ARCHIVE - 2011年09月

2011
09/30

誰を信じれば?

2011-09-24 07.39.13
今日はわが社の近辺の地盤沈下の光景をブログで紹介するつもりだったが、各種の多忙ゆえノートパソコンからのブログができなかった。
中瀬町の仮設での住民懇談会は、終始『戸倉ゴルフ場跡地問題』に、区長の口火を切った質問に半分の時間を要した。まるで議場そのままの姿に感じたの、仲間の一人と二人きりで、議場ては余り語らない議員の発言の多さに、いったいこの懇談会は?と思った。勘ぐれば、設定の二人は今の行政に近い?まあいい!
写真は6ヶ月が過ぎやっと、戸倉荒町の津波最終地点の折立川の、瓦礫撤去が南三陸町の建設業協会の事務局の、佐千代組の重機が排除にあたっていた。
明日は葬儀が2つ又の一日が埋まっている!
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2011
09/29

いよいよみうらオープン

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朝の5時に仙台銀行前を通り驚く、こんなにも海水が国道まできていた。いままでで一番と私は思い、シャメを撮りました。明日のブログはその写真でいこうと思う。
また、大久保の花のバイキングの芳賀さんの店も、津波がここまで来て一階を貫通した。しかし、「さかなのみうら」さんが、本浜町で被災し新しい店舗を模索し、この場所を選択した。南三陸町で被災した中で今現在最高の場所と言える。仙台からの津山経由で志津川に入り、ドライブスルー的な買い物ができる。だが現在は「三陸道」の米谷経由が来町の6割を占めるような気がする。
三浦の社長は来町したボランティアと、インターネットでの支援発信の中心として、被災者に4か月の物資の配布活動もしてくれた。「さかなのみうら」さんも三階建ての建物、建てたばかりの冷凍庫など、全てが鉄骨のだけになって今も残る。
山内魚店さんがいち早く町や商工会の制度を活用し、商工団地のメイン道路に開店した。それに引き替え被災者支援を積極的に行い、全国への発信の受け皿とボランティアとの共働と、相反るか復興への第一歩を踏み出した。
今日も議会を4時までこなし、そのあとで志津川中学校に剣道指導に出かけた。朝は5時から「南三陸マイタウン情報」の復興第1号を発行することができた。配達は仮設を中心にまいた。配達のアルバイトは被災者でもある、前からの堀内さんが快く引き受けてくれた。多くの支援の元で、私も発信の継続ができた。

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2011
09/28

目の当り


写真は気仙沼鹿折地区の風景、まさに想像を絶する光景が広がっていた。道路の整備のなつた場所からは見えない部分で、こうした現実がある。鹿折から入り気仙沼市内に入ろうとしたが、6か月が過ぎているのにもかかわらず、旧市の交通網の整備はまだだった。しかしここからは気仙沼市場向かいの地区への通路となり、多くの車が出入りしている。バイパスを活用した目的地への通行をした方が間違いはない。
今日も朝5時に避難生活の場所の、商工団地の沼田地区から仮の事務所へ、行く前に志津川地区の市街地を歩いてみた。あまり通行しない場所には、「こんな状態」と思う場所と、多くの生活復興の場所を見る事ができる。
駅前地区は、スタンド・のり店・八百屋・網製作などが、仮設で仕事はしている。しかし、市街地復興都市計画場所とあり、建設が規制され、事業者の仕事再開は難しく、電気・水がいまだに思うようにはいかないという。
こないだの台風の「雨水」の冠水が、現在も点在している。志津川高校の通学路の、気仙沼線のガード下には、深い水たまりがあり、歩道のみに砂利が敷かれてあり、バス停には「街路灯」がなく、暗くなるのが早くなった現在、多くの危険性を感じる。裏側から公立病院を見た、なんと2階に船が未だに残っていた。
多くの復興への仕事がいっぱいの行政、早期解決事業からの取り組みや、早期住民ニーズに答える対策を、精査し事に当たってもらいたい。戸倉ゴルフ場・新仮設庁舎・・・・?

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2011
09/27

歴史と文化

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この建物は元禄時代の建物だという。300年の歴史と文化がこの茅葺の建物に詰まっている。今回の大震災でもこの写真の状態のままでのこった。震度6強の地震にも耐え「まだまだ大丈夫」とその姿を見せる。
文化財としての価値も高く、多くの歴史品もある。「馬具の絵」「医療の絵」「100分の1の建物の図面」など、貴重な品々を10数代目の遠藤さんは、数々の写真や資料を見せてくれた言う。
今日は早稲田大学の教授が来るといい、震災後にはこの文化財的な価値が、ネットで発信され多くのメディアや、文化財保存の関係者や、古い茅葺建設に価値のわかる「匠」たちが、南三陸町に訪れ、名刺交換は100枚を超えているという。また全国紙から地方紙まで、この文化財の貴重さを報道した。
しかしながら、町の文化財の価値と保存の意味を理解していない。「世界遺産」に平泉の金色堂や藤原家の歴史に、世界からの観光客がある中で、観光立町をうたった「南三陸町」、商店の販売・観光ホテルでの観光を求めるだけの、町の取り組みだった。この文化財の保存には消極的で、県の文化財保存も考えはなかつたという。
こんな中で四国の「四国村」がこの茅葺の家の貴重さを理解し、建物移築に動くこととなった。資金は1億円もかかるという。支援者も募りながら、「四国村」の博物館の玄関に建設を進めているという。
文化協会の「会報」も印刷を終え、3月11日に刷り上がり津波で流れた。再発行を行政にご理解を求めると、今はこの時期ではないと、町の三役の判断で却下された。副会長は「文化・伝統に薄っぺらの行政の考え」とバッサリ。
いったい南三陸町「我が町」はどんな方向に向かっているのだろう。

