ARCHIVE - 2011年04月

2011
04/29

医師団感謝!

4月28日110428_111422

突然私の避難している会社倉庫に大型のワゴン車が入って来て六名の人たちが訪れた。『東北大の医療団の先生が診察に来ましたヨ!』と町の介護サービスの女性が同行していた。『JDA』のジャンバーにロゴ、『大学の活動の資料とします。写真いいですか?』と言う。私はこうした活動は大歓迎と全て受け入れる事にしている。ホカロンによる低温火傷の経過確認だった。女性の医師は『完治しましたヨ!』と優しく母に語りかけていた。同行の公立志津川病院の看護士さん『私も被災しました』と父親に話しかけていた。
みんなが苦境の中で活動している『いっしょに頑張りましょう!』が今の町民への口クセとなっている。
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2011
04/29

犠牲者数行政提示


昨日の町議会で行政より今回の災害での南三陸町での犠牲者数が発表となった。行方不明、死亡が700人で安否情報未確認者数1388人で、合計2088名人口の7.86%と発表した。生存確認した人数が15570人を4月25日現在できたという。なかなか詳細が行政より発表とならない中で、最悪を想定しての7000人以上の犠牲者とブレグでの発信を深くお詫び致します。南三陸警察署での死者不明者発表も1154人とまだ流動的です。

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2011
04/27

東山避難所からの市街地

4月26日110424_110929

津波避難場所となる天王山『東山公園』の桜が今満開となっている。眼下に望む志津川地区の町並みの様相は戦災さながらに昔の面影は微塵もない!51年前の『チリ地震津波』からの復興を果たした88歳になる父親は必ずや志津川は復興すると豪語する。そのためには町民が一丸となる事が欠かせない!と言う。今の現状はその姿・方向のなく弱いと言う。
今回の『東日本大震災』は1200年に一度と言う程、人間の想像想定から程遠く、チリ津波の三倍と言い規模は十倍とも言われ復興までの道程は厳しく、10年20年でも、あの綺麗な古き昔の思い出深い、町並みの復帰は叶わない気持ちを強く感じる!
行政が町民と共に手を携えての『南三陸町』の再建に一歩づつです。

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2011
04/27

自衛隊の昼夜の活動に感謝


入谷地区の仮設は一番最後なのは何故なのか?疑問がつのる?アリーナからの避難者が7日にべつな場所にうつる。環境の劣悪が報道であり、食事のカロリーが問題となっている今。避難住民が安全に安心して暮らせる仮設への転居までの行政のきめこまい配慮をお願いしたい。南三陸町で最初の仮設が建設された登米市横山、ライフラインの整いと生活用品の設置には驚く、一日も早い避難民全てが無事転居できる事を祈るばかりです。

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2011
04/24

社協のヘルパーの笑顔

4月23日110423_090255

毎日の9時と4時の社会福祉協議会の介護ヘルパーの献身的な介護と元気なスタッフの笑顔に妻の老々介護に追われ疲れた心労の父が喜びを隠せなく、何度も感謝を述べる姿を目にする。
震災後の寒さからホッカイロを肌に密着し続け『低温火傷』がひどかった。90歳近い高齢の母には悪化すると『死』に至るという。両親二人とヘルパーの会話に暗い家庭の雰囲気がこの時間だけは、避難している倉庫も明るくなる。震災協の活動はヘルパーの派遣と全国からのボランティアの受付、流失した写真と管理・保管など多岐に渡る。避難場所の移動や人口の減少があり財政的に大変と言う。介護制度の厳しさの中で町や国の補助があるものの事業所の南三陸町からの震災による撤退が大きな負担となり、管理委託制度を受けてる町社協は厳しいと話しで聞いた。
下の世話を終え『また明日来るからね!』の明るい言葉に『ありがとうございます!』と、私には向ける事のない元気な声で感謝を伝える母、どんなに気持ちイイなだろうと思う。
『南三陸町災害ボランティアセンターかわら版』の第七号が我が家に届いた!先頃センターの写真取材を受けた『ヘルパーさん「まごころ」を届けに!』と題されていた。
避難所情報には避難人数が4月19日午後3時現在41ヶ所6416人町外613人集団避難911人で総計で7029人と明記されていた。個人で親戚やアパートなど町外に移動している人もある。震災前の町の人口は17500人、町長は軽々しく不明者数を言えないと週刊誌に記事が掲載話していた。いつまで津波被害の現実を発表しないのだろう。週刊誌には防災センターには30人いて10人が残りアンテナの1番上は私でその下が副町長と話し、悲惨は当日を振り返っていた。
現実を町民に伝え『一緒に南三陸町の再建をしていきましょう!』と言う事で一丸となれる。早いトップの力強いメッセージを被災民は待ってます。

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2011
04/23

感謝!

