報道の在り方を指摘した。兼業は行政に関わる人間が、自社の売り上げの50%を、町から受注すると「兼業」の法律違反となり辞職しないといけない。5年ぐらい前から元議員の指摘はあったものの、議会での議論は初めての気がする。質問での行政の答えは20%なので、印刷業務の発注に問題はないという。
はたして町長の力が働いてないと言えるか疑問で、印刷会社社長であり町長と言う立場で、職員は少なからず、配慮をしている。「10万以上が見積り入札です」と、常々町職員に言われる、それ以上が大部分の印刷業務、町民事業所への公正公平の観点からも、行政の仕事は町民に平等に発注されるべきと思う。4社あった印刷社は今は2社となった。
 町長は会社の代表職を10月31日に辞任している。私も取締役を早期に辞職を考える。他の自治体の議員も、「兼業に触れる」、行政との関係の職員・議員の、町との委託事業や取引はありえないという。
こうした事がこの町には意外と多い。行政改革も必要と思うが、今は復旧復興が第一だろう。昨日も終了後、事業を復活した社長は、今の「復興計画」の現実の動き進捗は遅すぎるという。今後事業所を近隣市へとも考え、今後の住民の早期生活の安定を言う。高台移転への地域の復活、人口の安定無くしてこの町での事業はありえない。
今日明日も登米市に南三陸町からのお医者さんが二人開業する。人口の流失は「待った無し!」です。

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2011
12/19

ピンチをチャンスに

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土曜日に突然、同級生の妹さんから電話があった。「私の知人の娘さんのボランティア受け入れ支援お願いします」との内容だった。
現在寒くなりボランティアの数が減少していると言う。ボランティアの作業も減ったと思っていたが、被災地の現実は見ての通りまだまだです。
今、被災地の子供たちの「学力低下」が問題となっている。精神的な事・教育環境などなど、色々な障害が勉強不足による学力低下の原因となっている。
そんな折の紹介のボランティアさんの方は、オランダで芸術に取り組んでいる。その作品の一つを写真で紹介します。私もその作品の大きさに驚くし、本格的な芸術家と実感した。今回、被災地支援というが「教育支援」もしたいという。多くのボランティアさんの受け入れを町はしている。こうした人たちの活用もできる。
南三陸町の子供たちに世界で頑張る若い芸術家の話は、知りえない学習の意義と学力の必要性を知る良いチャンスともなる。教育の枠と規約に縛られる環境があるとも聞く。進んで受け入れることにより、子供たちの学力向上に繋がればと思う。すべてがトップの決断・判断次第です。
今日も公用、気を引き締め向かう。

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2011
12/18

危なーい

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今、今日の用事を終え帰った。昨日もだが時間に追われる毎日となっていた。昨朝の雪があり、小泉までの配達を時間伸ばし8時30分に家を出かけた。歌津の伊里前の瓦礫の市街地には、多くののぼりでいつにない活気を感じた。晴天の中の「伊里前福幸商店街」13日からのオープン、今日も「sck?}」が日曜とありイベントに歌を披露、商店街に人が沢山集まっていた。小泉からの帰り「細浦」を回り現在の状況を見た。細浦から西田の流失した道路は、応急処理で開通となっていた。個人での自宅復旧の姿もうかがえた。
細浦に被災後の住家としたお客さんを回った。旭と共に一日がありますという、街中から少し山の上ながら家族で今暮らせる事が幸せと言う。今までの生活からは大分変ったが、特別に9か月が経ったが不自由はないという。仕事もできている事、毎日なんとなく追われる生活ながら充実し、こんな状況下だと人の本当の姿が見えるという。
「危ない」は午後の石巻に配達の帰りだった。多くの多忙で不眠により眠気、一瞬だが対向車線を走っていた。助手席に人を乗せていた事で、最悪の状況を回避できた。これで3回目の地獄からの帰還かも知れない。10年に一回、死を直感する出来事を経験する。「あなたの御陰で助かりました」、感謝です。
今日も仮設の寒さ対策の立会、それから津谷へ、戸倉学区のお母さんに「善王寺での学習延長」などの話で1時間、また戸倉地区民の転校の話などを聞く。そして南方イオン仮設へ、生々しい現実の話に、町の消滅の赤信号を実感、そのことに危機感のない行政に、時間が必要と言うが「復興計画」どうり行くのだろうか。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 19:55 】

