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ARCHIVE - 2011年09月

2011
09/08

ブログが変

朝の三時の眠れずブロクを更新するも、システム障害、午後四時に再度ちょうせんしたが。

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2011
09/07

メヤス


5日にチガヤさんの南三陸町の中心だった交差点、そして、現在の被災地の町のメヤスとなる交差点がなくなった。それは仙台銀行の瓦礫の建物、撤去で目標となるものが、被災地から姿をけした。(写真)
今日も多くの人から苦情を聞いた。仙台銀行前の冠水、伊里前保育所に行く道路、歌津駅のガードに大きな穴が開き、深い水たまりができていた。また、仮説に入居はしているが、狭いという。なんとか我慢をしてほしいとおねがいしている。全てが仮説におさまったら住民の希望も少しはかなうだろう。イオン南方の仮説に見に来てほしいとの話もあった。
悲しい現実も聞いた。一人息子さんの発見で、両親と三人のの葬儀を上げることを決めたという人、少しの知人だったがまだ若い親子の二人の死を聞く、戸倉地区に住み働いていた。11日の合同慰霊祭の午後に葬儀で、母親が娘と孫の喪主となる。悲しすぎる今回の大災害の現実に、何をしてあげればよいのかと、自分の行動に「できる事をする」、しかない。
そんな中で家の流出もない、私の知る「公の人」が、夫婦で瓦礫の撤去に出ている。あなたの立場を考えて行動してほしいと、多くの住民がうわさし話す。

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2011
09/06

自然との共生

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昨日は町の仕事を混乱の中で納品できた。中身の変更が重なったものの、職員の日曜出勤の努力のもと、年間で一番大きい仕事ながら、会社・整備・自宅が全壊消失した中で、5か月間で外注なしで、設備の再構築をし仕事できたこと、多くの協力・支援者に感謝です。印刷業は現在行政の仕事しかないのが現実で、何とか食いつなげていた。個人事業所の復活無くして、町の復興はない。
写真はわが社の牧草地・牛舎に立ち上げた会社の中にいる「コオロギ」、機械工場に行くとあちこちで「コロコロ」と私を迎えてくれる。別に気にはならないが、商品の色紙が大好物であるようだ。仕事した印刷物を噛む、目の前で食事中である。秋、虫が活発に活動する季節になり、この可愛い虫たちとともに生き、生かされている。
先月末31日に葬儀があった。喪主は「一つの区切り」と葬儀告別式をあげる事を、遺体がまだ見つからない中で決意した。そして4日後にDNA鑑定で確認され見つかっ。、被災後の4月初め、黒崎パーキングの車のあった場所近くで発見され、この日に本人確認となった。家族の葬儀の決定後すぐの確認は、なんかつながりを感じる。
昨日の職員の家族からの「町長への質問状」、知人がテレビで「津波は1・2mと認識していた」と町長が発言していたと、ありえない発言に絶句した。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:14 】

2011
09/05

2011-09-05 06.20.17
戸倉地区の西戸の人たちが入居の仮設が、国道45号線からの1㎞入った場所、写真の奥の切曽木にある。手作りの看板があるが、町内には52ヵ所の仮設があるが、何処に仮設があるか判らない場所もお多い!
今日来た来客が『波伝谷』の仮設に行く坂は、あまりにも高台であの上り坂は、被災者には厳しく、仮設建設場所としてはどうなんだろうか?と話していた。
写真の奥の仮設まで1㎞、夜の道路の舗装もない、この原野を車のバックライトだけが、夜中に闇に浮かぶ!毎日の通勤を見るに、仮設はここで本当に良かっのか?と思う。
競売にかけらたゴルフ場跡地に、戸倉地区の住民の復興住宅、台風通過時の地盤沈下した海岸線の冠水で、復興住宅の孤立を心配せずにはいられない!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 18:59 】