4月22日110417_080436

私はたまたま被災し対策本部が立ち上げられた『ベイサイドアリーナ』のある南三陸町の商工団地内に倉庫があり現在両親と三人で避難生活をしている。布団を四組引けるスベースながら、恵まれた環境に現在あり、議員活動では避難民の状況を本部に伝え、町の情報をできる限り伝え、早期の町民の生活の安定を図っている。会社従業員の今後の事も本人の希望に添う再就職や再雇用の対応などに当たっいる。なんと会社のハンコや通帳の復活や、経営の復活に取り組んでいる。
環境の変化により母の認知症は進んでいるものの、避難所暮らしの皆さんの状況を思うとなんの不自由もない。高齢者の緊急搬送をアリーナでは毎日のように目にし、夜には救急車の音を頻繁に耳にする。子供の元気な姿・声は見聞きするものの、見えない部分の『心のケア』が最大の不安である。
そんな中で支援の応援の『メッセージ』や『声』に力付けられている!昨夜も電話があった東京の平塚に住む同級生からだった『生きててくれてよかった!』心配で不安で電話出来なかったという。壊滅的な被害の戸倉地区の剣道スポーツ少年団の卒業生が『先生頑張って下さい!』『私も連休にボランティアに来ます!』と言う。
震災後の全国世界の支援の輪と携帯やテレビ・ラジオでの応援の『一緒に頑張りましょう!』の言葉に励まされここまで来れた気がする。
今後の二次の集団避難や仮設建設そして抽選の不安の中にいる町民、昼夜の仕事・活動の職員・自衛隊・ボランティアの皆さんなどの疲労もピークとなり、『一歩一歩!』と言う卓球の福原愛の言葉が今大切に思う。
先の見えない今後に行政の方向や現状の住民への情報の発信をお願いしたい。
各地域での死亡者の合同慰霊祭があり、オーストラリア首相が支援活動の激励に来町すると言う。
全ての皆さんに『感謝!感謝です』

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2011
04/21

町防災センター

4月21日110415_173444

南三陸町の『東日本大震災』の被災の慰霊象徴として、この防災センターを残すとちょうど震災一ヶ月後に報道陣に話し、全国に発信した。
被災した死亡者と不明者をここに全て記すとも語った。
偶然にも昨年に奥尻島を防災視察で議会総務委員会で訪れた。復興の姿に惨劇の形跡はなかった。津波の悲劇を忘れる事のないよう、記録体験館が建設され、津波モニュメントに犠牲者名が記されていた。
今週に避難を最後まで呼びかけた遠藤未希さんの記事が掲載された。『未来に希望を!』と両親が名付けたと言う。結婚の承諾を持ち前の努力の継続により説得し、九月の結婚式が予定されていた。彼女の明るい笑顔が紙面に踊っていた。犠牲者への追悼には早期の『南三陸町の復興』だろう。
県に申請した仮設の場所の提示には、津波の被災場所四ヶ所があった。特例として二カ所が承認され今後仮設建設となる。現在登米横山の駅近くに南三陸町の仮設が成されている。個人所有?隣町?など、町には平地はなく公共用地の志小や志中そして海洋自然の家に現在仮設建設が急ピッチで進み、被災した伊藤里前小や戸倉中に建設を図る。
夕方の陽光にアカサビた三階の骨組みだけの防災センターは、志津川市街地にアンテナ二本を空へと伸ばし、スボ日の津波の経過の七コマはあまりにも衝撃的で、屋上で津波で被災した40名の職員の殉職には、勝倉税務課長と危機管理課長と議会事務長がいた。町民の7000人以上の死亡者不明者もある。今は不明の救命発見が第一で平行して復旧で次に復興で、津波の記録・記憶の保存は、発信方向も二の次と思う。
一ヶ月半走り続けた自分も、今後に不安が一晩中二つと頭に浮かび眠れない日が増えてきた。町民の方の『頑張ってけらいよ!』の声が毎日の励みとなっている!

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2011
04/18

漁業支援求む!