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2011
09/26

気仙沼市


私の老後は南三陸町志津川で釣りをしたり、剣道したり自分の趣味を通し、南三陸町の自然の素晴らしさを再確認したいだった。そのうえで「4級船舶資格取得」があり、取得後5年目となり免許の更新講習が、昨日気仙沼魚市場2階で開催された。
もちろん普段携帯しているわけもなく、今回の津波で流失した。10数万かけて取得した船舶免許、復興による志津川湾が昔のように「海の幸」の宝庫に、蘇ることを願い、船上から釣り糸を垂れる事を夢見る。
また、昨日の唐桑中学校での剣道新人戦に、子供たちの底力と可能性を再確認した。歌津との対戦に「県下の強豪の一員歌中」と、堂々の対戦だった。震災後に結成した志中女子剣道部、1勝3敗1分け、本数で2対6と、私の想像をはるかに超える結果に、この一年生の、優勝の可能性も見えてきた。男子はさすがに2年が1人と1年が3人だが、部長の佐藤の今後が楽しみだ。現在志津川小学校の6年の男子が2人いる、この子らが中学での活躍する姿を今から期待する。
我が町と同じように、気仙沼市の震災被害もこの目で確認した。100トン以上の大型船が、道路の真ん中で6か月がたつ今も道をふさいでいた。しかしながら、写真の気仙沼魚市場は機能を保っていることに、驚きを感じ「我が町」との地形と建築法に原因があるとおもった。市場ではサンマ船が出港を待っていた。

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2011
09/25

今日を大切に


昨日は朝は10時から中学校に剣道指導に、夜は6時30分から小学校のスポ少の、被災後の初練習をおこなった。しかし、戸倉小学校を中心の少年団活動は、戸倉地区の8割の消滅があり、児童の集団移転により、隣の市に住居・学校がある、練習場所が南三陸町のため、30分以上の時間をかけての参加が厳しい。
今回の震災で、震災孤児が8人・母子父子家庭が154人・遺児世帯が40戸と、子供たちの現実は厳しく苦しいものがある。だが、子供たちはこのさまざまな環境の下で、今後生きていかなければいけない。
スポーツを通しひと時でもなにかに没頭することが、今の苦境から子供の気持ちを和らげる事ができると、私は考え早期の活動の再開を図っているが。現実は多くの子供たちが苦境にある話を聞く。
しかし、子供の頑張る無邪気な笑顔を見たとき、これでいいんだと実感する。今から気仙沼・本吉地区の中学校剣道大会の会場の唐桑に向かう。戸倉の荒町は一番南の地区であり、私の事務所の所在地、1時間30分以上は車でかかる。彼らのカンパリを見届ける役目を果たしたい。写真は志中の運動会です。

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2011
09/24

ボランティアの力

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現在天王前地区に多くの全国からのボランティアが活動している。写真は台風15号の雨の中の瓦礫の撤去で、大型重機による作業の後の、小さい瓦礫の分別作業が展開されている。
大型バスによる大企業からの被災地へのボランティアがある。この地区での作業が終了してからの、200名にもなる作業終了後の大勢が引き上げる光景に、私は驚きと大きな力をこの目で痛感しました。膨大な瓦礫の撤去作業に、私たちは何もしないでいいのか、と。
来月に長野県飯島町の議会が、南三陸町に視察とボランティア活動したい、との話も今議会で受け入れが検討されている。しかし、これから6か月がたった南三陸町への、全国の自治体からの視察が加速しそうだ、だが、町の復興と行政の体制もまだ整わず、お断りすることもある。
松原住宅が今残ったがこの場所でも壮絶な「九死に一生」があった。志高卓球部の部員があの3月11日2時46分の地震後の津波発生時に、42人が屋上にいた。と知人に聞いた。志津川公民館での部活から、避難所となっていた「松原住宅」に堅実な判断があり部員全員が助かった。志高では3名が津波で死亡したと聞く。住宅屋上も生徒の膝まで津波が襲来し、泣き出す子を皆で支え合う現場だったらしい。
これからは町民全員で支え合い、南三陸町の再建を図っていきたく、その「輪」つくりをしていきたい。昨日は教育長の葬儀から「登米市イオン仮設」を回ってきた。そこで多くのお叱りの言葉をもらった。