2011
09/05

陽は登る


震災の翌日、避難していた旭ヶ丘から山を越え「田尻畑地区」を歩いた。(写真) 入谷へ抜ける山道まで雪の被災現場を仲間と歩く、ビニールハウスの残骸や津波のヘドロの中を歩いた。
何気なく後ろを振り向くと「旭」が背を照らす、水尻川を通り路として一気にここまで津波が襲来し、水田で埋め尽くしていた農地の遅い、その姿はなかった。
この地域は「遺跡旭が浦」と呼ばれ、南三陸町志津川地区が生まれた場所といわれている。今この写真を見て、あとを振り返らず前を向いて一歩づつ歩こうとおもう。
しかしながら被災の現実は心に脳裏に残し、二度と多くの町民が犠牲になる事のない、自然と防災の町の共存で、南三陸町住民が「手をたずさえ」生きていける町づくりを図っていきたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:46 】

2011
09/04

復興へ


戸倉地区の折立の被災後7日目の入り口風景です。公民館は今もそのままに、戸倉小学校もそのままで、今後どう建物を解体か再活用かがまだ決定していない。
入り江となる戸倉地区の松原はすべて消え、今は終わったが瓦礫の焼却の煙がこないだまであった。また、折立の入り口の地盤沈下は国道45号の脇まで海水が押し寄せ、今後の台風の影響ではこの場所は通行止めの処置がとられる可能性が大である。
この回の台風12号は東北地方横断から、四国への上陸し中国地方を横断する経路をとおつた。三重県・和歌山県・奈良県などで、死者不明60名の被害を出した。
今日の復興特別委員会では、付託された漁港整備事業費・仮説庁舎・仮説病院が議論された。傍聴には志津川・歌津の漁業関係者が50名・取材記者が10名を超え、漁港の整備復旧を早期にと、多くの漁業関係者が議会を傍聴した。結果的には、庁舎予算と漁港の復興整備予算とは別に、審議することを特別委員会で決定し、行政執行部の判断にゆだねられた。
議会への公開質問状は、問題の議員が質問状に対し、議長が責任を持ち調査報告を受け、南三陸町議会として公開質問状に対し提出者に回答する事となった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 18:24 】

2011
09/03

ガソリン


被災後はガソリン不足に行政・町民が頭を痛めた。こんな状況の中で天王前の農協スタンドは地下タンクに海水が流入しなく、車の燃料として被災後すぐに活用された。
当初は治安も悪く、夜は警察や消防団の車により警備が、毎夜のようになされ、被災の混乱が街中全体にあった。ガソリンの給油は手から足ふみに変わり、緊急車両のみの給油に限定された。
たぶん一か月余りで終了したが、外界との輸送が皆無となり、1週間・2週間は残った車はあるものの、走行はできなくなった。車での生活もあり、震災後の寒さに暖をとるために車を回し、燃料の減少は抑えようがなかった。
写真は10日目に撮影したものだが、スタンドの鉄骨の瓦礫と、左の車の状況が当時を物語っている。スタンドは復活もなく瓦礫は当時のままで今も残っている。小泉の新装なったスタンドも津波で大破した。

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2011
09/03

ガット船


南三陸町の海底には多くの瓦礫が点在している。会社の戸倉営業所に向かう途中に、左に志津川湾を目にする。湾には写真のようなサルベージ船が作業をしている。
3か月目あたりから一艘のサルベージ船を見かけるだけだったが、最近は本格的になったのか、3艘の作業船を見る。漁業は町の基幹産業ながら、今までの町の取り組みが軽視だったと私は思う。政府の打ち出した震災後の、三陸沿岸の漁業の再建再生に全力であたる。という事に本格起動したのかなの思う光景だった。
同僚議員に「ガット船」というと教えられた。南三陸町では歌津地区の阿部伊組さんが唯一保有し、被災後に北海道からもう一艘購入したと聞いた。海底の瓦礫撤去にあたり、早期の漁業の再開と、秋冬の養殖や秋サケに向け、急ピッタで海底の清掃は続けられる。
昨日はラジオで、上の山八幡神社の工藤真弓さんが、二次避難地で書いた「うた」が、CD可化され販売され、その利益が南三陸町に「義捐金」として、60万円贈られた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:23 】

