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ARCHIVE - 2011年05月

2011
05/08

三一会仲間の死亡

今回の津波により三一会の役場の職員が三人殉職し、他の仲間も数名亡くなった。
勝倉正高は役場町民税務課長として、町の税収の根幹部にいて、財源全般で管理する立場で重要な立場にいた。決して立場におごる事なく、真摯に町民に向かっていた。中学時代は剣道に共に励み、県大会へも進み志津川中学校の為に頑張った。一緒に志津川高校にも通い彼は応援団に入り、スポーツに活動する生徒を応援した。
格好にこだわり背の小さいわりには、学ランが似合い彼が大きく私には見え、女性生徒にもモテた様に記憶する。
渡辺久美子は公立病院から老人ホームの介護をしていて、被災してしまった。地元にいて町外にいる仲間の連絡仲介役で、帰郷した友達の交流会などをセッティングをした。
阿部慶一は入谷中学校から志津川高校に進んだ彼、卒業後は役場にはいった。彼もまた剣道を志た!当日は危機管理室長の立場で、最後まで防災センターに残り殉職した。センターが高台にあったらと今になり思う。最後まで津波の現況を防災無線で町民に、避難路の適切な指示ができ、多くの人命を救う事が叶った気がする。自分の役目の全うに努めたものの、力ある多くの仲間の殉職に町の大きな損失を思う。その他にも南三陸町の職員が勤務中に被災している。

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2011
05/07

被災市場に大漁旗

2011-05-07 16.08.58
昨夜テレビを見ていたら、南三陸町の復興の動きが紹介されていた。志津川市場の裏の空き地に、 『番屋』が建てられた!と言う報道だった。
今日の夕方にその番屋を写真に撮ろうと出掛けたら、中から威勢の良い若者達の『イェー』と挨拶への声援だった。
昨年の南三陸町の合併記念式典で宮城大学との町の連携が締結した。この事がキッカケで、水産業の復旧に向けこの番屋からのスタートと言う。
また、宮城大学にカキ養殖をしている『大清』の息子さんが在学している事もあり、漁業関係者の大きな復興の輪となった。番屋には漁業関係の若者に、造船所の社長や建設業の社長が加わり、共に南三陸町の水産を早期に復活する事を誓いあった。
秋からの秋さけ漁やカキの養殖やワカメの養殖・水揚げの始まりを全員で、この番屋からスタートする。
宮城大学の協力と漁協青年部が合体し、地元の社長たちが支援し、厳しい復興への一歩を標す拠点となる。この準備には大清の社長婦人も、宮城大学のジャンバーの支援隊とにの服を着て炊き出しの手伝いに奔走した。

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2011
05/06

自衛隊活動

2011-05-06 14.54.04
今日はり災支援金の100万円の申請と合わせて、義援金の35万円の申請の二つを一緒に行った。口座振り込みは来月の中頃と行政が言っていた気がする。
全て流された町民が135万円で何ができるだろう?仮設の生活の二年間でなんの準備ができるだろう。今も無一文の男性の話に、この大震災の悲劇の大きさを再確認しる。
そんな状況下だが、自衛隊員の毎日の活動に有り難さと、泣き言を私などは言ってられない。今日のアリーナのり着場での4機のヘリコプターの勇姿に、大きなパワーをもらった!

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2011
05/06

生活不安

昨日の動きでいろんな町民の不安の現実を聞く!避難場所で医療支援を受けた所、その病院から医療秘費を請求された。行政での仕事の募集があるが、対応と就職が難しい。と言う!
入谷小学校には個人の義援金がなく、他の避難場所では数万数十万などがあったが不公平でないか。現在は個人資金は底をつき仮設に移っても生活資金もなく、体を壊して仕事もできないという。
志津川高校避難者は遠くまで仕事でいき、帰ると自衛隊のお風呂サービスが終わっている。なんとかならないか!また、行政のボランティア支援の活用がうまくできてない。と言っている。志津川高校には町で受け入れなかった、電気業者によって電気が開通した事を喜んでいた。
歩き声を聞く事で不安を取り除ける。また、行政の住民サービスの理解できない部分の、パイプ役もできる。今日は登米市の戸倉地区の子どもたちの事で親に会いに行こうと連絡したら、石巻の映画館に招待?と聞いた。
スポーツ支援では、全国剣道連盟で今回の震災で防具を流された子ども達に、防具の支援をするという。他のスポーツと違い、費用の係る剣道なので本当にありがたい活用と楽しみにしている。