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2011
09/23

またの試練

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台風一過の眩しすぎる太陽の輝く朝となりました。しかし、台風の爪痕は町のあちこちに広がり発生しました。戸倉地区の水源地である、在郷地区も台風被害をうけ、戸倉一帯がまた飲料水の断水になると報告された。西戸地区は孤立仮設地区に現在なり、山道のう回路は各所で崖崩れで、復旧を急いでいる。
南三陸町でも昨日は町内一円で、冠水・倒木などで海岸線なども各所で通行止めとなった。地震津波被害を受け仮設での生活も大雨により、雨漏り雨の流入など再度の天災で、更なる試練と今なっている。宮城県の沿岸地域の被害も甚大で、避難指示も1万人にも及ぶ、比べればまだ南三陸町は、町の緊急対応で住民生活はもとに戻れそうだが、戸倉地区の断水は、震災後の苦悩の再来となっている。
昨日は被災後はじめて、剣道の防具を着用して志津川中学校で、剣道指導を行った。共に竹刀を合わせることで、子供たちの一生懸命さを感じ取った。この子らの笑顔と無邪気さをそのままで、被災を乗り越えさせる、義務が私たち大人にあります。唐桑での新人戦には一つでもいいから、何かを剣道の試合から得てほしいと思う。
今日は殉職になるまだ不明の南三陸町田生教育長の葬儀に「美里町」に行く、小牛田出身で剣道の先生として当地域で教え子も多く50代を迎える。合掌。

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2011
09/22

台風被害

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通勤は国道45号が病院前と駅からの水尻橋まで、防災センターの前が通行止めとなった。駅前からが通行止めの指示がないため通行したら、途中50㎝の浸水、トラックが動けなかったようで、放置された中を、勢いのまま通行したら、水尻橋前にはポールが建てられてあった。もう少し適切な判断指示をお願いしたい。
う回路はデイサービス志津川の下から、高校下を通り水尻橋に抜ける道を使っていた。
台風15号の被害は、道路の冠水と袖浜の荒沢神社付近と平磯の崖崩れが昨夜まででした。写真は西戸地区の仮設「切曾木」への国道からの道路は寸断となり、水道の管も切断となつていた。仮設でやっと落ち着いたとおもったら、また水道菅の断裂、飲料水は大丈夫なのだろうか心配だ。この仮設ならず、各地域の小さく山への仮設建設の選択を不安視していたが、現実となりこれ以上の被害とならない事を願いたい。大雨による仮設への被害が、テレビで放送されたが、大きな被害はまだ確認していない。
荒町の町道並石線も今回の台風で、収穫前の稲が砂利や泥水で覆われたと聞く、また、西戸の酪農者は牛乳の搬出が道路の寸断により、捨てるしかないとも聞く。これ以上被害のない事を願うしかない。

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2011
09/21

台風接近

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今日の南三陸町です。昨夜の満潮時に流れついた瓦礫が手前にありです。向こうは瓦礫が山のように積まれていて、火災の発生が懸念される。名取や気仙沼でも瓦礫大火災が発生している。南三陸町での火災の防止や、瓦礫の撤去が求められるが、気仙沼市のの第2仮置き場も県が進めているものの実現とはまだならない。
少しでも瓦礫の撤去と青森県三戸に、一部だが瓦礫の焼却をお願いするとの行政の話だが、今日三戸の議会の委員会が町を訪れた。聞くところによると、「放射能の瓦礫」との地元でささやかれ、福島県の現状が南三陸町においても、風評被害がここにある気がする。
2チャンネルで「トレーラーハウス」の書き込みを見ていたら、「気持ちが悪くなった」、多くの町への町長への悪口に驚く反面、自分が言われている気になった。こうしたネットでの批評に、相手が見えない事での、厳しいバッシングに、家族の事を思うと心が痛い。
早く台風15号の対策や災害を抑える事、そして復興への全町民が行政と一体で当たる方向に進むことを願う。八幡川の地盤沈下による、市街地への海水の流失は深刻な事態が、台風の直撃で拡大しない事を祈りたい。
議会は午前中となり、学校も午前時業となったため、予定していた中学校の剣道指導と、スポ少の初練習を中止になつた。

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2011
09/21

まるで海の中

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今日の朝の志津川地区の市街地、公立志津川病院の前の道路は今まで最大の冠水で、45号線上の中央の浅いところで30㎝で低い歩道の両端は50㎝前後の冠水となった。水の中を車で通った後のタイヤの効き目が、いったん落ちる事を考慮しながら走行してほしい。
戸倉荒町までの国道沿いは戸倉折立も20㎝の冠水となっていたが、道路まで海が押し寄せる場所の、海水流入はなかつた。しかし、西戸地区の方の仮設となった「切曾木」から国道に出る道路が、折立川の増水により通行不能となった。「タコ沢」を通る山道があるというが、危険も伴ない被災者の苦悩は続いている。
そんな中で町長の支援物資のトレーラーハウスの「私的流用」が、決算議会で議論が交わされている。震災復興が最重要議題となるべきなのに、「我が町」はいったいどうなっているのだろう。
台風14号が明日最大の接近となる。地盤沈下した被災地・応急仮設の安全性など、町民の心配だけが募り、解決の道へとはつながらない。
昨日も「町長の今の問題」に終始した気がする。そうならないトップの行動・対応があるのだが。