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宮城県漁協志津川支所も役員が地区より集まり今後の漁業の復活復興に向け会議がもたれた。テレビの放送で三陸沿岸の漁師が『南三陸の若布』の再開と養殖生産に向け動き始めと報道された。
南三陸町の漁業者も海岸線・陸上に打ち上げられた浮き玉を集める光景が志津川地区の観光名所の人口海水浴場『サンオーレ袖浜』で昨日の朝見かけた。
また、今日の朝避難所で定置網漁業をしている同級生とあった。『どいなの?』と聞くと、漁船は内陸まで津波で運ばれ、機関は塩水などにより使用不能ながら、船の損傷はあるものの使えそうだという、しかし船を海まで運ぶ手段がないと言う。場所までの道路もだが運び持ち上げる『ベルト』など、が必要と話していた。
食料・生活などの生活物資の支援も必要だが、国、県、町の『今後は水産漁業に力を注ぐ!』と言っていたが、復旧が一段落してからでは漁期を逃してしまう。若布は7月からの準備で生産時期に間に合う。
この地区は『秋鮭』が10月から回帰する。津波が南三陸町を襲い全ての河川が瓦礫で覆われていても必ず帰ってくる。大規模な『大型定置網』の設置は、多くの船、人員、資材と時間を要する。漁業の復活には国はもとよりだが、同業の漁業者の『支援協力』を今求めている。
是非このブログを見て『支援したい!』との漁業経営者の方々、コメントや携帯08018016399まで連絡下さい。
写真は避難場所となっている志津川高校から街中と志津川湾岸を望んだ、登校坂には桜の蕾が膨らんでいた。
復旧はまだまだだが今後の復興のための『漁業者支援!』を海の大好きで南三陸町の海から離れられない、海の男達にお願いします!

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2011
04/15

医療支援

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昨日はAMDAの大類先生の怪我の部分の切開手術を急遽受ける事となった。志津川小学校の体育館の医療施設には、私の主治医の笹原先生が常駐していたが、アリーナの対策本部の駐車場にあったイスラエルの医療団の施設を南三陸町に贈り、その施設を町の診療所として来週18日から始める準備に笹原先生が着いたため不在だった。
南三陸町には全国からの世界からの医療支援・ボランティアが来町していて、その中にAMDAの大類先生がおられた。まだ30歳前後ながら適切な指示で少ない医療機器の中の治療と集まった医療看護士と共に行った。 血糖値の異常は怪我のためで500前後と体調の変化があり、昨日の膿を出したためか体調の落ち着きを感じる!町の残った医師・看護士と世界全国から集まった、医療支援ボランティアの献身的な治療と日夜を問わぬ活動に頭がさがる。
また、AMDAの医療活動にフランスの国営テレビの取材クラーがついていた。AMDAはアフガンやスマトラなどの怪我人の治療活動に世界で行動していて、今回フランスのメディアがドキュメント報道で活動にレンズを向けていた。大類医師の『カメラ入ってもいいですか?』になんの断る意味もなく、世界を駆け巡る医療ボランティアの活動の発信になるなら、私としては大歓迎で日本の宮城県南三陸町の大津波の被災と大惨事が欧州にテレビ報道され、世界からの支援の輪が広がる事が日本のため、『我が町』愛する南三陸町の復興に役立つ事を願う。
大震災から一ヶ月がたち色々な人が南三陸町に入って来ている、それに伴いいろんな事件が知らない所で発生している。町の混乱にじょうじての人の欲がある。被災者も気を引き締め新しい『南三陸町づくり』を町・住民と歩んで行きたい!

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2011
04/14

高台の神社も

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昨日は親戚の消防署レスキューの気仙沼地区トップクラスの人材の殉職の火葬があった。町内での神社の海岸線は全滅となった中で、志津川市街地の菩提寺の『大雄寺』も内陸高台ながら本堂への石段まで津波が押し寄せた。
レスキューの芳賀保宏56歳は親戚の兄貴分でもあり、気仙沼本吉広域消防のレスキューの若手の指導者としても人望も厚く上司・若い隊員が火葬焼香に、この災害混乱の中で参集してくれた。
話しだとデイサービスセンターの避難指定場所への南三陸町消防団長と避難車両の誘導にあたり団長の『芳賀さんもう逃げましょう』の言葉に『もう少し!』の責任感の強いレスキュー意識が、この想像を絶する震災大津波に飲み込まれてしまった!二日前に志津川市街地の建物や漁業の資材、船舶が津波で入江から最終到達地点となった入谷へ向かう小森地区に瓦礫として山積みとなり、その中から発見された。ちょうど一ヶ月と二日目だった。家族の見つたい!との願いが通じた。
写真は私の叔母の嫁いだ細浦の『徳性寺』で本堂の倒壊と本宅の二階天井にまで津波はきた。地域の菩提寺の多くが被災し葬儀もできない現実に今ある。昨日から細浦地区には気仙沼から家屋調査があり、津波で建物が残ったが『赤紙』により立入禁止の指示が多く貼られていた。
これは私の身内の事で南三陸町の住民全てにこの現状があり、行政の適切迅速な対応を町民願っている。