2011
12/17

津波威力


被災後の写真をチェックしていたら、旭ケ丘のデイサービス側の坂道の写真があった。廻館前の建物を旭ケ丘下部の低い土地の、真新しい住宅を全て巻き込み、写真の部分に押し流し、下の二階建てのアパートの高さまで、津波が襲った爪痕の瓦礫処理です。旭ケ丘の登り坂の道路確保に、山が右にはあり左に瓦礫を寄せた結果、奥に見えるアパートを瓦礫が超えた事になった。この場所で高校生の家に閉じ込められた住民の救出作業があった。
人生の総てを掛けて自宅の建設があり、その思いが見る影も無い姿が、左の瓦礫にある。高台の「旭ケ丘」ながら地震による全壊の家屋も多々あると聞く。
昨日は被災し家屋の一階が水没した方の建設補助の、「罹災加算」「建設支援」の手続きで困っている事への手伝いをした。加算金100万円、建設者に50万円と、建設費の一部が支援補助となった。何回か行政に赴いたものの、書類の不備を指摘され、行くのをためらって居たという。国の支援、なんの恥じる事のない、行政職員・自治体支援職員・県職員など、被災者の意をくみ、親身になり書類提出に努力・協力して欲しい。
震災を通し「家族の絆」「友との絆」「一期一会のボランティアさんとの絆」多くの事を知った。自然の怖さ、美しさの矛盾する脅威に今生かされている。
今日は「志津川名店街」?と、志津川地区の仮設商店街が1月から2月中旬オープンと聞いた。伊里前仮設商店街プレオープンがある中で、志津川地区の二転三転するスタート日に被災地の現実?、いつまでもそんな事でいいのかとも思う。2次避難から仮設に入り、仮設商店街での店の復活が、生きる力とも言う。それも80才を超えて南三陸町の復興に尽力したいとの思いがある。
私の人生は南三陸町志津川と共にあり、今後も町の皆が助け合い共に支え合う、そのな町づくりの創造に、私は身を捧げたい。

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2011
12/16

三陸道


「命の道」と今、国は三陸沿岸の高速道をこう呼ぶ、仙台の平坦な東部道路では多くの県民が、高速道に駆け上がり命を救われている。昨日は南三陸町のその現在の経過と、予定通路の土地と形状の視察を議会で行った。間違いなく三陸道は南三陸町を通る実感がわいてきた。その途中には震災後の爪痕や、厳しい環境での生活と復興への姿がそこにはあった。
写真は志津川小学校に通じる道路で、10日目の被災地の状況です。混乱の中で私もこの角度でのこの場所の撮影は記憶がない。振り返るとアリーナから被災地に東山公園から降りた。そして十日町から上山緑地、保育所そして、浦山の熊野神社を越え志津川小学校に出る道から、撮った写真のような気がする。
被災死亡した家族の事を今少し忘れているかもしれない。風の噂で一人残された奥さんの、精神的なものからの入院との話を聞いた。被災し身内の消息を探し、判明してもその苦悩は消えることはなく、益々思うがゆえに「なんで」との気持ちと、その不安のもっていきようがない、現実と悲しみがある。
南三陸町の死者不明は12月5日で、死亡496名と不明302名があり、この多くの家族・親戚も同じ不安・苦悩を持ち生活している。行政の早期の安心安全の町の構想を、発信・周知が早期に求められ、こうした人たちのケアも重要課題となっている。