2011
09/02

うたちゃん橋


3月18日のまだ伊里前市街地が瓦礫に覆われているころの写真です。まだ瓦礫撤去の重機も入っていない、うたちゃん橋には瓦礫が残り、伊里前川の護岸には小学生の「ごまふあざらし」の、色鮮やかな児童の書いた絵が、津波にも負けずしっかりと残っている。
伊里前大橋からの撮った写真です。伊里前大橋は再建は困難と、国土交通省の方が話していた。伊里前の市街地を通る国道45号線は若干の道路変更はあるが、今の道路をかさ上げし活用するという。
歌津地区は町の集団移転も提案されていて、その場所が三陸道と絡み今後の進捗を住民は、注視し新たな町づくりの方向性を早く示してほしいと、行政に訴えている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 18:31 】

2011
09/02

運動会

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今度の土曜日に「志津川中学校大運動会」が開催される予定ながら、天気が悪い。毎年の運動会順延が志中の通例ながら、今年はグランドでのびのび走りまわる事を願うしかない。
写真は本浜町にあった「さかなのみうら」さん。被災後は支援ボランティアとともに、自分が被災者でありながら、被災者支援に活動した。そして、やっと自分の店の復活に動きだした。
この場所は「花のバイキング」の芳賀さんが、菊やいちごの販売をしていたが、今回の津波で店に津波が押し寄せ建物は残ったが全壊となった。曲り角ながら45号線で、多くの通行者がある。三浦さんは「よみがえれ故郷・ふんばれ南三陸町」と町の復興があり、店の繁栄があるような、考えの主人のように見える。
昨日同級生の漁業に頑張る仲間から電話が入った。今回の議会で採決にならなかった、漁港の整備予算、何とか早く可決して漁業の再開を進めてほしいだった。漁港の地盤沈下の改善工事の漁港かさ上げは、待ったなしだという。私も同感であり、行政の説明不足や不透明の部分のある議案とは別に、整備予算の議案通過は一日も早くが欠かせない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 08:23 】

2011
09/01

瓦礫の集中


3月11日から10日目がたった志津川小学校の登校坂、正面には「アストロテック」があり、その建物は「永電社」さんの、前の建物所有だった。さすがに志津川小学校の避難所までの道路は確保されている。
この道路の瓦礫は市街地のもので、津波が巻き込み道路を埋め尽くした。町長は防災センターで被災し、残った職員とここに初めにたどり着いたと聞いた。
保険センターから残った建物までは、10メートルぐらいの高さだと思うが、やはり海面からは16メートルはある。志津川小学校には市街地から多くの町民が、車で歩いて避難、当初は500人はいただろうか、停電で電気をともしたのが「三陸鉄工所」の社長で、軽トラックの発電機で体育館を照らし、避難者を闇の世界から救った。
また、臨時の診療所では「笹原政美先生」が活躍された。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 18:25 】

2011
09/01

再生の一歩

2011-08-30 06.46.30
南三陸町から一時の生活の場所を仙台や県外に求めた仲間が多くいる。町で起こっている新たな再建の出発を知らずにいる事にのる。
大森地区の大森屋さんが店をスタートさせている事を昨日知った。また、志津川漁協も今日から被災後、アリーナから海岸に向かう交差点に仮設の事務所を開設した。志津川デイサービスセンターの下の流失した建物の残った基礎に、木造の建築が進む、町の復興計画の決定を待てない気持ちが、住民のこうした行動になった。
先頃は南三陸町志津川のお菓子の老舗『山清菓子店』が、佐沼を拠点に、再建スタートが報じられた。町内の大型店は隣町で営業を開始したのが10店以上もあると聞く。こんなにのんびりで南三陸町は生まれ変われるのだろうか?
この町は少しづつなごら変化を遂げている。アリーナ入り口に仲間が、再建スタートの建築が進む、現在多くの仲間が今後に向けあがいている!
被災から避難、仮設からの再生自立を町は言う。町は国からの予算をあてに、自分からの自立の政策・方向性を、見せず語らない姿に住民の不安はつのるばかりだ!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:38 】


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