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2011
05/05

避難場所

2011-05-05 14.56.22
南三陸町の志津川地区指定の上の山緑地公園からの、今の被災現場の風景です。ユーチューブの映像が町のホームページで公開しているあの津波のあとがそのままに近いままで、今に残っているようだ!
この下に城洋新聞さんの自宅があったが、この高さまで津波はかけ上がった。今日大工さんがいるのを見掛け緑地公園まで登った。
入っていた大工さんが、家の残材や使えなくなった電化製品・家具など、使えなくなったものの処分に困っていた。社会福祉協議に全国からの、ボランティアさんにお願いしましょうか?と、帰りにアリーナに回り、京都からの受付け担当の森口さんが対応してくれた。7日に帰ると言う!感謝、ありがとう。多くボランティアさんの支援の輪に南三陸町は包まれている。

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2011
05/05

篤実・未希さん

3月11日の大震災で自分の事で精一杯で、周囲に気を配る余裕がないとき、電気もなく太陽の明かりと一緒の生活、疲れで爆睡するが、知人からのラジオだけが深夜に響く、ある女性が安否情報をと、小野篤実さんを探していた。
優しくお世話になった方です。と彼を紹介していた。彼とは友人を介して友達となり、ゴルフや麻雀など酒飲み仲間でもあった。南三陸町議会の係長として、大震災の瞬間まで一緒だった。
仙台での送迎の運転手で、今考えると最後となったが、マイクロバスではじめて隣の席に座った。その時の話題はサッカーのベガルタだった。彼はサッカー観戦にこの頃はまっていた。応援の仕方を教わった事を今でも記憶している。
現在そのベガルタは連勝を続け、今季首位?に今ある気がする。彼の気持ちが乗り移ったかのようだ!
彼は未だ不明のままだと思う、南三陸町の職員の彼の声・笑顔は、私の脳裏に間違いなく深く刻まれている。役場の受付窓口の、遠藤未希さんのあの笑顔も、絶対に忘れる事はないだろう。ありがとう!

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2011
05/04

松原公園

2011-05-04 09.07.25
変わり果て町民から親しまれた志津川地区の松原公園が、昔の面影がすべて津波により破壊され、写真のような荒野となった。グランドは瓦礫の焼却の場となり、綺麗な松林は幹の2メートルぐらいこら、強烈な水の力によりへし折られた状態が残っていた。
岩手県陸前高田市では70000本の赤松黒松が津波で被災したが、一本残ったと言う。樹齢200年の松で、この奇跡を復興のシンボルにしようと言っていた。
昨日の歌津地区の伊里前の大橋の津波の映像はショッキングなものだった。理容師の及川さんは100年後200年後に伝えたいと、ビデオを回し続けた!伊里前小学校の校庭までの津波、市街地は水没となった姿は信じがたい風景だった。連休の今日は志津川地区の被災現場は、他県ナンバーの車を多く見かけた、片手にはカメラを持っている。
また、瓦礫に小便をする人も目にする。町民のモラルも疑う、川から瓦礫を自衛隊が撤去したものの、タイヤを一輪車で川に捨てる光景は信じられない!
今日も1日が終わる、ぜひ今日の行動を振り返ってはどうだろう?

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2011
05/04

ろうそくを消して!