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2011
12/15

やっと今


OCNにつながらない、という事はネットができない。という事は「ブログ」が更新できない。それだけでなくメールのデータ送信ができないことになる。
昨日「キッズジャナル」代表が、戸倉剣道スポーツ少年団の発会した由来を教えてくださいと連絡が入った。今、被災地の戸倉剣道の子供たちの活動と頑張りを、ネット配信で全国の子供たちに「元気でスポーツに頑張る姿」を伝えている。その最終段階の記事の配信ができない。また、講話をした「仙台泉松陵」の先生への連絡も取れない状況となった。
昨夜は隣の大家さんから、お客さが来るから一緒に飲みましょうと連絡、戸倉でのお酒の誘いは車があるから答えられるわけもない。食事と多くの話で帰りが9時半になった。社長さんは「おかあさんに」と、三重県の「赤福」を持ってきて、「小さく切ってお湯を注ぐと美味しいですよ」と、優しい気遣いをくれた。大学の講師もしているという社長、歴史・漢字・理論的考えなど、自分の持っていない部分に、いつも自分の無知を知らされる。
先ごろテレビで「日本の技術力」を、自分の使用するもので身近にものに感じられた。どこかで見た「注射針」、世界最小の細さで、10名に満たない従業員の会社ながら5億を売上ているという。糖尿病の患者の「インスリン」の注射針で、私の常備品でもある。「ランタス」という薬の毎日変える針がこれだった。現在は「14単位」を注射している。食生活の不摂生から悪化の一途だ、一昨日の質問時間1時間10分でも、唇の渇きは「やぱい」状況だ。私には時間がないことを痛感し生きている。
今日もまた「アクセスオフ」のパソコンのネット不通に悩む事となる。写真は清水浜と松井田地区の被災5日目で、道路の瓦礫は撤去されているものの、道路の両側には海岸線の家屋の瓦礫が車が山のように積みあがっている。左の石段は「久須志神社」への神社につながる。ここでも多くの地区民が津波から難を逃れた。今年の漢字は「絆」ながら、被災地のあるお母さんは「難」をあげていた。この言葉が私は妙に引っかかった。

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2011
12/14

健康に感謝


写真は3・11の翌朝の宮城県合同庁舎周囲の風景です。被災後の3月の寒さが厳しかった事が判ってもらえるだろう。今日の朝は水道が凍結した。被災地の寒さはこれから、高齢者の独居老人の仮設生活を心配する。
 昨日は戸倉の仮営業所に帰ったのは6時で、残務整理をし、パソコンに向かい「ブログ」の公開が7時過ぎとなった。「何もひこまでする必要はない」とのご意見もあるのだろうが、もうすでに病気かもしれない。
 12時の前日は夜11時まで机に向かい、 13日は6時に戸倉へ、夜も帰り自分で食事をして食べたのが9時30分を過ぎていた。床に就くと爆睡、朝は3時30分に目が覚めそのまま起床で、友達からもらった「すき焼きセット」を作り、食べて五時前には戸倉に来た。朝の食事は89歳の両親の為でもある。母の「貧血」は食事のためだと医師の検査結果と、その改善には鉄分が必要で、肉や魚そして鉄分の含む野菜が必要、すき焼きはぴったりだろう。千葉家の今日の朝食は豪華で、寝ている両親が朝驚くことと、なんか嬉しくなる。
 昨日13日から21日までの会期で、中2日の休会が救いです。それ以外は公人として、会社の経営と12月の師走をなんとか従業員の為に、ご愛顧いただいているお得意様の為に頑張りたい。
 今までお世話になった「宮司」さんの廃業という、ショッキングな現実を聞いた。すべての物が流失した。跡継ぎを迎えるための、新築した家も津波に呑みこまれ、希望が失った事が精神的に大きい。昨年に二人三脚で歩んでこられた奥様の急逝も、大きいと思う。先生少し休んで又復帰して地域の支えになって欲しい。
 「東日本大震災」は私の知りえない多くの苦悩を、南三陸の町民に与えた。人生だからとは語れない。

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2011
12/13

横津さんの坂


3・11の10日後ぐらいの水戸辺の横津商店さん前の、戸倉街道の国道398号線です。この手前の水戸辺・在郷・上沢前は、津波で1軒を残しすべてが流失しました。跡地には南三陸町第二仮置き場が建設される予定で、12月定例議会の補正に69億6千万円が、県の予算から町に交付されます。この場所に第二仮置き場になる事と思います。17ha61人の地権者の内7割の了承を現在受けたと行政は話していた。
波伝谷からの光景で、この峠には「生活センター」があり、津波避難所でもある。避難所まで逃げる途中で地区民が被災して死亡した。左の瓦礫の下には家・車が原型を残し、残っていた事が津波が道路を利用し駆け上がってきた事を想像する。想定外の津波に巻き込まれた地区民の、まさかの威力により命を落とす事となった。反対の水戸辺地区からの津波がぶつかったとも聞く。現在右の丘に水戸辺地区の仮設が建築されている。
私の議会での「一問一答」の復興計画の素案の達成の可能性はの質問に、段階をふみ住民意向調査を元に、被災住民の「高台移転」を予算と計画に添って進めるという。次年度からの土地造成と災害公営住宅を建設するとの計画。早くて平成25年の建設開始で、平成26年の9月ごろから、入居開始と言う。
町長の任期は25年9月までで、町長の被災後の初動の復興の大切さを、私は言ったが、その意気込みはあまり感じられたかった。仮説に入る被災町民の苦悩は町長には伝わっていない感がする。自宅があると言った町長も、十日町の自宅の流失があり、罹災の100万円・義捐金の70万あまりを受給していると答えた。当然の事でもあるが、住む家そして会社も残った。羨ましい、「自宅に住んでる」・・・・。