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2011
09/20

新たな出発

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仲間が震災で、0から、マイナスからのスタートの場所がここだ。私もそうだが以前に比べれば、あまりにも小さな細やかな出発と言えるが、今はとりあえず仕事ができる喜びを共に感じたい。
今日は悲しい話からしたい。「京極」さんは南三陸町でも老舗の蕎麦屋さんで、震災まで3代目が頑張っていた。この震災で「迅速な配達」をモツトーに有名だった、2代目のご主人が津波で亡くなった。店を守るため家にとどまり被災した。本浜の佐良工務店社長の同級生で、私も可愛がってもらつたが、震災で震災後に病気で二人は亡くなられた。町に町長に物申す方が、数多く亡くなった気がする。しかし、人づての話、万が一を願いたい。
その反面、入谷に「菅原そば」さんの看板を目にする。町の中央の交差点にあった「石港庵」さんの、味を引き継ぐお店だという。石港庵の娘さんの息子さんが、東京での修行を終え、震災後に入谷に店を開いた。先々代の味を引き継ぎおいしいと、うわさが広まっている。ぜひ今度食べに行きたい。
今日、11時の議会の休憩時間に、仮庁舎の中央で雨の中何かを計測していた。この今といえば「放射能」だろう。測定結果は0.1シーベルトだった。平時は0.04位だというが、課長に聞くとこの値は、世界の普通の標準値だという。一年間浴びとも問題ない数字ですよ、と。
地元の新米も昨日食べた、風評の怖さを海の「かき」でも、南三陸町は経験済みであり、南三陸町の米も測定結果は「安全」ときいた。風評被害を体験した町でもある。

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2011
09/19

山の恵み

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戸倉の住人となり、となりの農家のおかあさんが、今盛りの秋野菜のおすそ分けをくれる。昨日は「スイカ」「なす」「トマト」をお父さんからいただいた。
最近は我が家の食卓には「野菜」中心となり、私の糖尿病にも効果がでていると思う。2日前には、戸倉荒町の「新米」を頂いた、父親が炊飯器で炊いたが水が多く、ベチャベチャに、しかしながらつやと甘さは間違いなく、なすの一夜夜漬けで、おいしく朝ごはんを食べた。
今日の「敬老の日」我が家の両親は2人そろって、大正12年生まれの89歳、老々介護状態ながらともに元気である。母の介護度3ながら、何とか頑張って一緒に暮らしている。
今日の朝の献立は私が作った。なす・きゅうり・みょうがの朝漬け、おつゆは、なす・たまねぎ・キャベツ・油揚げ・糸コン・きのこの醤油汁、そして新米のごはん、すべて野菜である。
健康のためにもこんな料理を自分で作り、両親とともに3人で倉庫の避難所で食べる朝ごはん、最高に家族している。

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2011
09/19

粛々と

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南三陸町の復興再建は「粛々と」「淡々と」向かうことが、亡くなられた方に報いる、残された町民の姿だと私は思う。
しかし今の町は違う気がする。パァフォーマンスやメディアの露出、また、その出方に「南三陸町」のイメージデウンに繋がる事が多分にある。
亡くなられた町民の皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。一番残念なのは津波により人口が不明死亡により、17000人で、テレビでは10年後に4千人減となると町の予想があり、それを3千人ぐらいに抑えたいと、行政は言っている。仮設への入居のあり方、避難民への心遣いのなさを大いに感じ、反面行政トップの動向に激怒している。「町民の声」をたくさん聴く。それで済むのかと人口減を強く危惧する。
「個人的見解」との防災センターの保存、津波の記憶を残すためにというトップの構想は、町職員遺族の会の「センター保存反対」の要望に応える結果となった。合同慰霊祭の後に職員の遺族に、殉職された職員の墓前に17日から焼香に歩いていると、新聞に掲載されてあった。
新聞の報道を見てガソリンの給油に「宮城商店」に行ったときに、こんな風景を携帯に収めた。予感したかのような写真だった。スマトラでの大津波は、復興となったが、被災地を残し、観光客はこの姿を見に来るという。観光客は以前の5倍となったと言っていた。
将来を考えると複雑だが、「防災センター」だけは、あまりにも多くの職員の悲鳴が聞こえてきそうだ。