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2011
04/13

生と死のドラマが

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南三陸町全ての地区で生死のドラマを聞く!昨日に知人がスボ日の五日付けの新聞だった。町庁舎の防災センターの津波の襲来の一部始終だった。町内の写真店の店主が、現実を後世に伝えようとシャッターを連写した。電波塔に昇り津波を避けようと二人が昇り、屋上では職員が右往左往する姿が数コマの写真に写っていた。最後に、この写真の中で数名が死亡不明となっているがこの現実を報道する。今回の大震災を記録する上で貴重な資料と考え掲載したと記されいた。この新聞の映像の津波の凄さに驚きを隠せなかった。
私の避難経路も混乱しての選択がある。避難所となる。入谷方面の国道398号があり、大混雑渋滞により車に乗ったまま津波に多くが呑まれたと聞く。私はは志津川中学校の通学路で助作と言い旧水道事業所があった、車の交差も狭い道路の選択で、89歳のの二親とこの難を逃れる事ができた。何気ない偶然の重なりと無意識の選択でいま生かされている。写真は志津川地区の中心地である汐見・塩入の45号線の町内の大型スーパーや結婚式場、志津川公立病院があった。高野会館ではこの日町主催の『芸能大会』があり、300人を超える高齢者と関係者が津波発生時に屋上に逃れ一夜を会館で過ごし翌日高台に避難した。向かいの公立病院では患者と病院スタッフが400名前後、四階の東病棟から五階の西病棟に移り難を逃れたが、厳しい寒さの中で多くの患者が亡くなった。大型百貨店サンボートでも津波避難が屋上であったと聞く。サンボートには志津川湾からの養殖の施設の残骸が三階屋上から一ヶ月経った今でも垂れ下がっている。
戸倉小学校でも悲惨な現実があったと昨日聞いた。学校の道路向かいの高台の住宅街が近くそこに避難しようと向かった。車での避難途中に多くが流され、高台だった避難場所へも津波が迫り、その上の神社に逃れ一夜を過ごしたという。次の日に戸倉中学校に場所を移す途中には、道路に木にバックネットに死体かぶらさがった光景に、子供たちの目を伏せたという。しかし高台の戸倉中学校の校舎二階まで津波が襲来した。歩き瓦礫の折立・西戸を線路づたいに安全な場所の荒町に着き『水が飲みたい!』と子供たちが話したと言う。ホテル観洋の観光客も荒町で同じような経過で受け入れたと言う。
このブログのコメントにも多くの応援メッセージがあり昨日初めて目をとうし元気をもらった!海外からも三件入っていた。今日の朝のニュースで台湾から110億円もの義援金が子供たから大人まで集まったという。支援金・ボランティアの全国世界からの支援の輪が子供たちの笑顔と変わり、大人のやる気・元気・活力へと変わる。7000を超える犠牲者のためにも『南三陸町の復活』を私は小さい一人の力ながら頑張りたい!

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2011
04/11

戸倉地区

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志津川地区の水尻橋の流出で戸倉地区への45号線は絶たれたなか、自衛隊の橋の復旧作業により九日目に橋がかかったと報道された。なんとか自転車で折立までは行ったものの、今度は半島まで続く戸倉地区の海岸の漁村までは、折立川が直撃を入江という事もあり川向地区は跡形もなく、入口の『焼肉奈美』は裏山ごと無くなり山肌を剥き出しにしていた!
水戸辺は高台の一部を残し県道の小高い道を越え、奥まで家を巻き込み残骸か一部に瓦礫となり集まった!次の水戸川に栄えた在郷、上沢前地区のなだらかな田園は奥底まで津波が突き進み、地区の慈眼寺は道路から見る影もなく、まさかここまでと多くの方の命を奪った!次は波伝谷地区、ここも漁協の戸倉出張所のコンクリートの建物を残し全てが流出し、多くの地区民が他の市に集団避難した。次の津の宮は少し高い場所にあった建物が残ったが半分が被害を受け大被害となった。
長清水も海辺の家は津波の直撃で半分以上が被害を受けた。次の藤浜は壊滅的で海岸からあった集落が全て津波の被害を受けたと言っても決して過言ではない!最後の滝浜には交通規制があり入る事は出来なかっが、海岸の港は全て被害を受けた!戸倉地区は小中学校か被害にあい地域の復興は厳しく集団避難の対象区となっているが、多くの家族の不明もあり、すぐに疎開とはいかない。
私が指導する戸倉剣道スボーツ少年団の子供たちの無事の確認の中で、町民の方より、団の管理書類バックが見つかりましたと報告があった。季節に等しい発見だった!
昨日は糖尿病の検査と薬をもらった。海外からの医療ボランティアの献身さと、国内の医師の温かい診察と笑顔に心が癒された。行政の職員のピリピリさが現状の厳しさを物語っていた!