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2011
12/12

桜通信


震災翌日の旭ケ丘からの地獄と化した町を見た。この時の事が未だに「夢」に出てくる。現在は山の向こうからの煙の現場も綺麗に片付き、眼下の光景も脳裏に残るだけで、被災地の復旧が進んでいる。しかし、多くの悲劇を多くの被災した皆さんから聞き続けている。
知人が「桜通信」なるA4の4ページの新聞を持ってきてくれた。「アジア協会アジア友の会」が発行していた。発行所は登米市中田町石森でナンバー27号も発行をし700部を作成していた。トップには「伊里前福幸商店街」13日オープンとあった。7店舗が出店する。上から「総合衣料店マルエー」「B・Jヤマウチ」「マルタケ大衆ストア」「ナカノ電気」「アスリートやまうち」「カットクラブチバ」「マルアラ」の7店舗が顔入り・メッセージ付きで紹介されていた。場所は伊里前小の登り口で、13日がプレオープンイベントが3時より、18日が10時より「オープンイベント」が開催される。ぜひ私も行ってみたい。
その他にも歌津地区の復興の今後が紹介されていた。「石泉ふれあい農産加工場建設決定」「みなさん館建設決定」など、地域が一体となり助け合う事業が展開されていた。志津川地区はどうだろう。
桜通信は「次の春、桜を見るまでちから合わせて、寄り添いあって、一緒に進みましょう。」と、復興へのあるべは姿をこの通信の願いがここにある。共に進みましょうと町も言うが、住民は行政に頼るしか今はなく、高台移転への町の振興の姿を一日でも早く示すことが、「次の春の桜を見るまで町民は頑張れる」この事に繋がる。
桜通信の伊里前福幸商店街オープンの皆さんの笑顔と意気込みのメッセージ、仮説で暮らす皆さんにもこの笑顔が一日も早く戻る事を願いたい。

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2011
12/11

変わらぬ跡地

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被災地の瓦礫撤去は進んでいなかった。今日の朝自宅の本浜町の被災現場に行ってみた、瓦礫の鉄くずは大半が取り除かれているものの、建物の基礎のコンクリートは震災後そのままで、被災部分の基礎は、重機による掘り出しと、その後の破砕機による処理して、破壊された道路の整備の敷石に活用される。しかし、まだまだ街中には多くが残っているのが現実です。
町の災害復興の交付金が12月補正では「70億」にもなる。年間の町予算に匹敵する。予算の大部分の使途は災害の廃棄物処理委託に回される。瓦礫の処理との事だと思うが、高台移転の予算や住民の要望する、近々に必要とされる部分への活用はと言うとまだで、大分が「住民意見」とは違い、強い怒りの声を聴く。
産業の復旧と雇用の場の確保があり、初めて住民の住める町づくりへとなる。確かに復興への行程を組み、その計画どうりに進めるが、町の存続の事を考えると、その順番を間違えると、この町の人口減少への道を歩むこととなる。被災前も人口減少10%と高齢化率の30%の問題が地方にある。震災発生で行政の取り組みの遅延や政策の失敗で、この部分の加速は町の再建はできなく、近隣市への吸収合併へと進む結果となりうる。
石巻市のの雄勝では国の県の市の「高台移転計画」に、地域上げて異論をとなえる。こうした地区民の活動や提案が、新しい町づくりや被災からの復興の大きな力となる。アイデア異論の発言実行は地域のコミュニティーの、ビジネススタイルの形成提案が必要だ。南三陸町でも旧地域での活動を多く耳にする。高台移転都市計画は旧地域のコミニティーの強い繋がり絆・取組が地区再建への、早期の復活町づくりに不可欠です。
昨日の「皆既月食」は、母親の予定外の退院経過により、反対三日月の11時まで起きている結果となったが、自然の驚異の痕に、「神秘」に触れる事ができた。今日はデスクワークを深夜までする事と決めた。