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2011
09/18

あの場所


写真はわが社の残った分のだが、この悲劇の現場を風化・忘れないためにも、多くの写真を撮った。しかし、もとのようにはならない。ここは本浜町、「復興計画」により新しい南三陸町に生まれ変わる。観光ゾーン・商業ゾーンとなり、7メートルのかさ上げで、復興道路と大きな海からの道路が作られる。
自分が生活の場としていた三階建ては一階部分のみとなり、その前には赤い車が工場の中央に横たわっていた。55歳私が中学生から家業を手伝い、40年間一緒に生きた仕事場は見ての通りで、両親が作り上げた60年もの思いでが詰まったいた。汗と涙と苦悩の思いでがすべてが流失し、残った中の機械も遺体捜索・鉄くず回収で、何もなくなった。多くの角度からの写真が瓦礫の会社が、私の思い出の宝となりました。
写真も友達が入谷中の「思い出写真支援隊」により、数10枚のファイルが探し出された。5万点の写真から2千点が、持ち主にわたる事ができた。多くのボランティアと福祉大学の学生に感謝です。
昨日の葬儀でも突然の両親の死に、葬儀の段取りもつかぬままでの告別式、予想だにもしない自然の驚異には人間はなすすべもない。しかし、子供たちの将来への礎を築く指名が、今の大人・両親にある。
今も家族の突然の死に、悲しみのどん底から、どうして自分に区切り納得をさせるか、悩む心情が電話の向こうから感じられる。肉親の死は忘れる事ではなく、生きた姿を語ることで私は「供養」となると考える。まだまだ今後しる事となる、不幸を正面から受け止め、できることをしてあげようと思う。

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2011
09/18

後だしじゃんけん

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登米市佐沼のコープに買い物に行った。なぜかというと「菓房山清再開」とある、新聞がしばらく前に地元紙に掲載されたからだ。店前で山内社長がいた。社長オープンしましたね、いうと、なんとかここまできました。前の店の4分の1ですがという。従業員を解雇せずにの開店ほんとうにご苦労様でしたと話した。長男は中学校時代に剣道の教え子でもあり、次の代への新たな南三陸町の引き継ぎの、再生の第一歩でもある。
また、わが町の町長が新聞に掲載された。今度は支援物資の「トレーラーハウス」の自宅での敷地使用だという。町長の話では、職務上必要であるし、支援団体の了承も得ているという。「指摘流用と誤解を招く恐れがあるなら、私個人で使用貸借契約を結ぶなど適切な手続きを検討する」、またしても言うに落ちた。
町長だから・被災した・復興と言う名を使った、自治体の長の職権混同者がいた、いる。被災民の仮設入居者の現在の苦痛を知らない、また知ろうとしない、被災自治体のトップがここにいる。というふうに言う町民も多くなりいる。朝から私の電話に新聞紙上の事で苦情が数件来た。
鳩山・菅総理民主党と同化して見えていたし、私は震災前から思った。同じ経緯での崩壊の道筋を「我が町」に見える。一部の同調する町民を除いた、全ての町民が一生懸命に生き抜いているのに。

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2011
09/17

海を見ろ


写真は3月末の戸倉水戸辺を国道から漁村を見ました。この日は「宮城県海洋自然の家」に避難していた方への、行政からの集団避難の説明会があり、聞きに行きました。
  「いつもと違う地震が起こったら津波の襲来する方向を注視しながら海の見える所へ逃げろ」
今日も朝4時地震が岩手県沖であり、マグニチュード6クラスで、震源の関係もあり、津波に注意、多少の水位の異変もありますと、テレビで放送となった。4時前に目覚め、すると変な小さな揺れだが、体に感じいつもと違う事を思った。すると盛岡市は震度4との表示でながら、この辺も3?と異変を感じた。最近は茨城県でも4クラスの地震が多発している。頻繁のこのクラスは地形の「ひずみ」を少しづつ発散するので、大きな地震へは向かわないとも聞く。
今、被災後色々な人の話、報道を聞くと、見えないうちに津波がそこまで来ていたことが、死亡不明者増加の原因となつている。「地震が来たら逃げる」との碑が町内にあるという。とにかくいつもの地震と違う、強い・長い地震が来たら海の津波が来る方向に気を配りながら、「早く逃げる」が津波防災の最大の防御方法である事を確認した。
まだまだ地球規模の異変の発生を懸念する。

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2011
09/16

皆頑張ってる

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今日のお昼は歌津平成の森のレストランの弁当でした。管理委託制度により気仙沼のビル管理会社が「平成の森」の入札で管理運営をしている。
今は南三陸町に仕事がないのが現実、そんな中で「お弁当」の注文場所は役場しかない、総務課には地元のお弁当の何社かが営業に来ている。写真は600円歌津からで、20分の配達時間料が入っていると、冗談のように話すが事実でもある。
そのほかに入谷の高貞さん、高野会館さん、大朝日さん、などなど仕事の場を求めているものの、町の75%は消滅し、町には収入をえる手段は、瓦礫処理で海の作業と建設業の二つがある。あとは被災者支援雇用と町の予算による、仮設の警備・高齢者生活支援対策の仕事など、町へ来た予算が配分されている。
今回の震災で多くの人との出会いがあり、メールや電話・来社などがある。会社のすべての流失・ゼロからのスタートである事、そして、再建の借入金などの返済、今後の事も忘れさせてくれる。6か月が過ぎ「葬儀」への参列が多くなった。あの方も亡くなられた。