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2011
04/09

歌津地区

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歌津伊里前は歌津大橋が町の上を通りストロー現象となり町の疲弊の中で、漁村の漁師魂の元、田束山つつじ祭、来い恋浜まつり、そして『しらうお祭』を新しく開催するなど、新たな歩みを始めところだった。
伊里前から寄木の方向を望んだ津波後の写真で歌津町の繁栄の姿は全て津波で一瞬にして瓦礫となった。街中の小山商店は基礎だけとなり、町の象徴だった歌津大橋は橋げたを残し橋が落下した。自動開閉の水門は捩曲げられ、大きな漁船が陸地に横たわり、鉄骨だけとなり津波当日のままの姿が一ヶ月たとうとする今変わらなくその光景がある。
昨日はアリーナの対策本部での『罹災証明』発行所で歌津道合剣道の佐藤親の会会長と会い、生存を固い握手で確認した。子供達のためにも南三陸町の少年剣道の復興を誓った。会長の三年後に復興からの優勝を目指すと言う。子供たちはもう剣道の素振りを初めていると語る。
行政、議会が先導し町民と共に子供たちの未来の南三陸町づくりにいち早く進むたい!
今日は大震災以来本格的な雨となり、炊きだし作業や取りに行く事も大変だが復旧や捜索活動が雨での障害となる。3月11日から明日で一ヶ月となる。仮設が後半年や今後を考えると長く『一歩づつ』進もうと思います。

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2011
04/09

早期復興!

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四月三日現在で警察署発表で396名死者612名不明、これは届出数で8719の避難者となり、五日で避難者数は8091名で、親戚や自分での近隣への避難で9500名の残った町民がライフラインが整うまで南三陸町を離れた事つなる。架設の建設がこれからで、五月末から隣の横山に59コの入居予定となる。架設入居が整うのは半年後と言うが、予定どうりかは確実ではない予想である。二年間の入居からの生活環境を図り、元に戻るまで何年かかるだろう?
私は罹災金再建資金の300万円の活用で、五軒十軒のコミニュティー集落の建設を模索している。十軒が資金を250万円を出せば2500万円で小さいながらもブライベートな避難場所が造れる。50万円は生活資金にあて、避難場所が国の支援金で形成できる。できれば商店の経済社会がなればと思う。
南三陸町の62バーセントが被災したなかで、入谷地区は2バーセントの罹災率で、志津川地区は恐くて住みたくないとこの地区で被災した町民は言う。
全てを加味しても写真の入谷中の町地区は最善と思う!農地を宅地には農地法があるが、この非常事態、あらゆる手を尽くし避難民のために避難場所の早期建築がある。
町は町民の自己の生活復興を考えるなら、この活動への積極的支援は当然だが、話しには消極的に映る。
町民の自立復興、社会経済の仕事の発生と、行政の町の再建と平行して町の再建を町全体で行う事で、町民の不安を取り除き明日への光となると思う。
避難町民の元気が毎日薄れていくように感じるのは私だけではない。全国からの支援に答えるために、早く元気な笑顔を南三陸町から発信して行きたい!