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2011
12/10

戸倉地区

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写真は波伝谷地区を望み、ここが南三陸町の第二仮置き場の予定となるのか、と新たな戸倉地区が震災の焦点の地となりそうだ、左下に水道の通水管が見える、ここには飲料水の水源・取水口があると聞く。ここもまた多くの問題点と今後の不安の元が点在する。
水戸辺・波伝谷・在郷・上沢前は、全ての家が流失したと言っても過言ではなく、写真のようにこの反対側も同じような、被災地の状況が山の麓の平地に続く。処理場としての条件は確保されているが、土地・農地の地権者は家屋の建設もままならない中で、用地使用を町から求められている。
多大の対価を地権者には与えてほしい。宅地は1㎡300円・農地は90円とも聞くし、防波堤の早期の建設や土地の使用後の整備など、被災者でもあり町の瓦礫処理場への転用協力があり、それへの町の恩返しは早期復興でしかない。
気仙沼市の被災後の市の復旧対策、町民の地元への愛着の活動がある。そして今回24年度の南気仙沼小と、気仙沼小の統合が進められている。学区を超えた子供たちの被災地での教育環境の集約がある。間違いなく気仙沼市の被災の土地の考え方や、教育環境の新たな改変取り組みは、早期の市の復活へと向かい、これは人口の流失阻止への気仙沼市・市民の決断でもある。何処を見て復興を進めるかである。南三陸町はと言うと、一番守らなければいけない部分が欠けている気がしてならない。
明日の午前は母の米山志津川診療所からの退院となる。89歳の後期高齢者・被災者医療補助があり、バジャマの貸し出しの2310円の支払で、介護保険制度により我が家は生きていけている。訪問介護・訪問看護・入浴サービス・介護品貸与など、要介護度5の場合35万もの負担は、3.5万で済む。母は親要介護3の制度で助けられ家族も自分の時間を持て普通に近い生活を確保できる。テレビで介護を受けている老人は、ディサービスに行ける皆で話をできる事が楽しいと言う。母も体調の回復後は週2回のデイに行ける事を私は願う。
昨日は会いたい人が来てくれた。「私は死んだ身です、町の為に残りの時間は生きたい」という。また「同志」が増えた。

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2011
12/09

癒されて3

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写真は戸倉折立地区の「折立川」、被災後の5月ごろから戸倉荒町に通い続けている。道すがら河原の多くの鳥たちに癒されている。この日の朝は「アオサギ」「白サギ」「小サギ」が三匹小魚を狙っていた。また、多くの今まではあまりこの川でいなかった鳥たちを河原で多く見る事ができる。多くの東日本の海辺・田畑が被災し、彼らの食事の場を奪ったからに他ならない。折立の水門・戸倉公民会が津波被害の跡形だけを残している。あれから9か月が経つが応急の河川の整備があるが、大型の建物はいまだに撤去されず、被災そのままを今も残している。
国道45号線は北上川の崖崩れがあり、今だに通行止めとなっている。地震で山が動いたとも聞き、開通は来年の2月ごろになり、交互通行だという。私の知人が飯野川にいた、地震後にこの道路は通行できたという。この事には驚いた。午後2時46分後に大きな異変は「津波」だけではなかった。
昨夜は戸倉の折立で事故発生の報を友達から受け、30分後に通るとまだパトカーが処理をしていた。戸倉郵便局前と聞いたが、事故は折立の中央だった。また前日は横山の峠の下の方でも追突事故があった。今までは多発は感じなかったが、12月に入り事故が多発している。
昨夜の6時過ぎの志津川市街地は、ホテル観洋から車のヘッドライトが長く町内に続いていた。感じた事のない異変は町内の夜間の工事にあった。午後4時なると今は真っ暗で、曇りや雨の時は日中でも、町中の被災後は暗さが増したようだ。住民生活も暗さばかりを感じるのは私だけではない。
また、戸倉地区の中学生時代の恩師に、強い激怒を昨日は受けた、「なにやってんの」、町長も議員も皆リコールだがら。と私をしかりつけた。在郷の第二仮置き場の話や戸倉の高台移転の現状にも、町の復興への遅延に対し、強い怒りをもっていた。癒しなんて言ってられない現実をまざまざと知らされた。私も全ての失った被災者なんだけどなー。とても言えない。