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2011
09/16

戸倉荒町から再建を

2011-08-13 13.54.05
南三陸町議会二日目『一般質問』の四人目として、私の今後の復興への町の取り組みは、と言う題の、行政・町長への質問は終わった。時間も60分から90分への、議会改革の歩みがまた再開した。
早期復興住宅の建設の必要性と、関連となる人口流失の歯止めが、この問題と密接していると、町長に問いただした。町長も考えは同じだが、住民の希望や意向も考慮し、国の補正予算の動向も関連する。その調査アンケートと推移を見ながら早期の高台への移転を進めたい。と話したが仮設への8月中の入居もおわり、9月の復興計画の素案も出され、国の11月の補正予算が決まってからと、復興住宅はまだまだ先になりそうだ。
写真は戸倉地区の11地区でただ1地区、被災を間逃れた戸倉荒町地区の国道と街並み、この裏にJ R 気仙沼線のこの地区までの線路は残った。『陸前戸倉駅』の荒町移転の構想でした。町も5回もJR 東日本に要望していた。これも時間がかかりそうだ。
次に第一次産業の入谷地区の開発の提案です。福島原発の放射能被害は深刻で、牛飼育農家の所得の減収がある。町の支援は難しく、東京電力と政府への働き掛けを町に要望した。また、三陸道の開通に向け入谷地区の農業の、南三陸町の発信地区として提案した。
なかなか私の考えは町長には理解してもらえないみたいだ。

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2011
09/15

通勤


毎朝の通学バスが戸倉の会社荒町営業所前から出発する。7時31分出発まえには、戸倉小・中学生が集まり、登米市の善王寺小学校に向かう。登米市廃校となった学校を、南三陸町立戸倉小・中学校として23年度は使わせてもらう。
通学時間は1時間ぐらいとも聞く、大人と同じく毎日車に揺られ通勤している。大変と私は思うが、見送りのお母さんに「大変ですね」と聞くと、意外と子供たちは長い通学の時間を楽しんでますよ、という。子供の力強さを感じた。
今日私のメールにて長野県の方から、南三陸町議会の視察依頼があった。私に段取りをというが、私は一年生、夕方電話を入れたが相手が多忙のためでない、まだ9月議会の2日目、議会に集中したい。議会事務局にこの旨を伝えた。しかしながら震災後の混乱はまだ議会事務局職員にあり、議会は29日までであり、対応がどうなるか未定だ。
初めての南三陸町への他県の議会の視察、なんとかこの現実を見てもらいたい。電話をまた入れてみたい。9時前には就寝です。あしからず。

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2011
09/14

3月12日防災センター


防災計画のマニアルには・・・とあると行政の説明、「浸水深」と新たな言葉が行政の説明に出てきた。津波の避難には3mの津波には4階建て以上に避難とある。しかし、町長の話は5.5mの堤防で予想とされる波高6mでは、市街地に1.2mの津波と話していたと思ったら、今度は「浸水深」だという。2mの浸水深が避難の基準となるという。津波が来て2mに達したら逃げるという。町長の話は論ずるのに値しない、説明でしかない。この神経はもう、正常ではない。議員からあなたの想定・判断は間違っているのです。言っても認めようとは決していない。こんな町長に新しい町づくりは委ねられるわけもなく、死亡・不明の町民・職員への冒涜である発言、絶対に許せない。戦い続ける事を皆さんに誓いたい。
また同級生が逝去した、津波ではなく「ガン」、津波からは逃げたのに。

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2011
09/13

瓦礫

2011-08-27 05.13.15
今日は女川町の仮設庁舎を視察に議会特別委員会で出掛けた。女川町内もマリンパルは型はあるが、近隣の建物は跡形むももなく流失していた。仮設庁舎は我が町の設計の半分の大きさながら、充分に行政の機能を発揮していた。建設とリース料は2億円でエレベーターも設置している。3分の2の補助、我が町は4億円全額補助、女川町は7月中には完成している。今の町仮設庁舎はリースに年4000万円と言う。
いつまでも議論より先ずは瓦礫処理場を我が町で、どうだろう!