朝に母が眠っている父に向かい、ローソク消して!と何度も繰り返す。震災当時の電気ない生活での、ローソク生活を思い出しているのだろう?か。
間違いなく認識症が進んでいる。ローソクの火に見えるのは太陽電池の防犯灯の小さいオレンジ色で、夜の部屋の明かりに室内に入れ利用している。母は電気が通った事を理解しているのだろうか?
その繰り返す言葉に、優しく説明をしている父の姿に、涙が出そうになった朝でした。
昨日は東京方面から親戚が物資を持って来てくれた。父は安心感を隠せなく、私は感謝でいっぱいだった。今日は兄弟の津波被害の家の泥の掃除に五人全員であたる。
今回の被災の復旧は思ってより厳しい!会社の再建を半年と位置付けたが、被災地への仮設や建設業者の集中で一般建設に資材や会社が動けないという。
町の復旧は時間が大きくかかり、まして個人の再建はかなり厳しい。町民からは早期の水道復旧はまだまだ先で、電気はまだ半分の開通で今後の見とうしは立たないという。
まだ我が家は幸せである。昨夜から炊き出しは貰いに行く事を止めた!一日も早く前の生活に帰る努力をする事で、町の復帰の、道が早まると思い、私だけでも自律で弱い町民に力が回る事を願いたい。

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2011
05/03

ボランティア集結

2011-05-03 07.58.57
朝8時になるとアリーナ前の社会福祉協議会の特設テント前には全国から集まったボランティアでいっぱいとなる。車での南三陸町まで来てテントと食料持参で、津波での家の泥などの清掃をする。一軒に五人ぐらいが割り当てられて作業をする。
連休となりどっとボランティアが南三陸町に来町し、受け入れが社会福祉協議会で追い付けなく、直接被災現地に向かい後片付けにあたっていた。細浦地区のお寺には北海道の旭川の郵便局関係の方が五人、昨日の片付けに続き今日はお昼の炊き出しにジンギスカンを振る舞うという。群馬県からは二人の頭を丸めた男性が、直接にボランティアに来ました仕事あったらときた。また、津波で使い物にらない電化製品を集める神戸の男性が二人、軽自動車できてくれた。一軒でこんなに社協をとうさずいるという事は、どれだけのボランティアが南三陸町に来ているのだろう?
4月20日でボランティア登録が1862人で、ニーズ数が237件、活動者数は延べ1857名であった。連休明けは相当な数になると思う。ボランティアの力は一つ一つの結集であり、その力の大きさを今実感する。大感謝です!

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2011
05/03

漁村が

2011-05-03 09.50.38
連休3日の清水街道の元風景です。自衛隊の皆さんの復旧活動が毎日続けられていますが、今回の1200年に一度と言われる大震災の現実は世界が、政府も混迷の度を深めている。
この地区には同級生が四人居住していたが、幸運にも生命に影響はなかった。昨日の新聞に防災センターで津波からの避難を最後まで叫び続けた女性が700メートルの沖合いで発見された。
多くの悲しみが少しでも安らぐ事を祈っている。

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2011
05/02

将来への町づくり

5月2日22011-05-01 15.02.29

昨日自宅工場があった南三陸町志津川字本浜町70に行って見た。
津波により土地が75センチは沈下しただろうか?道路だった所 には海水が来ていた。志津川漁協の所は冠水し側溝を海水が勢いよく陸へと向かう光景は、小さいながら恐怖を感じた。5メールもあった防波堤は沈み見るからに低く、町を守る体を成していない。知人は全てが海と言い切る。今の状態では市街地では住む事などできるはずもないと言う。
人がいなくなると被災した海岸線の町民は言う。人口減少、過疎化はこの大震災で間違いなく加速する。自治体は直面する復旧もあるが、将来への町づくりの復興の構想の発信を早期にトップが示す事で、若者たちが残り、戻っテクる。若い夫婦が町にいる事が復旧復興の最大の要因となる。
今仮設の病院に来ている、連休の中日とあり大混雑していた。先生がたの設備機材の整わない環境での診察と看護師の心使い方に感謝!感謝です。

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2011
05/02

激変に復興は?