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2011
12/08

癒し2

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もう一匹が現在お世話になっている、工場用地の大家さんの家の愛犬「ポン太」、私は犬も猫も大好きというわけではない。震災後まもなく現在仕事をしている戸倉荒町、ここの牛舎の廃舎に工場を作ってくれたのも、大家の佐々木さんです。ポン太は番犬であり、猫たちは農機器の倉庫に暮らし、佐々木さんが餌を与え、倉庫の住人でもある。私は震災後は家も工場も何もなくなり、生活再建の中で何も怖いものはなかった。そして写真のような秋田犬としての凛とした「ポン太」の、強さと優しさに癒されている。
昨日私の知人も震災後の支援に来た岐阜県の方から招待を受け、明日ごろに当地に向かい現在の南三陸町の現状を伝えに行く。また多大な支援に感謝の言葉を、町民を代表して話に行く事となる。
資料として先頃仙台の高校での講話で私が使用した物も貸した。現在の死亡・不明も知りたいとの事で、町の危機管理室に問い合わせると、12月5日現在、警察署発表では死者565人不明310人、住民基本台帳では死者496名不明302人と言う。最近DNAでの判定が出て葬儀をする方が多かった気がするが、この数字にも表れている。警察署の数字には県外からの人が南三陸町で死亡不明の数が入っている。
また、商工会の会員の今後の動向調査も今行われている。会員の減少は防ぐ事はできなく、商工会のあり方存在すら今後の課題・問題である。やはり早期の住民の、仮設からの移転・生活環境の整備が求められる。商業は住民があっての生業と言える。

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2011
12/07

癒されて

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私の現在の工場前の陽だまりに二匹の猫が、寄り添い温め合う姿に「ほっと」とさせられる。毎日のように移り変わる出来事の現実を目の当たりにし、落ち込んだり、自分に納得させたり、被災地の混乱は、まだまだ・・まだまだ続く。人間の「欲」が消えたらどんなにか、楽に生きていけるのにとも思うのだが。
昨夕、戸倉学区の方が「就学援助費の支給決定」の通知の一文に、おかしいと疑問をぶつけてきた。「バス乗車料を徴収していないので・・・」との内容に、行政が戸倉小中を登米市善王寺小の廃校に移転を、父兄の納得の意味には、行政の責任をもって学校を移転してもらい、必ず南三陸町での体制が戻ったら帰ってもらう、があるからだ。学用品・新入学用品費などの国からの援助費はありがたいが、交通費分は現在運行会社にその費用を支払うため、交通費分を町が変わって払う領収委任もあった。現在支援団体の「ワールドビジョン」が送迎にあたり、その他にも企業2社が送迎に善王寺はあたっている。第三次補正の成立で国から資金が交付されるからと言うが、戸倉学区は例外だろうと思う。遠くは55分も掛けて通学している中で、町の判断で登米市を選び今の大変な現実がある。戸倉小中は例外として通学費は家庭に支給すべきと思うが、皆さんはどう考えますか。
先頃ある所に行った時、BSの取材仲介を頼まれた。12月31日の午後4時半からの1時間予定の番組で、名称は「ビック対談」で逆境からの復活の内容、なでしこジャパンのメンバー一人との、対談企画だった。多忙ゆえ断られた。
今何をすべきかの判断は、被災地での多忙のなかで一瞬で決断がある。町の復興の為に最善の決断を願いたい。