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2011
09/12

踊りましょう


10日の志中大運動会に出かけました。グランドの半分は仮設が埋め尽くし、半分のグランドながら、生徒がのびのび走り回れる大きさが、我が母校にはある。
来賓席でお世話になっているお母さんが、声をかけてきて長話しとなった。プログラムは昼食前の「志中ソーラン☆よっちゃれ」だった。PTA会長や議員が来賓席にいた、「踊りましょう」と女性徒が手を差し伸べてきた。来賓もその積極的な誘いに、踊りの中央へとひっぱりだされた。ちょっと前に帰った議長さんは、袋いっぱいの商品を手に持って帰っていった。共に運動会を楽しんだようだ。
大会二日前の夕方、志中生のためにと、架設に入居している町民数名が、子供たちのためにと校庭の草を刈っていた。子供たちに事故のないようにとの願いを込めた、清掃活動の姿をみた。
運動会で元気な子供たちの姿の躍動は、南三陸町民の「ちから」となる。今日は運動会も終わり、部活の新人戦への練習の再スタート、剣道部に指導に出かけた。1.2年が30℃を超える気温の中で、頑張る姿についつい指導の熱も上がった。

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2011
09/11

あなたを忘れない


南三陸町被災者合同慰霊祭には2千人の町民や来賓が集まった。
歌津石浜の遺族の言葉には重いものを感じた。母親の誕生日を数日後に控え、11日の津波となり冷蔵庫の下敷きになって死亡した。いつも玄関に座り家族を迎える姿が、息子さんの脳裏にはあった。畑がすきで野菜を近所に配るのを楽しみとしていた。もう少しで90歳となる、母とは一つ約束をしていた、時間ができたら一緒に温泉にだった。しかし、いつでも行けるとのびのびになり、約束が果たせない事を悔んでいた。
1時30分からは葬儀に出席した。喪主は母となり、娘と孫の葬儀だった。最後の喪主の母の御礼のあいさつでは、娘の事・孫の事を忘れないでくださいだった。葬儀には高校の同級生が大勢参加し、突然の同級生の死に手を合わせ涙した。会社の同僚は仲間の突然の死に弔辞ですすり泣く声に、お寺は涙に包まれた。
今日は南三陸町は悲しみの鎮魂の中の一日となった。間違いなく私は生かされている。

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2011
09/11

合同慰霊祭


黒崎パーキングから、戸倉中学校とゴルフ場跡地の山々が見える。その前には戸倉中学校の郷土の自然を守ろうと、生徒の書いたポスターとメッセージがある。
ゴルフ場跡地の債権不動産会社からの土地取得が町・議会で問題視される。相手のしっかりした会社との買い取りなら何の問題もなく、住民にとって透明な平等な土地なのなら、買い取りへの異議はない。
戸倉地区においては造成後の土地は賃貸である。アンケートにはしっかり明記がある。引き換え志津川地区においては代替地として、減少はあるが土地が与えられる。違いを住民にはまだしっかりとして説明がされていない。平等な対策を講じないままの復興住宅地の取得は、被災民にとっては喜ばしいが、後々すべての町民が納得が得られるかは疑問であり、問題の先送りの復興政策がある。議論を尽くさず早期の多数決の決定は、町民の本当のプラスとはならない。
事業費の根拠に、志津川地区は「防災集団移転」「被災地復興都市計画」「公園整備」の事業費が国から出るため、代替地が与えられる。戸倉・歌津については、「防災集団移転推進事業」が適応される。初めは事業に4分の3が国で、4分の1が住民負担だったと思う。100億の造成なら25億の個人負担は、被災した住民には無理である。
高齢化があり、自宅建設も全てを失った町民には大きな負担となる。引き換え水産業者は政府の政策により、事業復活には100%に近い助成制度がある。町民の雇用の場の創出に町は何をしてくれるのかも見えない。

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2011
09/10

忘れまい


11日の翌朝、「引き波」のすさまじさが最近問題になっている。とにかく津波の脅威もさるものながら、引き波の勢いに家も人も、昨今の映像から一たまりもないことを確認する。
写真の中央部にある八幡川から、初めに津波が船・家屋を巻き込みデイサービス下まで来たと思ったら、向こうの山肌に沿い津波が来た。すべてが一緒になり、奥へと進んだ、間もなく行き場を失った津波が、こっちの建物を右奥の崖から手前をなめるように戻ってきた、そして津波がおさまったと思った時に、津波は1波、2波が最大ながら、戸倉地区は4波5波と2mクラスの津波で、恐怖感の中にいた。
いくつもの津波が、これでもかというように南三陸町に襲来し、この雪は町の姿に涙雨が余り現実に白く化してしまっようだ。明日の「慰霊祭」には町民が一人ひとりの、津波への恨み悲しみをもって、アリーナに集まる。何も問題なく鎮魂の一日となる事を祈る。
午後の2時46分の地震と、南三陸町の26分後の時間の前後に押し寄せた津波を、再度思い起こす6が月目を迎える。撤去復興・復旧への向かうが、心の傷は癒える事がなく、それに塩を擦り込む行為が、繰り替えさない事を願います。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 19:51 】