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2011
04/08

頑張れアクセスに感謝

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創業百年をまじかとなっていた千葉総合印刷株式会社だった。私で三代目となる会社は中工場の一階を残し、本宅・工場を全て流され、幸運が中工場の大型機4台は残ったが、遺体捜索のため全てを工場から機械がかきだされていた!二重のショックだがしょうがない。昨日突然に高校の同級生から電話が入った。奥様の兄が津波で被災被災となり、見つかり火葬だった。と言う。常磐さんで町の中心に古くから旅館・中華の店が跡形もなく消失した!友人の言葉に『また南三陸町を復興してくれ!』だった。現在は死亡不明が七千人を越え、集団避難が千人となり、町には八千人となり、二次三次の集団避難となり今後の避難て三分の一の17500人のから減少となり、帰らない人を考えると、南三陸町がなくならないか心配である。行政のふるさと納税をしてくれた町出身者の南三陸町志津川・歌津が無くならないように!を思い出す。漁民は南三陸町の海が自分達が生きて行く場所とこの地での存続生活を強く語る。今日の午後1時に架設での議会議員が初めて集まり、午後の行政のライフ
ラインの方向と設置の予想時期が語られる。
震災後の行政の行動には疑問があるが未曾有の人間が体験しない大震災に南三陸町の被災地区として町独自の復興の姿を模索して行きたい!
私は町復興のためにこの地を離れる事は絶対なく!この南三陸町の自然と人間の素晴らしさを後世に伝えて行きたい、多くの支援への感謝は復興でしかない。

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2011
04/03

戸倉折立

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南三陸町志津川地区から南にある次の町が戸倉地区折立であり、志津川湾の1番奥の入江にあたる。奥の高台には戸倉中があり、海面と同じ位置に戸倉小があった。津波は志津川湾の入口からリアス式の奥へ波の相乗効果となり高台の船の形を模る戸倉中の二階にまで駆け上がる!その高さは20メートルを超えた。しかし小中学生は地区・先生の最適な避難移動により一人の生徒の命を守った。たが予想を絶する津波の勢いは、奥へ奥へと山へと生徒を追いやり、一夜を山で過ごし一日がかりで避難所に、そして隣町にその場所に移した。
折立地区は一軒も建物が残らない最悪の光景がこの写真となった!あとには地区公民館のコンクリートの残骸が転がる。津波は戸倉地区の10地区の最後一つの荒町前でやっと止まった。
ここまでは来ないだろう!と思った多くの西戸地区の住民を飲み込み沢山の死者・不明をだした。過去の住民が知る津波の予想や夢にも思わない津波が、南三陸町を襲った東日本大震災となった。
過去に南米チリからのチリ地震津波を体験を町民している。地震そして津波の意識は常にあるが、想像を絶する津波は多く備えか他の地区より強い南三陸町民の尊い命を奪った!携帯からの従兄弟をかいしてブログ、現実報告、の気持ちとご容赦いただきたい。

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2011
04/02

細浦地区

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南三陸町の志津川地区から北に清水浜に入ると桜川添に開けた漁村な海岸から山裾やでの町並みが三軒を残し二百前後の家か全て瓦礫となった!
写真は二つ目の町細浦であり入江に細長く開けた町です。町を守る徳性寺さんは地震で本堂が崩れ、庫裡の二階の天井まで津波が駆け上がった!二つの建物はもう駄目だという。高台にあるが、16メートル以上まで細い場所を一揆に襲った!眼下の漁村は見る影もない。
近年はギンザケ養殖で栄え今はホタテの養殖で漁民が生計をなし、アワビ、ウニの宝庫でもあった。漁師は、船も施設も全部流され何も無くし、漁業はもう駄目とこれからの生活の糧を無くし、今後の暮らしを考えると、路頭に迷う。
漁業で栄えた瓦御殿の家並の姿はもうない。昨日で三週間となり、350体が発見遺体となりまだ七千体が不明で、まさに地獄の3月11日だった。人口は17500の自然美いっぱいの観光を推し進め、百万人の交流人口を町長が自慢していた南三陸町だった!

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2011
04/02

町消滅!

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3月11日2時46分震度4の三分間の地震が発生!南三陸町を26分後に16メートルの津波が、志津川市街地を飲み込んだ!町の川添に津波がなだらかな平地を奥へ奥へと進んだ、海の涙が大きな壁となり、綺麗な町並みをドミノ倒しのように、煙りを立てながら、避難した高台へと向かって来る!海から1キロを越える三階建ての県庁舎を突き当たり、二つに別れた津波が高台下の新築の建物を一軒一軒、ハリバリと目の前で倒され。、別の流れが交わり勢いを増して町並みに襲い繋かった!そして静寂な中に瓦礫と津波が志津川地区に留まり夜を迎えた。静寂な星空の一夜が明け、眼下の風景が写真です。
この現実を伝える時間には手段と方法に二週間以上を要しました。この現実を全国に伝え被災した人口で町の復興を願い頑張りたい!神奈川の従兄弟に発信の替わりをしてもらった。。

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