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2011
12/06

天国の彼へ

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今年のベガルタの4位が決定した。「一緒にサッカー応援に生きましょう」と、新年度の議員研修の車中での小野篤実係長からの誘いだった。昨年は息子と一緒に仙台へ、応援姿でゴルフ仲間の会に「ほろ酔い気分」で現れた。最近はゴルフより野球・サッカー観戦を、家族や弟さんと楽しんでいた。そして今年J1に昇格し大躍進し、当初は仙台ベガルタ首位、連勝、負けないと、篤美の応援が通じた。そして3.11からベガルタの勢いが低下したものの、日曜日の最終戦で2対0で快勝し4位となった。あの津波がなかったら皆に祝杯のおすそ分けでもしていたかな。君のいない議会事務局はやっぱり寂しい。
12月に入り急ぎの仕事が増えた。以前の師走の仕事量の半分以下ながら、仕事のできる喜びの中に今ある。母の検査の難関だった大腸カメラも無事終わり、明日の平沼先生の結果を聞きに行く予定だ。父親は安堵感からか、体がだるいと、もう少しの入院を希望している。
親戚をしばらくぶりで訪れた、ご主人の突然の死から、まだ気持ちが落ち着かなく前に進めないという。情報収集で横山にいとこが美容室を始めたという。横山スタンドの跡地の「トレーラーハウス」がそうらしい。頑張っているのでよろしくとの事だった。志津川駅前の美容室も横山で5月には始めたという。これも若い人たちの行動力を感じる。みなみ三陸町の美容室の震災からの復活が多く早い、経営者がまだ若いことが理由と思う。
トレーラーハウスがこれからの住まい・店として大いにありうる。500万から700万で、入居時間も早く下取りもしてくれるという。行政の被災地の住居の復旧には時間が、町民が考えている以上にかかる。ベガルタの東北への「希望の光」は、まだまだ南三陸町には見えない。

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2011
12/05

一人一人の力の結集で

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先週は議会の瓦礫第二置き場の問題があり、私個人では「戸倉剣道の年納め試合」、仙台での高校生への「南三陸町震災講話」など、日々追われる一週間となりました。
志津川中学校武道館での戸倉剣道では、日曜の県の剣道大会が事前の大会日場所変更があり、私自身変更の事実を知らないままで大会の参加が出来なかった。震災後の混乱もあり、平時と状況が違う事により、県・団は元より町の生涯学習課からの通知の混乱もあった気がする。何処にも責任の所在を追及はできないが、子供たちのここまでの努力には謝罪しかない。お詫びの気持ちで、土曜の23年の納会大会で商品を準備し、被災後の自分たちの成果を発揮してもらった。来年は2月の中旬開催で、3月末の「田尻大会」で小学校6年の5人の生徒が、大会最後に挑戦する。
今日メールに戸倉荒町出身の佐々木さんからの報告が入っていた。先週末の茨城県那珂市のイベントで、南三陸町の乾物産品の販売が、市民の皆さんの支援と理解を頂きました。との事だった。協力には「カネ久海産」さんの支援をお願いし、入谷の福興ダコ「ゆめ多幸鎮」も大好評だったという。「支援の輪を全国へ」が南三陸町の復興のカギで、今回の大被災のピンチを「チャンス」に変える事が、これからこの町の復興、生き残る道ににつながると私は思う。
一部町民の復興景気と事業制度の活用があるが、この町が残らないと何の意味もない。2・3年前に放流したサケが毎年帰ってくる。継続しての活動がここにあり、伝統と歴史を今後も守りたい。「変えよう!南三陸町!」が、今の私の南三陸町への思いです。

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2011
12/04

歌津復興

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「絆ケーキ」とテレビから流れた。歌津からケーキで町の復興をという事で報道されていた。昨年に「歌津泊崎荘」に出かけたときに、店の前に多くのロールケーキがあった事を思い出した。泊崎荘さんの娘さんで結婚しケーキ作りを仕事としていた。27才で子供の保育の為に登米市に住み、歌津まで通い仕事を続けている。店も従業員の家族も被災し、被災後1か月後?に再建した。同級生も他の職をしていたが、会社も被災し今は「絆ケーキ」を共に作っり働いている。福興市の店には多くの子供たちが集まり、おいしいしと笑顔を見せる。町民の皆さんに元気をと、また元気をもらっているという。雇用の場を作り、復興へとケーキを全国へと意気込んでいた。
歌津地区商店街は壊滅的で、土地も地盤沈下となり、厳しい復興の地域と言える。こんな中で今月の19日には伊里前に仮設商店街が5店舗くらいながらオープンする。写真は海から10mと離れない場所ながら、昨月基礎工事が進む、国・町の復興計画を待ってられないが現状だろう。また、市街地から3キロ奥地に「石泉地区」がある。平坦な工場としての土地があり、この場所に工業事業者が新たな再建場所として、仕事をはじめている。事業所は自力で復旧を図っている。新聞に気仙沼では250億もの水産業の補助金、国からのグループでの事業再建に4分の3の事業補助がきまった。南三陸町は2事業で12億円だとある、町の規模の違いはあるがこの差に驚いた。
2日の議会で「見なし仮設」が報告され、県内に591世帯1835名が、県外には6世帯13名があると言う。死亡不明788名で合計2500名、登米市への居住もあり500戸1500名として、「4000名」? 人口の減少は町の10年後は、予測3000人減で想定の甘さしかなく、一日も早い住民の生活の場の確保が必要と、私は強く思うのだが。