2011
09/10

山神さんへ


志津川中学校のサッカー部の子ど子達は元気に頑張ってます。2日前に学校に夕方に行ってみました。学校はすでに終わっていましたが、グランドの隣の仮設に暮らす生徒が、サッカーをしていました。岡山県にサッカー部が行ったと聞きました、お世話した山神さんが「生徒たちの様子をしりたい」とメールもらいました。ぜひ写真撮らせてというと、笑顔で答えてくれた。僕も行きましたと、二人の生徒が喜んで写真に笑顔をくれた。今月の「新人戦」に向かい今は練習に励んでいる。今日は晴天の元、ひと時の部活の休みとなります。楽しく仲間と運動会を楽しんでほしい。
昨日は県議会の復興特別対策委員会の17名のメンバーが、被災地の議会議員との情報交換会が開催された。水産業の復興・瓦礫問題・住民生活について、深い部分までの議論がなされた。限られた時間での情報公開で、復興住宅や水産業の財源について質問が多かった。しかし、事前に質問をまとめ簡略的に質問すれば、もつと多くの疑問をぶつけられたが、「だらだら感」はいなめなかった。県の対応は委員長の司会のもと、質問を要約し的確な回答に、満足を感じた。
今、読売放送のウェイクアップの南三陸町からのライブ中継を放送している。南三陸町の現風景が被災地の大きな復興の遅れと悲惨さの発信となり、町長は当たり前の事を繰り返すにとどまった。

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2011
09/09

震災後の卒業式


志津川中学校の卒業式は、3月12日だったが、前日の11日に大津波が南三陸町を襲った。その後体育館は避難所となり、避難者の理解のもと体育館を一日空けて、3月28日の卒業式を開催した。写真の記録だが、今ゲータを見てわかる。
私の姪っ子と同級生の娘が二人が卒業で、この節目の写真を携帯に収め、落ち着いたらプリントにと思い、準備はしたが、同級生の一人がどの避難所、仮設にいるが判らない。
今日は同級生のお父さんがお盆の14日に海上で発見され、葬儀を迎え「最愛の孫」が弔辞を読むこととなった。阪神の金本の大ファンで「一緒に応援に行こうねと約束をした」という。孫は不明のままのおじいさんの約束を守ろうと、まだ見つからない事への一つの節目と、試合を観戦に行き、「金本選手がホームランを打ったよ」と墓前に報告した。生死の境が二人にもあった、孫は偶然にも南三陸町にいた、津波の数時間前に長距離バス停まで、おじいちゃんに送ってもらった、その後で津波が来た。彼女は生死の狭間にいて、生かされたのだと思う。
また、今日はなかなか見つからなかった、ゴルフ仲間がみつかった。お母さんの気持ちを思うと複雑だ。明後日の6か月目に町の「合同慰霊祭」となる。節目・区切りと多くがこれを迎える。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 17:53 】

2011
09/09

清水浜


この地区にも多くの同級生たちがいる。津波による死者は無かったものの、昔遊んだ風景の面影の形は何もない。高い防波堤で囲まれた小さな漁村で、高かった堤防はなく、すくに海岸の石ころの砂浜だった。遠浅だった気がするが少し泳ぐと、ウニやアワビがあり、私たちの中学校の頃は、とっても怒る人は居ないくらい海の幸に恵まれていた所だった。
一昨日のしばらくぶりの晴れ間、国道45号線から直ぐそこに波がある事に驚いた。(写真)、こんなに海が近くなっている、地盤沈下の凄さに驚き、家だったところは海になっていた。
この日は低気圧の余波か権現崎には、白波が押し寄せている。清水地区は仮設も荒砥と清水の中間の山頂に、建設移転となっているが、地区民は二分となった。
今後の高台の移転場所も何処になるか、その予定も場所もきまっていない。そんな中で町長は「西宮」大阪にいっている。講演会か招待か、住民の仮説から解放されるまでは、町長も住民の痛みを共有すべきと思う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:46 】

2011
09/08

ブログ復活


公開質問状への町長の答えは、「言い訳」「偽りの正当性」「後つけの話」としか聞こえない。今回の職員殉職家族会の活動、何の納得もできないだろう。町民でさえ町長への不信感がつのるばかりと聞く。
1・2mの津波を想定していたから「防災センター屋上の12mなら問題ない」との発言は、トップの危機管理意識としては、有り得ない。防災の町という名を利用し、観光に利益依存に向かった、トップの活動にも原因もある気がする。
防災無線での大きな津波が来ますと、女性職員が必死に叫び、各地区では6mの津波が来ると聞いている。5mの防潮堤があり、6mの津波、差し引き1mの判断だとしたら、チリ津波を経験した人間でありながら、町民の命を守る町長としては、間違いなく適していない。防災の町、防衛システミが地に類みない、はおごりである。ここに職員の多くの死と、町民の死者・不明の増加の原因といっても過言ではない。
平野復興大臣への被災地の現状報告には、機会が時期が来たら行く、と議会では発言した。まだ出向いてない・会っていないという信じがたいトップの考えだ。平野大臣の留任があり、県知事が面会にすぐに動いた。大臣も台風12号の被災地に災害後すぐに向かった。
町長は「行動の機会を逸した」、今更の行動・弁明は、何の効果もなく自己の恥の上塗りとなる。しかしながら、南三陸町の町民の復興救済は遅延が続くばかりだ

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 16:27 】


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