5月1日110424_125635

3月11日から走り続けた自分の心と体が50日を経て、自分が何をしたらよいか判らなくなってきた。
地震津波発生から町議員としての使命感から、旭が丘地区に避難し隣町から食料の調達に走った事を思い出す。登米市登米町の『むかで青果』の友人が1番に安否の電話が携帯に残っていた。来店し夢中でりんごとチョコそしてお菓子を帰るだけ、有るだけ一万円買った事を思い出す!
発生時は旭が丘は地域の炊き出しよりも志津川高校の避難民、取り分けシ志高生への『おにぎり』の炊き出しに追われていた。米を家庭から提供してもらいセンターの厨房で区民が活動をした。隣の部屋では命からがら着のままで避難してきた町民20人以上が毛布に包まっていた。倉庫に残った自転車で三日目から町内の志津川五箇所と歌中と入小を歩き、一週間目には隣の登米中まで出掛けた!議員だったから今の自分ができる事して無意識の行動だった。
一週間前に気になっていた津波で残った跡地に何かないか捜しに行った。砂が50センチと紙が水に濡れ倉庫はめちゃめちゃだった。必死に3時間瓦礫を掻き分け捜しあてた自転車が写真であり、議員のスタートがこの自転車にある。震災後50日走り続けられたのは、この立場にいたからと最近振り返る。10日間の自転車での疲労で二回足が痛く寝込んだ事もあり、毎日が一生懸命だった。そして今、空虚感の中にいる。会社の再建の見えない状況や二日間開催の『福興市』も妬ましいと、自分の醜い姿と弱さを露呈する。中学生の笑顔が心の救いです。
連休の災害本部の拠点となっているアリーナの多くのボランティアの人々、今夕は芸能人ね『炊き出し』に若者が玄関を埋め尽くし、スタッフの元気に力を分けて貰った。
昨日は被災しながらも仙台より兄貴が両親の様子を見に行た。連休には関東より叔父叔母が来る。人の動きの無くなった『南三陸町』に人の流入は活力を与えてくれる。これからが本当の災害との戦いです!

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2011
05/01

医師の涙

4月30日110430_074454

昨夜のテレビで私の主治医の笹原政美先生の震災後の被災者との交流と医師活動が、そして看護士の皆さんの被災した我が身より、被災し避難しての弱った体を気遣う医療チームの活動を紹介した。
流失した診療所と自宅の土台が凄まじい津波にも堪えた基礎土台に立ち、『この地で生きる事を言っている!』とジーと被災した南三陸町志津川の瓦礫の町を見つめる姿が印象的だった!
現在はイスラエルの医師支援活動で使われた仮設の診療所が町の公立病院の仮診療所として寄贈され、笹原先生は内科医として町民の診察にあたっている。自分の患者の津波後の体調が心配と、震災後に診療所だった志津川小学校体育館の診療の合間に、車で患者を見に行く、おばあさんが駆け寄り『先生大丈夫だったの!』と先生の事を心配し、家族が津波でと言う、笹原先生の顔が歪んだ。
『病院が消えた町』がクローズアップ東北で町民を医療にあたる笹原医師を現在に至る町の医療状況を見つめた。6つあった病院が全て津波により消滅した。被災者が被災者に寄り添い、集団避難で志津川小学校の500人の内50人の紹介状を診療後に小さな明かりのもと、記入漏れがないよう移る避難地での診療に託す。また、避難所にインフルエンザが発生の予兆に体育館の風邪の咳に、避難者にひとり一人に声をかける姿が『医は仁術』の神髄を見た。
先生の涙は集団避難で患者が避難所から去る時の報道記事からのインタビューの時『医者が患者を離しちゃ駄目!』と診察の目隠しに隠れた。自分の患者を最後まで責任を持つ姿に患者が先生を慕う。朝の仮設の病院の駐車場には全国から来たボランティアの車と朝の食事の風景がありました。

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