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2011
12/03

めいっぱい生きる

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昨日はまた一つ自分にとり、大きな事への挑戦を終えた。
志津川高校の教員をしていた友達が、仙台の高校の教師として進路指導を担当していた。今度卒業する生徒の進路指導の一端で、南三陸町の震災から復興への歩みを話して欲しいとの、依頼が2週間前に舞い込んだ。私もぜひ南三陸の現実と、小中高生・幼児がこの過酷な現実で頑張っている事などを、伝えるために引き受けた。
昨日の行動は過酷だった。午前中の議会開催があり、朝3時から原稿のまとめと段取り、勿論議会の提案議案と質問の事もあった。議会は被災地の瓦礫の第二仮置き場問題で、12時半まで押す事となった。それから仙台へ、2時半の開始10分前に付き校長室で待つと携帯が鳴った。米山病院の志津川診療所からで、母の認知が急に出た「何でここにいるの家に帰る」と着替えているとの連絡だった。直後の講話の時間となり、何回もバイブが鳴った。もちろん出る事も出来ず、1時間後の講話後の電話で、父親に診療所までタクシーで向かうよう話した。電話の向こうからは「ハーハー」と息の荒い声、「大丈夫か」と冷静を呼びかけた。病院に再度電話すると「落ち着きました、申し訳ありません」と丁寧な謝罪、本当ありがとうございます。感謝しかない。
そのあと兄の家へ配達し、仙台の華やかな風景に癒され食事、戸倉の会社から、診療所に父を迎えに行き、倉庫の避難所についたのは9時半で、走行距離は300キロ近くなった。
現在の南三陸町の被災者の状況は、皆こんな過酷な中で生活しています。診療所には父の知人が3人も入院し、厳しい状態に父の唖然とした話を車で聞くこととなった。8800のタクシー代・・・町民の皆さんの苦悩がここにも。

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2011
12/02

一人じゃない

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昨日は知人の横山の方がこられた。佐久間布団さんの義理のお父さんで、優さんの行方不明を知った。また町の必要とされる大きな人材がいなくなる。やはりドラマがここにもあった。高野会館さんでの芸能大会に行っていた、地震後に店に戻り散乱する商品の中で、従業員に避難を呼びかけ、その後で行方がわからないという。奥さんは仕入れで仙台の途中だったという。難をのがれた。「なんであの後・・・」「一緒ににいたら・・・」と、家族ならずともそう思う。何とか手伝える事はないかと、来社した時に話すことしかできなかった。
戸倉の瓦礫の二次仮置き場が、地権者に説明され進んでいるようだ。昨日は仙台の瓦礫処理の焼却炉が紹介され、2機が休む暇なく稼働していた。ダイオキシンの問題はないと関係者が話していた。大手の特定ゼネコンが県内の処理を受注しているという。特殊技術なのだろうが、「震災復興」という名の下で、早期処理にも多額の資金が投入されている。政治家の介入による多額の利権が動いてない事を願いたい。
仮設の「寒さ対策」の工事が急ピッチで進む、多くの職人さんが働いていた。今日の気温は2℃さすがに厳寒の朝となった。工場もエアコン対応ながら1時間は、暖房に要する。雪の季節を迎えタイヤの交換は終わったが、2本の新品タイヤ交換に決めた、14万の出費はあまりにも痛いので、昨年のスタットレス2本は今シーズン頑張ってもらう。
商工団地の手前からの道路は、45号線から「進入禁止」です。警察検問の規制も安全確保のためです。震災だからとはいきません。

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